第一章/第八話 調査二十四日目・幕間


 これは、あの崖下における、ぼくのエアリィオービスとの出会いから、二十日ほどが経過した頃の、ある夜のことだ。




 ……まるで死体のように、毎晩メロウディア姉さんは椅子を傾けて、ぐったりと寝そべるように座る。

 繊細な彫刻の施された、木製の安楽椅子――この惑星ナピでは、木製品はそれだけでも珍しい外来品だ――の背を思いきり傾けて、ほとんど仰向けのようなだらしのない格好で、顔の上に両手で掲げた『本』の印字を、姉さんは黙然と凝視するのだ。

 『本』の紙群を閉じる厚手の黒い表紙には、クラシックな字体の銀河系共用語で書かれたタイトルが、彫刻のような白い意匠で印字されていた。

 強いデフォルメのためか、あるいはぼくの共用語の語彙の貧弱さのためか、ぼくはその題名を読み取ることができない。


 そうだ。

 まず、『本』という概念の説明をしなければならなかった。

 本とは、旧地球趣味オールド・グラウンズに属する、独自形式の印刷媒体だった。

 この社会でもありふれた印刷物である、ドキュメントやリーフレットの類とは一線を画する、かなり風変わりなアンティークだ。

 まずず、十数センチメートル四方ほどに切り揃えられた長方形の白紙に、専用インクでの単色活版印刷――そんなシステムが、今もどこかで運用されているなんて!――を施したものを、数百枚ぴったりと束ねる。そして、その紙束を厚い紙で造られた『表紙』で挟み、ひとつの集合体にすることで、携行と読解を可能とした、純然無垢たるアナログ・デバイス……それが、本だった。

 ぼくは、この媒体について、それ以上の素性は知らない。しかし、その製造の全工程において、専用の機械類が用いられていることは、想像に難くなかった。そして疑いようもなく、本は『欲しがる人がいるから少数の供給がある』類のコレクション品で――その類のものの常として、かなり高価でもあった。

 現代の技術であれば、データベースとジェスチャーとホロ投射を併用すれば、遥かに安価で手軽に、かつ身体への負担も小さいかたちで、まったく同じ文章が読める。

 そうしたテクノロジーも差し置いて、ぼくの姉さんは、この本という原始的と言ってもいいフォーマットを、執拗なまでに好んでいた。

 『本棚』――そう、本専用の棚だ――も他星系から複数買い込み、この家のリビングと自室まで持ち込んで、ジャンルや分類ごとに背表紙を並べてしまうほどに。

 姉さんが遠い星々から輸入し、並べられている本の総数は、千を下るまい。

 ぼくは、他人の趣味に対して、あまり野暮なことを言うつもりはない。

 例えば、「資源の浪費では?」とか、「その姿勢は腕が疲れないの?」とか、「そもそも、その形式に何の意味があるの?」とか――そういった類の質問を姉さんにぶつける意思は、ぼくはまったく持っていなかった。

