第二章/第二話 そして白雪が街を包んだのだ 2


 ナピの住居街は、奇妙な静寂に満ちていた。


 街に住む人々は、自らの家から出ようとしなかった。

 その感情は、住民のひとりとして、ぼくも大いに理解できる。

 今朝、目覚めた時には街中に降り落ちていた、冷気を放つ堆積物。

 通称、『白雪』。

 この、あまりにも得体の知れない物体について、明瞭なことがなにひとつ判明していないのだから。

 いったい、なぜ降ってきたのか。事故の産物なのか、何者かの故意によるものか。そもそも、どのような性質を有する物質なのか。毒性の有無は。同時に発生した、無線通信妨害との関連は……。

 言ってしまえば、謎しかないのだ。


 このナピの街では、食料品や生活必需品を移動させる運搬キャリードローン群が常時運行している。無線通信によるコマンドと自律運行プログラムに従って街を回る、この社会ではありふれたものだ。

 街の市長室は、先ほどのスピーカー音声による発表の中で、それらが活動不能になっていると宣言した。

 運搬ドローンの運休は生活の様々な面に影響を及ぼすが、他のなによりも家々への食糧供給へのダメージが懸念された。とはいえ、喫緊の問題ではないように思えた。ナピの街のすべての家庭には、停電時のようなライフラインの機能不全状態に備えて、非常食が用意されている。

 ぼくの家にも、買い置きは十分にあった。今日や明日、飲食物に困窮するような事態に陥ることはない。

 少なくとも現時点では、電気も水道も平常通りなのは、幸いだった。

 とはいえ。今後も長期にわたって、この『白雪』が街から片付かず、通信妨害も継続する――そう仮定すると、今後の課題は山積みといえた。

 なにも、ぼくに限った話ではない。

 ナピに暮らす人々の皆が、事態が長きにわたるという可能性に、怯えているはずだった。


 午前九時にあった、市長室からの音声放送。

 その終了後、ぼくはあらためて家の設備をチェックして、自分なりの『白雪』に関する調査を行い、今後の対応策をまとめた。

 まず、家のガレージの奥から、ポータブルタイプの無線信号測定計を引っ張り出してきた。表面の紅砂を拭うと、無骨なデザインがはっきりと見えた。懐かしかった。かつて父さんに与えられて、子どもの自分の玩具代わりに遊んでいたものだった。

 家の中をめぐり、ダイヤルを回しながら、複数の周波数帯における電波強度と信号の性質を確認していく。

 その結果、無線通信妨害の原因となっているノイズ信号の出処は、やはり街中の堆積物――『白雪』である、と考えるのが妥当のようだった。

 動作や原理などの、システマティックな理屈は、まったくもって不明だ。

 しかし明らかになった事実は、重大かつ、深刻なものだった。

 戸外の適当な箇所から取りだした、『白雪』の、ほんのひとつかみ分。

 たったそれだけからでも、この社会で一般的に利用される電波の周波数帯――マイクロ波から超長波までに至るまでに範囲――の大部分に対する、著しいほどのジャミング信号が、継続的に検出されたのだ。

 電波を利用する機器の無線送受信機能を、まったくの不全に陥らせてしまうほどの、強烈な大出力だった。


 今後の対応について、メロウディア姉さんと相談したかった。

 けれども、姉さんこそ中央街の開発局支部で、この妨害電波を放つ『白雪』なるものについて、街の専門家とともに調査中のはずだ。

 ナピの街を広く繋ぐ情報網である無線ネットワーク網のすべてが断絶している現状では、自宅から連絡のしようもない。

 仮に直接開発局に出向いたとしても、ぼくに取り次いでくれるかどうか。


 ……それならば。

 ぼくは、街を抜けて、ある場所に向かうことに決めた。

 エアリィオービスの待つ、崖下に。


 あの少女は、ぼくの他に頼るつてが、まったく存在しない。

 このような異常事態に際して、オービスの様子を見に行くのは、ぼくの義務であるようにすら感じられた。

 外を歩くことに、躊躇いがなかったわけではない。

 市長室の言うとおり、今は家で待機するのが賢明なのだろう。『白雪』がなんらかの毒性を持っており、接触や接近が肉体へのダメージをもたらす可能性は、現時点では決して否定できない。

