第四章/第三話 純白の保護は少しだけ肌寒い


 スタッド管理官が谷間までの移動に選んだ、浮揚機ホバーの形式。

 それが、後部に積載空間を持つ中型車両だと、見知った時点で。

 とっくに、気がついてはいた。


 管理官は、『逃亡者』の少女エアリィオービスを、ナピの街まで移すと決めていたのだ。

 彼女と、そしてぼくが慣れ親しんだ、崖下の空間を抜けて。


 驚くべきことに、オービスはあっけなく、管理官の忠告に従った。

 ナピの街に自身を移送し、当局の保護を受けることについても同意した。

 エアリィオービスが、この洞穴の中に造り出した、彼女の『部屋』。

 それを形成していた物品たち――熱で歪んだ柱に備え付けられた電飾群、カーペット代わりの耐熱シート、ありあわせの椅子とテーブル、一部が破損した大型機械類、空間の奥で壁のように積み重ねられたコンテナ群、そして、大量の書き込みがされた、サジタリウス語学習ドキュメント――。

 それらについては、ひとまず据え置かれることになった。

 スタッド管理官は、必要があれば後で回収に来ると告げた。

 当のオービスにも、未練はないようだった。

 彼女自身が構築して、たった今まで、生活空間となっていた『部屋』。

 琥珀色の髪の少女は、少しだけ悲しげに見える表情で、一瞥を残してから。

 背を向けて、管理官と姉さんへとついていった。


 むしろ、ショックを受けていたのは。

 オービスよりも、ぼくの方だったのかもしれない。


 ……琥珀色の髪の少女が、電飾とコンテナのひしめく、岩造りの『部屋』のさなかに立つ光景。

 その一枚のヴィジョンが、彼女と過ごす日々の中で、いつからか、ぼくの記憶に根を張っていたのだ。

 思っていたよりも、ずっと深く、強く。

 しかし、もう、あの光景を見ることもないのだ。

 そう思うと。

 胸の奥が締めつけられるような、後悔にも似た、寂しさがあった。







 エアリィオービスが収容されることになったのは、『保護棟プレシディオン』と呼称された施設だった。住居街内の対策本部の近くに、スタッド管理官の指示のもとで準備がなされた建物だった。

 対策本部と星域警邏隊ナピ支局の管轄下に置かれたその施設の目的は、『白雪』に閉ざされたナピの現状における、犯罪者の一時的な保護――つまり、勾留だった。

 かつて管理官当人が演説で言っていたとおり、不幸中の幸いと言えたのは、『白雪』による閉塞状態が一週間近く続いているにもかかわらず、この場所に世話になるナピ住民がひとりも現れなかったことだろう。ぼくが見る限りにおいても、降雪以降、街で犯罪らしいことは一度も発生していない。

 その理由を考えてみると、街中の無線通信が不通であっても、電力等の他のインフラにほとんど支障がない事実が大きいのだと思う。店などの警備システムも平時と同様に運用されていたので、空き巣や強盗といった犯罪も起こしにくいだろう。

 少し悪趣味な考えが、ぼくの脳裏をよぎる――あるいは『白雪』は、電波通信のみならず、人々の邪な野心さえも削いでしまうのかもしれない。

 ともあれ、こうしたナピ住民の平穏さのおかげもあって、この保護棟は数日前に整備が終わったにもかかわらず、いわば客なしの開店休業状態が続いていた。

 そんな中で、宙域戸籍すら持たないと思われる『逃亡者』の少女――エアリィオービスが発見されたのだ。

 彼女の臨時的な保護先として白羽の矢が立てられたのは、自然な成り行きと言えた。


 保護棟プレシディオンが設置された建造物は、後々の倉庫用施設として建てられたらしい、ナピの『予定設備』のひとつだった。対策本部のホールと同じくナピ住居街の造成時に建築されたが、今までまったく使われていない施設だ。