 とはいっても。

 そうした、ごくありふれた感想は――ぼくの態度や表情に、ほんの僅かであっても、漏出してしまっていたのかもしれない。

 傍若無人なくせに繊細過敏でもあるメロウディア姉さんは、それを感受したのか。

 ある時突然、手に取っていた『ハードカバーの書籍』を眼前まで近づけて、「すんすん」と、わざとらしく鼻を鳴らした。

 そして口元を本で隠したまま、灰色の瞳をぼくに向けて、どこかぼくを見下すような口調で、こう言い放ったことがある。

「においが、いいんだよねえ」

 まったく、話にならない。

 メロウディア姉さんは今夜も、魅力的な香りがするらしい本の一冊を両手に掲げて、マホガニー木材製の安楽椅子に寝そべって、読書を楽しんでいた。

 活版印刷された文字列をまっすぐ凝視しつつ、少しだけ笑みを浮かべて、滔々と本の世界に没入していた。


 ぼくは、そんな姉さんから、視線を上げる。

 斜め上――このリビングの上部に備え付けられた、一連の装置を見上げる。

 室内の気体循環システムは、順調に正常動作していた。

 例の、はた迷惑な『改装』があって以来、外部フィルターをぼくが昨日交換したばかりだった。

 修理用ドローンをレンタルすることもできたが、依頼料は無視できない。

 また、自動機械に雑務を任せすぎるのは、あまりいいことではないとぼくは思っている。できることなら、自分の体を動かして働くべきだ。

 姉さんはそうしたぼくの態度を、「野暮ったい」などとなじるのだけれども。


 循環システムの動作を確認すると。

 ぼくは自室に置いていた、あるものに思考を巡らせた。

 手のひらに乗るほどの小さなサイズの、閉塞式観測装置群に。

 その内部には、この十日間あまりの例の崖下における、風圧、地表や大気の温度、微細振動の変化――そうした地質観測情報が記録されている。

 今日の夕方、エアリィオービスとの別れ際に回収したものだ。


 もちろん、彼女の棲家であるあの洞穴や、その周辺にはセンサーは一切設置していない。複数の観測装置群を置いたのは、洞穴から十分な距離を置いた谷間の隅だった。

 なににせよ、『秘匿』と『観測』が、仲良く並立するはずもない。

 オービスに地質観測について話した当初は、非常に抵抗された。

 しかし、大学に提出するレポート用のデータ採集という理由がなければ、ぼくが崖下に来ることすらできなくなってしまう――その旨を伝えると、彼女も厳しい条件を前置きした上で、最終的には折れてくれた。

 オービスは、決して装置の測定対象エリアには近づかなかった。それでも、痕跡が残ってしまう可能性はいくつか考えられた。オービスは時折、崖下の空間を散歩していたし、その僅かな振動でさえも、『何者かの跡』として捉えられる危険は捨てきれなかった。

 単なる学生による一レポートの付加データであることは、もちろん承知している。

 それでも、とても小さな危険性ではあったが、慎重には慎重を期するべきだった。

 今夜はこれから、その情報の検索、および添削作業に取り組むことにしていた。

 レポートの情報には、エッセンシャルな情報が残ればいい。ソフトウェアでの抽出を前提としても、ぼく自身が調べることになる情報量が膨大になることは必至だ。今夜は、睡眠時間も犠牲になるだろう。


 『地質学I』レポートに残すための、ナピの地質観測データ。

 その量と質は、一介の大学生の学期末レポートのそれとしては、もはや十分な情報量が蓄積されていた。

 現状のデータでも、それなりのレポートを書くことはできると思う。

 しかし、ぼくは提出期限までに、その完成度を可能なまでに高めておきたかった。

 それは、大学側の評価のためというよりは、ぼく自身の矜持に由来している。

 ぼくは「地元の世界の地質調査」というテーマにおいて、『地質学1』の教授や査定システムによる評価などは関係なく、一定水準以上の記録を構築したかった。

 ――叶わない願いを、あえて言うならば。

 この銀河系世界が、今後永い時を経ても、この辺境の惑星・ナピに関心を抱いた未来の誰かの参照に耐えうる、一定以上の客観性と情報量を有する記録として、ぼくはそのレポートを残しておきたかったのだ。

 理由は、ごく単純だ。

 おそらく、この惑星が、好きだからだろう。

 ぼくが生きていた、この世界の存在を、誰かに、伝えたかった。

 それが誰だったのかは、わからなかったけれども。


「あっ……そういえば」

 読書に勤しんでいたメロウディア姉さんが、何気ない調子で、ぼくの背に声をかけてきた。

 そして、ぼくの意識を揺るがす、ひとつの質問が投げられた。

「例のレポートの地質の調査って、まだ続けてるんだっけ?」

 ――ぎくりとしたのは、気づかれていないだろう。

「ここ最近、毎日行ってるよね? 荒野くんだりまで、お疲れさんだこと……」

 思い出す。

 ――メロウ姉さんが『崖下の地質調査』の話題に触れたのは、ぼくの記憶と記録によれば、八日前にさかのぼる。その時は、簡単にあしらうことができた――。

 それにしても、不意打ちだ。

 ぼくたちの契約。

 エアリィオービスの秘匿。

 ごく小さく、息をつく。

 落ち着くことが、肝要のはずだ。

 相手は、他ならぬメロウディア姉さんだ。その観察力と洞察力には、想像を絶するものがある。

 もちろんこれまで、ぼくは姉さんに彼女の存在が気づかれないよう、細心の注意を払ってきたし、準備も万全のはずだった。

 どうか、笑わないでほしい――まさにこのような状況を想定して、鏡を相手取った独りのシミュレーション練習さえ、行っていたのだから。

 ぼくは、六メートルほど離れた位置に座っているメロウ姉さんに向けて、事前の想定通りの動作で振り向きつつ、事前の準備通りの言葉を、事前の練習通りの声音でもって、正確無比に回答した。

