第4話 棋王戦!
扉を開けると、広い講堂のような場所が現れた。荘厳な部屋の真ん中を天空へと続くように、レッドカーペットの敷かれた階段が伸びている。
「ここが、棋王の間。この階段の向こうにワットナーブが……」
青年は足が竦んでいた。無理もない、本来ならば、棋王に挑戦する者しか入る事が許されない神聖な場所なのだ。
コマジロウは無言のまま、階段に足をかける。慌てて、青年も後を追った。
どれほどの時間歩いただろう? 青年に取っては永遠とも思える時間であった。変わらない景色の中、カツンカツンと二人の足音のみが響き渡る。
「来たか、コマジロウ。いや、昔のようにヨシャハルと呼ぶべきか」
地獄の底から響くような、低い声が響き渡った。姿は見えなくとも、強大な棋力に体中の細胞が悲鳴を上げる。
階段の終わりが近づいてきた。バロック調の大きなキングチェアに、身長が二メートルを超えるような大男が座っていた。
「ワットナーブ……。その名は捨てた。貴様らに全てを奪われたあの時にな!」
コマジロウは階段を一気に跳躍し、ワットナーブへと飛び掛かる!
「ほあぁぁぁぁ! 大橋流! 駒並べ!!」
コマジロウの繰り出す、亜音速の拳、ワットナーブは悠然とそれを受け止めると、ニヤリと笑った。
「相変わらず、性急な事だ。七年前から何も変わらぬな」
「あたたたたたたぁ! ほあたぁ!!」
ワットナーブはコマジロウの連撃を軽々と受け止める。まるで赤子の児戯を眺めているように。
「忘れたのか? 貴様はせいぜい二段程度の実力。そして、私は四段だ。棋界において段位の差は絶対ということを」
ワットナーブは冷めた表情でデコピンを振るう。その風圧でコマジロウは階段から転がり落ちていく。
「ぐぁああ!」
ワットナーブは椅子に腰掛けたまま、平然とコマジロウを見下ろした。
「こんなものか、コマジロウ。エリィが愛想を尽かしたのも無理のないことだな」
その一言で、コマジロウの瞳に殺意が戻る。満身創痍の体で立ち上がった。
「エリィは、エリィはどうした!」
「ふん。知りたければ、俺に勝つがいい。無論、負けてはやらぬがな」
コマジロウは再び、駒を指す構えをとる。ワットナーブも愉快そうに眼を細めた。
「行くぞ! ワットナーブ!!」
「来い。コマジロウ」
コマジロウは気合を入れ、上半身の服を引きちぎる。棋力を溜め、渾身の力を右手に込めた。
「コマジロウよ、大局観じゃ、落ち着いて、全体を見渡すのじゃ」
それは亡くなった師匠の声だった。コマジロウは怒りを抑え、冷静さを取り戻す。
盤上に目を落とし、現状を把握する。対局前の美しい駒並びのままだった。
6四歩。それは丁寧な手付きだった。カチャりと駒を持ち上げ、美しい駒音を響かせる。
「ふっ、思い出したか。それが本来の貴様の棋風であることを!」
ワットナーブはニヤリと笑うと同じように駒を動かした、4四歩。
角と角が睨み合う。まるで今の二人のように。
「凄い! これがコマジロウさんの将棋……」
青年は固唾を飲んで盤面を見つめる。コマジロウは棋王の濁流のような攻めを冷静に受け流す。
その動きはまるで流水。青年は初めて見る将棋に目が離せずにいた。段位者同士の対局を、いや、タイトルホルダーの本気の対局を。
「コマジロウよ。思い出すな。奨励会で研鑽をしていたあの日々を!」
「過去の話だ。あの頃の俺はもういない!」
コマジロウの激しい攻めが、ワットナーブの囲いを食い破る。
「ぐぬぅ。だが、俺にはあれがある。千日手がな」
千日手、それは同じ局面が四回繰り返されたら、指し直しとなるルールだ。
棋王が次の手を指すと、同一局面が四回繰り返されたことになる。
だが、棋王は違う手を指した、それは、棋王が本来指そうとした場所の隣のマスだ。震える棋王の手、見ると細い針が突き刺さっている。
「神聖な対局を汚すとは! 何奴!!」
「棋王、貴様は七冠の面汚しよ。そのような手を指すくらいなら、大人しく死ぬがよい」
対局中の二人の横に、黒いマントを羽織るタキシード姿の男性が立っていた。
「天のサトー! 貴様、裏切るか!!」
「裏切り? 違うな、粛清だ。裏切者は貴様だろう、ワットナーブ」
その男は、天のサトーだった。七冠の頂点、名人の称号を持つ、最強の棋士。
その指捌きは、まさに、一瞬千撃、並の棋士では瞬きをする前に指し殺される。
「対局を邪魔した罪は重いぞ。死ねぃ! 天のサトー!!」
ワットナーブは駒を振り上げる、だが、打ち込めない。震える右手、溢れる汗、それでも、ワットナーブの体は動かない。
「どうした? 指さないのか? では、こっちから行くぞ?」
天のサトーはまるで騎士がレイピアを突き立てるように、動かぬワットナーブに、香車を突きつける。
「王手だ。さようなら。ワットナーブ」
血を吹き崩れ落ちるワットナーブ、天のサトーは平然と返り血をハンカチで拭う。
「あの、棋王が手合違い。これが名人。次元が違う……」
青年はそのとき、無力という言葉の意味を実感したという。駒落ちだとかそんな次元では無いのだ。
たとえ、名人の駒が一枚も無くとも、勝てる気がしない。それほど棋力が違うのだ。
「天のサトー! 貴様だけは許さぬ!!」
コマジロウも駒を振り上げる。だが、その駒はいつまで立っても、盤面に打ち込まれることはない。
天のサトーは動けないコマジロウに顔を近づける。
「ふっ、上がってこい。コマジロウ。エリィの真相が知りたいのならな」
それだけ言うと、興味を無くしたようにマントを翻した。
「まて! エリィは生きているのか!!」
「言った筈だ。知りたいのなら、上がってこい。この名人、誰の挑戦でも受けようぞ」
「ぐおおおお! エリィイイイイ!!」
唸り声を上げるコマジロウ、だが、体はピクリとも動かない。だらだらと汗が流れ落ち、目は充血して血走っている。
天のサトーが棋王の間から出ると、コマジロウは糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
これが、コマジロウが七冠を取り戻す、最初の戦いであった。
~第一部 棋王編 完~
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