エピローグ そして、零れ落ちたもの - And, The Flowed Down

エピローグ そして、零れ落ちたもの - And, The Flowed Down




 丘の上で、その偽らざる本心を聞き、メロウディア姉さんと別れた後。

 紅い岩の覆う坂道を降って、ぼくは谷間の底へと、足を踏み入れていた。


 今日も、崖下の世界には、変わりなどないように思われた。

 地上よりも明るい、光の庭園。

 ぼくの視界を阻む二枚の壁面の上端が、陽光を反射し、この谷の底まで収束させて、一帯を明るく照らしている。

 遠い岩壁を見つめていると、ひとつの思いが、ぼくの心に去来した。

 ――ここまで、この場所は、静かだったろうか。

 と。


 散策を始めてから、その決定的な変化に気がつくまでに、時間はかからなかった。

 岩壁の下の、陰った隅の箇所。

 そのひとつの地点を前にして、ぼくは立ち尽くしてしまった。

 確かに、この場所に、ずっとあったはずなのだ。

 黒焦げた、大きな残骸が。

 琥珀色の髪の少女は、宙空での逃亡の末に、この崖下に不時着した。

 少なくとも彼女自身は、そう語った。

 彼女を乗せていた、小型運搬船。

 ネペンゼス号の、成れの果てが。

 ぼくがはじめて、この崖下で出会った、異様が。

 崖下の隅の、光と影の彩る岩盤の上から――影もかたちも、消滅していた。


 船の残骸だけではなかった。

 予感に憑かれたように、バックパックの中の簡易ランタンを速やかに点灯して、絶壁にぽっかりと空いた穴――崖下の洞穴どうけつへと、足を踏み入れた。

 歩き慣れた岩盤を早足で進み、ひとつの事実を確認しようと試みる。


 ――やはり、そうだった。

 決して広くも、長くもない、天然の洞穴。

 その中ほどに造られていた、少女の『部屋』。


 すっかり、なくなっていた。


 空間を照らしていた無数の微小の蛍光灯群も、それがくくりつけられていた金属柱も、発電機を含む各種の装置も、家具代わりのがらくたも、山のように積まれていたコンテナも――。

 ひとつ残らず、消えていた。

 エアリィオービスが、この場所を離れたのは、つい二日前のことだ。

 あの時には据え置かれたはずの、ありとあらゆる物資群が――そこを、ひとつの『部屋』として認識させていた要素たちの一切合財が、まるで消えていたのだ。

 指向性ハンディ・ライト――トーチを取り出して、辺りの隅々を照らしていく。

 本当に、なにひとつ、残されてはいなかった。

 ぼくが視認することができたのは、壁面がややへこんで、少し広がっただけの空間――単なる洞穴の一箇所としか、表現しようのない場所だった。

 『部屋』は、天然の、本来あるべき姿に、戻っていたのだ。


 ――小型貨物船の残骸。そして、『部屋』の装置と物資たち。

 エアリィオービスと名乗っていた、琥珀色の髪の少女。

 彼女がこの崖下にいた痕跡の、なにもかもが、消えていた。

 あたかも。

 最初から、あの少女など、存在しなかったかのように。


 ライトで辺りを照らして、『部屋』だった空間の隅々を、照らしながら。

 ぼくは、直感的に、思った。

 ――なるほど。

 と。

 理由は、自分でもよくわからない。

 ぼくの心は、不可解さよりも、奇妙な納得を感じていたのだ。

 なるべくして、こうなった。

 そうとでも、言わんばかりに。


 『部屋』を照らしていた小さな照明群の光も、もう姿はない。

 指向性ライトが露わにする、ほんの少しの紅岩の地面や壁を除いては、視界は底深い闇に満たされていた。

 邪魔するものは、もうなにもなかった。

 オービスの物資のひとつ――金属製コンテナが山のように積まれて、壁のようになっていた洞穴の奥にも、通ることができた。

 ぼくは、ライトでかつて『部屋』だった場所の隅々を照らして、あらゆる物資が完全になくなっていることを、再び確認してから。

 闇の奥へと――洞穴の最深部へと、進んでいった。


 周囲を包むのは、静寂と暗闇ばかりだった。

 足元を覗きながら、岩盤に覆われた世界を、黙々と歩んでいると。


 ふと。

 ある思いが、ぼくの心に去来した。


 ――結局、ぼくにできたことは。

 いったい、なんだったのだろうか。


 カレッジに提出するレポートの調査のために、この崖下の世界を訪れて、琥珀色の髪の少女と邂逅し――そして、『白雪』が街に降り積もり、騒動が収束するまでの。

 一連の物語を、ぼくは思い出していた。

 果たして。

 ――ここに、真実らしいものの姿は、ひとつさえ、あったのだろうか?


