第二章/第六話 雪かきとキャリーケース
――ナピの住居街に戻ってこられたのは、朱い太陽が天頂に輝く頃――正午過ぎのことだった。
今朝、もぬけの殻のように静まり返った住居街の姿を、ぼくはすぐにでも思い出すことができた。
しかし、外出から戻ってくると、街の様子は明らかに変わっていた。
住居街の多くの人々が、『白雪』に染まった戸外へと出ていたのだ。
声を掛け合いながら、なんらかの作業の準備に取り組んでいる。
そして聞こえてきたのは、あのけたたましい音声放送だった。市長室職員だという男性の声が、人々に有人操作ドローンの運行情報を伝えていた。
『白雪』に直接の毒性がないことが判明してから、ほぼ半日。
どうやら市は、その重い腰を上げたらしい。
有人運転による作業ドローン群が、各メイン・ストリートの降下物――『白雪』を、おおまかに除去していく。
それと同じくして、住居街の各所で待っていた街の人々へ、中央街のストレージの保管物であるスコップ等の道具が配布されていった。
繰り返し告げられる音声放送の内容を聞いているうちに、今まで外出していたぼくにも細かい事情が掴めてきた。
どうやら市長室と警邏隊が、合同計画を打ち出したらしい。街の有志を集って、街中のあらゆる道に降り落ちた『白雪』を物理的に除去することで、まずは街の交通の便を良くする――という筋書きだった。それに加えて、家の庭などや街の観測装置群からの、『白雪』の除去も行うとのことだ。
無線によるコマンド機動が使えない現状では、作業ドローン群の活動量には限界がある。そこで市庁舎は、街の人々の力を借りることにしたらしい。
ナピの街全体を挙げた、『白雪』の除去作業。
それはいわば、自由参加のボランティア活動だった。しかしナピ住居街の多くの人々は、諸手を挙げて参加を申し込んでいた。
『白雪』の除去作業は、意外なほどに和気あいあいとした様子で進行した。
ドローンの有人操作に経験者として協力する住民や、熱心に作業に徹する人も見受けられたが、とりわけ、住民同士で声をかけあいながら、手を動かす人々の姿が多く見られた。
街の人々のほとんどは、『白雪』のせいで、家にこもることを余儀なくされていた。そのフラストレーションを、近所付き合いも交えながら、健全なかたちで発散している――ぼくはそんな印象を受けた。きっと運動不足も解消するだろう。副次効果の多い、中々悪くない企画に思えた。
ぼくも、受け取ったスコップでの慣れない工程に苦労しながら、自宅と周囲の『白雪』を、徐々に取り除いていった。スコップの先端を刺すように立ててすくっていくのだが、これが思いのほか難しく、骨の折れる作業だった。
苦心しているぼくに、辻向かいの家に住む都市出身のレイオン氏が声をかけてくれた。彼によると、こうした雪の除去作業は『雪かき』といって、ある程度の無作為で天候が決定される人工環境群においては、時折なされている一種の行事なのだそうだ。全身の重心をうまく用いた、効率的な雪のすくい方についても教えてもらった。
他の近所の人々とも、作業しながら、とりとめもない会話を交わしていった――『白雪』を除けておく場所について。備蓄している食糧の件について。仕事先と連絡すら取れないことについて。例の音声放送のうるささについて。
そうした会話を、一通り終えてからは。
ぼくは口を閉じて、ひたすら、自宅周りの雪かきに没頭した。
もちろん、周囲の生活の便を良くしたい――という思いも、確かにあった。
しかし、それよりも。
――街に、戻ってくる前に。
崖下の洞穴で告げられた、エアリィオービスの言葉を。
ほんの少しでも、意識から切り離したかったのだ。
陽が落ちる頃に、音声放送と街を回る有人操作ドローン群が、『雪かき』作業の終了を告げた。
ナピ住民の総出による献身は、一定の成果を発揮したといっていい。食品の購買所を持つ
残念ながら、無線通信の妨害を打ち消すことはできなかった。しかし、こればかりは仕方がない――ごく小さな塊でさえも、『白雪』が極めて強い妨害電波を周囲に放ち続ける事実は、すでにわかっていたのだから。
作業を終えた後、街の人々の表情や口ぶりからは、ある種の満足感が見て取れた。
しかし同時に、それでも覆い隠すことはできなかったように、ぼくには思えた――皆が抱えている、底知れぬ狼狽と不安を。
『白雪』が跋扈する現状に対する、人々の不満は、多種多様のはずだ。
しかし、ぼくを含むナピ住民が通底して抱いている、ひとつの大きな疑念の正体は、もはや明らかだった。
――こうした異常な生活が、いったいいつまで続くというのか?