 外から見る限りでは、一階建てのこじんまりとした公的建造物――といった趣きだ。

 しかし、入口近くの階段を降りると、すぐにその地下空間の広大さに驚愕させられる。ナピ住民の五百名あまりであれば、一年分の食糧くらいは容易く収まる広さだ。

 床と壁に天井、各所のシャッターや扉、間隔をおいて建てられた太い柱――そのすべてが、頑強な合金製だった。各所の設備は単なる大型倉庫にとどまらず、電気や水道、空調設備までが整っており、簡素ながらキッチンやシャワー室まで複数用意されていた。

 スタッド管理官とその部下、エアリィオービス、そしてメロウ姉さん――という面々の後ろを歩きながら、地下施設を見て回った。そしてこの『予定設備』の用途が、単なる倉庫に留まらないことを、ぼくは理解した。明らかに、非常時の避難用シェルターとして造られていたのだ。

 入口から幾多もの倉庫室と通路を抜けた、地下空間の奥深く。

 そこに、厚い金属製扉で閉鎖された個室が並ぶ、無機質な印象の一角があった。

 管理官たちの話を聞く限り、その場所こそが、犯罪者を収容する臨時独房として想定された空間らしい。しかし前述のとおり、今は誰の姿もなく閑散としていた。

 そのもっとも奥の一室に、はじめての『非保護者』として、エアリィオービスが充てられた。

 ナピ住民に、彼女が見つかることはまずないだろう――スタッド管理官は、事前にそう説明していた。

 保護棟の入口である建物は、警邏局の職員によって常時警備されており、非常に頑強な金属製の扉もこの地下全体を守っていた。

 オービスをこの勾留用施設に迎えた理由としては、少女の存在を街の人々に知らせないと同時に、その身を守る意図もあるそうだ。

 エアリィオービスとの面会については、限られた人物のみが許された。

 管理官がその名簿にぼくを入れてくれたことには、感謝するしかない。




 ◆




 慌ただしく、時間が過ぎていった。

 一通りの手続きが終わり、スタッド管理官と彼の部下たち、そしてメロウディア姉さんといった人々が保護棟プレシディオンを立ち去った。

 しかしぼくは、この保護棟の地下に残ると、管理官に告げていた。




 ――今、ぼくの目前に、エアリィオービスが座っている。


 ぼくたちを隔てているのは、透過素材の厚い窓だ。

 それこそ、独房に用いられるのと同種の、極めて強固な人工素材だった。

 廊下と部屋を区切る壁に備え付けられた、四角形の窓。

 その奥から、椅子に腰掛けた琥珀色の髪の少女が、ぼくを見つめていた……。


 純白の、立方体の内側。

 無人の地下に設置された、エアリィオービスの新たなる『部屋』こと、保護室。

 そこは、合成樹脂と合金の壁で造られた、一見異様なほどに清潔な場所だった。

 天井に備えられた複数のパネル型照明が、壁と床の全体を煌々と照らしており、影の現れる余地さえもないほどだ。

 ――もちろん犯罪者ではなく、ゲストへのもてなしだよ。

 スタッド管理官は、ぼくとの別れ際にそう告げていた。

 そう語られたとおり、確かにオービスに対する処置は、勾留した犯罪者へのそれではないようだった。金属製の重い扉は施錠さえされていなかったし、広い机の隅には置かれた連絡装置は有線で入口の警備室へと通じており、音声で要件を頼むこともできた。緊急時には医療班も駆けつけるそうだった。

 部屋に置かれた戸棚やクローゼットには、一通りの服飾や生活用品が揃えられていた。大半がナピ外からの輸入物品で、ぼくには見慣れたものばかりだった。すべてこの社会で一般的に造られ用いられている、ごくありふれた製品たち。

