第四章 切り拓くもの - The Developer

第四章/第一話 ならばささやかな秘匿を明かそう 1

第四章 切り拓くもの - The Developer




 眼を覚ましたのは、痛みの余韻だった。


 あまり、よく眠れなかった感覚がある。

 首を上げて、壁時計を見やる――午前六時前だった。

 ベッドの中でまどろみながら、六時が過ぎても街に別段の変化がなかったことを知ると、ぼくはこう考えることに決めた。

 ――まだ、時間は残されている、と。


 家の中での支度と朝食を済ませた後、植生棟バイオラティオンの出張店へと食糧の買い物に出かけている途中に、七時が過ぎていた。いくらかの買い物を済ませて家に戻り、冷凍室の整理を終えて、日課である家の掃除も済ませる。

 八時が過ぎても、街の様子に変わりはなかった。

 明らかな不安感と動揺が、ぼくの中に積もりはじめていた。

 それでも決して感情を表に出すようなことはせず、淡々と残った雑用を片付けていった。

 まだ、時間はある、と――そう心の隅で信じながら。

 そして、九時ちょうど。

 街の各所に設置されたスピーカーによる、不明降下物対策本部からの有線音声放送が、昨日までと同じく始まった。

 大音声が聞こえた時、ぼくは内心、歓喜の声を上げた。

 だが数分後、メロディとともにスピーカー放送が終了し、その内容がここ数日のそれと同じ、『白雪』対策にまつわる街の活動やライフラインの情報に終始したものだったことを理解した時には。

 ――決定的なまでの落胆が、ぼくに襲いかかってきた。


 この時点から。

 ぼくの意識は、底知れぬ闇の中の思考の下り坂を、降り始めることになる。


 対策本部からの音声放送に、とりたてた内容がなかった。

 その、事実こそが。

 このナピの街の危機が、考えうる最悪の方向へと進みはじめたことを、暗に指し示していたからだ。

 昨日、対策本部でスタッド管理官がぼくに語った、彼の推測。

 それによれば、今朝の早く、ついにナピとの通信異常を認識した宙域中継基地の警邏軍艦隊が、街の上空に超光速移動ヘルメス・スキップで来訪しているはずだったからだ。

 だが、彼らは依然として、現れていない。


 ナピの住居街は、普段どおりの様相だった。

 管理官の指揮のもとで、除雪作業は大きく進展していた。『白雪』の色はまだ街のところどころに見られるものの、紅い岩で造られた本来の街並みは、確実に取り戻されつつある。

 肝要の通信妨害は、残されたままだった。しかしこの一週間で、街の人々も無線通信のない生活に、少しずつだが適応しつつあるように思えた。公共の運搬ドローンが利用できないために、食料品店は来客でごった返していた。例の音声放送についても、もう誰も異議を唱えることはないようだった。

 ぼくの家の軒先から見える住居街の一角では、今日も対策本部の募ったボランティアの一団が、これから始める中心街区の除雪作業の時間割について、和気あいあいと話し合っていた。

 一見する限りでは、決定的な危機は、もう去ったかにすら思える。

 だが、ぼくに言わせれば、それは断じて違う。

 事態の深刻さが、一段――いや、何段階も増したことは、明白なのだ。


 昨日、対策本部の人気のない廊下の隅で、スタッド管理官はぼくに説明した。

 一週間に一度、遥か彼方に存在する宙域警邏軍の中継基地とナピの宙港の間で、広帯域の零導波回線を用いた『面通し』の認証プロセスが行われる。その失敗が発覚することで、警邏軍はナピを襲う通信妨害をついに探知し、艦隊がこの朝に飛んでくるはずだ――と。

 しかし、この時刻になってさえも、宙域警邏軍の戦艦などは影すらも見えない。

 つまり、考えられる事実は、ただひとつ。

 『面通し』による認証さえも、ナピからの常時通信を欺く何者かが巧みに偽装し、それに成功してしまったのだ。

 恐ろしさに、身が竦みそうになる。

 ぼくにとっては、それは降雪以来の最大のショックだった。

 まさか、リアルタイムの映像対話さえも、偽装されるとは。

 『白雪』をこの街に散布した何者かは、通信異常を察知するはずだった常時通信の精緻なダミーを、どこかから発信している。

 そのダミー通信が、遠い宙域中継基地へと「ナピは平常通りです」と告げているのだ。もちろん星系基地を結ぶ通信信号は、そう簡単に真似できるものではない。しかしそいつらは、ナピからの通信情報に『白雪』による物理的な隙を作り、そこに偽の信号を忍び込ませることで、やってのけたのだ。

