第四章/第五話 それだけは言ってはいけない
室内照明が『そこに人がいるサイン』なのは、この星では暗黙の前提だ。
惑星ナピの住居にありふれた建築形式の
この事情のために、ナピの家々の室内照明は、概ね家の中に誰かがいるか否かが外から見えるサインのようなものになっていた。
だから、ぼくも今、対策本部から家に戻った時に。
自宅の窓から覗く暗さを見て、無人を確信しつつ、中に踏み込んだ。
驚きで、声を上げそうになった。
視界の奥。
照明のない、ダイニング・キッチンの薄闇の中で。
メロウディア姉さんが、椅子に腰掛けて、ぼくを待っていたのだ。
例の大きな
メロウディア姉さんは、リラックスした様子だった。
台の上に肘を立てて、頬を手のひらの上に乗せて。
玄関口に立つぼくに向けて、傾げた顔から、不敵な笑みを浮かべていた。
今朝、
その時には、間違いなく姉さんはいなかった。
――まさか、いきなり戻ってくるなんて。
メロウディア姉さんがこの家に帰ってきたのは、いったいいつ以来のことだろうか?
一度だけ、荷物を奪うように回収するために、大きなキャリーケースを転がして帰宅してきた時のことを、姉さんの疲れきった表情とともに思い出す――あれは、何日前のことだっただろう。
前述したとおり。
照明がなければ、この屋内は、昼でも暗い。
小さな窓から入り込んでくる陽光は、強烈ではあるが小さな照射に過ぎなかった。
それがキッチンの金属面に反射して、姉さんの長い銀髪と、その頬の一部のみを、不自然に照らし出している。
ぼくに向けられていたのは、変わらず、穏やかな微笑みだった。
言葉に、詰まった。
最初に、姉さんにどういった言葉をかけるべきなのかさえも、考えあぐねてしまった。
しかし――ぼくの前に、メロウ姉さんの方から声を上げたのだ。
「まあ、座りなよ。ケイヴィ君」
この時。
ぼくは目前の姉さんに対して、明確な異質性を――正直に言ってしまえば、底知れぬ不気味さを覚えた。
その声音が、平時のものと、決定的に違っていたからだ。
低く抑えられた姉さんの声は、その柔らかい表情も、表面的には優しげだった。
しかし、姉さんをよく知るぼくには、わかっていた。
それだけでは、ないことを。
ぼくに対する、いたわりやねぎらい、あるいは慈悲。
断じて、そんなものではなかった。
まったく別種の感情を、今の姉さんは、暗に包有していた。
昏いものだった。
――どうして、電気を点けないの。
そんなことを話すべき時ではないことも、もうわかっていた。
ぼくは小さく頷いてから、屋内を横切る。
薄闇を満たす静けさの中で、ぼくの足音だけが、やけに大きく聞こえた。
キッチンテーブルの横側――姉さんの向かい側の、普段どおりの席に腰掛ける。
ぼくの視界の正面に。
メロウディア姉さんの顔が見えた。
いつもの朝食と夕食のスタイルだった。
この日常的光景さえも、随分と懐かしいものに感じられてならない。
今のメロウディア姉さんは、テーブルの上で腕を組み、顔を軽く落として。
あの、底知れない微笑みで――ぼくを、上目遣いに見つめていた。
照明のない部屋の中で、姉さんの灰色の瞳が、僅かに輝いた。
――あああぁぁあああ――ぁぁぁ――……っと。
両腕を上げて、メロウディア姉さんは、大きな伸びをひとつ見せた。
すっきりとした表情で、あらためてぼくを見つめ直すと、姉さんは話し始めた。
やはり、柔和にすら聞こえる、声音で。
「……それにしても」
だが。
その、姉さんの言葉は。
「驚かされたわ。ずいぶん、楽しかったでしょうね」
どうしてだろうか。
ぼくを、小馬鹿にするような調子だった。
こちらの反応を伺うように、じっと眼を細めて。
姉さんは、言い放ったのだ。
「あの、か弱い小鳥ちゃんを……ずーっと、囲って、護るふりを続けるのは?」
……なに?