 アンリー・オフィオン・ストゥディウムス捜査官を名乗っていた宙族は、最初からすべてを欺いていた。『白雪』をナピの街に散布し、人々に危機を演出して、それに立ち向かうふりをすることでコミュニティ全体を騙し、財産を奪おうと試みた。

 ぼくも、まんまと彼の口上に乗せられてしまった。

 その一方で、惑星開発者たるメロウディア姉さんは、ナピの街のために黙々と敵の策略と戦っていた。事前に用意していた情報をもとに、ありとあらゆる策を講じて、住民にさえその手の内を隠しながら、逆転の準備を整えていたのだ。

 必要なこと、だったとはいえ。

 姉さんもまた、ぼくを騙し、まったく見事にその動向を誘導してのけた。

 つまり――『管理官』と姉さんのどちらからも、ぼくは欺かれていたというわけだ。

 そこに、本心などは、欠片も存在しなかった。

 結局のところ、あのふたりにとっては。

 ぼくは、単なる駒に過ぎなかった。

 『偶然、エアリィオービスに通じている』駒としての価値しか、ぼくという人間には、なかったのだ。

 なのに、ぼくは。

 ふたりの真心や本心らしいものを、ただただ、信じていた……。


 そして。

 あまつさえ。

 ぼくの心のよすがとなっていた、エアリィオービスさえも。

 ずっと、ぼくを騙していたのだ。


 ――ぼくは、いったい。

 なにを、信じてきたのか。


 この一連の物語には。

 真実など、本当のことなど、なにもなかったのではないか。


 ……いつのことだったろうか。

 メロウディア姉さんは、ぼくを『この世界に従順な、幸せな囚人』と呼んでいた。

 その通りなのかもしれない、と思う。

 ――『正しい道』を自発的に選んだと勘違いして、それに一時の満足感を覚えようが……つまるところ、それはぼくの意志などではなく、他の誰かの見事な誘導の結果に過ぎないのだ。

 ぼくは後々になってから、その狡猾な見事な嘘に騙されて、欺かれていたのだと――誰かに仕組まれた、偽りの決断を行っていたのだと、知ることになる。

 やがてぼくは、自分が『幸せな囚人』であったと知って、忸怩たる思いを抱くかもしれない。

 だが、そんなことは、他の誰にとっても、どうでもいい。

 全体の物事は、順調に進んだのだから。

 ぼくの意志など、要らなくても――。


 少なくとも、これまでは、そうだった。

 だから。

 「これからは、違う」と。

 いったい誰が、どうすれば、言い切れるのだろう?




 ――やがて。


 ぼくは、洞穴の最深部……もう先には進めない行き止まりデッド・エンドへと、辿り着いた。


 そこには、ぼくが予期していたとおり。


 あるものが、待っていた。




 ――目前の岩盤を、まっすぐ縦に走る、青色の帯。

 地面から高さ五メートルほどの天井まで、直径四十センチほどの太さの直線を描く、群青の色彩。

 蝋にも似た光沢質の表面は、ぼくの持つ照明を受けて、僅かに光の粒の反射を返す。

 紅色の岩石で満たされたこの惑星ナピにおける、異色の自然生成物。


 かつて――ぼくたち父子おやこが、探検の末に辿り着き、父さんがぼくの前で奇妙な独白を行う前に、ひとつの呼称を与えたもの。


 『ナピの静脈』。




 ――実際のところは。

 こんなものは、特別でも、なんでもない。

 ぼくは、もう知っている。

 この岩盤は、永きに渡って固着化したナピの大地の内側で、緩慢な地殻運動のエネルギーの末端作用として発生したごく小さな亀裂に、摩擦熱と大気が含まれたことで生じた、ありふれた化学変化の痕跡に、他ならなかった。

