第四章/第七話 ショウダウン 1




 ――何度も何度も、道を間違えた。




 今では街の中ほどに臨時の出張店があるにもかかわらず、街外れの植生棟バイオラティオンまで、ぼくはわざわざ食用品の買い出しに出かけてしまっていた。その店にたどり着くまでにも、慣れているはずの道を繰り返し間違えて通ってしまい、浮揚機ホバーでぐるぐると同じ道路を廻る羽目にさえ陥った。

 ――あの白いのは、なんだっけ。

 建物の屋根の上や街外れの陰に残された『白雪』が、いったいなんなのか。それすらも、すぐに判断できない時があった。

 気が気でなかったことは、否定できない。

 街をホバーで回りながら、ぼくはぼくの中に横たわる『平常』とでも呼ぶべきものを、必死に取り戻そうとしていたのだと思う。

 本来の、そうであった生活を。

 『白雪』も、琥珀色の髪の少女も、存在しなかった頃の。

 先ほど、自らの身に起こったことを――小高い丘の上で、ぼくが体験したひとつの、そしてあっけない別離を――ぼくは、意識下に置きたくなかったのだ。

 考えたくないあまりに、思考回路と記憶を半分遮断させた状態で、ぼくは街を無意味に徘徊することになってしまった。

 実のところ、食用品を買い出しに行く必要さえもなかったのだ。

 今朝、一通りの買い物は済ませていたのだから。

 ――まったく、放心しすぎだ。

 その事実にようやく気がついて、自分を笑ってしまったのは、すっかり陽が落ちて、薄闇の中にぼくの家の丸い屋根が見えてきた頃だった。

 だが、自嘲に耽る暇もなかった。

 自宅の窓から、電灯の光が漏れているのを、目の当たりにして。

 一抹の不安が、ぼくの胸に去来したからだ……。




 外から玄関扉を開けて、まっすぐ先。

 家の最奥に位置している、ダイニング・キッチンのテーブル。

 その椅子のひとつに、メロウディア姉さんが座っていた。

 あらためて、視界に広がる画に、ぼくは奇妙な印象を覚えてしまう。

 本来であれば、姉さんがその椅子に座っているのは、ごく平常のことだ。

 しかし、『降雪』以来の、一週間。

 メロウディア姉さんは、この椅子にさえ、戻ってはこなかった。

 なのに、今日という日に限っては、平時のように座っている。

 ――まったく、同じだ。

 もう、思い出したくもない。

 ぼくとの『話し合い』を行った、昼と同様だった。


 玄関扉を開けて、入ってきたばかりの、ぼくに向けて。

 メロウディア姉さんは、その帽子の下のプラチナ・ブロンドを、ひとつ弾ませてから、

 澄んだ声で、こう言った。

 「おかえり」

 と。


 違和感に駆られて、姉さんの顔を見た。

 メロウ姉さんが浮かべていたのは、なにか憑き物でも落ちたかのような――実に朗らかな、すっきりとした微笑だった。

 つい先ほど、ここでぼくと『話し合い』をした姉さんとは、まるで別人だ。

 しかし。

 ぼくは、ふと思ってしまう。

 ――それにしても、話がおかしい。

 おかえり、だって?

 姉さんの方こそ、あの日からてんで、家に戻ってこなかったというのに。

 まったく。

 その台詞を言いたいのは、ぼくの方だ。


 とはいえ。

 ぼくも――姉さんの弟として、共に暮らす家族として、こう応えるしかあるまい。

「ただいま」

 と。




 少し、驚かされてしまった。

 ダイニングにいたのは、メロウ姉さんだけではなかった。

 アンリー・オフィオン・ストゥディウムス惑星開発管理官も、ぼくの家で待っていたのだ。

 かなり意外な人物だった。

 家に入り、姉さんと相対した時には、まったく気がつかなかった。

 彼は、キッチンテーブル近くの壁にその背を傾けて、腕を組んで黙然としていた。

「管理官?」

 声をかけたぼくの姿を認めて、スタッド管理官が小さく頷いた。

「やあ、ケイヴィ君。……今、わたしもユリシーズ君に呼ばれたところだ」

 彼の表情や声音は、普段どおり、自信と余裕に溢れているように思えた。

 しかし。

 なにか他のものも、管理官の態度からは、僅かに見え隠れしていた。

 ――困惑、だろうか?

