第一章/第七話 言葉で闇をぬぐうように

 ナピの街から、遠く離れた谷の底。

 その絶壁に開いた、ひとつの洞穴どうけつ

 文明から閉ざされたその奥に身を潜めて、不時着した宇宙船から運び出した物資群とともに生活する、謎の少女――エアリィオービス。

 惑星ナピの過酷な環境において、固有のネクタル・フィールド・モジュールの庇護を受けることなく平然と生存している、常識では信じがたい存在。


 崖下の少女と出会った、翌日。

 地質調査の準備の続きだ――そうメロウディア姉さんに言い残して、ぼくは再びあの崖下へと浮揚機ホバーを走らせた。

 直感の恐ろしく鋭い姉さんから、気にする素振りも見られなかったのは幸いだった。

 昨夜の時点では、あまり自信がなかった。

 しかし段々と、崖下の少女の存在を、最後まで隠し通せるような気がしてきた。


 ――でも、我ながら。

 疑問に、思ってしまう。

 その『最後まで』とは、具体的に、いったいどのような結末を示しているのだろうか――と。




 琥珀色の髪の少女は、ぼくの来訪を待っていたらしい。

 陽光の降り注ぐ、崖の底の大地。

 彼女は、岩盤の上に悠然と佇んで、斜面を降りてきたぼくにじっと視線を向けていた。

 いると知っていたのにもかかわらず、髪に陽光を煌めかせて立つ彼女の存在を一目見ると、強烈な異質性を感じてしまう――こんなところに、人がいるはずがないのだ、と。

 全身を巻き取るような奇妙な白い衣装と、濃淡のグラディエーションを抱く琥珀色の束ねられた髪が、降り注ぐ陽光の中で燦然と輝いていた……。


 少女――エアリィオービスがまず示したのは、強い警戒心だった。

 ぼくが街から別の人物を連れてこなかったか、あるいは、誰かに自分のことを吹き込まなかったか。

 昨日と同じく、やはり彼女は、執拗なまでにその点に注意を払った。

 まるで、誰かに自分のことが知られたら、もう生きてはいられないかのように。

「誰も、連れてきてはいないよ」

 背後を仰ぎながら、ぼくは告げた。彼女にその意味は伝わらなかったが、ぼくの声音と声の抑揚から、心配は要らないことを感じ取れるかもしれないと思ったのだ。

 その目論見が成功したのかどうかは、わからない。

 ――ふん、と彼女は鼻を鳴らした。


 


 昨日の時点で、すでにぼくは知っている。

 少女の膝や腕に、いくつかの痛々しい擦り傷があることを。

 砂で汚れた手のひらに刻まれた、切り傷についても。

 この崖下の空間は平たい岩盤が多かったが、ところどころで鋭く尖った岩肌も露出している。こんなところで腕や脚の素肌を晒したまま長く生活していれば、何気ない接触によってさえ肌を傷つけてしまうのは、自明の理だった。

 ネクタル・フィールドを持たない彼女が、どういった生化学的能力でもって、この酸素すら足りない環境で生きているのかは、わからない。

 ただ、少なくとも、彼女は万能ではなかった。

 洞穴ぐらし。

 船がこの場所に偶然落ちたという理由だけで、とても生活に適しているとは言えない崖下にひとり暮らす少女を、無視することは決してできなかった。

 いったい彼女は、どれほどの期間をここで生活していたのだろう? 場馴れした振る舞いから見ても、少なくとも数十日間は住んでいるのだろうか?

 どのような身体能力を有しているにしろ、この過酷な環境に耐えきれなくなるのは、時間の問題に思えた。

 誰かが、助けなければならなかった。

 その役割が、最初に彼女に出会った原住民であるぼくに課されたのであれば、単なる偶然であったとしても、ぼくはよろこんで引き受けるつもりでいた。


 


