エピローグ そして、零れ落ちたもの - And, The Flowed Down
エピローグ そして、零れ落ちたもの - And, The Flowed Down
丘の上で、その偽らざる本心を聞き、メロウディア姉さんと別れた後。
紅い岩の覆う坂道を降って、ぼくは谷間の底へと、足を踏み入れていた。
今日も、崖下の世界には、変わりなどないように思われた。
地上よりも明るい、光の庭園。
ぼくの視界を阻む二枚の壁面の上端が、陽光を反射し、この谷の底まで収束させて、一帯を明るく照らしている。
遠い岩壁を見つめていると、ひとつの思いが、ぼくの心に去来した。
――ここまで、この場所は、静かだったろうか。
と。
散策を始めてから、その決定的な変化に気がつくまでに、時間はかからなかった。
岩壁の下の、陰った隅の箇所。
そのひとつの地点を前にして、ぼくは立ち尽くしてしまった。
確かに、この場所に、ずっとあったはずなのだ。
黒焦げた、大きな残骸が。
琥珀色の髪の少女は、宙空での逃亡の末に、この崖下に不時着した。
少なくとも彼女自身は、そう語った。
彼女を乗せていた、小型運搬船。
ネペンゼス号の、成れの果てが。
ぼくがはじめて、この崖下で出会った、異様が。
崖下の隅の、光と影の彩る岩盤の上から――影もかたちも、消滅していた。
船の残骸だけではなかった。
予感に憑かれたように、バックパックの中の簡易ランタンを速やかに点灯して、絶壁にぽっかりと空いた穴――崖下の
歩き慣れた岩盤を早足で進み、ひとつの事実を確認しようと試みる。
――やはり、そうだった。
決して広くも、長くもない、天然の洞穴。
その中ほどに造られていた、少女の『部屋』。
すっかり、なくなっていた。
空間を照らしていた無数の微小の蛍光灯群も、それがくくりつけられていた金属柱も、発電機を含む各種の装置も、家具代わりのがらくたも、山のように積まれていたコンテナも――。
ひとつ残らず、消えていた。
エアリィオービスが、この場所を離れたのは、つい二日前のことだ。
あの時には据え置かれたはずの、ありとあらゆる物資群が――そこを、ひとつの『部屋』として認識させていた要素たちの一切合財が、まるで消えていたのだ。
指向性ハンディ・ライト――トーチを取り出して、辺りの隅々を照らしていく。
本当に、なにひとつ、残されてはいなかった。
ぼくが視認することができたのは、壁面がややへこんで、少し広がっただけの空間――単なる洞穴の一箇所としか、表現しようのない場所だった。
『部屋』は、天然の、本来あるべき姿に、戻っていたのだ。
――小型貨物船の残骸。そして、『部屋』の装置と物資たち。
エアリィオービスと名乗っていた、琥珀色の髪の少女。
彼女がこの崖下にいた痕跡の、なにもかもが、消えていた。
あたかも。
最初から、あの少女など、存在しなかったかのように。
ライトで辺りを照らして、『部屋』だった空間の隅々を、照らしながら。
ぼくは、直感的に、思った。
――なるほど。
と。
理由は、自分でもよくわからない。
ぼくの心は、不可解さよりも、奇妙な納得を感じていたのだ。
なるべくして、こうなった。
そうとでも、言わんばかりに。
『部屋』を照らしていた小さな照明群の光も、もう姿はない。
指向性ライトが露わにする、ほんの少しの紅岩の地面や壁を除いては、視界は底深い闇に満たされていた。
邪魔するものは、もうなにもなかった。
オービスの物資のひとつ――金属製コンテナが山のように積まれて、壁のようになっていた洞穴の奥にも、通ることができた。
ぼくは、ライトでかつて『部屋』だった場所の隅々を照らして、あらゆる物資が完全になくなっていることを、再び確認してから。
闇の奥へと――洞穴の最深部へと、進んでいった。
周囲を包むのは、静寂と暗闇ばかりだった。
足元を覗きながら、岩盤に覆われた世界を、黙々と歩んでいると。
ふと。
ある思いが、ぼくの心に去来した。
――結局、ぼくにできたことは。
いったい、なんだったのだろうか。
カレッジに提出するレポートの調査のために、この崖下の世界を訪れて、琥珀色の髪の少女と邂逅し――そして、『白雪』が街に降り積もり、騒動が収束するまでの。
一連の物語を、ぼくは思い出していた。
果たして。
――ここに、真実らしいものの姿は、ひとつさえ、あったのだろうか?
