第四章/第六話 お別れだ


 保護棟プレシディオンの地下空間の静寂に、ぼくの足音のみが響く。

 広大で清潔で、誰の手垢もついていない、シェルター施設。

 今朝、この中で目覚めたばかりなのに、随分と久しぶりのように感じられた。

 いくつもの倉庫を突っ切って、廊下を歩き抜ける。

 目的の場所には、すぐに戻ってくることができた。

 複数の保護室が並ぶ、静寂な廊下。

 そのもっとも奥の、純白の立方体の内側で。

 やがて難民として認定される、非保護者の少女――エアリィオービスは、昨日と変わらず、その中央に座っていた。


 厚い透過素材で造られた、窓を介してさえ。

 もしかしたら、足音から、誰が来たのかわかったのかもしれない。

 琥珀色の髪の少女は、訪れたぼくに、優しい笑顔を向けた。

 だが、ぼくは。

 なにかを待ち望むような、彼女の微笑みに。

 すぐに、堪えきれなくなった。


「オービス」


 ――いったい。

 他に、なにが要るだろうか?

 余計な挨拶? それとも礼儀としての前口上だろうか?

 いや。

 そんなものは、もう、必要ない。

 言うべきことが、ただあるだけだ。

 ぼくは、告げた。


「君は、元いた世界に、帰るべきだ」


 ふいに、少女はその眼を見開いた。

 ぼくを凝視する、黒瞳の眼光が、揺らいでいた。

 思索する――いったい、どのような思いによるものだろうか。

 ともあれ。

 もう、ぼくには関係のないことだ。


「……『従者』たちが、待ってる」


 こちらの意図と決意を、やがて理解したのだろう。

 エアリィオービスは。

 その日焼けした面を、無表情に固めると。


 ――そう。


 と、呟き、頷いた。


 ただ、それだけだった。




 エアリィオービスの『保護室』は、施錠されていなかった。

 管理官が語っていたとおり、完全なる部外者が、外からこの地下設備に侵入するのであれば、確かに容易なことでなかっただろう。

 しかし、中に入ることが公認されていたぼくにとって、残されていたのは警備と呼べるような代物ではなかった。

 オービスを連れ出す上で問題があったとすれば、保護棟の入口に待つ職員くらいだった。しかし、それも他愛もない対処で済んだ。

 彼女の保護室に用意されていた、ひとつのボタン。それは緊急時に、職員の待機する待合室に連絡するための簡素な有線通信設備だった。ボタンを押し、呼び出しを行ってからオービスを連れ出し、広大な地下倉庫の一室に、ふたりで数分間隠れた。たったそれだけで、駆けつけてきた職員の目はあっさりとかわすことができた。

 地下を抜けて、保護棟プレシディオンの出入口を通り、保護棟のすぐ前に止めていたぼくの浮揚機ホバーへと、オービスを連れた。一人乗りだが、後部に小柄な少女ひとりを載せる程度はできる。

 オービスの顔もろくに見ずに、しっかりと捕まるように、告げた。

 この街の構造は知悉している。『白雪』のまだ残っている道も。なるべく人気のない大通りから外れたルートを選んで、ぼくたちはナピの住居街を去っていった。




 ひとつ、懸念があった。

 いったいどこに行けば、あの神出鬼没の『従者』に、ぼくが会えるのか。

 しかし、その答えはすでに、保護室でオービスが教えてくれた。

 本当にあっさりと、出会うことができた。

 当たり前のように、『従者』は、そこにいたのだ。

 ナピの街の南側近くに、決して大きくはない丘がある。

 住居街から徒歩で登ることもできるし、浮揚機ホバーを用いれば、一分ほどで簡単に登頂できるような場所だ。

 こんなところにいるとは、露も思わなかった。

 なだらかな丘の、頂上広場。

 高さのためか――『白雪』の降下はまばらで、ナピの赤土が露出していた。

 そこに。

 四輪駆動の黒い車両とともに。

 いつか出会った時とまるで同じ姿勢で、黒衣と仮面の『従者』は、佇んでいた。




 ◆




 あるいは。

 いわゆる、『今生の別れ』というものに対して。

 一般的に、どういった状況を想像するだろうか?


