第一章/第四話 崖下の琥珀色 3

 ネクタル・フィールド――通称ネクは、ぼくたちの肉体を覆う、不可視の生命の繭だ。

 生存志向保護膜とも称されるそれは、中核モジュールを身につけることで、容易に使用することができる。“着た”人間の頭頂からつま先までの、あらゆる外部環境と接する面を、常に数センチから数ミリメートルの厚さでもって包み込み、当人の肉体を保護するのだ。無色透明で感触もないため、着用していることは普段意識にものぼらない。

 ぼくの記憶が正しければ、『装着者の体表面より一定位相方向に正調化されたクトタイタ式極大隔絶層』というのが、専門的な正式呼称らしい。

 その呼び名にある通り、ネクの隔絶力は極めて大きい――大気中のあらゆる毒性物質、宇宙線をはじめとする様々な電磁波、高および低温、高および低気圧、過度の重力波、一定の衝突力さえも――人体に危害を与えうる、外部環境のなにもかもを、この保護膜はぼくたちの肉体から遮断するのだ。

 そして同時に、ネクタル・フィールドを展開する本体――中核モジュールは、発生させたフィールド内部における、『人間に適した大気環境』の造成も並行して行う。

 現代科学の結晶と呼ぶべき微細装置群が、適切な分子配分の大気や温度、湿度を持続的に調整することで、透明な膜の中での被保護対象である所持者の生命を護るのだ。

 この銀河系における、ありとあらゆる過酷な環境において――物質的な防護服といった装備に頼らない、『ヒトの自然体での生存』を成立させている最大の要因が、このネクタル・フィールドという一連のシステムにあると断言できた。星々の海にあまねく広がった人類の歴史は、常にネクの庇護とともにあったのだ。


 過酷な環境の例として、今まさにぼくが生存している、この小規模開発惑星・ナピを挙げてみよう。

 まず、この世界における日中気温は、平均でセ氏五十度を優に突破する。水のような保温物質が大気中に存在しないために一日の気温変化も大きく、夜間はマイナス十度まで低下することもある。

 そして、ナピの紅い太陽からは苛烈な宇宙線が地表に降り注いでおり、これをもし人体が直に浴びれば、皮膚病をはじめとする様々な問題は免れ得ないだろう。

 なによりも、現在この星における大気中の酸素は、たった平均六パーセントしか存在していないのだ。人体の正常な呼吸には、およそ二十一パーセントの酸素を含む大気が必要とされている。

 ナピは、『比較的地球に近い環境の星』と大宙域政府に定義されている星だ。

 だがそれはあくまでも、銀河系のありとあらゆる地獄の中では……という話であって、現在の環境においての素体(ネイキッド)での生命活動の維持は、不可能と断言していい。

 なんらかの保護措置なしでは、人体は一分間さえ生きられないはずだ。

 このような環境において、ネクタル・フィールドの存在は、まさに必須だった。

 生存志向フィールドという技術は、この銀河系という熾烈な世界に比して、おそろしく脆弱な肉体を持つ人類が、生き延び、発展してゆくために造り出した最大の発明のひとつと呼ばれている。

 もちろん、ぼくの生きる社会では極めて常識的で、ありふれたものだった。

 ネクは、銀河の辺境においては、普段から着ているのがごく当然なのだ。

 着ていなければ、生きられないのだから。

 例外は、まず存在しない。

 そう。

 存在しない、はずだった。


 