 その上、宙域基地とナピが交わす、更に高度な認証プロセス――『面通し』さえも、同様に成りすますことに成功したらしい。

 一連のこの行動が、極めて恣意的な『攻撃』であり、宙域警邏群すらも騙し通す巧妙な工作行為であることは、もう明らかだった。

 それも、大規模な組織的関与が疑われるものだ。リアルタイムでの映像対話を偽装するのに、どれほどの設備と準備を要するか――ぼくには想像もつかない。


 頭の中で情報を整理してから、あらためて、驚かされてしまう。

 まさか、ここまで用意周到な計画だったとは、と。

 ぼくは、心のどこかで慢心していたのだと思う。

 宙域警邏軍の力は、大宙域政府の力とほぼ同義だ。

 小規模な開発途上惑星のナピを巻き込んだ、通信妨害事件――この程度ならすぐにでも察知して、もっと手短に片付けてしまうものなのだと、勝手に思っていた。

 それはまさに、勝手な慢心だったのだ。


 対策本部から、その件についてのアナウンスは未だにない。

 『面通し』による認証プロセスの存在と、その結果を公表しないのは、昨日スタッド管理官が暗に示したとおり、街に不要な混乱を避けるためと思われた。

 しかし、いつまで隠し通せるものだろうか。

 目下現在、このナピの街が、宙域警邏軍の監督下にない、いわば『生身』の状態であることは、疑いようもない事実なのだ。

 スタッド管理官は、彼が赴任した際のスピーチの中で、人々に示した。

 警邏軍の到着と事態終結が、近く必ずやってくることを。

 そして、言った――今は忍耐の時だ、と。

 今なら理解できる。管理官がそう語っていた根拠は、今朝の『面通し』ミス発覚による、警邏軍の来訪の見通しにあったのだ。

 だが――その目論見は、声もなく、潰えた。


 嫌な予感が、ぼくの心に充満していた。

 今日という日まで、このナピの人々が一致団結して、『白雪』の対策に乗り出すことができていたのは、一週間後には、早ければ数日後には警邏軍がやってくる――その希望が、どこかに残されていたからではないのか。

 スタッド管理官による力強い演説の内容を聞いてから、それでも事態が長期化すると考える人々が、どれだけ残っているのだろうか?

 皆がそのような楽観視に、半ば身を任せている、この状況において。

 もし、常時通信と『面通し』の二重偽装による、通信妨害問題の長期化が発覚したら。

 このナピの街の孤立状態が、今後一ヶ月、二ヶ月――もしかしたら一年以上、続くかもしれないと、知らされたら。

 人々の心に、いったい、なにが起きてしまうというのだろうか。




 ◆




 考えたくもないことを、考えざるを得なかった。




 ぼくだけは、知っている。

 『白雪』の降った日に、もうひとつの謎めく存在が、この星に現れていたことを。


 部屋の中で。

 ぼくは、闇の中の思索の階段を、黙々と降っていく。

 意識の表面に浮き上がっていたのは、あるひとつの仮説だ。


 ――『従者』こそが『白雪』を降らせた犯人であり、通信妨害の混乱に乗じて、逃亡者たるエアリィオービスの回収を企んでいる――。

 そう、すべての要素は繋がっているのだ、という。


 『従者』との、初めての対峙の直後に抱くことになった、この妄想じみた考えについては、今まで意図的に再考を避けていた。

 具体的な根拠が少なすぎたし、そんな曖昧な想定を繰り広げても、不安が増すばかりだったからだ。


 しかし。

 もう、単なる気持ちだけの問題には、留まらなくなっていた。

 自分の右の肩から鎖骨にかけてのあたりを、左手で抑える。

 昨日、洞穴どうけつの中で。

 『従者』の指先に、“貫かれた”場所。

 まだ、そこは痛んでいた。

 骨と筋肉の奥底から湧き上がるような、じんじんとした痛みが、残響を放っている。


 ついに向けられた、明白な敵意の痕跡。

 それは、一晩を経ても消えることなく、未だに続いていた。


 意図せずとも、頭に浮かんでしまう。

 こちらに手を差し出してきた、『従者』の影が。

 そして、まるで言語野に直接侵入してきたかのような、その言葉が――。


 ――姫を還せ。

 ――早くしろ。

 ――姫を我々のもとに還すと、言え。




 ふと。

 ある考えが、ぼくの脳裏に去来し、思考を苛んだ。


 しかし、もう。

 後悔しても、遅すぎるのだろうか。


 考えたくなかった、考えまいとしていた、ひとつの事実に。

 ようやく、ぼくの意識は辿り着いたのだ。


 ――ぼく、なのではないか。


 『白雪』の目的が、『従者』による、少女エアリィオービスの奪取であるならば。

 いま、ナピの人々の命運を、危機に晒しているのは。


 オービスを、あの洞穴で護り続けて――いや、護ったつもりでいて。

 その結果として、事態を長引かせてしまっているのは。


 ――他ならぬ、ぼくなのではないか――と。


 あるいは、やはり。

 すべてはもう、手遅れだったのかもしれない。

 もし、本当にあの仮面の男が、『白雪』の散布の実行犯ならば。

 ぼくなどが手に負える領域は、とっくに越えていたのだ。


 薄闇の自室の中で、顔を上げる。


 もう。

 虚勢を張る時期は、終わってしまったのではないか。

 それならば、ぼくが今行うべきことは、たったひとつではないか。


 肩の鈍痛を、手のひらで抑えながら。

 ぼくは、椅子から立ち上がった。


 ――秘匿を、明かそう。


 ぼくたちが抱えていた、ささやかな秘匿を。

 琥珀色の髪の少女、エアリィオービスについての物語を。


 彼女と出会ってからぼくの見知ってきた、なにもかもを。




 すぐに自室を抜けて、家を出た。

 重い足取りで、しかしまっすぐと、ぼくは歩き出す。


 ――なにかおかしなことが身の回りにあったら、どんなことでも知らせてくれ。


 そう諭してくれた、スタッド管理官の待つ、対策本部に向かって。



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