 しかしそれに反して、ぼくは信じてもいた。

 人体に悪影響を及ぼす、あらゆる外部環境を自動的に遮断する、銀河系人類文明における最大の発明品のひとつ――ネクタル・フィールドの能力を。

 たとえ『白雪』が毒性を持っていたにしても、その微粒子程度をネクが防げない道理はない。それに、包視界ホロに投影させたフィールド周囲の環境情報を読む限り、少なくとも大気中に『白雪』由来の粒子は噴出していないようだった。

 また、降雪物の放つ通信妨害のノイズは著しく強力だったが、流石に人体に影響を与えるほどのゲインではなかった。

 ――行けない、ということはないはずだ。

 ついでに、正直なところを言ってしまうと。

 現状での街の外の様子も見てみたい、という好奇心が、ぼくの中に芽生えていた。


 そう決めたのは、容易かったものの。

 一人用浮揚機ソロ・ホバーを家の車庫から出すことすらも、この状況では一苦労だった。

 まず、無線信号を用いる車庫の扉が、自動で開かなかった。だから家の倉庫にあった錆びたジョッキを使って、腕力とてこという、極めて原始的な手法を用いて開く羽目に陥った。

 通信妨害を認識してから、まだ数時間しか経過していない。しかし、この社会への無線制御系技術の普及を、ここまで思い知らされた数時間もなかった。

 ホバーは、問題なく起動した。無線通信を介するナビゲーションや自動運転などの機能については、やはり「通信範囲外」と表示されていたものの、手動での運転については差し支えないようだった。他の家電機器と同様だ。

 得体の知れない『白雪』の上を、フィールド由来の反発浮力を用いて進むことに、一抹の不安を覚えながらも。

 自らの浮揚機ホバーの頑強さを信じて、ぼくは自宅を後にした。


 路面も、家々の庭も、柵も、屋根の上も、給電用ソケットも、観測機器群も、

 街のなにもかもを、

 『白雪』は、己の色彩で、塗りつぶしていた。


 朱色の空からの陽光を、『白雪』の表面は間断なく反射した。

 住居街の大通りは、奇妙な光芒に満ち溢れていた。

 ぼくの家から離れても、街は一様に白変していた。地上のすべてが堆積物に包まれているがために、まるで同じ形状の別世界のようだ。

 堆積物をすべて除去するためには、かなりの手間と時間を要するだろう。


 街を包み隠す白色は、あまりにも、徹底的で――まるで『白雪』が、この惑星のすべての地上を覆ってしまったかのように思われた。

 しかし、浮揚機ホバーを駆って、ナピの街を抜けてから、ほどなくして。

 その懸念については、間違いだったことが判明した。

 周囲に強力な妨害電磁波を発生させている物体――『白雪』の堆積は、街を離れて数分後――およそ六キロメートルの辺りから、段々と少なくなっていき、やがて見慣れたナピの紅い岩肌が露出したのだ。

 一度、ホバーを留めて、白い雪と紅い岩の境界線へと、ぼくは振り向いた。

 ぼくの視界の奥――地平線と朱色の空の間には、先ほどまでぼくがいた、ナピの街のシルエットが浮かんでいる。

 ひとつの仮説が、思い浮かぶ。

 ――『白雪』の堆積は、ナピの街を中心としているのではないか。

 市長室の音声放送によれば、この奇妙な降下物は、昨夜の午前三時頃に降ったのだという。

 そして、その対象地域が、街とその周囲に限られていたのだとしたら。

 やはり、人為的な気配を感じてならない。

 『白雪』の降雪範囲の図面――上空からの写真を見たかったが、現時点では明言はできそうになかった。

 コンソールを捜査して、浮揚機ホバーの動作を再開させた。

 分子コンパスの情報を頼りに、ぼくはオービスの待つ谷間に向けて、機体を走らせていく。


 『白雪』の消えた紅い荒野を、更にしばらく進んでから。

 もうひとつ、あることに気がついて、ぼくは眼を見張った。

 浮揚機ホバーに付属する無線通信機能が、部分的に回復していたのだ。

 街のセンターとのデータ通信そのものは、依然として断ち切られていた。しかしホバー自体が有する通信機能は、正常状態に戻っていた。つまり、ぼくが今持っている、すぐ近くの機器との通信については復活していたのだ。

 いったい、どういうことなのだろうか。

 しばらく考えてから、唯一と思しい、そして単純な条件が浮かぶ。

 ――距離?