アンリー・オフィオン・ストゥディウムス捜査官を名乗っていた宙族は、最初からすべてを欺いていた。『白雪』をナピの街に散布し、人々に危機を演出して、それに立ち向かうふりをすることでコミュニティ全体を騙し、財産を奪おうと試みた。
ぼくも、まんまと彼の口上に乗せられてしまった。
その一方で、惑星開発者たるメロウディア姉さんは、ナピの街のために黙々と敵の策略と戦っていた。事前に用意していた情報をもとに、ありとあらゆる策を講じて、住民にさえその手の内を隠しながら、逆転の準備を整えていたのだ。
必要なこと、だったとはいえ。
姉さんもまた、ぼくを騙し、まったく見事にその動向を誘導してのけた。
つまり――『管理官』と姉さんのどちらからも、ぼくは欺かれていたというわけだ。
そこに、本心などは、欠片も存在しなかった。
結局のところ、あのふたりにとっては。
ぼくは、単なる駒に過ぎなかった。
『偶然、エアリィオービスに通じている』駒としての価値しか、ぼくという人間には、なかったのだ。
なのに、ぼくは。
ふたりの真心や本心らしいものを、ただただ、信じていた……。
そして。
あまつさえ。
ぼくの心のよすがとなっていた、エアリィオービスさえも。
ずっと、ぼくを騙していたのだ。
――ぼくは、いったい。
なにを、信じてきたのか。
この一連の物語には。
真実など、本当のことなど、なにもなかったのではないか。
……いつのことだったろうか。
メロウディア姉さんは、ぼくを『この世界に従順な、幸せな囚人』と呼んでいた。
その通りなのかもしれない、と思う。
――『正しい道』を自発的に選んだと勘違いして、それに一時の満足感を覚えようが……つまるところ、それはぼくの意志などではなく、他の誰かの見事な誘導の結果に過ぎないのだ。
ぼくは後々になってから、その狡猾な見事な嘘に騙されて、欺かれていたのだと――誰かに仕組まれた、偽りの決断を行っていたのだと、知ることになる。
やがてぼくは、自分が『幸せな囚人』であったと知って、忸怩たる思いを抱くかもしれない。
だが、そんなことは、他の誰にとっても、どうでもいい。
全体の物事は、順調に進んだのだから。
ぼくの意志など、要らなくても――。
少なくとも、これまでは、そうだった。
だから。
「これからは、違う」と。
いったい誰が、どうすれば、言い切れるのだろう?
――やがて。
ぼくは、洞穴の最深部……もう先には進めない
そこには、ぼくが予期していたとおり。
あるものが、待っていた。
――目前の岩盤を、まっすぐ縦に走る、青色の帯。
地面から高さ五メートルほどの天井まで、直径四十センチほどの太さの直線を描く、群青の色彩。
蝋にも似た光沢質の表面は、ぼくの持つ照明を受けて、僅かに光の粒の反射を返す。
紅色の岩石で満たされたこの惑星ナピにおける、異色の自然生成物。
かつて――ぼくたち
『ナピの静脈』。
――実際のところは。
こんなものは、特別でも、なんでもない。
ぼくは、もう知っている。
この岩盤は、永きに渡って固着化したナピの大地の内側で、緩慢な地殻運動のエネルギーの末端作用として発生したごく小さな亀裂に、摩擦熱と大気が含まれたことで生じた、ありふれた化学変化の痕跡に、他ならなかった。
実際、今回のこの崖下の地質調査において、ぼくは他にも三ケ所――つまり合計四カ所で、この『静脈』を発見・観察することができた。
というのも、崖下の空間に点在している『静脈』の把握と分析――それこそが、
とりたてて、特別なものではない。
ただの、少し珍しい程度の、岩だった。
それでも、なお。
ぼくは。
客観的判断を下す、自らの理性を自覚する、そのすぐ傍らで。
あるひとつの観念に、なおも。
決定的なまでに――致命的なまでに、囚われていたのだ。
我ながら、まったくもって、馬鹿げた考えだった。
それは、
――この亀裂こそが、ナピという惑星がその身に抱える『血脈』の、他ならぬ証左である――
という、
まったく科学的思考の欠如した、観念だった。
あるいは。
それは――もはや、呪い、と呼べるのかもしれなかった。