 実際、今回のこの崖下の地質調査において、ぼくは他にも三ケ所――つまり合計四カ所で、この『静脈』を発見・観察することができた。

 というのも、崖下の空間に点在している『静脈』の把握と分析――それこそが、遠隔テレカレッジに提出する今回の地質学レポートの、最大の目的だったのだ。

 とりたてて、特別なものではない。

 ただの、少し珍しい程度の、岩だった。




 それでも、なお。

 ぼくは。

 客観的判断を下す、自らの理性を自覚する、そのすぐ傍らで。

 あるひとつの観念に、なおも。

 決定的なまでに――致命的なまでに、囚われていたのだ。


 我ながら、まったくもって、馬鹿げた考えだった。

 それは、




 ――この亀裂こそが、ナピという惑星がその身に抱える『血脈』の、他ならぬ証左である――




 という、

 まったく科学的思考の欠如した、観念だった。


 あるいは。

 それは――もはや、呪い、と呼べるのかもしれなかった。


 ……ふいに、初めてこの場所に辿り着いた、あの日の記憶の像が。

 ぼくの視界に満たされた洞穴の闇と、重なった。

 底知れぬ暗黒の中で、ランタンから放たれる弱々しい光だけが、ぼくと壁面の『静脈』を取り囲むごく小さな領域に、色彩と意味を与えていたから、かもしれない。




 ――父さんの、生きた声が、聞こえた。




 父さんの、自信と溌剌さに溢れた声音は、いつだって明瞭に思い出すことができる。

 今、その思い出たちは、この閉ざされた空間において、異様なまでに現実感を増していた。

 『記憶の想起』という生理的機能は、奇妙な側面を持つらしい。

 ――ひとりの少女が、この天然の洞穴を、奇怪な物資群と自分の存在感で占拠していた時期には、ぼくも彼女とかなり長い時間を過ごしていたのにもかかわらず、洞穴の闇に父さんの追憶を投影したことは、ほとんどなかった。

 しかし、その少女が、あたかも幻影であったかのように消失して、静寂と暗黒に満ちた本来の姿に舞い戻った、この今においては。

 幼き日の記憶は、あまりにもたやすく、ぼくの脳裏に浮かび上がったのだ。


 ――まるで、死ばかりが横たわる闇の底から、生者の世界に生きるぼくに向かって、話しかけてくるかのように。

 ぼくの脳内の長期記憶の片隅が発する、声は。

 いや、

 『呪い』は、

 あの懐かしい、優しく力強い声音で。

 ぼくの背丈よりも、ずっと高いところから、語りかけてきた。




 ――人間は、本当の意味で、地球から抜け出ることなど、できない――




 聞きたくなど、ない。

 そのぼくの意志などが、届く相手ではなかった。

 『呪い』は、続けた。




 ――なぜなら、誰もが、自らの血の鎖に囚われているから――




 ……ぼくは。

 ひとりの人間の、生存個体として、正しくあろうとした。


 人類は、あまりにもか弱く、不完全な生物だ。

 ネクタル・フィールドの庇護なしでは、一分とてナピの大地では生きられない。記憶は不完全で、情動的で、時に勘違いをしたり、判断を誤ることもある。

 しかし、その不完全性や、不確実性をも飲み込んだ上で――ぼくは、自分にとっての『正しい行動』を、選び取ろうとしていたのだと思う。

 琥珀色の髪の少女との、一連の交流において。

 ぼくが持ち合わせていたものは、ただのちっぽけな知識と、うすぼけた倫理観だけだった。

 けれども、その可能な限りにおいて、妥当と思える判断に基づいて道を選び、慎重に自分の歩みを進めてきた、つもりだ。

 対価など、なかった。

 しかし。

 その過程を、経ることによって。

 ぼくの心のどこかに強く根づいていた、合理性や社会性、または人性と呼ばれる概念との、自らの接近と融和を計ろうと、試みていたのだろうと思う。

 やはり、その対象は、『逃亡者』の少女のみではなかったのかもしれない。

 自らの良心、と呼ばれるもの、だったのかもしれない。

 ぼくの試み、それそのものは。

 懸命なものだった、と思う。

 懸命では、あった。


 ――しかし、だから、どうしたっていうんだ。


 いつ、いかなる時でも。

 必要とされ、未来へと繋がるのは――結果だった。

 その、ごく現実的で普遍的な観点から見れば。

 まったく、笑ってしまうような、有様だ。

 ぼくは、

 宙族に対しても、エアリィオービスに対しても、なにひとつとして、『正しい行動』など、できなかったじゃないか。

 ぼくが狭量な思考で悩みこんで、翌日にオービスに教えるサジタリウス語における文法パターンを思索していた間にも、メロウディア姉さんはナピに迫っていた状況をすべて知った上で、冷静かつ緻密な活動を続けて――しかるべき時には、その知性と行動力でもって、複雑な問題を理路整然と片付けてしまったのだ。

 そしてあの少女を還そうとした、ぼくの最後の決断でさえも。

 『ぼくが姉さんを振り切ろうとする』衝動を演出することで、姉さんが巧妙に誘導した結果なのだ。


 そうだ。

 今さら、隠すまでもない。

 ぼくは、操られていた。

 メロウディア姉さんに、完全に操られていたのだ。


 ――あるいは、言葉だけは。

 エアリィオービスを自称する、銀河の漂流者を自称していたあの少女の将来に、例えどのような過酷な運命が待ち構えていたとしても――この辺境の星を抜けて、長すぎるほどの時が経ち、やがて、ぼくという人間を、忘れてしまったとしても。

