第一章/第十話 静寂なる夜を越えて


 ――そして、崖下の少女・エアリィオービスとの邂逅から、四十日あまりの月日が過ぎた。


 


 ◆


 


 エアリィオービスの文化の持つ異質性には、今でもしばしば驚かされる。

 そしてぼくにとってそうであるように、オービスにとっても、こちら側は別世界だった。彼女は最近、ぼくたちの生きる社会にも好奇心を示すようになっている。

 谷間の北東にあるナピの街の様子や、ぼくたちの生活について、ぼくはなるべく簡単な語彙を使って、彼女に教えた。

 エアリィオービスは、かつて自分が所属していた世界について、やはり決して口を開くことはなかったし、ぼくも彼女の秘匿の徹底を理解していた。

 ただ、ぼくが前述したような崖下での彼女の生活ぶりや、彼女の驚くべき生体能力については、見知る機会もあった。

 それを介して、オービスの所属する謎めく文化圏についても、断片的だったが知り得たこともある。決して体系立てた知識ではなかったし、原理すら不明なことばかりだったけれども、それでもぼくは満足していた。


 ぼくの崖下への訪問は、徹底して昼間の数時間のみに限定していた。

 あくまでも、『地質学I』のレポート用のセンサー回収と設置時間という名目で、街外れの地割れくんだりまで来ているのだ。オービスのところに長くいたい気持ちは山々だったが、メロウディア姉さんに怪しまれたら元も子もない。

 ぼくたちに割り当てられた時間は、決して多くはなかった。文化交流――あるいは雑談と称してもいい休憩時間のほかは、ひたすらサジタリウス語の学習だ。

 その繰り返しが、現在までの四十日間の素描だった。


 エアリィオービスは、時折、あの洞穴の外に出て遊ぶことがあった。

 彼女の運動神経は高く、その疾走にぼくが追いつけないことはしばしばだった。

 しかし、陽光の輝く崖下の世界を抜けて、ナピの荒野へと上がってくることは、一度たりともなかった。


 言語習得という領域においては、彼女はとても優れた生徒だった。

 ぼくはこれまで、ナピの街の子どもたちに家庭教師として何度か教えたことがあるが、ぼくが教えてきたどの子よりも、オービスが優秀な記憶力を持っていた事実に疑いの余地はなかった。たった一度きりで、動詞の難解な格変化や長い単語ビッグ・ワードを覚えてしまうのも、彼女には日常茶飯事だったのだ。

 そしてオービスは、言葉の学習にとても熱心だった。物事を覚えることにおいて、熱意を抱いて学ぶ姿勢は、もっとも大切な要素のひとつだと思う。その学習に対する一定の理想と心意気がなければ、結果的な記憶にもあまり結びつかないのは、ぼく自身がよく経験している。その点についてもエアリィオービスは申し分のない生徒で、ぼくもとても教えがいがあった。

 サジタリウス語学習をはじめて二十日が経過した頃には、前述したとおり、例の板型スレート端末を使った単語学習のみでは物足りなくなってきた。ぼくは幼児教育に使う学習用のドキュメントを購入、印字して、オービスのもとへと持っていくようになった。

 データの受け渡しやホロ投影といった技術が使えない以上、オービスに情報を残すためには、直接紙に印刷しておく他に手段はない。街の公共ホールのプリンターを用いて、人目を気にしながら、ぼくは逐一印字していった。オフライン端末だったが、その印刷ログも随一消していった。

 ぼくが来訪していてる時間帯には対面の発音・発話学習を、その他の時間帯はスレート端末と印刷テキストを使って、オービスはとても精力的にサジタリウス語を吸収していった。