……ふいに、初めてこの場所に辿り着いた、あの日の記憶の像が。
ぼくの視界に満たされた洞穴の闇と、重なった。
底知れぬ暗黒の中で、ランタンから放たれる弱々しい光だけが、ぼくと壁面の『静脈』を取り囲むごく小さな領域に、色彩と意味を与えていたから、かもしれない。
――父さんの、生きた声が、聞こえた。
父さんの、自信と溌剌さに溢れた声音は、いつだって明瞭に思い出すことができる。
今、その思い出たちは、この閉ざされた空間において、異様なまでに現実感を増していた。
『記憶の想起』という生理的機能は、奇妙な側面を持つらしい。
――ひとりの少女が、この天然の洞穴を、奇怪な物資群と自分の存在感で占拠していた時期には、ぼくも彼女とかなり長い時間を過ごしていたのにもかかわらず、洞穴の闇に父さんの追憶を投影したことは、ほとんどなかった。
しかし、その少女が、あたかも幻影であったかのように消失して、静寂と暗黒に満ちた本来の姿に舞い戻った、この今においては。
幼き日の記憶は、あまりにもたやすく、ぼくの脳裏に浮かび上がったのだ。
――まるで、死ばかりが横たわる闇の底から、生者の世界に生きるぼくに向かって、話しかけてくるかのように。
ぼくの脳内の長期記憶の片隅が発する、声は。
いや、
『呪い』は、
あの懐かしい、優しく力強い声音で。
ぼくの背丈よりも、ずっと高いところから、語りかけてきた。
――人間は、本当の意味で、地球から抜け出ることなど、できない――
聞きたくなど、ない。
そのぼくの意志などが、届く相手ではなかった。
『呪い』は、続けた。
――なぜなら、誰もが、自らの血の鎖に囚われているから――
……ぼくは。
ひとりの人間の、生存個体として、正しくあろうとした。
人類は、あまりにもか弱く、不完全な生物だ。
ネクタル・フィールドの庇護なしでは、一分とてナピの大地では生きられない。記憶は不完全で、情動的で、時に勘違いをしたり、判断を誤ることもある。
しかし、その不完全性や、不確実性をも飲み込んだ上で――ぼくは、自分にとっての『正しい行動』を、選び取ろうとしていたのだと思う。
琥珀色の髪の少女との、一連の交流において。
ぼくが持ち合わせていたものは、ただのちっぽけな知識と、うすぼけた倫理観だけだった。
けれども、その可能な限りにおいて、妥当と思える判断に基づいて道を選び、慎重に自分の歩みを進めてきた、つもりだ。
対価など、なかった。
しかし。
その過程を、経ることによって。
ぼくの心のどこかに強く根づいていた、合理性や社会性、または人性と呼ばれる概念との、自らの接近と融和を計ろうと、試みていたのだろうと思う。
やはり、その対象は、『逃亡者』の少女のみではなかったのかもしれない。
自らの良心、と呼ばれるもの、だったのかもしれない。
ぼくの試み、それそのものは。
懸命なものだった、と思う。
懸命では、あった。
――しかし、だから、どうしたっていうんだ。
いつ、いかなる時でも。
必要とされ、未来へと繋がるのは――結果だった。
その、ごく現実的で普遍的な観点から見れば。
まったく、笑ってしまうような、有様だ。
ぼくは、
宙族に対しても、エアリィオービスに対しても、なにひとつとして、『正しい行動』など、できなかったじゃないか。
ぼくが狭量な思考で悩みこんで、翌日にオービスに教えるサジタリウス語における文法パターンを思索していた間にも、メロウディア姉さんはナピに迫っていた状況をすべて知った上で、冷静かつ緻密な活動を続けて――しかるべき時には、その知性と行動力でもって、複雑な問題を理路整然と片付けてしまったのだ。
そしてあの少女を還そうとした、ぼくの最後の決断でさえも。
『ぼくが姉さんを振り切ろうとする』衝動を演出することで、姉さんが巧妙に誘導した結果なのだ。
そうだ。
今さら、隠すまでもない。
ぼくは、操られていた。
メロウディア姉さんに、完全に操られていたのだ。
――あるいは、言葉だけは。
エアリィオービスを自称する、銀河の漂流者を自称していたあの少女の将来に、例えどのような過酷な運命が待ち構えていたとしても――この辺境の星を抜けて、長すぎるほどの時が経ち、やがて、ぼくという人間を、忘れてしまったとしても。