 簡潔に、明瞭に。

「……他の課題ももう終わっているし、今回の地質学のレポートについては、理想的なところまでやっておきたいんだ」

 瞳が、

 メロウディア姉さんの、ふたつの灰色の瞳が、ぼくの顔を見つめていた。

 息を呑みそうになるのを、殺した。

 真摯な視線だった。

 こちらの脳幹の奥底まで見透かして、すべてを剥ぎ取ってしまうような、一対の、輝き――。

 だが、後から思えば。

 視線が重なっていたのは、ほんの微々たる瞬間に過ぎなかった。

 メロウディア姉さんは、手元の本に眼を戻すと、つまらなそうに「ふうん」と唸った。

「……理想的なところ、ねえ。まことに結構だこと」

 姉さんの声に含まれていたのは、にべもない無関心と、明らかな眠気だった。

 よかった。

 どうやら、ぼくの懸念はただの杞憂に終わったらしい。

 姉さんの姿勢は、先ほどから変わらない。

 プラチナ・ブロンドの長髪を、傾ぎきった椅子の背もたれに無造作に垂らして、寝間着の乱れも構わずに、両手に取った黒いハードカバーの内側を見据えていた。ただ、その眼つきを見る限り、本の内容はやや退屈なのかもしれなかった。

 また、やっぱりその読書姿勢は、首周りの筋肉に相応の負担がかかるようだった。

 ――首を左右に傾いでから、メロウ姉さんは「ぐあ」と妙な溜息を漏らした。

 そして。

「でも、そういえば!」

 気が抜けていた。

 まるで姉さんは不意打ちのように、ぼくに声をかけてきた。

 振り向きざまのぼくの目には、恐怖と狼狽の色が顕れてしまったかもしれない。

 ……なんだ。

 なにを言ってくるんだ。


 ――あまりにも当然であるが故に、特に強調する必要もない。

 とでも言わんばかりの、実に落ち着き払った口調で、

 メロウディア姉さんは、言い放った。


「銀河系人類を導く惑星開発者として、わたしも常に理想的な存在でいないとね!」


 ――怪訝な面持ちを、見せてしまったように思う。

 呆れるあまり、表情筋をうまく動かせなかったような気もする。

 ともあれ。

 ぼくは姉さんの放言を、沈黙で受け流した。


 本に戻ったメロウ姉さんの顔は、やはり眠そうだった。

「ところで、姉さんの方は、最近どうなの? 開発局支部の任務は」

 ついに本をぱたんと閉じて、椅子の傍らの台座に置くと、姉さんは両腕を上げて大きな伸びをした。

「……まあ、特に変わりはないわなあ」

 ぼやくように言いながら、椅子によりかかる。

「今日は市長室と、宙港の機能拡張についての打ち合わせ。開発者なんて言えば大層に聞こえるけれどね、大抵は雑務みたいなもんよ」

 それは、姉さんがよく言う台詞だった。

 惑星開発者の任務など、メロウディア姉さんがこの家に来る以前は、想像することさえできなかった。だから、とてつもなく崇高なもののように捉えていたところはある。

 しかし、人類の代表者たる開発の総責任者などと言っても、実態はそんなものなのかもしれない。なんといっても、ナピは変化の乏しい辺境なのだ。

 メロウ姉さんが椅子から立ち上がって、もう一度大きな伸びをした。

「あー……眠いから、わたしはそろそろ寝るわ。ケイヴィ君は、どうする?」

「ぼくも部屋に行くよ。おやすみなさい、姉さん」

 返事をしてから、のそのそとした足取りで姉さんは自室に去っていった。読んでいた本は、テーブルに置いたままだった。

 体に染み付いたジェスチャーと無線通信で、リビングの照明と空調を最小限に落とすと、ぼくも短い廊下で区切られた自室へと向かう。


 


 扉を閉めて、物理鍵をかけてから。

 つい、ほっと溜息を吐いてしまった。

 ――秘密なんて、やっぱりぼくの得意分野じゃない。


 


 部屋の床に置かれた、ショルダーバッグのサイドポケットを漁る。

 専用ケース内に収められたカプセル型の閉塞式観測装置を取り出して、ぼくはコンピューターの曲面パネルの前に腰かけた。


 観測装置のひとつを端末に載せて、ネクタル・フィールド・モジュールを介した生体認証接続を行う直前に。

 ぼくは、ふと、手を止めた。

 指先に握られていたのは、観測と記録デバイスを兼ねる、小さな球状の青い物体だ。

 カプセルを、ぼくは見つめていた。

 そしてその時、まったく同じように。

 カプセルもまた、ぼくを見つめていたのだ。


 ――言ってしまえば、くだらないことだ。

 ある思惑、あるいは疑問が、ぼくの大脳皮質の内奥を反響していた。

 そのシナプスの律動は、まったくもってみっともない、根も葉もない、ふとした思い付きそのものだ。

 一笑に伏すまでもないような、考えだった。

 事実、ぼくは即座にそれを振り払った。


 ただ、少しだけ、考えてしまっていた。


 ――ほんの少しでも。

 ぼくは、あの少女にとって、理想的な存在に、なれているのだろうか。

 あるいは、なってしまっている、のだろうか。

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