メロウディア姉さんが、なにを言い出したんだ?
急に現れた、『小鳥ちゃん』なる言葉。
エアリィオービスを示すと気づくまでに、少し時間がかかってしまった。
ぼくは、つい眉をひそめて姉さんを凝視する。
小鳥ちゃんを、囲って、護るふり――。
姉さんの言い方には、少々考えさせられるところがあった。
外光の届かない、薄闇の中で。
メロウディア姉さんは、テーブルの上で手を組んで、ぼくを凝視している。
口の端を上げて、両の眼を細めた、晴れやかなまでの笑顔。
しかし、その内面に隠された感情の正体についても、ぼくは理解しつつあった。
姉さんの心には。
理由はわからないが――沸々とした怒りが、燻っていたのだ。
その奇妙な微笑みに向けて、ぼくは断言した。
「オービスといたのが、楽しかっただって? それはまったく違うよ。姉さん」
どうやら。
メロウディア姉さんは、なにかを勘違いしているらしい。
その誤解を、最初に解かなければならないようだった。
だからぼくは、正直に、ぼく自身の考えを述べようとした。
そのつもりだった。
「囲うだなんて、とんでもない。
ぼくは、ただぼくの良心に従って、オービスのことを――」
「良心!」
ぼくは、眼を疑った。
――はっ!
と、部屋全体を揺らすような笑い声を、ひとつ上げてから。
姉さんは、からからと笑いだしたのだ。
顔を上げて、目を細めて、腕を広げて。
哄笑をひたすら続ける、メロウディア姉さんの姿を。
……ぼくは、呆然と見つめるしかなかった。
それが終わるや否や。
姉さんは、猛烈な勢いで言い放った。
「ケイヴィ君が! 良心で!」
ぼくを、睨みつけてながら。
もはや、僅かさえも隠されていなかった。
メロウディア姉さんが、その瞳と語調に篭めていたのは。
ぼくに対しての、嘲りと――そして、爆発的なまでの怒りだった。
「ケイヴィ君が、これまであの
そこで、言葉を切って。
口を大きく開けてから、吐き捨てるように。
目前のぼくに向けて、宣言した。
「とんでもない、勘違いだわ!」
姉さんの怒声の残響が、ついに終わりかけた頃。
「……なにが」
ぼくは、自分の声のみならず。
腕が震えていることにも、やっと気がついた。
慣れない感覚だった。体の芯が、奇妙に熱くなっていた。
喉から、うまく声が出てこない。
「なにが、勘違いだよ。……姉さん」
「本当に、まるで、わかっていないわけね……!」
メロウディア姉さんの灰色の眼が、ぼくを睨みつけた。
そこに灯っていた輝きの正体は、訝しみと、疑念だった。
「……わかって、いない?」
対するぼくも、それと似た眼光で、メロウ姉さんを見返していたはずだ。
――姉さんの言っていることが、まったく、わからなかった。
なぜ、この人は、ぼくに怒っているのか。
どうして、ここまで、ぼくを嘲笑っているのか。
「ケイヴィ君――あのね。いい?」
メロウディア姉さんの口調は、まるでぼくを諭すかのようだった。
それが、どういうわけか。
ひどく、気に触った。
表面的には優しげにすら聞こえるあの声音を使って。
姉さんはぼくに、告げたのだ。
「あなたがあの洞穴で、あの
――とんでもなく自分勝手で欺瞞的な、ただのエゴの押し付けよ」
ダイニング・キッチンの暗闇を、媒介して。
テーブルの両端から向き合った、ぼくと姉さんの間に滾っていたものは。
通りすがりの人物が、ひと目見ても、わかったかもしれない。
険悪な、緊張。
メロウディア姉さんが、ぼくを睨むのと同じく。
ぼくもメロウディア姉さんを、睨みつけていた。
感情的になっていたことは、自覚しているつもりだ。
それでも。
姉さんの言い分が、その背景であろう考え方が、ぼくをなじる口調が。
まったく、気に食わなかった。
押し黙っている、ぼくに対して。
やがてメロウディア姉さんは、落ち着いた声音で、滔々と語り始めた。
ぼくとエアリィオービスの、あの崖下での出会いと交流。
その、姉さん独自の、解釈を。
「二ヶ月ほど前のこと。ケイヴィ君は、カレッジに提出するレポートの準備作業中に、あの少女――エアリィオービスを偶然見つけた。
すぐに彼女が、とても弱い存在だと、あなたは察知した。乗っていた船を壊れて宇宙に戻ることもできず、洞穴の中に手作りの部屋を造って、そこに引き籠もって、サジタリウス語の一言も話すこともできずに、迫る追っ手に怯えていた。
そしてケイヴィ君は、本来の目的だったカレッジのレポートもおろそかにして、たまたま出会ったあの娘を、どういうわけか――護ることに決めた。
しかも同時に、外界からも彼女の存在を隠すことにした。それは、あなたにとって、とても好都合なことでもあった。
どうしてか?