 あるいは、ぼくが教えていった言語だけは、それだけは、残すことができるのではないか、と。

 この崖下の洞穴において、ぼくが彼女に伝えたサジタリウス語の言葉たちだけは、彼女の中に、ほんの僅かでも、ぼくという存在のひとつの軌跡として、彼女の記憶の一端であり続けられるのではないか、と。

 そう、信じていた。

 しかし。

 その試みすらも、ぼくは失敗した。

 いや、最初から、成功の見込みなど、なかったのだ。

 エアリィオービスの素性さえ、ぼくは勘違いしていたのだから。

 メロウディア姉さんに言わせれば、エアリィオービスという存在は、ある種の被験者だったのだ。この崖下に偶然辿り着いた、つまり無作為抽出された、ぼくという『ただの一介の他人』と虚偽の関係を交わして、自らの判断力と思考力を測るための。

 ならば、言葉さえも、瓦解する。


 まったく、笑えるものだ。

 エアリィオービスは。

 必死にサジタリウス語を教えようと試みるぼくを――内心で、馬鹿にしていたのかもしれない。




 つまるところ。

 この一連の、物語では。

 なにもかもにおいて、ぼくは、誤っていた。

 すべて、ぼくの身勝手な、勘違いだった。

 呆れんばかりの、錯誤の連続だった。




 眼前の青色岩壁――『静脈』に一度背を向けると、ぼくは再びハンディ・ライトを取って、広くはない洞穴の様相を見渡した。

 視界の先にあるのが、『部屋』があったはずの場所だった。

 しかし残されていたのは、自然的に形成された紅い土と岩、そしてその輪郭だけだ。

 琥珀色の髪の少女が存在した痕跡たちは、やはり、徹底的に取り払われていた。


 洞穴は、静けさを保ったまま。

 ぼくに向けて、ひとつの結論的な事実を、簡潔に示していた。


 ぼくとエアリィオービスの、五十日あまりの『語学交流』。

 そんなものは、最初から、なかったのだ。




 ――ぼくは、いったい、なにをやっていたのか。


 なにを、やっていたのか。




 『呪い』が、再び、洞穴に木霊した。

 『呪い』は、一層の強さと現実感を、その声に帯びていた。

 『呪い』は、いつか見た父さんの背と、紛れもなく同じ影を抱えていた。




 ――どうすることも、できない――


 ――人間は、血の鎖に、強く堅く、永遠に縛られて――


 ――無力、だ――


 ――無力――







 なにもかもがうまくいく道理なんて、あるはずがないんだ。


 だからって。


 ぼくが君に下した決断は、どうあったとしても、間違いだった。







 ――ついに、ぼくを止めたのは。

 右肩を中心として上半身に駆け抜けた、激烈な苦痛だった。

 仮面の『従者』が近づき、“貫いた”箇所。

 そこは、未だに今日も、根深い神経痛を残していた。

 これから一生、ぼくに、付いて回るのかもしれなかった。


 ……右手の拳が、ひどく熱くなっていた。

 ぶり返した肩の苦痛が、意識を現実に引き戻す。

 そして、ひとつの事実を、ぼくはようやく理解した。


 たった今まで。

 ぼく自身が、目前に立ち塞がる岩壁に――『ナピの静脈』に、向けて。

 剥き出しの右手の拳で、何度も何度も、殴りつけていた。


 吐息が、静寂の中で、不気味なほどに大きく聞こえた。

 あたかも、まったく他人のもののように。

 ぼくは呆然と、自分が突き出していた腕を、眺めた。

 目前の壁に、拳が当てられていた――熱さは、痛みに変わり始めていた。

 何回、岩壁を殴りつけたのか、まるで覚えていなかった。

 手の甲から指の皮膚が、擦り切れているに違いない。皮膚が裂けて、手の甲を走る太い血管――静脈の表面さえも、傷は及んでいたはずだ。

 深い闇の中で、人工灯のみが照らし出す、小さく曖昧な視界の中でさえも。

 赤黒い血液が、零れて。

 その拳の皮膚と、蒼い岩壁を伝っていることに、気がついたから。

 ぼくは、自身が行ったことの愚かさを、鑑みることすらもなく。

 ただ、その箇所を、じっと見つめていた。




 視界は、奇しくも、一枚の奇妙な画を作り出していた。

 『ナピの静脈』の、昏い群青色の表面。

 そのエナメル質を伝って、零れ落ちる、ぼくの血液。


 この星の抱く血と、ぼくの血が。

 まるで。

 そこで、交わるかのように――。




 静寂の、内側から。

 『それ』が、ぼくの知覚の中に現出したのは。

 あまりにも、突然のことだった。


 ひとつの声音を、ぼくの聴覚が認知したのだ。

 まるで、痛みを、撫でるかのように。