 視界の中で座っている少女が、同一人物だからだろうか。

 廃棄された宇宙船由来の焼け焦げたコンテナが無造作に転がり、土埃と尖った岩肌に満ちた、かつてのエアリィオービスの『部屋』と――この保護室を、比べてしまう。

 確かにこの場所は、様々な面で、あそことは一変を画していた。

 平たい合成樹脂製の壁であれば、オービスがふいに手で触れたりしても、その肌を傷つけることはないだろう。

 彼女は、もはや、完全に護られたのだ。




 この地下空間からは、ナピの朱い空の様子を、ごく僅かさえも覗くことはできない。

 時刻を確認すると、もう、陽暮れをとっくに過ぎていた。


 どうしてぼくが、この地下空間の回廊――エアリィオービスのもとに残るように、管理官たちに頼んだのか。

 それは、明白だった。

 彼女に、言わなければならないことがあったからだ。


「エアリィオービス」


 透過素材越しに、ぼくを見つめる少女に向けて。

 ぼくは、告げた。


「――ぼくは、君との約束を、最後まで守ることができなかった」


 他に誰の姿もない、広大な地下施設の中で。

 ぼくの声は、驚くほどに、よく響いた。


「ぼくは、スタッド管理官とメロウ姉さんに、君のことを打ち明けた。

 つまり――ぼくは、約束を破った。

 君の存在を、他の誰にも話さない――という、秘匿の約束を」


 透過素材の向こう、部屋の中に座っている、エアリィオービスは。

 話すぼくに向けて、じっと視線を注いでいた。


「だから、ぼくたちが初めて会ったあの日、決めたとおり。

 君が今後自由になったら、どのような手段でも、ぼくを罰してくれ」


 話し終えたぼくの声の残響が、冷たい静寂に飲まれて、消えていく。


 感情は、なるべく表さないつもりだった。

 もう、終わってしまったのだ。

 今更、ぼくが後悔の念などを言葉の端に示したところで、それはみっともないだけだ。どのような異なる結果にも至りはしない。

 ぼくは、約束を反故にした。

 だから、どんな罰則も甘んじて受け入れる。

 その事実をただ伝えて、オービス自身の了承を聞くために、この地下空間に、彼女のもとに残ったのだ。


 やがて、オービスがぼくに示した言葉。

 そして、『秘匿』や、その反故に対してのものではなかった。

 しかし初めて、彼女から聞く台詞だった。


 ――ここは、少し、寒い。


 あらためて、ぼくは気づかされた。

 目前の少女の肉体が、ネクタル・フィールドの保護膜に一切護られていないことを。

 ぼくはスリング・ベルトの操作盤に触れ、包視界ホロを呼び出して、周囲の気温を確認した。

 ――午後八時三十一分。セ氏、マイナス七度。

 息を呑んだ。

 ぼくは今まで、エアリィオービスの持つ、低酸素と高熱への驚異的な耐性ばかりに注目していた。

 しかし、この惑星ナピの環境がもたらす過酷さは、それだけに留まらない。

 昼にはセ氏五十度まで上昇し、しかし夜には零下まで落ちる――その猛烈な気温変動が、ナピの日常なのだ。

 常時ネクタル・フィールドに護られるため、ぼくを含めたナピに住む人々は、気温の上下動をあまり意識しない。

 しかし、目前に座る少女は。

 エアリィオービスがつい先ほどまで生活していた、崖下の洞穴の住環境を、ぼくは思い出していた――夜間の保温という観点では、地下の岩に覆われたあの場所の方が、やや長けていたのかもしれない。

 そして、ようやく。

 今、エアリィオービスが、両腕で胴を覆っている理由をぼくは知った。

 ほんの少しでも、自らの体を温めようとしていたのだ。

 あらためて、表示を見やる。

 セ氏、マイナス七度。

 決して生存不能という温度ではなかったが、快適であるはずもない。

 彼女のいる保護室は、本来は単なる小さな倉庫に過ぎない空間だ。大規模な部屋には空調設備があったが、この小部屋にはないようだった――本来は、人を収容する場所ではないのだ。

 オービスに空調を用意しなかったのは警邏局側の落ち度ではあったが、仕方がないところもぼくは大いに感じた。

 ぼくたちナピ住民は、常に体を保護するネクの存在に、いわば慣れすぎているのだ。気温変化への対応という要素について、エアリィオービスとこれまで接してきたぼくでさえも、今まで気づかなかったほどに。