 ぼくはホバーを街の方へとターンさせて、『白雪』の降雪範囲へと接近しつつ、コンソール上の通信情報を確認した。

 事前の予想通り、ある箇所まで近づいたところで、接続は再び断ち切られた。

 何度か、このようなテストを繰り返した結果――簡潔ながら、ひとつの推論を立てることができた。

 『白雪』が、その通信妨害の効果を徹底的に及ぼすのは、周波数帯にも依存する可能性が高いが、受信側からは三百メートル程度に限られていたのだ。

 少なくとも、浮揚機ホバーのコンソールのデータ通信が用いる周波数帯においては、この範囲と断言できた。そこから、妨害信号が急速に減衰したからだ。

 端から端までが『白雪』に覆われた街の中では、わからなかったであろう情報だ。

 つまり、この惑星ナピという世界から、無線通信という技術の一切合切が失われてしまったわけではないのだ。

 現時点で、ナピの街の市長室や、開発局支部――メロウディア姉さんと部下たちが、『白雪』の性質をどこまで把握しているのかについては、ぼくにはわからない。

 おそらく、この効果範囲については、とっくに認知しているはずだ。

 それでも、自分で新情報を得た事実に対しては、誇らしい気持ちが、少しだけ湧かなくもなかった。







 

 街になにが起ころうが、朱色の空は、今日も変わりない。

 熾烈な陽光が、荒野の一帯に降り注いでいた。

 適当な岩肌の上に一人用浮揚機ソロ・ホバーを留めて、ぼくは息を吐いた。

 眼前に広がる、大地の亀裂を前にして。

 ここも、いつもどおりの光景だった。

 ナピの街がまさに白変してしまった一方で、この谷間には、変化らしいものはまったく見られなかった。ここに立っていると、街にあの『白雪』が降った事実さえも、夢か幻のように思えてしまう。

 この地点まで来れば、コンパスと地図によるナビゲーションも必要ない。

 今日までの四十日あまりの期間、ほとんど毎日、ぼくはこのルートを通っていたのだ。谷間周りの地形は、すっかり覚えてしまっていた。

 地上と地下をつなぐ斜面は、断崖全体の端に位置している。滑落に注意しつつ坂を降りながら、ぼくは崖下の空間を視界に収めた。

 やはり、普段と同じ――光の踊る庭園が、広がっていた。

 二枚の断崖とその滑らかな岩肌が、ナピの朱い太陽よりの光芒を目いっぱいに受け止めて、地上の大地よりも明るいほどに、閉ざされた空間の全容を、鮮烈なまでに顕していた。

 とりわけ風のない、静かな日だった。

 崖の底の岩盤プレートに靴の底が乗ったのを、目視で確認してから。

 周囲へと、ぼくは耳をそば立てた。

 そして、ある違和感に気がついた。


 ……静かすぎる。

 この先に洞穴どうけつに潜む少女――エアリィオービスは、その周囲への警戒心のためか、非常に音に敏感だった。

 ぼくの足音程度であれば、数十メートル離れた洞穴の中からでも、簡単に聞き取ることができるらしい。

 そして彼女も、ぼくの来訪に慣れていた。

 こうして崖下へと降りてくるぼくを、まず聴覚で認識する。そして斜面を下る足音を聞き取るやいなや、彼女はたちまちねぐらの洞穴を抜けて、この光の庭園まで翔けてくるのだ。

 最近ではそれが、彼女の日課になっていた。

 しかし、そのエアリィオービスの姿が、今日は見えない。

 声すら、聞こえない。


 胸の底に違和感を覚えながら、ぼくは崖下の岩盤を足早に進んでいく。

 足元の岩盤プレートが何層か低くなった箇所を踏み越えて、大きく横に突き出した岩の隣を抜けると、洞穴の暗い入口の見える、小さな高台のような箇所へと辿り着く。

 やはりそこにも、オービスの姿はない。

 洞穴の向かい側、地面の低く落ち窪んだ箇所へと、視線を向けた。

 この崖下に辿り着くまでに、オービスが搭乗していたという、小型運搬船――彼女によれば『ネペンゼス』号というらしい――の黒焦げた残骸は、普段どおり、そこに転がっていた。

 琥珀色の髪の少女は、そこにもいない。

 ぼくの内側で。

 少しずつ、不気味な予感が膨らんでいった。

 目をつむって、落ち着こうとする。

 いや、考え過ぎだ。

 洞穴に向けて歩みながら、ぼくは自分の呼吸を知らず整えていた。

 壁に開いた、暗闇を覗き込む。

 自分に、言い聞かせようとした。


 ――他の、どこにもいなかったのだ。オービスは、洞穴の中で待っているに違いない。それが彼女の日常なのだから。ぼくの足音を察知して来なかったのは、単なる偶然だ。

 そうだ。

 あの『逃亡者』の少女と、街に降った『白雪』には、なんの関係もない――。


 ふと。

 洞穴の奥底から、音が聞こえた。


 声では、なかった。

 まるで、固体をぶつけるような……あるいは、砕いて挽くような……もしくは、砂風の擦過音のようにも、思えた。

 ――エアリィオービス?