 彼女はサジタリウス語の学習を、ひとりの生徒として、とても楽しんでいた。少なくとも、そう思えた。


 ……一方、教え手であったぼくの方は、どうだったのだろうか。

 別の言語世界からの来訪者たる彼女に、母国語を教えていく――そんな連日の行為に対して、不思議な充足感を覚えていたことは、決して否定できない。

 それは、オービスのサジタリウス語社会における自立を促すと同時に、ぼくたちの精神的な距離を埋めてもいたからだ。

 オービスが新たな言葉を知るごとに、彼女の思っていること、考えていることが少しずつ明らかになっていった。そしてそれは、オービスにとってのぼくも同じだった。

 彼女がサジタリウス語を覚えるにつれて、ぼくたちのコミュニケーションは円滑に、そして内面的になっていった。


 それにしても。

 こうして、洞穴でのサジタリウス語の授業を続けていった先に、この『逃亡者』の少女の身に、なにが待ち受けているのかについては、いまひとつ判然としなかった。

 あるいは、これはもっと、単純な話なのだろうか。

 ぼくは、あの奇妙な洞穴における、琥珀色の髪の少女とのやりとりに、得難いほどの満足感を覚えていて。

 だからこそ、将来のことなど、考えたくなかったのかもしれない。


 


 閑話休題。

 メロウディア姉さんが独断専行した自宅の改装は、もう完全に終わっている。家を半壊にまで持ち込んだのに、結局外見に大した変化がなかったことにぼくがむくれたのも、もう懐かしい話だ。

 姉さんがぼくをおちょくっているのは相変わらずだが、それはいつものことだった。ナピ開発という自らの任務の退屈しのぎに、無茶をしでかすのもメロウ姉さんという人物の日常だ。

 なによりも幸いなのは、洞穴に潜む少女・エアリィオービスにまつわる情報が、姉さんに未だに発覚していないことだった。

 信じられないほどに動物的直感に長け、更に推理力にも秀でたメロウ姉さんが身近にいたことが、逆に幸運だったのかもしれない。

 常に姉さんの眼が近くにあったからこそ、オービスの洞穴の来訪時間の調整や、持ち込むものの準備、そしてその隠匿についても、ぼくは非常に慎重な姿勢を要されることになった。

 結果的にそれが、気の緩みを防ぐことに繋がったところは否定できない。

 そんなことで、姉さんに感謝したくはないけれども。

 ともあれ。

 秘匿の約束は、護られていた。


 


 ◆


 


 思ったよりも、時間がかかってしまった。

 ぼくの自室。デスク上の曲面モニターに表示させた文章と、しばらくぼくは向かい合っていた。

 末尾まで読み終えてから、思わず息をつく。

 『地質学I』の学期末提出レポートだった。最後の詰めとデータ収集は必要だったが、もうあらかた出来上がったと言っていいだろう。時間と手間をかけた分、完成度にはそれなりに自信がある。

 首のあたりの筋肉に、重みを感じた。同じく重くなった瞼を、手の甲で拭う。

 モニター上の時刻を見ると、すっかり遅くなっていることに気づいた。

 部屋の隅の決して大きくはない丸窓を、そこを塗りつぶす夜闇へと、ぼくは視線を向ける。

 ナピの街は、静まり返っていた。

 風音は皆無だった。今夜も星々がよく見えるに違いない。

 ぼくとは異なり、眠ることを知らない琥珀色の髪の少女は、今頃あの洞穴の中で、ぼくの渡した語学ドキュメントに取り組んでいるのだろうか――そんなことをふと考える。

 あらためて入力したデータが保存されているのを確認してから、ぼくはコンピューター端末の電源を落とす。

 そして、指先を立てて、空中で右手を振った。

 体に染み付いたジェスチャー信号を室内のセンサーが読み取り、家電機器に無線信号を送る。部屋の電灯が落とされて、空調も夜間用に調整される。

 倒れるように、ぼくは標準式ベッドに滑り込んだ。

 今日は、よく眠れそうな気がする。

 本当に、静かな夜だった。


 


 ◆


 


 後から、思い返してみれば。


 ぼくとエアリィオービスは、かけがえのない、とても幸せな時間を過ごしていたのだと思う。


 あの事件が起きるまでは。


 『白雪』の降った、あくる朝に目覚める瞬間までは。



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