第三章/第六話 どうして君はここにいる



 ぼくが徒歩で降っているのは、もうすっかり見慣れた斜面だった。

 崖下の空間へと続く、岩造りの天然の路。

 暮れはじめていたナピの太陽が、その紅い表面のうねりに、淡い影を象っていた。




 対策本部で、ストゥディウムス惑星開発管理官と会話を交わしてから、数時間後。

 ぼくはこの崖下に――『逃亡者』エアリィオービスの領域に、足を踏み入れていた。

 彼女のもとに会いに行くのは、三日ぶりのことだった。

 オービスと出会って以来、このおよそ四十日間の中で、ぼくが崖下に来ない日もあった。しかし二日連続で行かなかったことは、ぼくの記憶する限りではなかった。

 いくらなんでもみっともない言い訳が、ふと思い浮かんでしまう。

 ――ぼくの方は、『白雪』への街ぐるみの対策や、自分の家の除雪作業で忙しかった。その一方で、オービスの生活は『白雪』の影響下にはなく、平穏無事だったから――。

 いや。

 まったく、我ながら、あまりにも呆れた弁解だ。

 理由は、もっと単純にして明快だ。

 彼女に会うのが、怖かったのだ。

 適当な原因を考えてこじつけては、オービスに再会するのを――そして、あの会話の続きをするのを、ぼくは意識的に避けようとしていたのだ。




 ――わたしはもう、還ったほうが、いいのかもしれない。




 一対の岩壁に挟まれた崖下の空間に、三日ぶりに降り立った。

 顔を上げる。

 絶壁の陽と影の面が、傾いだ境界線を造り出していた。

 もうすぐ陽が暮れる。

 首元のライトは、既に点けていた。

 この時間帯では、もう太陽光の崖の奥底までの照射がないために、辺りは地表よりも深い闇に満たされる。

 地下二十メートルの深くの、むしろそれこそが自然な状況と言えた。

 ――そういえば。

 今日もエアリィオービスは、ぼくを待っていない。

 『白雪』が降った日と同じ違和感だった。彼女の聴覚はとても鋭敏だから、最近では数十メートル離れた洞穴においても足音を探知して、坂を降りてきたぼくのところまで駆けつけてくることが多かった。

 あの時に彼女が来られなかったのは、午前中の日課の洗髪を行っていたからだ。

 それでは今日は、どういった事情だろう?

 足元の岩盤をライトで照らしながら、ぼくは推測を試みる。

 ――ただ単に、ぼくの足音が聞こえなかっただけか。

 ――時間が、普段よりも遅いからだろうか。

 ――それとも、ほとんど毎日来ていたぼくが、二日も来なかったからか。

 そこで。

 ぼくが抱いた感情に、応対するかのように。

 ひとつの忠告が、ぼくの脳裏に湧き上がっては、こだました。

 今日、対策本部のホールで。

 ストゥディウムス管理官がぼくに告げたばかりの、忠告が。


『なにかおかしなことが身の回りにあったら、どんなことでも知らせてくれ』


 一瞬。

 ぼくがいる崖下の空間の、その視覚的情報が。

 そこを歩いているぼくの存在も含めて、まるで上からすべて俯瞰できるかのように、ぼくの意識へと投影されたのだ。

 絶壁の上から。

 ぼくは、オービスに会うべく急ぎ歩いている、ぼく自身の姿を、客観的に見つめていた。

 ひどく自嘲めいた、冷たい目で。


 気づいた時には、立ち止まっていた。

 思わず。

 口元から、笑みがこぼれてしまう。




 ――街から離れた、崖下の洞穴。

 そこに潜み隠れている、保護フィールドすら必要としない『逃亡者』の少女に、毎日のように会いに行く。

 まるで当たり前の日常のように、扱っている。


 まったく。

 この状況こそ、『おかしなこと』、そのものじゃないか。




 ――岩壁に備え付けられた金属の歪んだ柱。色とりどりの無数の微小照明群。奥で壁のように重ねられ、あるいは乱雑に転がされた大量のコンテナ群。林立する謎めいた無骨な機械類。カーペット代わりの一部が焼け落ちたフロアシート。テーブルとチェアを含む家具に似せられたものたち。そして、種類ごとに整理されたサジタリウス語ドキュメント――。