 小声で、彼女の名を呼んでしまう。

 洞穴の闇は、ついぞ、ぼくに応えなかった。

 ハンディ・トーチをバッグから取り、慎重に足元を照らしつつ、紅岩で覆われた洞穴を進んだ。

 たった十歩が、これほど長く思えるものだろうか。

 深く大きな息を、ゆっくりと吐き終えるのと、ほぼ同じくして。


 ――まるで岩肌に沿うように歪められた金属製フレームの柱、闇の中に視界を造り出す万色の小さな照明たち、宇宙船から運び込まれた謎めく機械類、洞穴の奥に壁のように積まれたコンテナ群、家具代わりに使われている雑貨物、ぼくが印刷したサジタリウス語学習ドキュメント、そして、その他のさまざまなもの――。


 エアリィオービスの『部屋』。

 その入口に、ぼくは辿り着いた。


 全身の皮膚が、凍りつくような気がした。

 オービスの姿が、見えない。

 そして。

 あの不可解な音が。

 今度は、明瞭に、聞こえた。

「オービス!」

 ぼくは、思わず叫んでいた。

 小走りがすぐに疾走へと変わり、『部屋』を一足飛びに横切ると、音の発生源、金属製の大きなキャビネットの裏側へと、回り込んで――。


 エアリィオービスは、そこにいた。


 しかし。

 彼女は、ぼくが今までに、一度たりとも見たことのない状態と化していた。

 濡れていた。


 小さなコンテナを桶代わりにして、オービスは、その琥珀色の髪を洗っていたのだ。




 エアリィオービスが、かなりの綺麗好きであることは、以前から知っていた。

 以前に述べたとおり、彼女は老廃物が体内からほとんど出ないという、驚異的な代謝能力の持ち主だ。

 その上、外部からの汚れに対しても、オービスは十分な注意を払っていた。

 彼女の暮らしている崖下の空間は、ナピの地表に比べて風こそ少なかったが、それでも砂埃は皆無ではない。この場所で過ごしていれば、嫌でも服や髪への汚れは蓄積されていく。

 オービスが普段から纏っている、例の『一枚つづり』の白い服は、どうやら同じ型のものを交換しているらしいことも、ぼくは知ることになった。前日に見られた砂汚れが翌日は消えているようなことが、何回か見られたのだ。


 そして今日、彼女の自己管理についての新たな情報を、知ることになった。

 エアリィオービスのもっとも顕著な特徴といってもいい、グラディエーションを抱く、琥珀色の長髪。

 どうやら彼女は、それを毎朝洗っているのだ。

 今回のぼくの来訪が、普段よりもかなり早い時間だったと気がついたのは、しばらくしてからだった。

 彼女はその時、飲料用の水のボトルをふんだんに使って、洗髪していたのだ。

 普段は肩の辺りでひとまとめにしているのを解き、軽く乱れた髪から水滴をしたたらせて。

 桶代わりのコンテナから、その濡れた貌を上げた、エアリィオービス。


 眼を合わせた瞬間には。

 悪い予感が外れていたことに、心から安堵しつつも。

 なかなか、気まずい思いをした。


 オービスが『部屋』に持ち込んでいた、複数の巨大装置群。

 それらについては、四十日以上が経過した今になっても、正体不明のものばかりだった。発電機からの電線は通っているようだったが、オービスが動作をさせている様子すら、見たことがなかった。