あるいは、ぼくが教えていった言語だけは、それだけは、残すことができるのではないか、と。
この崖下の洞穴において、ぼくが彼女に伝えたサジタリウス語の言葉たちだけは、彼女の中に、ほんの僅かでも、ぼくという存在のひとつの軌跡として、彼女の記憶の一端であり続けられるのではないか、と。
そう、信じていた。
しかし。
その試みすらも、ぼくは失敗した。
いや、最初から、成功の見込みなど、なかったのだ。
エアリィオービスの素性さえ、ぼくは勘違いしていたのだから。
メロウディア姉さんに言わせれば、エアリィオービスという存在は、ある種の被験者だったのだ。この崖下に偶然辿り着いた、つまり無作為抽出された、ぼくという『ただの一介の他人』と虚偽の関係を交わして、自らの判断力と思考力を測るための。
ならば、言葉さえも、瓦解する。
まったく、笑えるものだ。
エアリィオービスは。
必死にサジタリウス語を教えようと試みるぼくを――内心で、馬鹿にしていたのかもしれない。
つまるところ。
この一連の、物語では。
なにもかもにおいて、ぼくは、誤っていた。
すべて、ぼくの身勝手な、勘違いだった。
呆れんばかりの、錯誤の連続だった。
眼前の青色岩壁――『静脈』に一度背を向けると、ぼくは再びハンディ・ライトを取って、広くはない洞穴の様相を見渡した。
視界の先にあるのが、『部屋』があったはずの場所だった。
しかし残されていたのは、自然的に形成された紅い土と岩、そしてその輪郭だけだ。
琥珀色の髪の少女が存在した痕跡たちは、やはり、徹底的に取り払われていた。
洞穴は、静けさを保ったまま。
ぼくに向けて、ひとつの結論的な事実を、簡潔に示していた。
ぼくとエアリィオービスの、五十日あまりの『語学交流』。
そんなものは、最初から、なかったのだ。
――ぼくは、いったい、なにをやっていたのか。
なにを、やっていたのか。
『呪い』が、再び、洞穴に木霊した。
『呪い』は、一層の強さと現実感を、その声に帯びていた。
『呪い』は、いつか見た父さんの背と、紛れもなく同じ影を抱えていた。
――どうすることも、できない――
――人間は、血の鎖に、強く堅く、永遠に縛られて――
――無力、だ――
――無力――
◆
なにもかもがうまくいく道理なんて、あるはずがないんだ。
だからって。
ぼくが君に下した決断は、どうあったとしても、間違いだった。
◆
――ついに、ぼくを止めたのは。
右肩を中心として上半身に駆け抜けた、激烈な苦痛だった。
仮面の『従者』が近づき、“貫いた”箇所。
そこは、未だに今日も、根深い神経痛を残していた。
これから一生、ぼくに、付いて回るのかもしれなかった。
……右手の拳が、ひどく熱くなっていた。
ぶり返した肩の苦痛が、意識を現実に引き戻す。
そして、ひとつの事実を、ぼくはようやく理解した。
たった今まで。
ぼく自身が、目前に立ち塞がる岩壁に――『ナピの静脈』に、向けて。
剥き出しの右手の拳で、何度も何度も、殴りつけていた。
吐息が、静寂の中で、不気味なほどに大きく聞こえた。
あたかも、まったく他人のもののように。
ぼくは呆然と、自分が突き出していた腕を、眺めた。
目前の壁に、拳が当てられていた――熱さは、痛みに変わり始めていた。
何回、岩壁を殴りつけたのか、まるで覚えていなかった。
手の甲から指の皮膚が、擦り切れているに違いない。皮膚が裂けて、手の甲を走る太い血管――静脈の表面さえも、傷は及んでいたはずだ。
深い闇の中で、人工灯のみが照らし出す、小さく曖昧な視界の中でさえも。
赤黒い血液が、零れて。
その拳の皮膚と、蒼い岩壁を伝っていることに、気がついたから。
ぼくは、自身が行ったことの愚かさを、鑑みることすらもなく。
ただ、その箇所を、じっと見つめていた。
視界は、奇しくも、一枚の奇妙な画を作り出していた。
『ナピの静脈』の、昏い群青色の表面。
そのエナメル質を伝って、零れ落ちる、ぼくの血液。
