第一章/第九話 『逃亡者』エアリィオービス

 崖下の洞穴どうけつに潜み暮らす、琥珀色の髪の『逃亡者』――エアリィオービス。

 彼女は自らが属する文化圏について、決して語ることはなかった。

 しかしこの数十日間、ともに洞穴で過ごすうちに。

 ぼくは、彼女にまつわる多数の事実を思い知らされることになった。

 その最たるものが、彼女の体が有する、驚くべき生理学的特性だろう。

 決して委細に渡るものではないが、ぼくの推論も交えつつ、述べておくことにしよう。




 まず語るべきなのは、エアリィオービスの食生活だろう。

 彼女の一日の食事は、以下の通りだ。

 水分は、半リットルほどのボトルの、更に半分程度。

 固形の食物は、一日に一度きり。小さなビスケット状の保存食を、ひとつだけ口に入れるだけ。

 それがすべてだった。


 オービスの摂る食糧は、例の崩壊した輸送船から持ち込まれたものだった。

 『部屋』の一端に大量に重ねられている、白い金属製のコンテナ。

 その内容物の半分ほどが、小さなビスケット状食料の密封パッケージと、水の入ったボトルで占められていた。


 彼女との交流の初期から、ぼくが密かに疑問に思っていたのは、オービスが日に摂取する水分量だった。

 コンテナの中に入っていた水のボトルは、人ひとりが長らく生活する上で、決して十分な量とは言えなかった。しかも彼女はぼくとの応対中、ほとんどそれを口にしなかったのだ。

 惑星ナピの大気中には、水蒸気がまったく存在していない。つまり湿度はゼロパーセントだ。ぼくを含む人々は、各々のネクタル・フィールド内に生命保持に必要な他の諸物質と同様に水蒸気も保持しており、それを呼吸によって摂取する。

 しかしエアリィオービスは完全に生身で、そのナピの大気を呼吸して活動していた。本来であればすぐにでも、口渇が生じるはずだった。

 結論から述べよう。

 エアリィオービスは、それでも水分補給をほとんど必要としなかった。

 この事実を飲み込むのにも、ぼくはかなりの時間を要した。もしかしたら、彼女のネクの不在よりも驚いたかもしれない。

 人体は緊急時、二週間はものを食べなくても生存できるという。しかし、それは毎日の水分摂取を前提とした話だ。

 オービスには、水すらも必要なかったのだ。

 なにより、彼女自身がまったく不思議に思っていないのが、その異常性を際立たせた。


 疑いようもなく、エアリィオービスはその体内において、水分を始めとする各種栄養分を、ほとんど完全に循環させる生体システムを有していた。

 『ナピの外気温と陽光に生身で耐えられる』といっても、彼女が汗をかいている様子は見られたし、肌や眼球といった体表面の保湿も必要のはずだった。それらは大気中に蒸散し、失われる。

 しかし逆に言えば、彼女が必要としたのは、それだけだったのだ。


 次に、エアリィオービスが食べていた、ビスケット状の食糧品についても述べよう。

 一度だけ、ぼくはオービスの了解を得て、おそるおそるそれを食べたことがある――コンテナ内のプラスティック製パッケージに、大量に収められていたうちのひとつを。

 直径が三センチメートルほどの、円盤状の白い物体だった。

 食感は小麦のビスケットに近かったが、風味は無添加のタンパク質ブロックに似ている。実に味気ないものだった。飲み込むのは躊躇われたが、その後ぼくの肉体へのダメージは見られなかった。

 彼女の食生活は、この食事とも呼び難い代物を、毎日一枚食べるのみだった。

 そして、少し下世話になるけれども――オービスが水分補給と食事をほとんど行わなかったということは、すなわち、出しもしなかった、ということを意味している。

 エアリィオービスと過ごした時間において、排泄にまつわるあらゆるものを、ぼくは一度も目にしたことがなかった。

 彼女の代謝機能は、ありとあらゆるぼくの生理学の知識を嘲笑うかのようだった。いや、銀河系人類の普遍的なそれすらも無視していたといっていい。

 いったい彼女は、どうやって生体循環を成立させているというのか? そのモデルを仮定することさえも難しい。

 それでもなお、オービスは現実は存在し、ぼくの目の前で屈託なく笑っている……。


 驚異的なのは、代謝に留まらなかった。

 ぼくはある時期から、紙に印字したサジタリウス語の学習用ドキュメントを、オービスのもとに持っていくようになった。例のスレート端末での学習だけでは物足りない、とオービスが主張し始めたからだ。

 ある日、洞穴を訪れると、彼女は昨日ぼくが持ち込んだ書類群をすべて片付けてしまったとぼくに語った。自慢げな様子を、隠しきれていなかった。

 ぼくは愕然とした――そのドキュメントは、彼女の学習の進行を鑑みながら、これから少なくとも五日は使って終わらせる予定の分量だったからだ。

 オービスは、たった一晩でそれを終わらせていた。

 三百枚にも及ぶ印刷物を調べていくと、確かにオービスの筆跡による大量の記述が残されている。

 ――まさか、と思った。

 思い切って、オービスに尋ねた。

 かなり説明と解釈に時間を要したけれども、ぼくの予感は的中した。

 エアリィオービスは、眠らなかった。

 夜間の睡眠という概念すら、彼女は持っていなかったのだ。


 