わかりきってるじゃない。
あの崖下の洞穴こそが、あの娘に対して、ケイヴィ君――あなたが絶対的優位に立てる場所で。
そして、その自尊心を満たすことのできる、数少ない空間だったから。
あわよくば。
あの少女を――小鳥ちゃんを囲って、独り占めできたから」
ぼくの体の内部に、灯っていた熱が。
燃料を浴びた炎のように活性化し、神経系の隅々へと広がっていくようだった。
頭の中で、姉さんの言葉が反響しては、木霊する。
――いったい。
どの発言から、反論すればいいのかさえ、見当もつかない。
「……違う。全然、違うよ」
そう、言うことしかできなかった。
ぼくに対して、姉さんの言葉は、留まる余地を知らなかった。
一度、耳をつんざくような高笑いを上げてから。
悪罵と称していい語調で、ぼくに主張を続けたのだ。
「“良心に基づいて”、ですって? 本当に、笑わせるわよね。
あの娘を護るという正義感の衣を被って、自分が正しいことをしてるって思い込んで――あなたはただ、皆に嘘を吐いてた。違う?」
全然、違う。
完全に、間違っている。
姉さんの解釈は、歪みきっている。
そう、強く思いながらも。
ぼくはしかし、姉さんに対する明瞭な反論を、言い放つこともできずに。
背を丸めて、俯いていたぼくの肺から、絞り出された呼気が、声帯に触れて。
あるひとつの言葉を――か細く、しかし延々と、連ねていた。
――ちがう。
――ちがうんだよ、姉さん。
――ちがう、ちがうんだ、ちがう――。
突然の衝撃音に、ぼくは、我に返って顔を上げた。
あまりの驚きに、息も、我ながら弱々しい言葉も、止まった。
メロウディア姉さんがテーブルに、拳を叩きつけていたのだ。
「じゃあ!」
姉さんは、炸裂させた。
内々に抱いていた、ぼくに対する怒りを。
「じゃあ、どうしてわたしたちに、あの
……彼女はどう見たって難民、それも別文明圏の人間じゃない!
常識で、考えてよ! ケイヴィ君!」
姉さんの怒気に、当てられてか。
ぼくも、ぼく自身の中に燻っていた怒りを、姉さんにぶつかたかった。
気がついた時には。
メロウ姉さんに向けて、叫んでいた。
我ながら、滅多にないことだった。
「……オービスの気持ちを、第一に考えたかったからだ!」
メロウディア姉さんは、首を大きく横に一振りした。
「答えになってない! 難民保護の規定くらい、あなたなら知ってるはず!
繰り返し問う! どうして当局に、すぐにあの娘の存在を連絡しなかったの!?」
「……それは……!」
ひとつの
崖下に開いた、小さな洞穴。
今や構築者にさえ見捨てられた、『部屋』。
すべてが始まった、あの日に。
切羽詰まった様子で、ぼくに懇願するように告げた、
――絶対に、わたしのことを、外の誰にも知らせないで。
琥珀色の髪の少女の、表情。
ぼくは、息を肺から振り絞って、言葉へと換えた。
「オービスが、自分に関わるすべてを秘密にしてくれと、頼んだからだ……!」
「へえーっ……!」
メロウ姉さんは。
突然、表情と声のトーンを落として、呆れたような声を漏らした。
ぼくを睨む、瞳に篭められた怒気を落として。
――代わりに、笑みすら浮かべたのだ。
含み笑いを交えながら、メロウ姉さんは語りだした。
「どうやら、あの娘は自分のことをすべて秘密にするよう、あなたに頼んだらしい。
でも、それだけでは、決して説明できない。
ケイヴィ君。わかる?