 エアリィオービス。

 琥珀色の髪の少女は、やはり自らをそう名乗った。

 ぼくの感覚からしてみれば、その名前はなんとも奇妙な響きで――どこか暗号のような印象を受けた。人名のそれではない。

 しかし、ぼくが「エアリィオービス」と言って彼女を手で示すと、こくりと首を振って返してくるのだった。

 安堵からか――小さな笑みを、唇の端に漏らして。

 前半を略して、「オービス」と呼ぶことについても、彼女は快く同意してくれた。




 言語という手段に頼ることのできないぼくたちのコミュニケーションが、実に遅々としたものであったことに、疑いの余地はない。

 しかし出会い頭の昨日だけでも、琥珀色の髪の少女――オービスは、「示した対象に指をさす」「首を横に振って拒否する」といった、いくつかのジェスチャーと、その意味を覚えてくれた。

 実のところ、非言語的手段というものを、ぼくは侮っていたのだと思う。

 ごく基本的な意思疎通ならば、ジェスチャーと言葉の調子、そしてごく少ない名詞のみでも、思いのほか事足りたのだ。

 例の洞穴――その『部屋』に入るや否や、オービスはまず、ぼくの持つバックパックやスリングベルトのいくつかの端末群について、入念に尋ねてきた。

 理由はもちろんわかった。彼女を、ぼくの持つ装置が撮影・記録してしまう恐れがあったからだ。それは彼女という存在の秘匿を破ることに繋がってしまう。秘匿はやはり、ぼくたちの絶対の盟約となっていた。

 ぼくは持ち込んだ端末を最小限に抑えて、更にそのセンサー機能をOS単位で解除していることを、バックパックの中身を広げたり、端末のホロ表示を見せたりしながら教えた。

 オービスは丹念に疑っていたが、最終的には折れてくれた。

 ぼくの言葉を信じたというよりは、説明するぼくの必死さが伝わったからかもしれない。




 不時着したと思しき小型船の物資を持ち込んで、エアリィオービスが洞穴の内部にこしらえた、『部屋』。

 ぼくを椅子代わりの物体に招くと、彼女はその向かいに置かれていた、大きな銀色のカプセル状装置の縁に腰掛けた。

 例のたどたどしいコミュニケーションを介して、この部屋に置かれた貨物について、今後自分たちが行うべきことについて、そして秘匿の約束について、ぼくらは『会話』を交わした。

 オービスの生活ぶりを聞いているうちに、その驚くべき生態が更に明らかになったのだが、それについては後述することにしよう。




 やがてぼくたちは、ある共同作業に、今後のふたりの時間の多くを割くと決めた。

 言葉の授業だ。

 ぼくの世界が使う言葉――サジタリウス語を、この洞穴の中で、エアリィオービスに教えていくことにしたのだ。




 『逃亡者』――ぼくたちの住む社会への、いわば外的存在である彼女が、こちら側の言語を覚えることには道理があった。

 まず、ぼくたちにはコミュニケーション手段が必要だった。

 ジェスチャーが大いに役に立つことはわかったが、一定以上の複雑な意思を伝えるには、あまりにも力不足であることも痛感した。

 それに、いくら拒んでいたとしても、いずれオービスはこの崖下の洞穴を抜け出て、今後はぼくたちのサジタリウス語の世界で生きていかねばならないのだ――ぼくは、そうかんがえていた。この点については、彼女には伏せたけれども。

 逆に、ぼくが彼女が有する言語を学習してしまうことは、オービスがもっとも危惧する、彼女という存在の対外流出に繋がる恐れがあった。例えば、彼女の言葉についての記録をぼくが覚書として記録したりするだけでも、秘匿を破る危険を招きかねない。




 言葉の学習のためにと、オービスが部屋のコンテナのひとつから取り出したのが、縦十センチ、横十五センチ、厚さ一センチ未満ほどの、無骨なスレート型の端末だった。

 ぼくも触らせてもらった。かなり単純な構造の装置で、一様に黒い画面に専用のペンの先で圧力を加えると、その接点の色が変化して自由に絵や文字が書けるという仕組みだった。側面のキーを押すことで、一括消去などのオプション操作も可能らしい。電源は充電池式と思われたけれども、ぼくは一度もそれを充電する様子を見ることはなかった。

 ペンを使って文字を書く――ぼくの生きる社会では、それこそ文字を学習する子どもの他には、ほとんど見られない行動だった。視線や指先ジェスチャーによるフィールド内入力と、その包視界ホロ投影が常態化しているためだ。