 その後、部屋の中にヒーター等の装置がないことも確認すると、オービスに一言告げてから、ぼくは廊下を離れた。


 今は保護棟プレシディオンと名付けられているこの地下空間は、どうやら緊急用のシェルターとしての機能も与えられているらしい。

 廊下を抜けた先の大部屋。その隅のロッカーの中に、目当てのものは見つかった。

 厚手のブランケットを抱えて、保護室の窓の前に戻ってきたぼくに向けて。

 エアリィオービスは、安堵のため息を吐いた。

 白い部屋と廊下を繋ぐ扉は、施錠こそされていない。

 しかし、彼女は宙域戸籍を持たない『逃亡者』と目されていた人間であり、現在は対策本部の保護の対象でもあった。

 彼女を無断で外に通したり、部屋に入ることは勧められない――スタッド管理官は、別れ際にぼくに告げていた。

 少しだけ扉を開けて、こちらに来た少女へと、一枚のブランケットを手渡した。

 エアリィオービスは、ぼくに優しい微笑みを見せてから。


 ――ありがとう。


 と、サジタリウス語で囁いた。

 自然と、こちらも笑みがこぼれた。

 どんなにささやかなものであったとしても、オービスに必要なことができたのが、嬉しかった。


 その一方で。

 暗澹とした憂鬱が、ほぼ時を同じくして、ぼくの心を脅かした。




 ――どうして、ぼくなどに対して、笑ってくれるんだ。

 ぼくは、君を裏切った。

 ぼくは、君の秘匿を破ったんだ。

 それも、君の身の安全を思って、などではない。

 これから、街に起こりうる被害――その責任を被るのが恐ろしくて、自分だけが未知の存在である君を抱えているという恐怖から、さしたる根拠もなく、ただ『よくわからない』という理由で、君との大切な秘密を明かして、その身を差し出したんだ。

 そして今、この牢獄のような場所に、君は押し込まれている――。




 ――護るべき約束を、護らなかった。


 本当に、今更のことながら。

 自分のやってしまった行為の結末に、そこに辿ってしまった思考の脆さに、そしてなによりも、ぼく自身の不甲斐なさに。

 呆然と、してしまう。


 そして――だからこそ、不意をつかれた。

 エアリィオービスが、窓越しにぼくに問うた、質問に。

 それは、あまりにも唐突で、少しだけ不可解だった。


 彼女は、サジタリウス語で、こう訊いた。


 ――ケイヴィは、お姉さんのこと、好き?


「……姉さん?」

 こんなところまで、連れてきてしまっても。

 エアリィオービスのぼくに接する態度に、変化は見られなかった。

 質問を唱えながら、真剣そのものの眼差しでもって、こちらをじっと見つめている。

 その健気な態度に、どうしようもないほどの、辛さを覚えた。


 ――姉さん、か。

 オービスが、メロウディア姉さんについて質問するのは、初めてのことかもしれない。

 ぼくが、最初に思い浮かべたのは。

 今日の洞穴での、オービスに対する、姉さんの身勝手で失礼な振る舞いだった。


「――先ほどは、迷惑をかけてしまった。

 前にも話したけれども、ああいう人なんだ。ぼくの姉さんは――」


 そのぼくの言葉など、まるで存在しなかったかのように。

 琥珀色の少女は、窓の向こうから、同じ質問を、繰り返した。


 ――ケイヴィは、お姉さんのこと、好き?


