第三章/第七話 あの頃が懐かしかった
崖下の洞穴における、琥珀色の髪の少女・エアリィオービスとの、語学学習を中心としたコミュニケーション。
気がついた時には。
それはほとんど、あたかも当然の、ぼくたちの日常になってしまっていた。
彼女との突然の出会いから、『白雪』の降る前日まで、それは四十三日間続いた。
長期とは決して言えなかったが、短いとも呼べない、交流。
言葉の授業を主としたその時折に、ぼくたちは色々なことに、話題を向けた。
時によっては、ぼく自身のことについて、彼女に伝える日もあった。
ある意味では、やむを得ないことだった。
彼女にサジタリウス語を教えるのも、こちら側の世界の常識や社会通念について教授するのも、大いに結構だ。
だが、その情報たちには、時に無視されがちでありながらも、実はもっとも大切なのかもしれない、ある基本的な内容が抜け落ちていた。
すなわち。
“そうした話を伝える、ぼくという人間が、いったい何者なのか”という、一点について。
エアリィオービスは、そうした話を、ぼくに尋ねてくることがあった。
狼狽することもあったけれども――彼女に伝えない理由を、見つけることはできなかった。
――まず、君が降り立ったこの世界は、新銀河系連盟の辺境に位置する、ナピという名の開発惑星であること。この洞穴のある谷間から、北東に二六キロメートルほど離れたところに、同じ名を持つ唯一の街、ナピがあること。そしてぼくはそこで生まれて、これまでずっと住んでいること。ぼくは根っからのナピ住民で、他の惑星へと旅行したことは生涯で二回しかないこと。両親はぼくが赤ん坊の頃に離別して、ぼくが父親の手によって、姉さんが母親のもとで育てられたこと。ぼくが十六歳になったばかりの頃に、事故がきっかけで体と心を大きく患わった父さんが、自らの手でこの世を去ったこと。そしてひとりでの生活に苦しんでいた時に、メロウディア姉さんからの送金を見つけて、この時はじめて自分に血の繋がった姉がいると知ったこと。そして一年半ほど前から、宙域中心都市のアストライオスからナピに帰ってきた姉さんと暮らしていること。メロウディア姉さんは惑星開発者という役職に就く毛色の変わった人物で、日々その言動に振り回されて困っているけれども、ともに暮らす家族として大切に思っていること。ぼくのケイヴィという名は姉さんによるあだ名で、父さんに与えられた本名が別にあること。今、ぼくは
――このような、ぼくのプロフィールについて。
サジタリウス語の授業や休憩時間の時々に、ぼくはとりわけ包み隠すことはなく、しかしあくまでも手短に、エアリィオービスへと話した。
自分の半生などは、あまり愉快に、流暢に話せるようなものではない。
他の話と同じように、オービスにも伝わるように、簡潔な語彙で話したつもりだった。
けれども、文化風習や価値尺度のまるで異なる『逃亡者』の少女には、きっとすべては伝わらなかったのだろうと思う。
それでも、ある程度は理解してくれたのだろうか――言葉を選びながら話すぼくに向けて、じっと眼差しを注ぐオービスは、時々頭を頷き返してくれたりもした。
ぼくの話に、耳を傾ける時。
オービスの持つ、ラブラドライトの瞳の輝きは、あまりにも真摯にすぎて。
……それはもう、話すぼくの方が、たじろいてしまうほどだった。
時折、エアリィオービスが、ぼくに質問を繰り出してくることがあった。
といっても、決して踏み込んだような話題ではない。
むしろ、まるで見当外れというか……おかしな問いばかりだった。
――ケイヴィは、いつもどうやって服を畳んでいるの。
――ケイヴィは、どうして、一族のメンバーのことを、そのような名詞で呼ぶの。
――ケイヴィは、ナピの街までホバーで移動した時、天球の星々の位置がこの地点とは異なるように見えるの。
――ケイヴィは、他人に嘘をついたこと、あるの。
一事が万事、こんな具合だ。
エアリィオービスという少女には、その賢さと記憶力に連れ添うようにして、独特の……言ってしまえば、とぼけたところを、時たま顕わにしていた。
彼女のそうした質問群のバックグラウンドには、もしかしたら遠大な思索があったのかもしれなかった。その正体を、ぼくが知ることはついになかったけれども。
――ケイヴィの属する世界では、通常重力で歩く時、両足の歩幅は同じになるの?