この星の抱く血と、ぼくの血が。
まるで。
そこで、交わるかのように――。
静寂の、内側から。
『それ』が、ぼくの知覚の中に現出したのは。
あまりにも、突然のことだった。
ひとつの声音を、ぼくの聴覚が認知したのだ。
まるで、痛みを、撫でるかのように。
――ケイヴィ。
吐息が、溢れた。
……とても、信じることが、できなかった。
まったく、予期などしていなかった。
背後から放たれた、ぼくのあだ名。
その声が、狭い洞穴の内側で、今も反響を続けている……。
いや、それが聞こえたことは、ぼくが驚いた本当の理由ではない。
なによりも、信じがたかったのは。
その声が――とても、聞き慣れていたものだったからだ。
……肩と拳の苦痛も忘れて、ゆっくりと、振り仰いだ。
ぼくの視界を支配する、深い闇。
その中に、浮かんでいたもの。
十数歩先に、確かに立っていた、ある人物の姿を。
ぼくは、ついに、認めた。
エアリィオービスだった。
あくまでも、闇の中で少女の姿を浮かび上がらせていたのは、ぼくが持つ指向性ライトの光だったはずだ。
しかし、何故だろうか。
彼女の姿をぼくの視界に顕した理由は、その光芒ではないように、思われた。
ぼくは、この時。
あまりにも明瞭に、「ぼくの知るオービスである」と、認知することができたのだ。
闇の奥に佇む少女の像が、遠く、曖昧であったのにも、かかわらず。
まるで、彼女自身が、淡い光を放っているかのように。
その姿は、鮮明だった。
――わからない。
――これは、どういうことなんだ。
――夢か、幻か。
目前の現象に、まるで、現実感を覚えられなかった。
闇の中に佇む、消え去ったはずの少女の像に向かって。
ぼくは、一歩一歩、ゆっくりと、近づいて――。
そして、音もなく、顕れたのだ。
――ぼくの足元の地面を覆う耐熱材のカーペットが、岩壁に沿って傾いだフレーム柱が、それに連なった様々な色彩の微小な照明群が、発電機のキュービクルが、物々しい謎めく装置群が、壁のように積み上げられた金属のコンテナたちが、がらくたを組み合わせて布を被せた椅子とテーブルが、充電の要らない
この洞穴の空間に、エアリィオーオスの『部屋』を、形成させていた、すべてのものたちが。
……ぼくの視界の中に、そのままの姿でもって、現出していた。
『部屋』のものたちは、それぞれの輪郭に微かな光を帯びて、洞穴の闇の中に浮かび上がっていた。
先ほどまで、完全に、消滅していたはずのものたちだった。
そして、「断じて違う」と、ぼくは心の底が訴えた。
ありふれた空間投影ホログラムなどではない――そんなちっぽけなからくりとは、まったく別次元だ。
言わば。
――それは、認識そのものだったのだ。
ぼくの知覚の内側から、外界に投影された
信じがたいことに、またそれらは同時に、この世界に存在する
虚実の、どちらにも属するものだった。
ぼくは、理解した。
この洞穴の空間そのものではない。
――ぼくたちが知り合い、ともに時間を過ごした場所――エアリィオービスの『部屋』は。
ここにこそ、あったのだ、と。
そして、もうひとつ、わかっていた。
この輝かしいまでの『部屋』を、ぼくの意識下及び現実へと、浮かび上がらせたのが。
ぼくの、目前に佇む存在――琥珀色の髪とラブラドライトの瞳を持つ少女、エアリィオービスであったことも。
『部屋』を、認知して、はじめて。
エアリィオービスが立ち、ぼくが歩み寄った場所が、かつて『部屋』であった空間の中央付近であると、ぼくは気がついた。
少女の体の隣に、ごく小さな光点が見えた。
それは、ぼくの立っていた最深部の、ちょうど極――入口から覗く、外界の光だった。
ふたたび、ぼくの名前が呼ばれた。
幻想などでは、なかった。
立ち止まったぼくを前にして、エアリィオービスは。
その視線で、ぼくの顔をじっと見つめて――他ならぬ彼女の声音で、話したのだ。
「まずわたしは、あなたにどんな言葉をかければいいのか、わからないでいる。だから代わりに、私の正直な気持ちを言うわ。……ここまで来てくれて、ありがとう」
ぼくは。
返事を、まるで忘れてしまっていた。