 ――ケイヴィ。




 吐息が、溢れた。

 ……とても、信じることが、できなかった。

 まったく、予期などしていなかった。

 背後から放たれた、ぼくのあだ名。

 その声が、狭い洞穴の内側で、今も反響を続けている……。

 いや、それが聞こえたことは、ぼくが驚いた本当の理由ではない。

 なによりも、信じがたかったのは。

 その声が――とても、聞き慣れていたものだったからだ。


 ……肩と拳の苦痛も忘れて、ゆっくりと、振り仰いだ。

 ぼくの視界を支配する、深い闇。

 その中に、浮かんでいたもの。

 十数歩先に、確かに立っていた、ある人物の姿を。

 ぼくは、ついに、認めた。




 エアリィオービスだった。




 あくまでも、闇の中で少女の姿を浮かび上がらせていたのは、ぼくが持つ指向性ライトの光だったはずだ。

 しかし、何故だろうか。

 彼女の姿をぼくの視界に顕した理由は、その光芒ではないように、思われた。

 ぼくは、この時。

 あまりにも明瞭に、「ぼくの知るオービスである」と、認知することができたのだ。

 闇の奥に佇む少女の像が、遠く、曖昧であったのにも、かかわらず。

 まるで、彼女自身が、淡い光を放っているかのように。

 その姿は、鮮明だった。




 ――わからない。

 ――これは、どういうことなんだ。

 ――夢か、幻か。




 目前の現象に、まるで、現実感を覚えられなかった。

 闇の中に佇む、消え去ったはずの少女の像に向かって。

 ぼくは、一歩一歩、ゆっくりと、近づいて――。




 そして、音もなく、顕れたのだ。




 ――ぼくの足元の地面を覆う耐熱材のカーペットが、岩壁に沿って傾いだフレーム柱が、それに連なった様々な色彩の微小な照明群が、発電機のキュービクルが、物々しい謎めく装置群が、壁のように積み上げられた金属のコンテナたちが、がらくたを組み合わせて布を被せた椅子とテーブルが、充電の要らない板状スレート端末が、ビスケット状食料の密封パッケージが、飲料水のボトルが、ぼくの持ち出したサジタリウス語ドキュメントが――。

 この洞穴の空間に、エアリィオーオスの『部屋』を、形成させていた、すべてのものたちが。

 ……ぼくの視界の中に、そのままの姿でもって、現出していた。


 『部屋』のものたちは、それぞれの輪郭に微かな光を帯びて、洞穴の闇の中に浮かび上がっていた。

 先ほどまで、完全に、消滅していたはずのものたちだった。

 そして、「断じて違う」と、ぼくは心の底が訴えた。

 ありふれた空間投影ホログラムなどではない――そんなちっぽけなからくりとは、まったく別次元だ。

 言わば。

 ――それは、だったのだ。

 ぼくの知覚の内側から、外界に投影されたヴィジョン

 信じがたいことに、またそれらは同時に、この世界に存在する実存物エグジステンスでもあった。

 虚実の、どちらにも属するものだった。

 ぼくは、理解した。

 この洞穴の空間そのものではない。

 ――ぼくたちが知り合い、ともに時間を過ごした場所――エアリィオービスの『部屋』は。

 にこそ、あったのだ、と。

 そして、もうひとつ、わかっていた。

 この輝かしいまでの『部屋』を、ぼくの意識下及び現実へと、浮かび上がらせたのが。

 ぼくの、目前に佇む存在――琥珀色の髪とラブラドライトの瞳を持つ少女、エアリィオービスであったことも。




 『部屋』を、認知して、はじめて。

 エアリィオービスが立ち、ぼくが歩み寄った場所が、かつて『部屋』であった空間の中央付近であると、ぼくは気がついた。

 少女の体の隣に、ごく小さな光点が見えた。

 それは、ぼくの立っていた最深部の、ちょうど極――入口から覗く、外界の光だった。


 ふたたび、ぼくの名前が呼ばれた。


 幻想などでは、なかった。

 立ち止まったぼくを前にして、エアリィオービスは。

 その視線で、ぼくの顔をじっと見つめて――他ならぬ彼女の声音で、話したのだ。


「まずわたしは、あなたにどんな言葉をかければいいのか、わからないでいる。だから代わりに、私の正直な気持ちを言うわ。……ここまで来てくれて、ありがとう」


 ぼくは。

 返事を、まるで忘れてしまっていた。

 眼前の少女の瞳に、その虹彩に、半ば意識を奪われていたのだ。

 洞穴の闇などよりも深い暗黒を背景に煌めく、極彩色のごく微細な光輝たち――明滅を繰り返しては、色彩を変遷させる、光粒の流星群――そしてその変化は、絶え間なく連続していた。