……ふふ。あなたが他のなによりも勘違いしているのは、そこなのよ。
彼女からお願いされたケイヴィ君は、あの娘の存在の秘匿を守るべきだと信じて、その理由さえも知らされずに、黙々と約束に“従った”。
……ねえ。それは、どうしてなの?
あなたはどうして、ずっと“従っていた”の?
決して、脅されていたわけじゃないわよね。彼女の存在をわたしたちに伝えることは、簡単にできた。実際、ケイヴィ君が昨日やったように」
――それは。
と、言いかけて。
ぼくの理性は、喉を鳴らすのを止めた。
先に続ける言葉が、見つからなかったからだ。
家の中で待っていたメロウディア姉さんが、猛烈な怒気とともに言い放った、ぼくの一連の行動に対する批判。
姉さんは、こう主張していた。
あの洞穴こそが、ぼくが絶対的優位に立てる場所だった、と。
自尊心を満たせるあの場所に拘泥し、護ろうとしていたのだ、と。
オービスという小鳥を独り占めするために、皆に嘘を吐いたのだ、と。
ぼくには。
まったく、そんなつもりは、なかった。
本当に、なかったのだ。
……だが、それならば。
どうして、今、ぼくは。
姉さんに、反論できないのだろうか。
――わからなかった。
呆然としてしまっていた、ぼくに向けて。
薄闇のヴェールの向こうから、メロウディア姉さんは、続けた。
あくまでも抑えられた、ぼくをたしなめるような語調で。
「……ケイヴィ君。もう一度冷静に、自分のことを考えてみてよ。
あなたは、彼女の曖昧な『秘匿』の話にかこつけて――それを都合よく、ダシにしていたんじゃないの?」
その言葉に、対しても。
なにも反論することが、できなかった。
どんな筋道の通った言葉も、浮かばなかったのだ。
「よく、思い出してみてよ」
メロウ姉さんは、優しげにすら聞こえた声音で、続けた。
「自分のしていたことの、そういう面に、本当に一度も気づかなかった?
ケイヴィ君って、そこまで自分勝手だったの? ……ねえ」
――ここで。
姉さんは、急速に感情表現のギアを変えた。
テーブルの向こうに座り、黙っているしかなかったぼくに対して。
「あのねえ!」
途端に、自らの椅子を蹴って立ち上がり、
怒気に満ち満ちた面持ちで。
こう、叫んだのだ。
「自己憐憫の甘い蜜を吸いたいんだったら、自分ひとりでやってなさいよ!
――それから。
どれだけの時間が、過ぎたのだろうか。
昼間でも入る陽のなく、薄暗い屋内。
向かい合った、ぼくと姉さん。そ間に横たわる沈黙の中で。
ぼくたちは一言声を発することも、僅かに身動きすることさえも、なかった。
やがて。
ぼくは、姉さんに向けて、呟いた。
「……いつも」
沈黙を、振り払いたいわけではなかった。
ほとんど衝動的な、メロウ姉さんという人物に対する、ぼくの率直な思いの吐露だった。
「……姉さんは、いつもそうだよね」
椅子から立ち上がったままだった、メロウディア姉さんは。
ぼくに向けて、訝しむような視線を向けてから。
冷徹なまでに、低い声で、尋ねた。
「なにが言いたいの。ケイヴィ君?」
そうして、尋ねられたのだから。
ぼくは、ぼくは話したいとおりに、話すことにした。
「姉さんは、いつもそうだ。
『わたしが正しい、あなたは間違っている』って――そうやって、自分の考えばかりを振り回して、
椅子に腰掛けて、両腕をテーブルの上で、軽く組んでから。
メロウディア姉さんは、繰り返した。
「……で、なにが言いたいの」
その声音にも、面持ちからも、別段の感情は見られなかった。
ただ、ぼくの様子を、伺っている。
観察対象か、なにかのように。
ぼくは、自分の主張を大声で話して、相手を圧倒させるような言い方は、選びたくなかった。
姉さんのように。
だから、ただ、告げた。
「身勝手だよ。姉さんは」
と。
ぼくの、我ながら情けなくなるような声を、聞いてから。
無表情だったメロウ姉さんの面が、ゆっくりと変化した。
口元を歪めて、眼を細めたのだ。
同情からの微笑みなどではない。
ぼくを、嘲笑ったのだ。
ぶしつけに、言い放った。
「ケイヴィ君は、なにもわかっていないからね」
――なにも、わかっていない?