 ということで、ごく単純な装置にもかかわらず、ぼくはそのペン型装置の操作さえも、かなり手間取ることになってしまった。ペンの持ち方から再学習する必要があり、その様子を生徒であるオービスに少し笑われた時は、中々ばつが悪い思いをした。

 一方でエアリィオービスは、実に慣れた手付きで、スレート端末に文字や絵をすらすらと書いていった。

 彼女からすれば、ペンで文字を書くという行為は、ごく一般的なもののようだ。

 固有保護フィールドを持たないオービスの所属する文化圏では、ホログラムやジェスチャーという技術も、そして筆で字を書くという文化すらも、ぼくたちとは異なる進歩を辿ったのかもしれない。


 


 ぼくがオービスに教えていたのは、この大宙域の普及言語であるサジタリウス語だ。その文法構造は、大宙域に他の言語群に比べても、かなり単純なものだと思っていた。

 しかし、予想もしていないようなところで、オービスはその文法につまずいた。

 オービスの用いる言語の中に、主語がまったくないことにぼくが驚かされたのとは逆に、彼女にとっては、常にサジタリウス語に主語があるという文形式に戸惑ってしまうらしい。

 このことについては、ぼく自身も彼女の抱える疑問点を理解するまでに、かなりの時間がかかった。

 オービスは、主語が確定していることで、言葉が“狭苦しくなってしまう”……といったようなことを、ぼくに漏らしていた。

 その理屈はわからないことはなかったが、ぼくの方はどうしても、根本的なところで腑に落ちない。

 ぼくの中に幼少から育まれた言語的本能、半ば理屈ではないようなところが、受容を拒む感覚があった。だって、主語があった方が、明らかにわかりやすいじゃないか――と。

 このような、オービスの言語の思考とぼくのサジタリウス語の思考の衝突は、学習中にいくつも散見された。

 とはいえ、オービスの考え方は柔軟だった。次々と、そうした違和感を乗り越えていった。彼女の思考の切り替えの速さに、ぼくは奇妙な感動を覚えてしまったりもした。

 言語は、その文明を直接反映しており、話者の思考や意識にさえ影響を及ぼしている――いつかどこかのテキストで読んだ一文が、やっと実感を伴って理解できたような気がする。

 生まれついた言葉の異なるぼくたちは、お互いのそれを覚えることで、相手の考えていることを知ることができるはずだ。

 それでもなお、生来語に刻まれた、より根源的なところ――思考のベースとでも言うべき領域においては、しばしば錯誤を招いてしまうのかもしれない。


 


 エアリィオービスが、ひとつひとつサジタリウス語を覚えるにつれて、少しずつだが、ぼくたちの会話は弾んでいった。

 彼女はやはり自らの所属していた世界について、語ることを強く拒んだ。

 どのような世界から、どうして逃げてきたのか――その点については、オービスは頑として語らなかった。

 しかし、それ以外のことについては、むしろぼくよりも多く喋ったほどだったし、また笑いもした。

 その溌剌として邪気のない性格が判明するまでに、長い時間はかからなかった。

 ぼくが安心したのは、彼女の態度や語調からは、嘘や偽りのようなものがまったく感じられなかったことだ。

 まるで自らの良心に従った結果、自らの情報を隠しているかのようだった。

 更に言えば――これは、あくまでも、想像に過ぎないが――もしそれをぼくに話すようなことがあったりしたら、ぼくに危害が及んでしまうために、語ることができないようにすら思えた。

 だから、あえて尋ねたりするようなことも、ぼくはしなかった。


 


 ぼくは、本来の目的である「ナピに元来存在する崖下の地質調査」を、半ば名目のようにして、洞穴の少女・エアリィオービスのもとに会いに行った。

 幸いなことに、地質学の期末レポートの提出期日はまだ先だったし、他の科目のレポートは既にあらかた仕上がっている。時間的な余裕は十分にあった。


 