 洞穴の『部屋』は、すべてが普段どおりだった。


 結局、これといった理由はなかったらしい。

 エアリィオービスは『部屋』の中で、ただぼくを待っていた。

 琥珀色の髪の少女は、岩盤が一段高くなったところに、腰掛けていて。

 ラブラドライトの瞳がぼくの姿を見てとると、やや驚いた表情で固まった。


 ――ケイヴィ。


 喉から零れたかのように、彼女はぼくのあだ名を小さく呼んだ。

 その声音には、安堵の気配があった。

 今日もぼくは来ないのだろうと、確信していたのだろう。

「こんにちは、オービス」

 彼女の無事な姿を見て、ぼくも、心の底から安心していた。

 きっと、内心で怯えていたのだと思う。

 オービスの身に、なんらかの決定的な変化が、起きてしまったのではないか――と。

 しかし。

 『白雪』が街に降った時も、『従者』が荒野に現れた時さえも。

 結局のところ、この洞穴と、エアリィオービスに異常はなかったのだ。

 『部屋』も、彼女の様子も、普段どおりだった。

 なにも、変わりはない。

 心配することなど、なかった。

 ぼくは思わず一息つくと、岩盤に座るオービスに向けて、歩み寄ろうとして――。




 ――すぐに、足を、止めた。




 ……ぼくなどは、言うまでもない。

 この洞穴で待っていたエアリィオービスさえも、あるひとつの重大な情報を、決定的に見逃していたのだ。

 ぼくたちのそばで、潜んでいたものを。

 待っていたものを。

 ぼくがこの洞穴に訪れる瞬間まで、丸三日間か、あるいはもっと長い時間。

 この洞穴の幾多の影の中から、虎視眈々と待っていた、その存在を。


 ぼくの視界は、もはや見慣れたエアリィオービスの『部屋』を映している。

 その中心に。

 まるで当たり前かのように、しかしあまりにも唐突に、出現していた。


 『従者』だった。




 ◆




 ――数日前、ナピの荒野に突如吹き抜けた、砂嵐。

 まるで、その暴風など存在しないかのように佇み、ぼくにひとつのメッセージを伝えたもの。

 やはり、今回も。

 細長いシルエットは微動だにせず、背筋を伸ばして佇んでいた。

 同一の存在であることは、どう見ても明らかだった。

 黒色に塗り潰された旧時代的な正装と、複雑な文様の刻まれた白い仮面。

 エアリィオービスがかつて、自らの『従者』と呼んだ存在。

 洞穴の『部屋』の中央に、それは音もなく出現していた。

 ――いつから。

 疑問が、頭の中で唸りを上げる。

 いつから、どうやって、ここに現れたのか。

 さも当然のように、奴はぼくの視界の中に登場した。

 しかし、どう記憶をさかのぼっても――

 小さな、甲高い悲鳴が聞こえた。

 エアリィオービスだった。

 ついに『従者』と対峙した彼女は、ぼくが見た憶えのないような様相を示していた。

 その場にへたりこんで、震え上がっていた。

 彼女の顔に張りついていたのは――紛れもない、驚きと畏れだった。

 しかし。

 仮面の男――『従者』の目的は、意外なことに、エアリィオービスではなかった。

 奴は、


 ――ぐるり、


 と、その体を、粘性をもった動きで反転させた。

 部屋の出入口に立っていた、ぼくに向けて。

 そう――奴が目的としていたのは、ぼくだったのだ。

 同時に。

 仮面の『従者』が放つ、あまりにも奇妙なかたちの『言葉』を、ぼくは聞いた。


 ――姫を、我々のもとに、還せ。


 ……その『言葉』は、間違いなく、ぼくの聴覚を介していなかった。

 耳では――通常の聴覚情報としては――まったく聞こえなかったからだ。

 ぼくの脳の言語野や側頭葉かどこかに、「言葉の意味の信号」を直接与えた結果、その解釈に手間取ったぼくの脳が音声情報であると解釈して、聴覚野を刺激させた故に、聞き慣れたサジタリウス語の音声として感じる――。