その答えを、市長室は、決して示すことはなかった。
◆
市長室主導により、ナピ市街の協力によって実行された、『雪かき』作業。
その後片付けも済ませて、家の中に戻ってから。
いよいよ疲労感が、ぼくの心身を占めつつある頃だった。
玄関扉が開けられて、見慣れた姿が、家の中に入ってきたのだ。
メロウディア姉さんだった。
――ようやく戻ってきた、と思った。
たった二日間開けていただけなのに、姉さんが戻ってくるのが、本当に久しぶりに感じられた。
色々なことが、起こりすぎたのだと思う。
「これまで、どこに……」
メロウ姉さんは、ものすごく慌しげな様子だった。
ソファの上から尋ねたぼくに一瞥もせずに、リビングを横切る。
やたら大きな車輪付きキャリーケースを、ごろごろと引っ張って。
戸棚の前で立ち止まってから――さっぱりと、返答した。
「開発局支部。スタッフ総出で『雪遊び』の寝泊まり会」
――あれ、と思う。
メロウディア姉さんの声音の中に、なにか――聞き覚えのない、妙なものが混じっているような気がした。
開発局支部から持ち込んできたのだろうか、やたらと物々しい旅行用のキャリーケースを転がして、時にそれを展開しながら、メロウ姉さんは黙々と作業を続けた。
自室やリビングの棚をひっくり返すように漁っては、次から次へと、道具やら工具やら記録装置やら測定器やら生活物品やらをケースの中に放り込んでいく。なぜか戸棚のぬいぐるみを吟味し、これも入れていた。
一連の回収作業を行うメロウ姉さんの様子は、やはり非常に慌ただしく、真剣そのものといった表情で、声をかける暇さえ見つからないほどだった。
不明降下物、『白雪』の解析。
その仕事を鑑みれば、実際、とてつもなく多忙なのだろう。
だが、最初に声をかけてきたのは、意外にもメロウディア姉さんの方からだった。
「……参ったよなあ。ケイヴィ君……」
リビングの棚の奥に、顔を突っ込むように覗き込みながら、姉さんは続けた。
「いやあ、流石に、この状況には……わたしも参ってる」
ぼくは、姉さんのプラチナ・ブロンドの長髪に向けて、曖昧にうなずくしかなかった。
確かに、その通りだろう。
あまりにも唐突な、無線通信の完全不通。
行政責任者のひとりである姉さんの今の負担は、ぼくには想像さえ難しい。
姉さんの背は、何気ない調子で、言葉を続けた。
「これから――ケイヴィ君も……まあ、もうちょっと大変になるかもね」
ここで。
やはり、奇妙な違和感に、ぼくの心は触れたのだ。
どう表現するべきだろうか。
まるでたった今、メロウディア姉さんが、なんらかの重要な情報をぼくに言おうとしたけれども、寸前でやめたかのような。
あるいは、告げてはいけないはずの言葉をつい口走ってしまったから、その対処を考えているかのような。
「いや、月並みな話だけどさ」
まるで、沈黙の不自然さを覆い隠すように、姉さんは続けた。
「この『雪』は結構やばいから……ケイヴィ君もこれから、しばらくは耐えてねってこと」
……なんだろう?