 ダイニングに踏み込んでから、テーブルの奥に座るメロウディア姉さんに、あらためて眼を向けた。

 近くから見ても、姉さんはやはり、実にすっきりとした表情をしていた。

 もう、例の疲弊の気配さえも、残ってはいないように思えた。

 決定的な、なにかがあった――そんな印象を受けた。

「……あっ!」

 と、思いついたように、姉さんは声を上げた。

 ぼくに向けられた声音も、明朗そのものだった。

「そうそうケイヴィ君、ケーキの皿をそこに用意したから、取ってよ。お茶もあるよ」

 ぼくは頷いてから、キッチン隅の冷蔵庫へと歩み寄った。どちらにしろ、街で買ってきた生鮮品も入れなければならなかった。

 姉さんの言ったとおり、冷蔵庫の台座にはふたつの皿が用意されていた。それぞれに、切り分けられたケーキと、食べるための小さな食器が乗っている。

 一目で、見覚えのあるものだとわかった。ナピの街のある菓子店の定番の商品で、姉さんのお気に入りだ。

 ぼくは、他にケーキがないことを確認しながら、不安を覚え始める。

 ……それにしても、二皿とは。


「ケイヴィ君も、どうぞ」

 ――という、メロウディア姉さんの発言の真意は、明々たるものだった。

 姉さんは、相変わらず。

 今、壁側に立つスタッド管理官に対しては、まるで存在しないかのような苛烈な扱いを、続けていたのだ。

 管理官は、「わたしもユリシーズ君に呼ばれたところなんだ」と、今発言したばかりだ。

 それは、他ならぬメロウディア姉さんが、彼をこの家に招いたことを意味していた。

 ……なのに、菓子のひとつすら出さずに、この待遇とは。

「姉さん、これはいったい、どういうこと――」

「まあ、これから色々、話があるからさ。……とりあえず、座りなさいよ」

 メロウディア姉さんは、まるでたしなめるような声を上げてから。

 キッチンテーブルの奥の、ぼくの普段の席を示してきた。

 本当に、つい先ほどに、ぼくたち姉弟きょうだいが、言葉をぶつけ合った場所だった。

 ――些事なのだけれども、昼はテーブルの隣に立てていた大きな鍔付き帽カウボーイ・ハットを、今のメロウ姉さんは被っていることにぼくは気がついた。今は電灯が点いているからだろうか? 関係ないような気もするけれども。

 テーブルの上のティーポットには、暖かいハーブティーが用意されていた。姉さんにしては、気が利いている。

 ――それにしても、「色々な話」とは、どういうことだろうか。

 ぼくは椅子に腰掛けて、ティーをカップへと注いだ。

 そして、あらためて。

 無言で壁際に立つ、スタッド管理官の姿が、気になってしまう。

 やはりメロウ姉さんは、彼の存在を完全に無視しているようだった。

 それにしても、客である管理官にケーキと茶はおろか、席さえも示さないとは。

 当人が怒りを示していないから、なんとか事態は保たれているものの……上官の立場の人間に対して、いくらなんでも失礼過ぎるのではないか。

 ぼくの懸念もよそに、メロウディア姉さんは実に楽しそうな表情で、皿の上の小さなフォークを手に取っていた。


 ぼくたち姉弟の間柄において、ふたつの同種の食べ物が用意されている時、どちらの分なのかを見知るのは、実に簡単だ。

 メロウ姉さんの食べる方が、ぼくよりも二回りほど大きい。

 今回ももちろん、ぼくのそれよりも二倍の質量はありそうなホール・ケーキを前にして、姉さんは実に楽しげに上の菓子を取って、早速つまみはじめていた。好物は真っ先に頂くのが、姉さん流だ。

 特製のチョコレート菓子をじっくりと堪能してから、吐息とともに、呟いた。

「うまい」

 ご機嫌でケーキを楽しみ始めた、メロウ姉さんをよそに。

 ぼくは再び、部屋の端に視線を向ける。

 スタッド管理官の、憮然とした表情が見えた。

 ――これで、いいのだろうか。

 少なくとも、ぼくは、食欲など湧かない。


 メロウディア姉さんは、ぼくの表情を見ても、やはりまったく意に介さない様子で。

 ケーキの一口分をまた飲み込んで、唸ってから。

 ぼくに、ひとつの質問をぶつけてきた。

 もっとも、核心的な質問だった。


「……で、あのはどうしたの?」


 ――ああ、と、思った。


 メロウディア姉さんとスタッド管理官が、ぼくの家で待っていた。

 そのシチュエーションに対する、率直な驚きから。

 まるで転落するように、陰鬱が、ぶり返してきた。


 顔と視線が、自ずと下がってしまう。

 ――わざわざ、尋ねるまでも、ないだろうに。

 心底から、そう思った。

 姉さんたちは、既に知っているはずだ。

 ぼくがエアリィオービスを、保護棟プレシディオンの地下室から連れて、逃げ出したことを。

 そして彼女を、丘の上で待っていた『従者』の元に、還したことを。

 とっくに、知られているはずだった。

 それでも。

 あらためてこの場で、ぼくが表明しなければならないのだろう。


 視線を上げて、メロウディア姉さんを見る。

 そして。

 言うべきことを、簡潔なかたちで、告げた。


「……彼女は、本来いるべきところに、還ったよ」

 と。


 待ち受けていたのは、意外な反応だった。


 ふぅぅぅぅぅぅぅ、ぁああああああぁぁぁぁあ―――――――――――……――


 突如、メロウディア姉さんは両腕をぐっと上げて、吐息とともに妙な声を漏らした。

 椅子の背もたれにぐっと寄りかかってから――顔を持ち上げて、続けた。


 たすかったかあぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁ―――――――――――…………


 ぼくは、呆然とせざるを得ない。

 まるで、わからなかった。

 どうして、姉さんはこんな反応をしているんだ?