 ぼく自身が極力理性的に考える限りでは、その説明がもっとも理に適っているように思えた――どうやって行っているのかについては、まるでわからなかったが。

 『従者』の影が、ふと動き出した。

 こちらに、歩み寄ってきたのだ。

 繰り返し、声なき声が、告げた。


 ――姫を、還せ。


 ぼくは、動けなかった。

 立ち向かうことも、引き下がることもできずに、歩み寄ってくる『従者』に向けて、視線を向けることしかできなかった――情けないことに、近くの岩かなにかを手に取って、殴りかかるような発想にも至らなかった。

 ぼくの名を大声で呼ぶ、エアリィオービスの言葉が聞こえた。

 『従者』の動きは、想像を遥かに超えて素早かった。常識的なそれではなかった。


 対処する準備など、まるでできなかった。

 奴は、やはり暗黒色の手袋に包まれた、その指先を、ぐっと伸ばして――。

 ぼくの右肩から鎖骨にかけての表面に、触れた。


 いや。

 触れた、と表現して、差し支えないのだろうか?

 手袋に包まれた奴の指は、ぼくの肩を。

 まるで、そこになにもないかのように。

 あっさりと、貫いた。


 瞬間。


 ぼくの全身に爆発的に広がった苦痛を、いったい、どう説明すればいいのだろう?

 切り傷や打撲傷による継続的な痛みとは、まるで違うものだった。熱湯に触れた時のそれや火傷とも異なる。あるいは、電撃によるショックにもっとも近いのかもしれない。

 瞬く間に、ぼくの全身の神経系で爆発した激烈な苦痛は、他のありとあらゆる思考からぼくを寸断した。苦痛に声を上げられるのは、まだ余裕がある証拠なのだと知った。呼吸が止まり、反転した。視界が視界である意味を失った。音すらも曖昧になった。すべての関節が身勝手に暴れ回って、自分の体勢が今どうなっているのかすら、思考の範疇にない。僅かに残った意識の欠片が、『従者』の指先の触れた右肩に向かう――莫大な量の刺激に、そこがどうなっているのかさえ、もうわからない。

 全身の皮膚を切り開かれ、白色の末梢神経を針で抉り出される、苦痛。


 ――言え。


 ぼくの聴覚は、とっくにその能力を失っていた。

 それなのに、『従者』の声ならざる言葉は、明瞭に聞こえたのだ。

 右肩に触れた、その指先を通して。


 ――姫を還せ。

 ――早くしろ。

 ――姫を、我々のもとに還すと、言え。


 霞んだ視界の中央に、こちらを見据える『従者』の仮面があった。

 ぼくはすべての意志を振り絞って、震えてやまない瞼を、ぐっと細めた。

 奴を、睨み返した。

 そして、言い返す。

 声は、出なかった。


 ――誰が、言うか。


 その時。

 苦痛の荒波に飲み込まれていたぼくの意識下に、ひとつの間隙が差し込んだ。

 まるで別物のように、視野がふいに明瞭になり、まばゆい輝きが辺りを満たした。

 ひとりの人物が、そこに現れていた。

 琥珀色の髪を、背にはためかせた少女。

 エアリィオービス。

 体をぐっと屈めて、その右腕を大きく背後に振り上げてから。

 空を裂くように、一閃させた。

 同時に、言い放った。


 ――かたちなき、下賤が!


 ――下がれ!