 あらゆる可視光線を擁する、ラブラドライトの瞳が、ぼくに注がれていた。

 オービスは、ただ、繰り返しただけだ。

 ぼくの理性がそう判断する一方で、彼女の放った声音の、その内側から――奇妙な残響とでも言うべきものを、ぼくが痛感していたのも、他ならぬ事実だった。

 そしてその残響は、聞くものに強く訴えかける、なにかを宿していた。


 ――わかった。

 ゆっくりと息をついてから、オービスに向けて、ぼくは頷いた。

 ぼくは、ひとつずつ、思い出していく。

 この件が始まって以来の――『白雪』が街に降り注いでからの、メロウディア姉さんの言動を。


 姉さんは、結局、家には帰ってこなかった。

 そしてこの街の為政者の代表であるにもかかわらず、住居街の人々に自らの動向を知らせることもなく、過度の秘密主義に溺れてしまったかのように、身を隠した。

 その代わりのように現れては、様々な施策を街に打ち出した、スタッド惑星開発管理官。

 事実上の上官である彼に対して、メロウ姉さんは感謝さえせずに――それところか、憎悪と軽蔑の視線を向けたのだ。

 なによりも。


 ――ぼくに垣間見せた、あの、疲弊を髄まで染み込ませたかのような、表情。


 メロウディア姉さんと再会して、この街で暮らし始めてから、もう一年半になる。

 あんな顔は、一度も見たことはなかった。

 『白雪』の事件が、始まってから。

 メロウ姉さんの内面に、なんらかの決定的な変化が起きていることは、明らかだった。

 その要因は、わからない。

 全面的な無線通信妨害という行政区全体に関わる大問題に、突如として取り組まなければならなくなった負担なのか。

 それとも、部外者であるスタッド管理官に指揮権が移ってしまったことによる、惑星開発者としてのプライドの危機が、姉さんを急かしているのか。


 つい、ため息が漏れてしまう。

 エアリィオービスへと――厚い透過素材の向こうへと、回答を伝えなければならなかったのに。

 ぼくの声量は、落ち込んでしまっていた。


「……どうだろう」


 ――メロウディア姉さんのことを、どう思うか。

 オービスの繰り出した質問に対して、しばらく考えた後に、ぼくはひとつの結論を導き出した。

 それを、素直に答えた。


「この事件が起きてから……少し、わからないでいるよ」


 ぼくの言葉は、辺りに反響する強さすら持たなかった。

 本来の静寂が、保護棟プレシディオン』の広大な地下空間に沈んでいる。


 ふと。

 ――鈍痛と痺れが、ぼくの右の鎖骨付近にかけて、再び現れた。

 反射的に左手を当てて、庇うような動作をしてしまう。

 昨日、『従者』の指先に、触れられた跡。

 神経の奥から、湧き上がって絶えない、苦痛。

 これは果たして、いつまで続くというのか。


 目前のオービスから、視線を落として。

 ぼくは、存在すら知らなかったこの地下に至るまでの過程を、思い出していた。

 なにも、『白雪』が降ってから変わったのは、メロウディア姉さんばかりではない。

 このぼくも、変化したのだ。

 あまりにも多くのことが、起こりすぎた。

 そう思えて、ならない。


 ――ケイヴィ。


 ふいにオービスが、ぼくのあだ名を呼んだ。

 顔を上げて、ブランケットに身を包んでいる少女の姿を、ぼくは見た。

 そして、眼を見張ってしまった。

 オービスが、続けて告げた言葉。

 それが、あまりにも意外なものだったから。


 ――お姉さんがいるって……家族がいるって、羨ましい。


 ぼくに言葉をかける時、オービスの黒瞳は、基本的にまっすぐぼくを凝視する。

 それが、この時は、視線は落とされていた。

 まるで、オービスがその話に、照れを感じているかのように。

 彼女はまた、声音を一段低く落としてもいた。

 その声で放たれたのも、また初めて聞く話だった。


 ――わたしには、そうした存在はいない。

 ――けれども、わたしには、帰るべき場所はある。

 ――そこで、わたしを待っている者たちも。


 その言葉の、真意を図るべく。

 ぼくの思考が――何度も、何度も、彼女が言ったことを、繰り返した。


 オービスが、自分が帰るべきと唱える場所。そこで、待っている人々。

 つまり、それは――。


「――『従者』?」


 ぼくの放った言葉に、琥珀色の髪の少女は、唇を噛んで。

 当惑したような……それでいて、はにかむような表情を、浮かべてから。

 ついに、頷いた。