 しかし今日、その中のひとつ――ぼくの背丈よりも大きな、直方体の青い装置――の正体が、ついに明らかになった。

 ヘアドライヤーだった。

 側面に開いていた、横に細長いスリット状の穴。そこにエアリィオービスが自らの髪を入れると、自動的に乾かすと同時に整えてもくれる――という、すぐれものだったのだ。

 ある意味、予想外の正体ではあった。

 それにしても、と思う。

 ただのドライヤーにしては、あまりにも大規模に過ぎないだろうか。

 オービスの所属する文明の価値観に対しては、このようなかたちでさえ、ぼくのそれとの乖離を認識させられる。

 快適そうな表情を浮かべて、物々しい装置に髪をくすぐられているオービスを見ながら。

 ぼくは『部屋』に置かれた、他の装置群も見渡す。

 これらも実は、他愛のないものなのかもしれない。


 エアリィオービスが、午前の日課であった洗髪とドライを済ませた後。

 ぼくは、ナピの街に突如降り注いだ、『白雪』という前例のない存在について、そして引き起こされた謎の電波通信妨害と、街が陥ってしまった事態について。今朝目覚めてからこれまでのことを、彼女に打ち明けた。

 我ながら、少し熱っぽく話してしまったと思う。

 そんな、ぼくを前にして。

 琥珀色の髪の少女が示した反応は、呆れてしまうほど、あっさりとしたものだった。

 ――それが、いったいどうしたの。

 そう言わんばかりの、様子だった。

 ぼくの方も、彼女の憮然とした反応を見ながら、次第にわかってきた。

 不明降下物、通称『白雪』と、全面的な無線通信妨害。

 それらによる、オービスの日々の生活に対する影響は、皆無なのだ。

 まず、あの堆積物が降ったのは、ナピ市街とその周囲に限られていた。この谷間には、雪片のひとつも見られない。

 しかも、さきほど調べた限りでは、『白雪』が通信妨害の効果を及ぼすのは、数百メートルの範囲に限られていた。

 この谷間は、街からおよそ三十キロメートル離れている。

 ならば、オービスが『白雪』に怯える必要など、あるはずもない。

 そもそも、認知すらしていない。

 更にその上に、思い返してみると――エアリィオービスという少女が、この崖下における一種のサバイバル生活の中で、無線通信という技術に一度も頼っていなかったことに、ぼくは初めて気がついた。

 仮に、『白雪』が、街から離れたここにまで電波妨害を及ぼせるとしても、彼女の暮らしには、まったく差し支えないのだ。

 そこまで踏まえれば、彼女がきょとんとしているのも、当然の話なのだった。

 知りもしなければ、影響もないのだから。


 ――ナピの街が急遽置かれた状況や、『白雪』と呼ばれる物体の特性や、無線通信の妨害について。

 エアリィオービスに向けて、そうした情報を口頭で伝えることに、もはや、大きな問題はなかった。

 彼女のサジタリウス語は、この四十日間あまりで、目覚ましく上達していた。

 出会った当初、一人称すらわからなかった頃に比べれば、素晴らしい進歩だった。

 ナピの街の擁する通信システムや、『白雪』の外見などについて、彼女はいくつかの質問をぼくに行った――もちろん、それもサジタリウス語で。

 この話題について、オービスはあまり関心を抱かないようだった。

 彼女は、『白雪』の存在さえも知らなかった。

 その事実に、ぼくは内心、ほっとしていた。

 とりたてた、根拠はない。

 ただ、遠い世界からこのナピに降り立った『逃亡者』である彼女と、やはり惑星ナピの外部からもたらされたと思しいあの堆積物に、なんらかの関係性があるような予感が、ぼくの心の中にあったのだと思う。

 結局のところ、それも、ぼくの冴えない予感の産物だったらしい。

 メロウディア姉さんのような、ある種の鋭い人物には、どうにもぼくはなれそうにない。




 ともあれ。

 今日は、いつものサジタリウス語の授業は行わないことにした。

 ――なるべくここには足を運ぶことにするけれども、街があんなことになってしまった以上、来られなくなる日も増えるかもしれない。あと、今後この崖下にも『白雪』が降ってくる可能性はある。その場合は、決して触れたり、近づいたりしないように。

 そういったことをオービスへと伝えて、ぼくは洞穴を立ち去った。

 エアリィオービスの生活ぶりは、まったくの例外といって、差し支えない――『白雪』による一般的な生活への影響の大きさは、計り知れないところがあった。ぼく自身、これから行わなければならないことの多さを痛感していたし、あの音声放送のような形態ではないかもしれないが、今後も市長室からのアナウンスは続くだろう。

 このいざこざが片付くまで、言語の授業は、再開できそうになかった。


 地上までをつなぐ坂道まで、後ろについてきたオービスに向けて。

 あらためて注意してほしい旨を伝えてから、ぼくは崖下の空間を後にした。

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