第三章/第三話 土ねずみ、その名について大いに語る
……この辺りで。
ぼくの名前について、少しだけ話をしなければならないのかもしれない。
まず、ぼくの本名は、『ケイヴィ』ではない。
ケイヴィというのは、単なるあだ名だ。ぼく自身からすれば、やや侮蔑的なニュアンスすら感じる呼称だった。
だから、もちろん本名がある。
父さんによって与えられた、正式な名前が。
けれども、ぼくの持つ本当の名は、やたら長大な上に発音も難しい、実用には程遠いものだった。
サジタリウス語――この大宙域世界における、ぼくを含む約七割の人口が用いており、エアリィオービスにも教えている言語――においては、発音するのはもちろん、綴ることさえも難しい。
通例としては、ぼくのような長い名前の持ち主に対しては、呼びやすい省略形の愛称を使うのが道理だろう。ちょうど、ストゥディウムス管理官が、自分をスタッドと呼ばせているように。
しかしぼくは、自分に対するそうした略称を、あまり好ましく思わなかった。
というのも、ぼくの長大な本名――『真名』は、ぼくの父さんの故郷である少数言語圏の風習に基づいて構築された、一種の儀礼的な名称だったからだ。
その名は、この惑星ナピからはるか遠い宙域に存在する世界で、今現在も脈々と続いているとされる部族の言語における、ひとつの『文章』として綴ったものなのだという。
ぼくはその意味についても、よく覚えている。
幼いぼくに、父さんが、繰り返し語っていたからだ。
父さんのルーツであったその文化圏について、結局、ぼくは多くを教えてもらうことはなかった。後に調べても多くの情報は得られなかった。ネットワーク上のデータさえも、ごく限られるほどの少数民族だったからだ。
とはいえ、自分の真名の持つ意味程度であれば、ぼくも知っていた。
そして、なによりも、ぼくはその『文章』が好きだった。
長ったらしいばかりで、話しにくく記しにくい自分の真名も、しかしそこに込められた父さんの信念を思えば、替わりなどない大切なものだったのだ。
全体でひとつの意味を持つ自分の名前を、易々と省略してしまう――というのは、誰にとっても決して好ましい話ではないと思う。
戸籍上の本名が長大でも、実生活において、さほどの差し支えはなかった。
今から考えれば、それはそれで問題があるように思うのだけれども――ぼくは普段から、ぼくの父さんの名前を引用するかたちで、街の人々に呼ばれていたからだ。
父さんはぼくの生まれる前から、父さんの持つ儀礼的な真名の他に、法的に有効なもうひとつの呼びやすい、ありふれた名前――『第二名』を持っており、それが街で周知されている父さんの名称だった。
そして、父さんと暮らすただひとりの子どもだったぼくは、街における父さんの知名度も手伝って、その名で呼ばれていたのだ。いわば、二世のような具合で。
当然のこととして、その呼称には、常に父さんの影がついて回ることになった。だが、問題はなかった。むしろぼくは、その呼称を誇らしくさえ思っていた。
父さんは、ぼくに呼びやすい第二名を与えることはしなかった。ぼくが幼い時分は意識することはなかったけれども、今では推測できる――自らの部族の伝統に深い敬意を示していた父さんにとっては、呼ばれるためだけに造られた第二名の存在は、ある種の屈辱だったのだ、と。その思いを引き継がせないために、ぼくに二つ目の戸籍名を造らなかったのかもしれない。
そうして、父さんがこの世から去ってからも、ぼくはその名を引用するかたちで、人々に呼ばれ続けることになった。
しかし、およそ一年半前にメロウディア姉さんがこの星に来てから、状況は一変した。
姉さんは以前、哺乳類の一種である『土ねずみ』という生物を、どこかで見知ったらしい。まったくもって経緯は不明だが、その愛称だという『ケイヴィ』という単語を用いて、姉さんはぼくのことを呼び始めたのだ。
この、発音しやすい一方で、本人としては首を傾げざるを得ない呼称は、しかし驚くべきスピードでナピの街に広く普及してしまった。
今ではすっかり、まるで本名のような扱いだった。
街への普及を促した最大の要因は、メロウディア姉さんの惑星開発者としての地位や知名度……というよりは、単に口の多さのような気がする。
このような事情が重なった結果、誰もぼくを戸籍上の本名ではなく、『ケイヴィ』と呼ぶという状況が、街中に定着したのだった。
経緯を、踏まえてみれば。
結局のところ、『ケイヴィ』呼びが街に定着した原因の一端は、父さんの名前で呼ばれることを肯定し、また略称さえも拒んできた、ぼく自身にあるのだ。
今は『ケイヴィ』にも、やや遺憾ながら、ぼく自身慣れてしまったところがあ
った。ネットワーク上の
だからこそ、サジタリウス語の基礎すら知らなかった『逃亡者』の少女――エアリィオービスに、この発音しやすい名前で呼ばせることも、決してやぶさかではなかった。
そういえば。
崖下の
どんな話の流れだったのかは、あまり思い出せないが、ある種の礼儀として――あるいは、不格好な意地のせいかもしれない――エアリィオービスに、ぼくは自分の本名を教えたのだ。
飲み込みの早い娘であることは、その時点でも知っていた。
しかし、オービスがたった一回聞いただけで、ぼくの長大な真名を諳んじてしまったのには、流石に驚かされた。
そのようなことができるのは、これまでコンピューターを除いて他にいなかったからだ。
――素敵な音がする。
琥珀色の髪の少女は、ぼくの真の名に対して、そう言った。
まるで、当然のことであるかのように。
――その時に、感じた。
表しようもない、喜びを。
今後、決して忘れることはないだろうと、ぼくは思った。
そうだ。
これからもきっと、ぼくは憶え続けているはずだ。
やがて。
遠からぬ未来に訪れるのであろう、オービスとの別れ――その後でさえも。
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