 本来の言語を用いた、『従者』への喝破。

 そう、ぼくにとっては、それは完全に未知の言葉だった。

 しかし……何故だろうか。

 この時は、少女の言い放った意味が、たちどころに理解できた。

 あるいは、その時にぼくが聞いた彼女の声も、従者が使っていたそれと同じ、言語野への信号の再解釈だったというのか?

 それとも、単なる錯覚だったのか?

 この一瞬でさえも、ぼくには判断ができなかった。




 ――次に、気がついた時には。

 大地に乗せた、自分の両の手の甲が見えた。

 洞穴の地面に両膝をついて、跪いていたのだと、ぼくはようやく知った。

 苦痛の余韻の中で、ふいに感じ取る――体中が、冷たくなっていた。全身のあらゆる汗腺から、汗が吹き出ていたのだ。

 反射的に、口元を拭う。口腔に蠢く、痺れの余韻が消えない。

 首を上げるのすら、困難だった。

 洞穴の光景の中に、『従者』は、もういなかった。

 風に吹かれて掻き消えたかのように、消失していた。

 代わりに。

 その影を、瞬く間に排除した人物は、眼前にいた。

 悠然とした佇まいで――跪いたぼくを、じっと見据えている。

 琥珀色の髪とラブラドライトの瞳を持つ少女、エアリィオービス。


 ふと、全身にぶり返してきた苦痛に、ぼくは顔をしかめた。

 最低限の声すらも、出すことができない。

 喉の奥に、細かい針が突き刺さっているような刺激があった。

 ひどい咳を四回か五回、そして浅い呼吸を二十回は繰り返してから、ようやく。

 ぼくは、霞んだ視界の中の少女に向けて、言葉を放つことができた。

 これまでずっと抱えていた、しかし心のうちに潜めていた、疑問を。


 ――君は、いったい、何者なんだ。


 少女は、やはり、応えなかった。


 ――どうして、君は、ここにいる?


 問うてから、どれだけの時間が、過ぎたのだろう。


 やがて。

 苦痛から俯いていたぼくの目前で、なにかごく小さいものが、ひとつ地面に落ちるのが見えた。

 顔を上げる。

 視界の霞みは、もう退いていた。

 ぼくを見下ろす琥珀色の髪の少女の、その表情が、露わになった。

 息が、止まった。


 エアリィオービスは、泣いていた。

 そして。

 ある言葉を、聞き慣れたサジタリウス語で、ぼくに告げた。




 ――ごめんなさい――




 その黒い瞳から、ぽろぽろと涙の粒が零れては、頬を伝い落ちていた。


 ――ケイヴィ、ごめんなさい。ごめんなさい――


 もっとも普遍的な、謝罪を示すサジタリウス語のフレーズ。

 この洞穴の中で。

 ぼくが、言葉の授業の始めの頃に、少女に教えて。

 最後まで、奇妙なアクセントが残ったままになってしまった、その文句を。

 ひたすら、エアリィオービスは、繰り返した。


 ――ごめんなさい。ケイヴィ、ごめんなさい。ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさい――


 喉の痛みが、ひどい。

 しかしぼくは、彼女を少しでもなだめようと、なるべく大きな声を出そうとした。


 もう、いいんだ。オービス。

 もう、いい。

 謝るのは、やめてくれ。


 流れる涙を構いもせずに、ぶんぶんと顔を横に振って、オービスは否定の意図を示した。

 このジェスチャーも、ぼくが教えたものだった。

 オービスは、ぼくに向けて言葉を続けた。

 まるで溢れ出る涙に合わせるように、懸命に、自らの持つ語彙を連ねて。


 ――わたしは。わたしは、自分の身勝手な行動のせいで、ケイヴィを巻き込んでしまった。


 ――わたしがいけなかったんだ。わたしは、やはり帰るべきだった。『従者』たちが来た時点で、もう還ると、そう決めるべきだった。あの人たちにとって、わたしは、必要な存在だから。