明瞭な表現は、できそうにない。
ただ、どうも姉さんの様子が、普段と違う気がする。
本棚の隣の棚を開けて、その奥を凝視している姉さんの背に向けて、やや躊躇いながらも、ぼくは訊いた。
「……『白雪』について、聞きたいことがあるんだけれど」
ぼくの言葉は、完全に無視された。
メロウ姉さんは本棚を横切って、ソファに座るぼくの目前も通り過ぎると、今度はキッチンの戸棚の方を黙々と漁り始めた。
――この時だった。
猛烈なショックが、ぼくの心を、いきなり殴りつけた。
――そう言ってしまって、問題ない。
茫然と、してしまった。
ガレージの方へと向かう姉さんの背を、ぼくはただ見送ることしかできなかった。
ぼくの野暮ったい質問を、メロウ姉さんが無視するのは、いつものことだ。
それは別に、今さら始まったことではない。
衝撃的だったのは、ぼくが垣間見た、メロウ姉さんの横顔だった。
惑星開発者メロウディア・ユリシーズという人間と、ぼくの姉弟が再会――幼かったぼくにとっては事実上の顔合わせ――をしてから。
もう、二年近くが経過している。
それからほとんど毎日、この家で衣食住を共にして。
たった今、ぼくは初めて見た。
メロウディア姉さんが、その顔に浮かべていたのは。
すぐにでも倒れんばかりの、疲弊の表情だったのだ。
ようやくここで、
ぼくの脳裏に、ある回答が閃いた。
姉さんの疲れきった面持ちを、合理的に説明できる、ひとつの答えを。
――『使えないの』?
尋ねることさえ、はばかられた。
間抜けでも、わかることだったから。
この星は今、大規模通信妨害の真っ只中にある。
メロウディア姉さんは、今、使えないのだ。
惑星ナピを周回する計八機のヘカテー衛星を自在に操る、惑星開発者のみに与えられた固有能力を。
この星の地上ならば、どんな箇所すらも自由自在に操り、破壊することのできる、絶対的な地形変動能力を。
惑星開発者が、惑星開発者である所以を。
特権の不在。
その事実が姉さんの精神に、どれほどの影響を与えるのか。
惑星開発者ではないぼくにとって、想像するのは難しかった。
しかし。
ひとつだけ断言できる、事実がある。
メロウディア姉さんは、今、疲れ切っていた。
◆
まるで盗賊じみた、自宅の荷物漁りを済ませた後。
メロウディア姉さんは、重くなったキャリーケースを転がして、すぐに家から出ていった。
陽が暮れてから、四回目となる市長室の定期音声放送が、ナピの市街を駆け抜けた。
『白雪』の捜査に、大きな進展は見られなかったという。
夜闇が心を蝕むような気がして、ぼくは衝動的にベッドからまろび出た。
半ば四つん這いの姿勢で、自室の床を進んでいく。
暗闇を両手で掻き、ようやくコントローラーの位置を探し当てると、衝動的に照明のスイッチを指先で押した。
ぼくの自室は、電灯の光に満たされた。
闇は、消え去った。
……そして、つい今まで、床を這い回っていた、ぼくの手が見えた。
自作の拙い照明操作用端末も、床に置きっぱなしにしてしまっていた工具も、通信不通のコンピューター端末も。
窓の先に、夜闇においてさえ視界に侵入してくる、『白雪』の輝きも、見えた。
――なにをやってるんだろう、と思った。
点けてしまった電灯をすぐに消して、ぼくはベッドへと戻っていった。
毛布を被って、眼を瞑る。
心から、情けない、と思う。
ぼくの不安と焦燥は、この夜闇にすら耐えられないのか。
なにひとつ、意識したくなかった。
今すぐにでも、眠りの中に落ちたかった。
――今日の昼。
あの崖下の、洞穴の中で。
ついに諦めがついたという、面持ちで。
エアリィオービスが、ぼくに向けて放った言葉を、思い出したくなかった。
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