それは、誰が言うべき台詞なのだろうか?
今の姉さんの方こそ、ぼくのことを、まるでわかっていないのではないか。
いや、ぼくばかりではない。
『白雪』という異常事態に閉ざされた、この街に対しても、そうだ。
メロウディア姉さんは、この惑星ナピの開発者――危機に立ち向かうべき人間のはずだ。
その姉さんは、この一週間もの間、いったいなにをやってきたというのか。
薄闇の中で、穏やかな嘲笑をぼくに向ける姉さんに対して。
思い浮かんだひとつの疑問を、訊いた。
「……姉さんは、どうしてそこまで、スタッド管理官を嫌うの」
その名前さえも、姉さんにとっては不快なものだったらしい
眉を歪めて、顔をしかめると。
ぼくをぎろりと睨んで、低い声で答えた。
「前から言ってるでしょう? あいつがとんでもない間抜けだからよ」
ぼくは、ため息をついてしまう。
外からこの街に来訪し、本来は姉さんのものだった市の管理権を一手に握ったスタッド管理官が、そこまで疎ましいのだろうか。妬ましいというのか。相手は同じ惑星開発者で、姉さんと違って、街のために尽力しているというのに。
「管理官は、信頼できる人だ。……正直に言おう。ぼくは今や、姉さんの方が、信用できない」
ぼくの率直な言葉を前にして、姉さんがその面に浮かべたのは。
――あからさまなまでの、呆れた、といった表情だった。
ぼくから視線を反らすと、斜め横を向いて。
はあ、と溜息を吐いた。
「そうねえ。ケイヴィ君がそう思うのなら、あいつの方こそ、全部正しいのかもしれないわね。ま、それは君の意志だし、好きにすればいいわ」
まるで、どうでもいい話だと言わんばかりに、そっけない口調だった。
どうでもいいことで、あるはずがないだろうに。
「――ところで?」
なにかを思いついたように、闇の中で眼を光らせてから。
白銀の髪を翻して、姉さんはぼくを見た。
「あいつ、あの少女の身柄の引き渡しを要求してきたでしょう?」
ぎくりとさせられた。
まさにこの家に来る前、対策本部の奥の無骨な一室で。ぼくは、エアリィオービスの引き渡しについて、管理官に言及されたばかりだった。
「どうして、それを?」
ぼくの当然の問いに、姉さんは、やはり応えなかった。
その代わりに、両腕を広げて、“構わない”といった大げさなジェスチャーを見せてきた。
「いくらでも、引き渡せばいいんじゃない? ご自由にどうぞ」
本当に、今更のことながら。
姉さんのそのぶしつけな態度に、胸の奥からこみ上げてくるものを、ぼくは感じた。
「その言い方は、いくらなんでも無責任じゃないか? 姉さんだって――!」
「おいおい、ちょっと待った」
声とともに手のひらをぼくに掲げて、姉さんはぼくの発言を制した。
手のひらの向こうの姉さんの顔を睨んだ。
きょとんとした顔つきで、微笑んでいる。
しかし、その微笑みからは、あからさまに表出していた。
どうしようもないほどの、底意地の悪さが。
「それは、随分な勝手な言い草なんじゃない? ケイヴィ君。
無責任、ですって? いったい、誰が無責任なのかしらね……!