 ――わたしは、ケイヴィ、あなたを傷つけるつもりなんて、なかった。けれども、こうなってしまったのは、全部、わたしのせい。もう、逃げる場所なんてない。わたしは、還る。ごめん……ごめんなさい、ケイヴィ。


 違うよ。


 気がついた時には、もうぼくは口火を切っていた。

 衝動的な、発言だった。


 ――ちがう。違うよ。エアリィオービス。君は、ここに残っていいんだ。この洞穴に、残るべきなんだよ。ここで、終わってしまうわけにはいかないんだ。


 最初にぼくを動かしたのは、彼女に対する、ある種の憐憫だったのだと思う。

 しかし、やがて。

 自分の話を自分で埋めなければならないかのように、喉を突いて出るものを止めてはいけないかのように、ぼくは言葉を重ねていた。


 ――オービス、君は、それでいいのか。君は、あいつらの好きなようにされたままで、いいのか。ぼくは君の事情や、かつて君がいた世界については知らない。だが君は、自分の意思を持って、そこから逃げ出してきたんじゃないのか。奴らの眼から身を潜めるために、この洞穴に潜んだんじゃないのか。……逃げ出したかったから、ぼくと一緒に、ぼくの世界の言葉を覚えたんじゃないのか。今更、君がそんな弱気になって、どうするんだ。


 当初とは、異なる方向に話が進んでいる。

 そう自覚しつつも、ぼくは話を止められなかった。

 語りながらも、不必要に語気が強くなってしまったのも、自覚していた。


 ぼく自身を冷笑する、もうひとりの自分の影を。

 この時、ぼくは明瞭に認識していた。

 ……まったく、誰が言えた話なのだろうか?

 これでは、まるで眼前の哀れな少女に対して、叱咤するかのようじゃないか。


 逃亡者エアリィオービスの、秘匿。

 その一端を、満足感すら覚えながら、握っていたのは。

 他ならぬ、このぼくではないのか。




 エアリィオービスは、やがて傍らの岩盤に腰かけると、両の手のひらで顔を覆って、嗚咽を漏らしていた。

 気の利いた言葉すら、思いつかずに。

 ぼくは洞穴の一端に佇んで、『従者』の触れた左肩から胸にかけて、残響する痛みの余韻を、ただ、もてあそんでいた。


 透明な涙腺液に濡れた眼で、足元の地面に茫漠とした視線を投げる、哀れな逃亡者の影が、そこにあった。


 ふと、思う。

 結局。

 彼女は、失敗したのか。


 かつて所属していた世界を飛び出して、逃げて、逃げて、ひたすら逃げても。

 ――ついに、追っ手を振り切ることは、できなかったのか。


 そして。

 これまでのぼくの考えとは真っ向から対立する、ひとつの思いが、ふと湧き上がった。

 ある意味ではどうしようもない、しかし、限りなく現実的な提案だった。


 今、エアリィオービスは、自分が帰るべきだと言った。


 もしも、本当にその逃亡への意思がくじけてしまったのであれば、その考えこそを、ぼくは尊重するべきなのではないか?

 彼女を、戻してやるべきではないのか?