 なんだ?

 なにが、助かったというんだ?


「……ようやくだわ、ようやく……」

 メロウディア姉さんは、絞り出すような声音で。

 ひとつ、大きな息をついてから、独りごちた。

「これで、ようやく……全部、話ができる」

 と。

 ぼくは、怪訝そのものの表情を、姉さんに向けていたと思う。

 姉さんは、なにを言ってるんだ?


「いったい、これは……」

 部屋の奥から、低い声が聞こえた。

「これは、どういうことなんだね?」

 ダイニングの壁際に立つスタッド管理官が、まるでぼくの気持ちを代弁するように、訊いた。

 しかし、その質問の対象は。

 メロウ姉さんではなく、ぼくだったのだ。

「……もう少し、説明をしてくれないか、ケイヴィ君?」

 スタッド管理官の声音に表れていたのは、明らかな困惑だった。

 そこにほんの少しだけ、怒りが滲んでいたように感じたのは、ぼくだけだろうか?

 勝手に、なにをしているんだ――そうした含意が。

「わたしは今日の昼を通して、西部地区の除雪とインフラ復旧作業の指揮を執っていた。保護棟プレシディオンから連絡があったのは、つい先ほどのことだ」

 疑いの顔つきを崩さず、スタッド管理官は今度は姉さんに視線を向けて、尋ねた。

 その声が含んでいたのは、明らかな動揺だった。

「わからないな。ユリシーズ君……あの少女を、君たちはいったい、どうした?」

 どうやら、スタッド管理官は本当に事情を知らないらしい。

 そんな彼に対して、姉さんは。

 椅子に、もたれかかったまま。

 ――ちら、と、例の冷たい視線で、一瞥するだけだった。

 それからすぐに、ぼくへと向き直ると。

 唐突に手のひらを叩いて、満面の笑みを浮かべた。

「いやあ、よかった。よかった……!」

 やはり。

 どういう理由によるものなのかは、相変わらずわからない。

 まるで――そこにスタッド管理官など存在しないか、あるいは話しかける価値さえないかのように、メロウディア姉さんは振る舞い続けるのだった。

 ぼくへと顔を向けて、快活で愉しげな声で、メロウ姉さんは語る。

「あのオービスちゃんの動向だけが、最後の気がかりだったんだから。本当に、よかった、よかった」

「……いったい、なんなんだ?」

 スタッド管理官の様子からは、困惑を通り越して、焦りすら見えた。

「どういうことなんだ? 君たちは、あの少女に、なにを……?」

 メロウディア姉さんは、ここでも、管理官を無視した。

 そして、ぼやくように、ゆっくりと呟いた。

「……ようやく、だわ」

 その姉さんの言葉は。

 管理官に対してのものでも、ぼくに向けられたものでもなかった。

 まさしく、独り言だった。

「……他のすべての『通ってよし』のサインが、昨日、ようやく出てくれたところで、最後の最後に、一番厳しいネックが残ってた。

 でも、ケイヴィ君が話をつけてくれたから、助かった。

 ……これで、唯一にして最大の不特定要因も、消えてくれた」

 ぼくも、困惑を深めてしまう。

 不確定要因? なにを言ってるんだ?

 ――話をつけた、だって? ぼくが?

 ぼくがいったい、姉さんのために、なにをしたというのだろうか?


「あとは、一通りの物事を説明するために、ケイヴィ君と少しお話しするだけ――」


 そこで。

 メロウディア姉さんは、すっくと背を伸ばすと、首を横に曲げて。

 壁際に佇むスタッド管理官を、灰色の瞳で睨めつけると。

 はっきりと、宣告した。


「すなわち、自称・アンリー・オフィオン・ストゥディウムス惑星開発管理官」


 今までとは、打って変わって。

 この惑星ナピの行政執行者――惑星開発者の、権威を具体化したかの如き、決然とした表情と声で。


 姉さんは、断言したのだ。




「――あんたこそが、街に『白雪』をバラ撒いた張本人で、それどころか惑星開発管理官でもなんでもない、ただの間抜けなペテン師――大嘘つきの、ホラ吹き野郎だってことを」



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