「わたしたちは、遠い昔、あなたたち――銀河系人類に近づき、触れようとしたもの。

 けれど、その途中で、失敗したもの。

 時折、あなたたちが、『分かつもの』と呼ぶ存在。その、残滓――」


 ついに、理解した。

 琥珀色の髪の少女の、瞳の不思議な虹彩の、正体を。

 ぼくはずっと、貴石ラブラドライトだと思っていた。

 その例えは、いささか見当はずれに過ぎた。

 エアリィオービスが、その瞳に抱いていたのは。

 ――この宇宙における、銀河系そのものの、輝きだったのだ。


「わたしたちは、可能性なのよ、ケイヴィ。

 あなたたち人が、やがて辿るかもしれない、可能性。そのひとつ――」


 現実感が、掴みあぐねた。

 エアリィオービスの独白――その内容に対しても。

 彼女が今、ぼくの眼の前にいるという、その事実さえも。

 しかし、違和感の最大の要因は、そこにはなかった。

 少女の存在に、語られた事実に、呆然としながらも……ぼくはひとつの事実を、痛感していた。

 ――あれほどまで、たどたどしかったサジタリウス語を、目前の『エアリィオービス』は、完全に習得していたのだ。

 闇の中に浮かぶ少女が、ぼくに向けて流暢な調子で語ったのは、かつてぼくが必死に教えて、彼女が懸命に学び取ろうとした、ひとつの言語体系だった。

 

 つい昨日あったはずの、独特のアクセントの癖は、完全に消失していた。

 文法は齟齬はひとつも見られなかった上に、ぼくが教えていないはずの語彙さえも使っていた。

 まるで、生来の言語であるかのように。


 そうだ。

 今の『エアリィオービス』の話しぶりは、ひとつの事実を示唆していた。

 彼女は、はじめから、サジタリウス語が使えたのだ。

 だが、できないふりをしていた。

 ぼくは、自らの心の奥底から、憔悴と無力感や、その他の様々な思いが一緒くたになったものが、じわじわと滲み出てきたのを、感じ取っていた。

 止めようとしても、どうしようもないものだった。

 やはり。


 はじめから、ぼくのやっていた、なにもかもは、無意味だったのか。


 愕然として、佇んでいた、ぼくに向けて。

 極彩色の光輝たちの瞳――銀河系の瞳で見とめて、オービスは、続けた。

「わたしは、わたしの属する存在によって、この星に充てられた、『試すもの』」

「……試す……?」

 それが、ぼくが少女に告げた、ようやくの第一声だった。

「そう。……ねえ、ケイヴィ。わたしたちは――」

 琥珀色の髪の少女は、僅かに顔を逸らして。

 ぼくの背の奥へと、眼を向けた。

 無数の虹彩に輝く、その瞳を。

 彼女の視線は、に向けて、定められていた。

 ぼくの肩越し、この洞窟の奥――などではない。

 そんな範疇に、留まるはずもない。

 オービスが見ていたのは、もっと、ずっと、遥か彼方の世界だった。

 この惑星ナピの大気圏を超えて、広大な星域宙空を超えて、もしかしたら銀河系空間さえも超えて、存在するのであろう、なにか――。

 少女の視線が、ふいに、ぼくに戻された。

 『部屋』に満ちた、淡い光を受けてのものだろうか。

 その瞳に湛えられた、恒星群の輝きは、いや増していた。

「わたしたちは……とても長い時間をかけて、様々な手段を介して、あなたたちの動向を追いかけている。動向――いえ、心理と呼ぶべきかしら。あなたたちの、心。その遷移が、どのようなものであるかを認識し、把握するための手続き。それを行うのが、わたしたち」