真面目そのものの面持ちと、対照的に舌足らずなサジタリウス語で、そう尋ねるエアリィオービスには、ぼくも思わず苦笑してしまった……。
エアリィオービスには、日々驚かされることばかりだった。
もちろん、ネクタル・フィールドや食事をほぼ必要としないその生体メカニズムにも驚愕したが、彼女の有する文化的観念にも、ぼくは同等のショックを受けた。これについては、長い時間まごつかされた。
オービスが、ぼくの知るところにない――それどころか、この大宙域圏内で入手可能などのような資料上にも確認できない、まったく異質の文明のもとで生活していたという事実に、やがて疑う余地はなくなった。
信じがたいことではあったが、彼女が乗っていたという小型船の残骸や、彼女が持ち込んだ洞穴の様々な生活物資といった物的証拠から鑑みても、未知の文明の存在を現実のものとして受け入れざるをえないのだ。それらのすべてが、やはりぼくのアクセス可能なあらゆるネットワークのデータベースに載っていないものだった。
そして、異文明の存在を何より裏づけるものは、他ならぬエアリィオービス本人に内在していた。
ぼくが驚かされたのは、彼女の言語に入意されたコミュニケーション手法や、抽象概念についての思考の、目眩のするような『隔絶』だ。
その、もっとも代表的なものを挙げてみよう。
――どうやら、彼女の生きていた世界には、ぼくたちの感覚における『良し/悪し』という概念が、一切存在しなかった。
『良し/悪し』が、ない。
この点については――ぼくが最初にそうだったように――把握するのが、やや難しいかもしれない。
ある行為や状況などが、『ふさわしい/ふさわしくない』という論理的基準は、もちろんエアリィオービスにも存在する。
例えば、オービスがナピの強烈な陽光をその肌に浴び続けるのは、『ふさわしくないこと』であると彼女自身も思っているし、あのクラッカー状の食糧を一日に三枚も食べるのも、彼女のユニークな代謝器官にとっては『ふさわしい』こととは言えないようだった。そうした理性的な状況判断は、もちろんぼくたちと同様に彼女も有している。
我ながら、まどろっこしい話なのは承知している。
つまり、ぼくが言いたいのは――ある個人が、その自発的な感情と感性において、対象を『良い』、あるいは『悪い』と思う――という、ぼくたちにとってはごく当たり前の意思とその表明手段が、エアリィオービスという少女とその生きていた文化には、言語レベルにおいてさえ、決定的に欠落していた、ということなのだ。
彼女は、あらゆる行為や現象の可否を、その秩序と合理性のみにおいて判断していた。
その判別過程において、彼女自身の感情が入り込む余地は皆無だった。
エアリィオービスの世界には、『その状況における生存において、もっとも合理的な食物』はあれど、『今食べたい、好きな食べもの』は、なかったのだ。
彼女とのコミュニケーションの最中、この事実を理解すればするほどに、ぼくは戸惑わずにはいられなかった。そんな感覚で生活している人々が存在すること自体が衝撃的だった。少なくともぼくの生きる大宙域においては、そのような論理・倫理観を有する世界は、他になかったからだ。
困難さは、想像できるかもしれない。
『良し/悪し』という概念を彼女に認識させるのは、かなり回りくどい、遠大な作業とならざるをえなかった。
彼女の有する限られたサジタリウス語の語彙と、ぼくにとってさえも限られた語彙の摺り合わせが、必然的に頻発した。
言葉を教えるよりもずっと、ぼくは思考と神経を磨り減らしたように思う。
『良い』という概念そのものが理解できず、きょとんとした顔を見せているオービスに向けて、時にはジェスチャーや表情を過剰なまでに用いて、時には洞穴の物品を手にとって例示し、何が『良い』のか、『悪い』のかを、なぜそう思えるのか、感じられるのかを、そしてそれが自発的な感情の発露であることを、ぼくは自分の考えられる限りの手段において、伝えようとした。
傍目から見れば、その様子は滑稽だったかもしれない。
ぼくの献身がついに実を結んで、エアリィオービスは『良し/悪し』という概念を理解できたのか。
それは結局、教え手であるぼくにも、わからなかった。
彼女の『自発的な感情による良し/悪しの感情の発露』を、どのような手法で計ればいいのかについて、実際のところ、見当もつかなかったのだ。そしてなによりも、街に『白雪』が降り始めてしまったのは、その過程の半ば――最近のことだった。
つまるところは、最後の瞬間まで。
ぼくはエアリィオービスに、その概念を教えきれなかったのかもしれない。
ある物事や状況に対面して、本心からふと、『いいな』と思う。
そもそも、そのようなことに、理屈やメカニズムなんて、存在するのだろうか。
◆
――今となってから、痛烈に思う。
ライトアップされた、洞穴の中で。
ガラクタのような椅子に腰掛けて、耐熱プレートをそのまま持ち込んだテーブルを介して向き合って、無骨なスレート端末に文字を書いて、印刷されたドキュメントに補足を付け足して、互いの発音を笑いあった。
あの頃、ぼくたちは不出来な講師と優秀な生徒だった。ぼくは琥珀色の髪を持つ日焼けした少女に言葉を教えたり、彼女の生態と倫理観念に驚いたり、『良し/悪し』の概念を、懸命に教えようとしていた。
また、あの頃、ぼくたちは互いの文明の代表者だった。ぼくとオービスは時折話し合って、疑義を示したり、また時に笑い合いながら、互いの文化を少しずつ認識していった。他を一切介さない、『逃亡者』の少女と、現地人学生のコミュニケーション。まるでその前提が、当然のことであったかのように。
そして、あの頃、ぼくたちは秘密を共有する仲間でもあった。少女についてのあらゆる真実を、ぼくは街の人々に漏らしてはいけなかった。それが彼女を護るための、唯一絶対のルールだったから。
しかし、秘密を抱えるという行為の矛先が、オービスの身の保護のみに限らなくなっていたことも、ぼくはとっくにわかっていた。もしかしたら、彼女も気づいていたのかもしれない。
ぼくとエアリィオービスの秘匿の約束は、ぼくたちの交流の原点であり、そして同時に、ぼくたちの間の眼に見えないなにかを、確固として繋ぐものでもあったのだ。
特に、今となっては。
そうであったと、感じられてならない。
あの頃が。
もはや、懐かしかった。
そして、肩の苦痛の余韻を、感じながら。
あの日々は、もう二度と戻ってこないのだと、ぼくは思った。
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