 先ほど、ぼくがエアリィオービスの使う言語を覚えてしまう危険性については述べた。ぼくが彼女側の知識を覚えてしまうことは、彼女の秘密の暴露に繋がってしまう、と。

 ……しかし、正直に告白してしまおう。

 実は、エアリィオービスの使用している未知の言語を、ぼくも最低限は覚えようとしていたのだ。

 彼女との意思疎通を少しでも推し進めたかったし、彼女だけがぼく側の言葉を覚え続けるのは、あまり公平ではないように感じられたからだ。

 事実オービス自身も、記録に残さないのであればという条件のもとで、例のスレート端末を使って、自分の言語を丁寧に教えてくれた。

 しかし、早期の段階でその試みは頓挫することになる。

 情けない話だが、彼女が使っている言葉は、ぼくには難しすぎたのだ。

 彼女が当然のものとして用いる、ぼくの知るどんなデータベースにも載っていないその言語は、当初の想像を遥かに超えて、高度に体系化されていた。

 ぼくの暮らす大宙域における大半の人々は、広く一般生活で用いられるサジタリウス語の他に、銀河系共用語と呼称される旧い法律や歴史書、公的文書などで用いられる、古代語より続く言語を教養として学ぶ。

 ぼくも平凡な成績に見合う程度には、共用語を学習していた。だから、オービスが用いる謎めいた言語を新たに習得することにも、さしたる抵抗はなかった。むしろオービスのためになるのであれば、共用語よりもモチベーションが湧いた。

 それでも、オービスが扱う言語は、まさに“次元が違う”としか形容できない代物だったのだ。

 ここからの記述は、あくまでもぼくが認識した範囲のものなので、正確ではないかもしれない。それでも、端的に彼女の言葉の特徴を上げてみよう。

 まず、一人称はまったく存在しない。彼女と話を始めた当初、彼女がいくら話しても一人称らしい単語が見つからず困惑したのだが、当たり前だったのだ。最初から、ないのだから。

 その一方で二人称と三人称は存在しており、なんと動詞(あれを動詞と呼べるのか、いまひとつ判然としない)と常に接続している。『対象動詞』とでも形容すべきその語句は、時制、状況、対象の状態、そしておそらく話し手の主観か状況に応じて、二十種類以上の格変化のようなものを起こす。

 特にこの『対象動詞』の概念は本当に難しかった。というのもこの品詞は、常に分散するかたちで文中に“溶けた”からだ。つまり、文頭から現れることも、文中の目的語と一体化することも、二つに分裂して関係節内に分散することすらも一般的だったのだ。そのパターンは異常なまでに多彩で、広い断熱材プレートに次々と板書するオービスに説明された時には、正直目が回る思いがした。これをいったい、どう覚えればいいんだ?

 また、後置詞と助詞にそれぞれ時制が存在し、やはり文中の情報に連動して更に格変化のようなものを示した。

 名詞は比較的簡単だった。大半の名詞が数助詞の有無に応じて、まったく異なる発音になってしまうことを踏まえても。

 この基本的な要素に加えて、ぼくの知る言語概念には存在しない品詞らしい単語や文法も見られたが、それは本当に説明のしようがない。

 以上のような文法を想定しつつ、極めて多様に文中の要素が連動し、そのすべてに省略が許されている言語体系を想像してみてほしい。ぼくには正直、頭の中に正確な全体像を結ぶことすらも難しい。

 この説明は、ほんの始まりに過ぎなかった。

 言葉というものの最大の矛盾のひとつは、己の姿を完全に語り得る言葉を持てないことなのかもしれない。

 エアリィオービスの言語体系は、彼女が逃げ出す以前に生きていた世界の価値観や風習を、確かに物語っていたように思える。

 朧げな輪郭をもってして、しかし強烈に。

 それは、ぼくたちの生きる世界とは完全に隔絶された場所で、人類としての進展を絶え間なく続ける、知られざる文明に他ならなかった。


 


 ぼくは十日間ほど粘った挙句、オービスの側の言語の習得を諦めて、彼女に自分の言葉を教えることに集中することにした。

 オービスは自分だけが教え子になることを快く受け入れてくれたし、彼女はぼくに比べても、とても覚えの良い生徒だった。

 それにしても、やはり、ばつが悪い。



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