 低酸素環境で生身で活動し、食事や排泄も、睡眠さえも、ほとんど必要のない人間。

 もちろん、そんな体を持つ者を、ぼくは聞いたこともない。

 エアリィオービスと出会ってから、このような驚異的身体能力を有する人々にまつわる記録について、ぼくは宙域ネットワークで度々調べるようになった。しかし予想していた通り、そのすべてを兼ね備えた人間については、旧時代のおとぎ話じみた逸話や、信憑性の低い噂話の他に見つかるはずもなかった。

 少なくとも、ぼくの所属する新銀河系連盟の公的なネットワークにおいては、そのような生体能力を有する人間についての、学術的な裏づけがなされた事例は発見できなかった。


 エアリィオービスの信じがたい生体システムを構築し維持しているのが、どのような背景バックボーンによるものなのかについては、ぼくには見当もつかない。本物の生化学者ですら、匙を投げるかもしれない。

 それでも、なんらかのテクノロジーであることには間違いなかった。

 問題は、ぼくの属する世界に現存している科学技術とは、それが完全に一線を画したものであったことだ。オービスの用いる、言語をはじめとする文化と同じように。

 言ってしまえば――人類に対する思想そのものが、まったく異なっているようにすら、ぼくには感じられた。

 ぼくは当初、オービスが我々とは大きく異なる文化圏からの逃亡者であり、しかしその文化集団は、ぼくと同じ大宙域のいずこかに所属するものだと推定していた。

 だが、今ではこう思う。

 話はもう少し、込み入っているのではないか、と。

 つまり。


 ――エアリィオービスが属する集団は、遠い昔にぼくたちの先祖であったグループと袂を分かち、この銀河系の遥か彼方で、別の歴史を辿った人類の末裔なのではないか。

 と。


 琥珀色の髪の少女の、屈託のない笑みと日々接するうちに、その獰猛なまでの異質性を理解するうちに。

 この仮説が、段々とぼくの中で比重を増していった。


 ともすれば、その考えは。

 あまりにも深い、底なしの畏れを伴うものだった。




 銀河系人類は、あらゆる方面の科学技術を進歩させて、それを実生活に運用してから長すぎるほどの時を経た現段階においても、地球時代の文明より連綿と続く、日常的慣用とでも言うべきもの――『地球習慣』を、破棄することはできなかった。

 むしろ、その曖昧な規範にしがみついた、とさえ言ってもいい。

 一日に適量の食事を摂り、各々にとって適した時間の睡眠を摂る。

 望む学問や専門分野を志して、必要な仕事に就く。

 自由恋愛によって夫婦一組の婚姻を確立し、家族をコミュニティの最小単位とする――。

 そうした常識、地球習慣が、人類に定められた普遍のものであるという事実は、ほとんど当然のものとして通底していると言っていい。

 異論がなかったわけではないし、実際にそれらを放棄する人々が一定数存在するとぼくは聞いたことがある。ともあれ、彼らは決して新銀河系連盟における大多数ではない。大宙域住民の大半は、旧時代からの規範を穏やかに支持していた。

 ぼくの考えとしては、地球習慣というものは、その他の人々が感じるように、多くの面で有用であるように思えてならない。たとえ、非効率だとか、過剰なまでに伝統にしがみついている、といったそしりを受けようとも。


 ――あるいは、ぼくたちの思いの底にあるのは、単なる恐怖なのかもしれない。

 人間として生きる上での、古くから連綿と受け継いだ最低限の規範すらも失ってしまったら、この銀河系の無重力と真空の闇の中において、取りつくべきほんの最後の場所さえも、なくなってしまうのではないか――そのような、畏れだったのかもしれない。

 ぼくが出会った、エアリィオービスという少女は。

 文化的にも、そしてその肉体においても、そうしたある種の陳腐な思惑を、完全に逸脱する存在だった。




 ある日。

 オービスと洞穴を抜けて、崖下の空間に出た時。

 普段は『部屋』の色とりどりのライティングのために、判然としなかったのだが――オービスの黒瞳が、実に不可思議な輝きを有していることに、ぼくは気がついた。

 彼女の眼の輝きを見た途端、ある鉱物の名がぼくの脳裏をかすめた。

 貴石、ラブラドライト。

 この長石の一種は、かなりユニークな色彩的性質を有している。

 一見では単なる黒色なのだが、侵入する光の強さと角度によって、赤や橙、緑から青といったあらゆる可視光線が混じりあって、このナピでは見られない大気光学現象――虹のような輝きを生み出すのだ。

 エアリィオービスの持つ瞳の色彩は、まさにそのラブラドライトだった。その視線が僅かにでも揺らめくたびに、ふいに虹色の光彩を煌めかせるのだ。

 そのような虹彩を眼球内に生来から持つということも、やはりぼくの知る常識においては、まず考えられない。

 しかし、それがありふれたホロ・メイクの類ではないことについても、疑いようはない。ホログラムの投射先たる、フィールドを彼女はそもそも有していないのだから。

 ラブラドライトの色彩は、エアリィオービスの瞳そのものの特性だった。


 ――ある日の、陽光にあふれる崖下の世界。

 岩盤の上で転んでしまったぼくを見下ろして、白衣の少女は笑いながら。

 両手を広げて、くるりと回った。


 食事も睡眠も、酸素大気すらも、生きるのに要しない娘。

 色彩が遷移する琥珀色の髪と、あらゆる可視光線を湛えるラブラドライトの瞳。

 それらの総和が生み出す、エアリィオービスという存在に対する、ぼくの印象は。

 乱暴に言ってしまえば、違和感だった。


 ――この世のものではない。


 そのひとつの事実を表しているように、思えてならなかった。

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