第二章/第三話 ガソリンエンジンの従者たち
――最初は、絶対に見間違いだと思った。
今でさえ、そう信じたい。
それは。
光に満ちた崖下で、エアリィオービスへと別れを告げてから。
紅い岩々と砂の平原がひたすらに続く、ナピの荒野。
茫漠とした大地の上で、機体を進めながら。
謎の降下物、『白雪』による無線通信妨害の影響の大きさや、自分が家に帰った後にまず行うべきことなどについて、ぼくは考えを巡らせていた。
辺りに立ち込める風が、徐々に強くなっている事実については、認識していた。
紅い砂埃が目前の地上から舞い上がり、ホバーに乗るぼくの周囲を、壁のように覆い始めていたのだ。
惑星ナピの気流は、同系統の惑星に比べれば安定している。
少なくともぼくの暮らす街の近辺――ナピの赤道直下においては、時たま風に乗った砂埃が、こうして荒野の中に現れる程度だった。
一日を通して砂嵐が吹き荒れ、強風と砂塵のために外出ができない……そのような日が存在しないとは言えなかったけれども、ごく稀なことだった。
定められた規模以上の強さの砂風については、ぼくの全身を纏うネクタル・フィールドが、ガラス壁のように常に防護している。だから、ほとんど問題はない。
しかし、砂埃による周囲の視界悪化は、ネクの主要機能の管轄外だ。
辺りが見えない状況における
とはいえ、現在のぼくの目的地は、ここからまっすぐ進んだ先のナピの街だ。
別段の操作や、高度なナビゲーションが必要になるわけではない。
周囲に舞い上がった、紅砂の壁。
ぼくは、それらを特に気にすることもなく、運転を続けた。
ありふれた、ごく単発的な砂塵だと、そう思っていたからだ。
――だからこそ、最初は。
見間違いであると、信じた。
紅い大地から吹き上がり、旋回する砂風の、巨大な柱。
――その内側に。
得体の知れない、なにかがいた。
違和感に、眼を細める。
ほぼ反射的な動作で、レバーを手動操作していた。
紅いヴェールに隠された、暗い色のそれを。
ぼくは、視認しようと、試みた。
ふいに。
砂風が弱まり、紅色の幕が薄れた。
ぼくの視界に、一瞬だけ、入ってきたものは。
ふたつ、あった。
暗黒色の、大きな物体。
そして。
その隣に佇む、異様なまでに細長い、人影だった。
――ありえない。
確信した時には既に、濃厚な砂塵が、再びぼくの周囲を覆い隠していた。
風は、急速に激しくなっている。
ふと、空を見上げた――砂嵐は、ナピの強烈な太陽さえも押し隠して、深い影を大地に展開していた。
吹き抜ける猛風を、肌ではなく、視界で感じながら。
それの見えたところに、ある程度の距離を置いて、停止した。
手慣れた停車手順にまごついてしまったのは、勢いを増し続ける風量のためだけではないだろう。
認めざるを得ないところが、あった。
ぼくは、動揺していたのだ。
――絶対に、ありえない。
ごく自然な、思考のはずだった。
ここに見知らぬ人が、いるはずがないのだ。
移住開始からたった二十年程度しか経っていない、開発途上惑星、ナピ。その住民人口は、たった五百数十名だ。
街を抜けて、荒野にまでわざわざ出てくる人などは、その中でも更に限られる。
ナピの大地の圧倒的な広さを踏まえれば、偶然他人と出くわす可能性などは、皆無だと断言できた。
街が『白雪』に包まれて、人々が街の中の外出さえ躊躇う現状では、尚更だろう。
崖下の空間とエアリィオービスと別れてから、ここまでの進行距離は、まだ十一キロメートル――ナピの街は、まだ遠いのだ。
いったいどんな人間が、ここにいるというのか。
谷間から帰ってくる、ぼくの進路上に。
なにかの、見間違いだ。
今、見えたのは、人ではない。
そう、思いながらも。
ぼく自身、もはや、心のどこかでは理解していた。
「今のは人間ではない」と、念じたのは。
そうであるように――という願いだった。
一種の、祈りでもあった。
こんなところに。
ぼくを待つ人物など、いるはずがないのだ。
もし、いたとしたら。
それは――。
束の間。
紅い砂嵐が唐突に静まって、ぼくの視界が大きく開けた。
今度こそは、ふたつの違和感の正体を、はっきりと視認した。
平たい形状の、金属製と思しき、暗黒色の物体。
その異様な造りに、つい目を奪われてしまう――横に平たく、ぼくよりも高さは低い。
下部には、驚くべきことに複数のゴム製の車輪、タイヤが装着されていた。
あれは……車両、なのだろうか?