 それが、真の意味で、エアリィオービスを思いやるということなのではないのか。


 もちろん、その考えが意味していたのは、彼女を無条件で『従者』に引き渡すという結末だ。

 ぼくたちが、ずっと否定していた末路だ。

 絶対に避けて、逃げ続けようと試みていたものだ。

 これまでの歩みのすべてを、無に帰する終わりでもあった。

 しかし。

 それが今や、比較的穏当な決着なのだとすれば。


 エアリィオービスは、涙に濡れた眼で、地面に茫漠とした視線を投げていた。

 カーペット代わりの耐熱用シートが破れて、むき出しになった紅い岩盤を――この天然の洞穴の、暴かれた真のすがたを、彼女は見つめていた……。


 本当に、他の道は、ないのだろうか。

 どうしようもないこと、なのか。







 やがて、エアリィオービスは泣きやんだ。


 ぼくたちは決して、口には出さなかった。

 しかし、ぼくとオービスは、ともに感じていたはずだ。

 今、ぼくたちに宿命づけられた、決定的な断絶のようなものを。

 それが簡単に埋められるものではないことも、ぼくたちにはわかっていた。

 だからこそ、言及することもできなかった。


 ――ぼくは、もう帰るよ。

 言い残した言葉は、決して多くなかった。

 オービスが落ち着いてしばらくしてから、ぼくは洞穴を後にした。

 彼女は無言で、ぼくの背を見送った。

 いつの間にか陽が暮れていたことに、洞穴を抜けて、初めて気がついた。

 これほど遅くまで彼女の場所に残ることも、今までにないことだった。

 星明りの照らす崖下の岩盤を、ぼくは慎重に進んだ。

 なるべく、傷まないように。

 体の不意の揺れや動きが、『従者』の接触痕に、響かないように。

 全身に残り続ける、苦痛の痕跡を、自分自身にさえ押し隠すようにして、ぼくは歩いた。







 傷跡は、なかった。


 帰宅後。

 ぼくは自宅のシャワー室の鏡面装置の前で、自らの地肌を晒していた。

 苦痛の記憶を辿るだけでも、胃が捻れるほどに不快だった。

 確かにあの時、『従者』と呼ばれる存在の指先は、ぼくの右肩から鎖骨の辺りを、貫いた。

 少なくとも、貫いたように見えた。

 しかし、その痕跡はまったくなかった。出血もなければ、肌に痣のひとつさえ、残っていない。

 代わりに、痛みは、残り続けた。

 もう数時間が経過したというのに、触られた箇所を中心として、全身の神経に痛みの余韻が継続して、止む気配がない。

 街の診療所や医療センターに訴えることも、できそうになかった――この症状について、どう言えばいいというのだろう? 「『従者』と呼ばれる存在が目の前に突然現れて、この辺りを、まるで気体かなにかのように指で貫いたのです」とでも?

 ふいに、家の外に続く壁の向こうから、人々の声の残響が聞こえてきた。

 もう陽も暮れてしばらく経つというのに、街の皆は活動的に作業を続けているようだ。スタッド管理官の鼓舞がもたらした影響力は計り知れない。もう少し休んだほうがいいと、勝手に思ってしまう。


 足を半分引きずったような動作で、ぼくは洗面台へと歩み寄った。

 戸棚を開き、小さな台の奥に隠された箇所に、腕を伸ばす。

 指先の感触に息を呑んだ。その瓶は残されたままだった。

 二ヶ月ほど前、ぼくが脱臼した際に医療センターで処方された、酵素阻害系の強い痛み止めだ。使用期限は切れていないはずだった。

 水をコップにとり、限度の三錠と一緒に飲み込む。

 ふと、鏡の中の、自分の顔が見えた。

 シャワー室では、気がつかなかった。

 ひどい表情だった。

 疲労困憊に神経衰弱を重ねて、怯えと畏れを加えたようだった。皮膚は青ざめており、眼は充血して、信じられないほどに落ち窪んでいた。

 自室に向かい、最低限の支度を済ませる。

 照明を手動で切ると、ベッドに潜り込んだ。




 夜闇の下で、ぼくはふいに眼を開いた。

 動悸が、収まらなかった。

 飲み慣れない鎮痛剤を、一度に三錠も飲んでしまったからだろうか。

 あるいは。


 疑問が、よぎる。

 今、ぼくが抱えている感情は、恐怖なのだろうか?

 違うような気がする。

 自分が出会った現象に対して、最低限の理性的な思考すらできないでいる――というのが、より正しいところではないだろうか?

 恐怖を感じる以前の地点に、ぼくは立っていた。




 痛み止めは、あまり効かないようだった。


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