 エアリィオービス――その姿を有するものが告げた、言葉たち。

 その内のひとつに、あらためてぼくは、現実を見失いそうになる。

 オービスにとっての『あなたたち』とは、彼女の言葉をそのまま解釈すれば――『銀河系人類』そのものを示していた。

 だが、やはりそれ以上に、ぼくの心に強烈な印象を残したのは、彼女の話すサジタリウス語が、信じがたいほどに完璧だったことだ。

 外見も仕草も、まったくの同一人物にしか見えない。

 しかし、眼前の少女の持つ言葉は、ぼくたちがこの洞穴の中で、少しずつ積み重ねていった、あのサジタリウス語ではなかった。

 完璧な、流暢さ。

 それこそが、彼女の放った驚くべき話よりも、ぼくの耳に重く残った。

 結果的に、独白に対しても、異様なまでの真実味を与えていた。


 呆然としていた、ぼくを見かねてだろうか。

 少女は、ぼくに向けて、にこやかに微笑んだ。

 見慣れたものである、はずだった。

 その笑みは、『分かつもの』――かつて人に触れたとされる、人にあらざる知性とされるもの――のそれには、到底思えなかった。

 このあなぐらの中で、一時を共に過ごした、エアリィオービスの微笑み。

 重い生体改造が施されていても、疑うこともなく人間と見做していた、少女の微笑み。

 なにひとつ、変わりのないものであるはずだった。

 なのに、どうしてだろう。

 まるで異なるものであるように、思えたのは。


「心配しないで、ケイヴィ」

 琥珀色の髪と、銀河系の瞳を持つ存在は。

 その輝く視線で、ぼくの心を見透かすかのように――いや、文字通り見透かしているのかもしれない――朗らかな声で、告げた。

「わたしたちに起こった現象は、たったの『一票』。

 わたしに対して、あなたが選んだあの決断が、あなたたちの世界を脅かすことなんて、ありえない」

 ――たったの、一票。

 それが、どれほどの重みを持った、一票なのか。

 ぼくなどには、とても推し量れる話ではなかった。

 ぼくは、彼女に向けて、なにかを告げようとして。

 ふいに、痛みを感じた。


 右拳を、持ち上げた。

 ぼくが、つい先程まで、『ナピの静脈』に――岩壁に、打ちつけていた、拳を。

 我ながら、目も当てられないほどひどい有様だった。手の甲の先からはじまり、小指から人差し指の付け根から第二関節にかけての表皮と真皮が、完全に破れていた。粗雑なかたちで赤黒い内部が露出し、中指の付け根には、白いもの――他ならぬぼくの骨さえも、覗いていた。この薄闇の中でさえも、じわじわと血液が零れているのが、はっきりと見えた。

 我ながら、異様だったのは。

 痛烈な痛みと、深い嫌悪感を覚える一方で。

 まるで他人事のように、その傷を見つめているぼく自身が、確かに存在することだった。

 ――なるべくして、こうなったとでも、言わんばかりに。


 ぼくは、やがて拳を降ろすと。

 闇の中に立つ少女へと、視線を戻した。


「……オービス」


 ぼくには、わからなかった。

 なにもかもが、虚偽のまがいものかもしれない。

 なにをしようが、結局は無駄なのかもしれない。

 それでも、なお、言わなければならないことが。

 ぼくには、残されていた。


「ぼくは」


 今のぼくの声は、きっと実に弱々しい、縋っているような色をしているのだろう。

 それでも、訊きたかった。

「ぼくは、君を『従者』に引き渡した。

 その決断は――客観的には、決して間違ったものではなかった――そう、思っている……でも」


 次の言葉が、しばらくの間、見つからなかった。

 ぼくを見据える少女の瞳は――しかし、真摯だった。

 もはや懐かしささえ覚える、真剣にぼくを見とめる、星々の瞳。

 それだけは、残されていたように、思えた。

 拳の痛みに、心底から怯えながら。

 ぼくは、枯れそうな声で、続けた。


「でも……本当は、ぼくは『自らの決断』なんて、下してはいなかったんだ、オービス……。

 ぼくは、あの時。自分の考えを信じて、君を見送った。

 しかしそれは、信じていたつもりに、なっていただけだった。

 メロウディア姉さんが、最初から仕組んでいたんだ。

 あの時のぼくは、姉さんの敷いたレールに沿って、動いていただけだった。

 それなのに、ぼくは自分の考えだと思い込んで、君に決断を下してしまった。

 ……そんなものが、君に対する、『ぼくの意思』なのだとしたら、それは……!」


 名を呼ぼうとして。

 声が、空を切ってしまった。

 一度、大きく息を吸い込んで。

 ゆっくりと、絞り出すように、吐き出してから。

 ぼくは、訊いた。


「……エアリィオービス……。

 ぼくは、君に、が、できたんだろうか?