眼前の少女の瞳に、その虹彩に、半ば意識を奪われていたのだ。
洞穴の闇などよりも深い暗黒を背景に煌めく、極彩色のごく微細な光輝たち――明滅を繰り返しては、色彩を変遷させる、光粒の流星群――そしてその変化は、絶え間なく連続していた。
「わたしたちは、遠い昔、あなたたち――銀河系人類に近づき、触れようとしたもの。
けれど、その途中で、失敗したもの。
時折、あなたたちが、『分かつもの』と呼ぶ存在。その、残滓――」
ついに、理解した。
琥珀色の髪の少女の、瞳の不思議な虹彩の、正体を。
ぼくはずっと、貴石ラブラドライトだと思っていた。
その例えは、いささか見当はずれに過ぎた。
エアリィオービスが、その瞳に抱いていたのは。
――この宇宙における、銀河系そのものの、輝きだったのだ。
「わたしたちは、可能性なのよ、ケイヴィ。
あなたたち人が、やがて辿るかもしれない、可能性。そのひとつ――」
現実感が、掴みあぐねた。
エアリィオービスの独白――その内容に対しても。
彼女が今、ぼくの眼の前にいるという、その事実さえも。
しかし、違和感の最大の要因は、そこにはなかった。
少女の存在に、語られた事実に、呆然としながらも……ぼくはひとつの事実を、痛感していた。
――あれほどまで、たどたどしかったサジタリウス語を、目前の『エアリィオービス』は、完全に習得していたのだ。
闇の中に浮かぶ少女が、ぼくに向けて流暢な調子で語ったのは、かつてぼくが必死に教えて、彼女が懸命に学び取ろうとした、ひとつの言語体系だった。
その、学んだ跡が、なかった。
つい昨日あったはずの、独特のアクセントの癖は、完全に消失していた。
文法は齟齬はひとつも見られなかった上に、ぼくが教えていないはずの語彙さえも使っていた。
まるで、生来の言語であるかのように。
そうだ。
今の『エアリィオービス』の話しぶりは、ひとつの事実を示唆していた。
彼女は、はじめから、サジタリウス語が使えたのだ。
だが、できないふりをしていた。
ぼくは、自らの心の奥底から、憔悴と無力感や、その他の様々な思いが一緒くたになったものが、じわじわと滲み出てきたのを、感じ取っていた。
止めようとしても、どうしようもないものだった。
やはり。
はじめから、ぼくのやっていた、なにもかもは、無意味だったのか。
愕然として、佇んでいた、ぼくに向けて。
極彩色の光輝たちの瞳――銀河系の瞳で見とめて、オービスは、続けた。
「わたしは、わたしの属する存在によって、この星に充てられた、『試すもの』」
「……試す……?」
それが、ぼくが少女に告げた、ようやくの第一声だった。
「そう。……ねえ、ケイヴィ。わたしたちは――」
琥珀色の髪の少女は、僅かに顔を逸らして。
ぼくの背の奥へと、眼を向けた。
無数の虹彩に輝く、その瞳を。
彼女の視線は、遠くに向けて、定められていた。
ぼくの肩越し、この洞窟の奥――などではない。
そんな範疇に、留まるはずもない。
オービスが見ていたのは、もっと、ずっと、遥か彼方の世界だった。
この惑星ナピの大気圏を超えて、広大な星域宙空を超えて、もしかしたら銀河系空間さえも超えて、存在するのであろう、なにか――。
少女の視線が、ふいに、ぼくに戻された。
『部屋』に満ちた、淡い光を受けてのものだろうか。
その瞳に湛えられた、恒星群の輝きは、いや増していた。
「わたしたちは……とても長い時間をかけて、様々な手段を介して、あなたたちの動向を追いかけている。動向――いえ、心理と呼ぶべきかしら。あなたたちの、心。その遷移が、どのようなものであるかを認識し、把握するための手続き。それを行うのが、わたしたち」
エアリィオービス――その姿を有するものが告げた、言葉たち。
その内のひとつに、あらためてぼくは、現実を見失いそうになる。
オービスにとっての『あなたたち』とは、彼女の言葉をそのまま解釈すれば――『銀河系人類』そのものを示していた。
だが、やはりそれ以上に、ぼくの心に強烈な印象を残したのは、彼女の話すサジタリウス語が、信じがたいほどに完璧だったことだ。