いくらでもチャンスがあったのに、あの
姉さんの愉しげな声音に含まれた、今にも突き刺さらんばかりの、棘に。
正直、ぼくは怖気づいてしまった。
なにも、反論することができなかった。
――しかし、後になって考えれば。
この時に、ぼくは言い返すべきだったのだ。
「でも、そうね。あの、小鳥ちゃんについては……!」
自らの発言の勢いに、身を任せるようにして。
メロウディア姉さんは、ついに、発言したのだ。
「もちろん――ケイヴィ君は知ってるでしょう?
あの
息が漏れた。
全身から力が抜けた。
ぼくは、唖然として、メロウディア姉さんの顔を凝視した。
――それだけは、言ってはいけない。
今。
姉さんは、ごく当然のように、ある話題を口に出した。
そして、あろうことか、続けた。
「あの娘が行くことになるのも、『森の館』かしら?」
――ねえさん!
その一瞬、ぼくが触れたのは。
気づいた時には終えていた叫びの感覚と、反して部屋に長く篭もる残響。
そして、喉の痛みだ。
……まったく、なんということだろうか。
ぼくは、自らが今叫んだ声の大きさに、自分で驚いてしまっていた。
こんなに激しい声が出せたことを、ぼく自身も知らなかったのだ。
つい、手を持ち上げて、喉元の皮膚に指先で触れていた。
……ぼくの全力の大声がぶつけられた、メロウディア姉さんは、と言えば。
ただ、こちらを、見つめていた。
怒りも、嘲りもない。
いかなる感情も、その面には表れていない――ぼくには、そう思えた。
驚きと焦燥にかられて、反射的に飛び出してしまった、姉さんに対する絶叫。
その残響もやがて静まり、キッチンを沈黙が満たしてから。
あらためて、メロウ姉さんの言い放った台詞が、ぼくの中で繰り返された。
――星域福祉局が、どういう場所なのか――
――あの娘が行くことになるのも、『森の館』かしら?――
その含意を、識るにつれて。
唖然と、するしかなかった。
言葉など、発する余地もなかった。
メロウディア姉さんは、ついに、切り込んでしまった。
ぼくたちが、決して、入り込んではいけない、ひとつの領域に。
堂々と、土足で、踏み込んだのだ。
……それから、どれだけの沈黙が続いたのかすら、覚えていない。
長かったかもしれないし、ほんの少しの間だったような気もする。
ともあれ、ぼくは椅子から立ち上がって、速やかに屋内を横切り、自宅の玄関を抜けた。
メロウ姉さんは、ずっと同じ場所に座っていたようだ。ぼくは振り向きもしなかったので、よくわからない。
とにかく、外に出たかった。
ぼくたちの姉弟の中でも、暗黙のままに禁句と化していた言葉。
それに触れてしまった、メロウディア姉さんの顔を、見たくなかった。
照明のない屋内から、打って変わった外の明るさに、視界が少しだけ揺らいだ。
家を出てから、家の横のガレージのぼくの
――ぼくが、今感じているのは、怒り、なのだろうか?
それすらも、わからない。
体の芯に灯った熱が、燻って、一向に消える気配がない。
ガレージに向けて歩いているはずの自分が、まるで自分ではないようだった。
点検もおろそかに、ホバーの座席に乗り込む。
ほんの少しでも早く、この家から離れたかった。
メロウディア姉さんは、確かに自由奔放に振る舞う人物だったし、ぼくに暴言を吐くことも時折ある。
けれども、ぼくは。
心のどこかで、姉さんの節度を信じていたのだと思う。
おかしなことを口にするようなことがあったとしても、決して『言ってはいけないこと』との、その線引きについては理解した上で、ぼくと会話していると――そう信じていた。
信じて、いたのだ。
ガレージの扉もそのままに、
ひとつの決心が、固まっていた。
もう、終わりにしよう。
ぼくの脳裏に、浮かんでいたのは。
琥珀色の髪の少女が、昨夜に漏らした、ひとつの言葉だった。
――わたしを、待っている人たちがいる。
そうだ。
話は、最初から簡単だったのだ。
彼女のために、なすべきことをすればいい。
これまで、ずっと、そうしてきたように。
エアリィオービスを、還そう。
それが、他ならぬ、ぼくの意思だ。
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