 そのことを、ここに来るまで、ずっと考えていた。

 でも、答えは見つからない。

 これからも、見つかりそうには、ない。

 ぼくの、正直な気持ちを言おう。

 ぼくには今、なにもかもが、自分さえもが、信じられないでいる……」


 『部屋』の物品たちは、淡い光で周囲を照らしていた。

 エアリィオービスは。

 まるで、それらに祝福されるかのように、屹立していた。


 ――ここは、ひとりの少女が、暮らしていた洞穴だった。

 今、ぼくが対峙しているのは。

 その娘と同じ姿をした、まるで異なる存在だ。

 わかっている、つもりだ。

 それでも――ぼくは、彼女にこそ、訊かなければならなかった。


「……エアリィオービス」


 彼女の名を、呼んで。

 あらためて。

 ぼくは、問うた。




 ――ぼくは、ほんの少しでも。

 ――君に、正しいことが、できたんだろうか……?




 ふと。

 自らの拳に、視線を落とした。

 傷口の血が、一向に、止まらなかった。

 血が、溢れて、止まらない――。


「あなたが」

 透き通った声が、ぼくの顔を上げさせた。

「あなたが、あなたたちにとって、優れた判断を行ったか否か。

 それを、わたしが教えることはできない。

 それでも、たったひとつだけ、わたしがはっきりと言えることがある。

 ……ねえ、ケイヴィ。いえ――」


 その時。

 ほんの一呼吸の時間だけ、光が、洞穴の深い闇を消し去ったのだ。


 それは、ナピの太陽が地平線に沈む直前の、崖下の岩壁における光の屈折と収束――その連続が巧妙に絡み合った結果、洞穴の侵入角度と重なることで発生した、光学現象だった。

 赤色の陽光が、限りないまでに白に近づく、たった一瞬の煌めき。


 白銀の光輝に包まれた、娘は。

 ぼくの傷ついた手を、その手で取ると。

 とても――これ以上ないほどの穏やさで、微笑んだ。


 息を呑んだ。

 彼女は、ひとつの文言を、ぼくに言い終えていた。

 それは、もはや誰からも忘れ去られた、ぼくの持つ真の名前だった。


 そして。

 ぼくの愚かな問いに対する、明らかな答えを。

 同時に、『エアリィオービス』という少女が、かつて。

 この洞穴に――ぼくの前に、確かに存在した、証拠を。


 一言だけ、告げた。




「あなたに会えて、




 ◆




 ……それから。


 ぼくと、琥珀色の髪の少女、エアリィオービスは。

 互いに、別れを告げた。


 本当の――決定的な、それは永遠の別離だった。

 しかし。

 その内容について記すのは、あえて避けようと思う。


 何故なら。

 これは、『別れ』に関する物語ではないからだ。


 ――ぼくは、ある時、ひとりの少女と偶然出会った。

 あまりにも背景がかけ離れた存在であったぼくたちは、はじめこそ衝突した。

 だが、互いへの意思疎通を試みた結果、信頼を築くことができた。

 そして、ある事件を発端として、ぼくたちの関係は揺るがされた。

 しかし、ついに彼女はその素性を明かして、別れの前に、ぼくへの感謝を告げたのだ。

 この話の焦点は、つまるところ、そこにあった。


 そう。

 主題は、ぼくと、ぼくが知り合った大切な友だちとの、親交だ。

 それは、あまりにも遠く隔てられた、ふたつの世界の間に築かれた――些細かもしれないが、かけがえのない、友情だった。


 だから。

 ぼくたちの別れについて述べるのは、控えよう。




 ◆




 視界には、普段どおりの、ナピの荒野が広がっていた。


 ぼくは右手に力を加えて、握る浮揚機ホバーのハンドルを、少しだけ回す。

 瞬間、右の肩と、包帯バンデージを巻いた手の甲に、鋭い痛みが走った。


 だが、結局のところ――それらは、大したことではなかった。

 ぼくにとっては、それらはもはや、好ましく受け入れられるものだった。

 その対価として、ぼくが得ることができた、大切なものに比べれば――あまりにも些細な痛みだった。


 開発途上惑星ナピは、今日も変わらない。

 ひたすらに連なる紅い岩の大地と、そのすべてを覆い包む、朱い空。

 その間に、ぼくは淡いシルエットを認めた。

 植生棟バイオラティオン宙港ポートの塔に、中央街のビル群。そして、その手前に控える住居街――ぼくの生まれ育ったナピの街が、帰りを待っていたのだ。


 ぼくは、あらためてハンドルを強く握ると、浮揚機ホバーの出力を上げて、街に向かって走り出した。




 【惑星開発姉弟のクリスマス/完】



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惑星開発姉弟のクリスマス ムノニアJ @mnonyaj

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