外見も仕草も、まったくの同一人物にしか見えない。
しかし、眼前の少女の持つ言葉は、ぼくたちがこの洞穴の中で、少しずつ積み重ねていった、あのサジタリウス語ではなかった。
完璧な、流暢さ。
それこそが、彼女の放った驚くべき話よりも、ぼくの耳に重く残った。
結果的に、独白に対しても、異様なまでの真実味を与えていた。
呆然としていた、ぼくを見かねてだろうか。
少女は、ぼくに向けて、にこやかに微笑んだ。
見慣れたものである、はずだった。
その笑みは、『分かつもの』――かつて人に触れたとされる、人にあらざる知性とされるもの――のそれには、到底思えなかった。
このあなぐらの中で、一時を共に過ごした、エアリィオービスの微笑み。
重い生体改造が施されていても、疑うこともなく人間と見做していた、少女の微笑み。
なにひとつ、変わりのないものであるはずだった。
なのに、どうしてだろう。
まるで異なるものであるように、思えたのは。
「心配しないで、ケイヴィ」
琥珀色の髪と、銀河系の瞳を持つ存在は。
その輝く視線で、ぼくの心を見透かすかのように――いや、文字通り見透かしているのかもしれない――朗らかな声で、告げた。
「わたしたちに起こった現象は、たったの『一票』。
わたしに対して、あなたが選んだあの決断が、あなたたちの世界を脅かすことなんて、ありえない」
――たったの、一票。
それが、どれほどの重みを持った、一票なのか。
ぼくなどには、とても推し量れる話ではなかった。
ぼくは、彼女に向けて、なにかを告げようとして。
ふいに、痛みを感じた。
右拳を、持ち上げた。
ぼくが、つい先程まで、『ナピの静脈』に――岩壁に、打ちつけていた、拳を。
我ながら、目も当てられないほどひどい有様だった。手の甲の先からはじまり、小指から人差し指の付け根から第二関節にかけての表皮と真皮が、完全に破れていた。粗雑なかたちで赤黒い内部が露出し、中指の付け根には、白いもの――他ならぬぼくの骨さえも、覗いていた。この薄闇の中でさえも、じわじわと血液が零れているのが、はっきりと見えた。
我ながら、異様だったのは。
痛烈な痛みと、深い嫌悪感を覚える一方で。
まるで他人事のように、その傷を見つめているぼく自身が、確かに存在することだった。
――なるべくして、こうなったとでも、言わんばかりに。
ぼくは、やがて拳を降ろすと。
闇の中に立つ少女へと、視線を戻した。
「……オービス」
ぼくには、わからなかった。
なにもかもが、虚偽のまがいものかもしれない。
なにをしようが、結局は無駄なのかもしれない。
それでも、なお、言わなければならないことが。
ぼくには、残されていた。
「ぼくは」
今のぼくの声は、きっと実に弱々しい、縋っているような色をしているのだろう。
それでも、訊きたかった。
「ぼくは、君を『従者』に引き渡した。
その決断は――客観的には、決して間違ったものではなかった――そう、思っている……でも」
次の言葉が、しばらくの間、見つからなかった。
ぼくを見据える少女の瞳は――しかし、真摯だった。
もはや懐かしささえ覚える、真剣にぼくを見とめる、星々の瞳。
それだけは、残されていたように、思えた。
拳の痛みに、心底から怯えながら。
ぼくは、枯れそうな声で、続けた。
「でも……本当は、ぼくは『自らの決断』なんて、下してはいなかったんだ、オービス……。
ぼくは、あの時。自分の考えを信じて、君を見送った。
しかしそれは、信じていたつもりに、なっていただけだった。
メロウディア姉さんが、最初から仕組んでいたんだ。
あの時のぼくは、姉さんの敷いたレールに沿って、動いていただけだった。
それなのに、ぼくは自分の考えだと思い込んで、君に決断を下してしまった。
……そんなものが、君に対する、『ぼくの意思』なのだとしたら、それは……!」
名を呼ぼうとして。
声が、空を切ってしまった。
一度、大きく息を吸い込んで。
ゆっくりと、絞り出すように、吐き出してから。
ぼくは、訊いた。
「……エアリィオービス……。
ぼくは、君に、正しいことが、できたんだろうか?