 大宙域中の放送局群によって造られて、ネットワークを介して人々を賑やかす、流行の映像劇シアトラムの中においては、様々な『別れ』の一幕を見ることができる。

 劇中では、ぼくたちを、以下のような要素が待ち受けているはずだ。

 それは――心の底から放たれる絶叫であったり、感極まった落涙であったり、届かぬ相手に必死に手を伸ばす姿であったり、長く優しい抱擁であったり、一言のささやきであったり、ひとつのサインであったり、無言の敬礼であったり――。

 どのようなものにせよ。

 それらは、映像劇シアトラムの一幕だ。

 劇的なものには、変わるまい。


 電気芝居じみた寸劇を、ぼくは決して望んでいたわけではない。


 にも、かかわらず。

 どうして、思えてしまうのだろう。

 ――ぼくたちは、別れにふさわしい関係性を、まったく、構築できなかったのか。

 と。


 エアリィオービスとの『別れ』は。

 冗談かと疑うほどに、あっさりとした、簡便なものだった。

 終えてから。

 二回も、荒野を見渡して。

 今自分の身に起きたことが、事実であったことを、衝動的に確認してしまうほどに。


 やはり。

 もう少しだけでも、まともな『別れ』を。

 ぼくは心のどこかで、期待していたのだと思う。




 消えていた。




 少女を載せたぼくのホバーが、荒野の丘の上に到着して間もなく、ぼくは待ち構える『従者』の存在を見て取った。

 後部座席を降りたオービスに、掛ける言葉が見つからなかった。

 『従者』の方へと、エアリィオービスが歩みを進めていくのを、ぼくは見ていた。

 そう。

 奇妙なコントラストを抱く琥珀色の髪を、その束が揺れるのを。

 ぼくは確かに、視界に収めていたはずだった。


 ――その一瞬後、気がついた時には。


 あの奇妙な車両も、不気味な仮面の『従者』も。

 そして、琥珀色の髪の少女も。

 完全に、消滅していた。


 文字通り、いなくなっていた。


 なにも、見ることはなかった。

 彼女の表情も、わからなかった。

 一言の台詞すらも、残されなかった。




 ……ぼくは、


 辺りを、無言で、見渡した。

 丘の上の広場。

 紅い大地には、『白雪』がまばらに堆積していた。

 風のない、とても静かな日だった。

 陽は、傾きつつあった。

 自分の乗ってきた浮揚機ホバーを除けば、丘の上の紅い大地が、ひたすら広がっていた。

 まるですべてが、最初から、存在しなかったかのように。


 惑星ナピに、突如現れた来訪者たち。

 エアリィオービスと『従者』は。

 そうして、ぼくから去ったのだ。


 ぼくとオービスの、『別れ』だった。




 浮揚機ホバーへと、乗り込む前に。

 ふたたび、ぼくは背後を確認した。

 荒野には、やはり、なにも存在しなかった

 各所に『白雪』の積もる荒野が、ぼくの視界に、ただただ開かれていた。

 ――既に何度も確認していたものを、どうしてまた、見たりするのか。

 自分の身に起きたことが、信じられなかったから――という理由も、あるだろう。

 しかし、おそらくそれは、むしろ事実の確認に近い行為だったのだ。

 この時の、ぼくの心理状態は。

 ある種の情緒を、大きく削がれていた。

 後から思い返して、わかったことがある――保護棟からエアリィオービスを連れ出そうと試みた時点から、既にぼくは茫然自失としていたのだ。


 今先ほど、暗い部屋の中で。

 メロウディア姉さんと、半ば怒鳴り合いというかたちで、互いの主張をぶちまけた。

 最後に、姉さんから告げられた、暴言。

 その余韻が、ぼくに取り憑いて、離れないでいた。

 いくら振り払っても消えることのない、亡霊のように。


 ホバーの座席にまたがり、コンソールを起動させる。

 無音の荒野に、浮揚フィールドの小さな展開音が一度鳴って、消えた。


 漠然とした不可解さに、包まれながらも。

 この結末に、安堵を覚えている自分を、ぼくは認識していた。

 ――これで、よかったのだ、と。


 しかし、それに反する思いも、多少は残されていたらしい。

 ぼくの内面で、しぶとく巣食っているその部分は。

 低い声で、こう唱えていた。

 ――どうして、こうなってしまったのだろう、と。


 そして、答えを探すべく、身勝手な探求を試みたのだ。


 ぼくの中に蠢く、忌まわしき記憶。

 または、エアリィオービスを背負い込む責任。

 もしくは『彼女を保護する』という名の欺瞞。


 ……そういった、なにもかもに対する不満と嫌悪が、姉さんとの会話を皮切りに、ついに爆発して、少女自身の意向さえも半ば無視するかたちで、ぼくにこの衝動的な結末を迎えさせたのではないのか――。




 ため息をついた。


 考えたところで、どうなるというんだ。




 どちらにせよ。

 もう、終わったんだ。




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