 頷き。

 ぼくたちの文化圏における、肯定を示す動作。

 それは、崖下の洞穴の『部屋』の中で。

 万色のライトのもと、岩盤のプレートの上に座って。

 土埃を頬につけて、訝しんでいた少女に。

 ぼくが、教えたものだった。


 もう、遠い過去のようにさえ、思えた。


 ぼくは。

 しばらく、返答が、できなかった。


 彼女の眼差しを見据えて、その意思を再確認しようと、努めた。

 エアリィオービスのラブラドライトの瞳に、揺らぎはなかった。

 本気だった。


 ――エアリィオービスは、今、帰りたがっているというのか。

 あの、『従者』のもとへ。




 そして、この時。

 ついに、理解したのだ。

 ぼくの考えが、まったくもって、甘かったということを。


 本当に、今更のことだった。

 もう、五十日近くも前の、あの昼。

 エアリィオービスという少女と邂逅し、その秘匿を護ると約束した時。

 ぼくは、決心していたのだ。

 不遇からこの星に降り立ち、寄る辺もない彼女を――ぼくの可能な限りにおいて、護りつづけると。


 しかし。

 それ以降の、彼女とともに過ごした日々の中でさえも。

 『本当のこと』を、ぼくはまるで理解できていなかったのだ。

 彼女の存在を、他の人々に秘匿するという盟約。

 それに含意された、真の意味を。


 つまり。

 ぼくたちの契約の、本質は。




 エアリィオービスというひとりの少女の人生の――その行き着く結末についてすらも、ぼくが選択権を握ってしまう、という一点にあったのだ。


 それは、あまりにも、重すぎるものだった。




 音ひとつ聞こえない、ナピの街の地下施設で。

 回廊に立つぼくは、ついに辿り着いた事実に、立ち尽くしてしまっていた。

 正面から向き合っている、琥珀色の髪の少女は。

 清潔で安全ではあったものの、彼女が心から望んではいない、白い小部屋の内側から。

 万色の輝きを宿す瞳で、こちらを見つめていた。




 ぼくは、腰元のコンソールに指を乗せて、自分の体を守るネクタル・フィールドの設定機能コンフィグにアクセスする。

 進むごとに視界上に表示される、ホログラム内の警告を次々と潜り抜けていった。

 やがて、最後の警告文が、ぼくの前に現れる。

 ぼくは、ひとつ息をついてから。

 「はい」を選択した。


 ――ネクタル・フィールドの内部気温制御機能が、解除された。


 一瞬にして、猛烈な冷気が、ぼくの全身の皮膚に殺到した。

 寒さにはまるで慣れていなかった。脚ががくがくと震えだして、ぼくは傍らの壁に思わず捉まってしまう。

 思わず両眼を瞑る――冷水のシャワーなどよりも、ずっと辛い。

 服のそこかしこから、肌の中に大気が殺到してきた。

 口から漏れる自分の呼気が、あまりにも暖かすぎる。眼を開くと、水蒸気が気温差で凝結し、湯気のように白く染まっていた。

 ――これが、氷点下の大気。


 高度に発展したテクノロジーに、生活のすべてを支えられたぼくたちは、しばしば忘れてしまう。

 この開発途上惑星ナピが有している、本来の属性を。

 しかし、エアリィオービスは。

 常に、彼女の全身でもって、それを感じ続けていたのだ。

 ならば、ぼくも。

 この夜は、ほんの僅かであっても、彼女に近い世界にいよう――そう思った。

 ぼくに起きた異状を察して、窓の奥で眼を見開き、エアリィオービスがなにかを言いかけた。

 腕を上げて制して、「気にしないでくれ」と告げた。

 実のところは、その声を上げるのも、やっとだった。

 全身の震えが収まらない。すぐにでも、体調を崩しそうだった。

 しかし、ネクの温度調節機能を戻す気は、まったく起こらなかった。

 ぼくはほとんど衝動的な動きで、持ち込んでいた自分のブランケットを体に被せていた。それでも絶え間なく冷気は入ってきたし、剥き出しになった顔や手の肌は、寒さを通り越して痛いほどだった。

 廊下の壁の隅に座りこんで、オービスの保護室と、直面した。

 この位置からでは、高い窓の奥にいる彼女の姿は見えない。それならば、寒さに震えて怯えるぼくの姿を、彼女から見られることもないはずだった。


 エアリィオービスが、触れている大気を。

 惑星ナピの持つ本来の大気を、感じながら。

 ぼくはブランケットを固く引き寄せて、眠りにつこうと試みた。


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