そのことを、ここに来るまで、ずっと考えていた。
でも、答えは見つからない。
これからも、見つかりそうには、ない。
ぼくの、正直な気持ちを言おう。
ぼくには今、なにもかもが、自分さえもが、信じられないでいる……」
『部屋』の物品たちは、淡い光で周囲を照らしていた。
エアリィオービスは。
まるで、それらに祝福されるかのように、屹立していた。
――ここは、ひとりの少女が、暮らしていた洞穴だった。
今、ぼくが対峙しているのは。
その娘と同じ姿をした、まるで異なる存在だ。
わかっている、つもりだ。
それでも――ぼくは、彼女にこそ、訊かなければならなかった。
「……エアリィオービス」
彼女の名を、呼んで。
あらためて。
ぼくは、問うた。
――ぼくは、ほんの少しでも。
――君に、正しいことが、できたんだろうか……?
ふと。
自らの拳に、視線を落とした。
傷口の血が、一向に、止まらなかった。
血が、溢れて、止まらない――。
「あなたが」
透き通った声が、ぼくの顔を上げさせた。
「あなたが、あなたたちにとって、優れた判断を行ったか否か。
それを、わたしが教えることはできない。
それでも、たったひとつだけ、わたしがはっきりと言えることがある。
……ねえ、ケイヴィ。いえ――」
その時。
ほんの一呼吸の時間だけ、光が、洞穴の深い闇を消し去ったのだ。
それは、ナピの太陽が地平線に沈む直前の、崖下の岩壁における光の屈折と収束――その連続が巧妙に絡み合った結果、洞穴の侵入角度と重なることで発生した、光学現象だった。
赤色の陽光が、限りないまでに白に近づく、たった一瞬の煌めき。
白銀の光輝に包まれた、娘は。
ぼくの傷ついた手を、その手で取ると。
とても――これ以上ないほどの穏やさで、微笑んだ。
息を呑んだ。
彼女は、ひとつの文言を、ぼくに言い終えていた。
それは、もはや誰からも忘れ去られた、ぼくの持つ真の名前だった。
そして。
ぼくの愚かな問いに対する、明らかな答えを。
同時に、『エアリィオービス』という少女が、かつて。
この洞穴に――ぼくの前に、確かに存在した、証拠を。
一言だけ、告げた。
「あなたに会えて、よかった」
◆
……それから。
ぼくと、琥珀色の髪の少女、エアリィオービスは。
互いに、別れを告げた。
本当の――決定的な、それは永遠の別離だった。
しかし。
その内容について記すのは、あえて避けようと思う。
何故なら。
これは、『別れ』に関する物語ではないからだ。
――ぼくは、ある時、ひとりの少女と偶然出会った。
あまりにも背景がかけ離れた存在であったぼくたちは、はじめこそ衝突した。
だが、互いへの意思疎通を試みた結果、信頼を築くことができた。
そして、ある事件を発端として、ぼくたちの関係は揺るがされた。
しかし、ついに彼女はその素性を明かして、別れの前に、ぼくへの感謝を告げたのだ。
この話の焦点は、つまるところ、そこにあった。
そう。
主題は、ぼくと、ぼくが知り合った大切な友だちとの、親交だ。
それは、あまりにも遠く隔てられた、ふたつの世界の間に築かれた――些細かもしれないが、かけがえのない、友情だった。
だから。
ぼくたちの別れについて述べるのは、控えよう。
◆
視界には、普段どおりの、ナピの荒野が広がっていた。
ぼくは右手に力を加えて、握る
瞬間、右の肩と、
だが、結局のところ――それらは、大したことではなかった。
ぼくにとっては、それらはもはや、好ましく受け入れられるものだった。
その対価として、ぼくが得ることができた、大切なものに比べれば――あまりにも些細な痛みだった。
開発途上惑星ナピは、今日も変わらない。
ひたすらに連なる紅い岩の大地と、そのすべてを覆い包む、朱い空。
その間に、ぼくは淡いシルエットを認めた。
ぼくは、あらためてハンドルを強く握ると、
【惑星開発姉弟のクリスマス/完】
惑星開発姉弟のクリスマス ムノニアJ @mnonyaj
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