仮にそうだとしたら、あれほど不可解な形状の車体もないだろう。
少なくともこのナピで走行させるには、機能的合理性にまったく欠いていた。金属で包まれた姿はまるで宇宙船だ。どう見ても、運転時の視界が悪すぎる。
それに、あの規模のゴムタイヤでは、ナピの荒い大地ではすぐに破損してしまう。この星で車両を運行するならば、ごくありふれた技術のひとつ、低出力のフィールド浮揚機構を用いるのが最適のはずだ。
第一、そのような、不向きな車両で。
いったいどうやって、この荒野の真ん中まで来たのか。
そして。
黒い車両の傍らに、佇んでいたのは――人間だった。
未だに紅い砂風の幕に覆われて、委細が見えたわけではなかった。
しかし、細長いシルエットは、疑いようもなく、人のかたちをしていた。
体型から推測するに、背の高い男のようだった。ハットに礼服、スラックスから靴に至るまで、すべてが隣の車両と同じ、黒い衣装。
歴史資料に出てくるような格好だったが、整った身だしなみと、称することもできた。
ただひとつ。
その、顔面の。
複雑怪奇な文様が刻印されている、白い仮面を、除きさえすれば。
ぼくは、やがて、理解する。
出会い頭から、ずっと。
男の被った、その仮面の先が。
こちらへと、向けられていることに。
――こいつは、ぼくを、待っていた。
仮面の男は、直立していた。
吹き荒れる砂風の只中においても、まったく動じる気配を見せない。
まるで、風など存在しないかのように、佇んでいた。
そして、ここでようやく、ぼくは気がついた。
奴が、ひとつの物体を、両手に抱えていることを。
まるで、ぼくに見せつけるように。
それを見せることが、奴の目的であるかのように。
眼を凝らす。
しかし、砂風のヴェールのせいで、その委細は視認できない。
心に満ちる動揺と狼狽を、懸命に払い除けて。
ぼくは、仮面の男の持つ、その物体の正体を。
たった一目でも見ようと、近づいた。
一歩。
また、一歩。
そして、また一歩と。
紅色の霧に覆われた、揺らめく影へと、ぼくは――。
瞬間、一陣の猛風が、周囲を吹き抜けた。
これまでで、最も強烈な風だった。ぼくのネクタル・フィールド・ジェネレーターが声なき悲鳴を上げて、反発しきれなかった風圧が、ぼくの頬へと吹き付けられた。
固く眼を瞑り、腕を上げて、顔を塞いだ。
それから、たった二度の呼吸が過ぎた頃には。
風は、完全に止んでいた。
ぼくは息を呑んで、眼を開いて。
荒野を、見渡す。
つい今まで、あれほどまでに吹き荒れていた砂嵐は、忽然と姿を消していた。
視界は、とても明瞭だった。
ぼくが後ろに停車した
だからこそ、信じられなかった。
目前にいたはずの、仮面の男が、消えていた。
あの黒い車両すらも、まるで嘘のように、荒野から消失していたのだ。
砂嵐に、吹き消されたかのように。
そして。
ぼくには、見えていた。
最後の砂風が、吹き荒れる直前の、一瞬に。
不気味な仮面の男が、両手に抱えていたものの、正体が。
そこに書いてあった内容を。
ぼくが視認し、理解した、その瞬間から。
ただ、大地に立ち尽くすしか。
ぼくが成せることなど、もはや存在しなかったのだ。
――わかってみれば、それは見慣れた物品だった。
黒衣の謎めく男が腕に抱えていたのは、文字や絵を書くために使うことができる、簡素な仕組みのスレート端末だ。
エアリィオービスが。
崖下の洞穴の中に保管していたものと、まったく同じ形状のものだった。
そして。
まるで幼児が書き殴ったかのような、きわめて不格好なサジタリウス語で。
以下のように、記されていた。
『我らが/目的は/ただひとつ
我らが/姫/エアリィオービスを/我らに還せ
応じれば/貴様を/赦そう
その命を/奪い/は/すまい』
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