 ぼくは腰のベルトに着けたモジュール操作盤に指を乗せて、包視界ホロの情報を再三チェックした。

 テーブルの向かいに座った、琥珀色の髪の少女。

 彼女がネクに護られていない事実を、センサー情報であらためて思い知らされる。

 混乱するな、と言われても、土台無理な話だった。

 ぼくがこれまで寄り添ってきた常識に照らして考えれば、絶対に考えられないことだったからだ。

 前述の通り、この惑星ナピの大気には、人体にとって必要な密度の酸素がまったく足りない。

 動揺が伝わってしまったらしい。

 琥珀色の髪の少女は、怪訝めいた眼差しで、ぼくを見つめている。

 ――この人は、なにを不思議がっているんだろう、とでも言わんばかりに。

 ぼくは思わず、その口元に視線を向ける。

 彼女は、呼吸をしていた。

 すん、すん、という鼻息さえ聞こえた。

 この琥珀色の少女にとっては、この星の不毛の大気に、十分な量の酸素が存在しているのだろうか……。


 大量の疑問が、答えを求めて脳裏を暴れまわるのを感じながらも。

 冷静になるべきだ、とぼくは心の中で告げた。

 彼女のネクの不在について、今は言及しないことに決めた。

 そもそも、説明のしようもない。

 もちそん言葉が伝わらないということもあったし、どうして彼女がこの環境で平然と生きていられるのか、ぼくはまったく理解できていない。

 現実的に見れば――今、彼女がネクなしで生きている以上、なにも言いようがない。

 それがどれだけ非合理的で、不可解な事象であるにしても。

 とにかく、優先すべきことは他にあった。


 


 光芒の煌めく洞穴どうけつの中で。

 テーブル代わりの残骸越しに、琥珀色の髪の少女とぼくが始めたのは、非常にぎこちない、しどろもどろな交流だった。

 ぼくたちは、お互いの言葉の一人称すら理解できていない。

 一から十まで、まったく異なる言語に思えた。

 言語という共通基盤を持たないぼくと彼女のコミュニケーションは、先ほどぼくが述べた、言葉の近くにあってそうでない『他のなにか』――非言語的表現に、全面的に依存せざるをえなかった。


 


 ぼくと彼女を隔てる壁は、言語のみにとどまらなかった。

 例えば、『示したい対象に向けて指を差す』という、ぼくの世界ではごく一般的に用いられる身振りすらも、琥珀色の髪の少女はまったく知らなかった。

 表には出さなかったが、この事実には強烈な驚きがあった。彼女の文化圏における指差しに値する行為は、単に視線を向けるか、対象に直接近づいて、手(大抵は左手のようだ)を載せて相手に示す――というものらしい。

 ぼくたちのコミュニケーションの間には、このような文化における常識、感覚のギャップが大量にまとわりついていることが、すぐに理解させられた。

 そして、ぼくたちはまず、そうした隔絶をひとつひとつ埋めていくことによって、互いの意思と感覚を理解し、共有していくことになったのだ。

 少女が時折ぼくに話す言語は、やはりまったくぼくの知識にはないものだった。

 本当に、知らない言語だ。

 ぼくたちの使うサジタリウス語とは遠い祖先からして異なる、遥か彼方の星系の固有言語――そんな印象を受けた。

 やはりぼくの所属する文化との、大きな隔絶を感じてならなかった。


 


 そして、琥珀色の髪の少女は、懸命かつ執拗なまでに、ぼくにあるひとつの要求を示した。

 この洞穴に連れ込まれてから、もう一時間以上が過ぎたのだろうか。

 ぼくも彼女も、お互いの言語がまったく通じないことは、とっくにわかっている。

 それでもなお、彼女はある種の祈りのように、ある一定の文と、手振りによるジェスチャーを繰り返した。

 ――わたしたちの関係は、その前提なしでは成り立たない。

 そう、言わんばかりのように。

 相変わらず、彼女の言語はまるで理解できなかった。

 しかし、共有することができた身振りの意味も手伝って、ようやくぼくにも、その意図する輪郭が掴みかけることができた。

 それは、懇願だったのだ。

 出会い頭にぼくに向けた、あの攻撃性の理由も、腑に落ちた。

 すなわち。

 琥珀色の髪の少女は、ずっと、ぼくにこう告げたかったのだ。


 


 ――絶対に、わたしのことを、外の誰にも知らせないで。


 



 


 事情は、わからない。

 しかし、彼女自身の様子や、この『部屋』のいくつかの手がかりから、ある程度のシナリオを立てることはできた。

 おそらく――この少女は、『逃亡者』だ。

 といっても、そうした専門用語があるわけではない。『脱走者』、あるいは『亡命者』と言い換えてもいいだろう。

 とにかく、彼女は自らが所属していた社会から、逃げてきたのだ。

 もう、帰れないことも見越して。

 今ならば、腑に落ちる。

 崖下に転がっていた、あの黒焦げて破損した正体不明の構造物は、彼女の乗っていた小型宇宙船(ヴェッセル)の残骸だったのだ。

 船体構造から見るに輸送用と思しきあの船は、きっと不時着に近いかたちで、谷間の底――崖下の空間に着陸した。

 そして唯一の乗員であった彼女は、偶然近くにあったこの洞穴に物資や設備を持ち込んで、自らの住居……この『部屋』を造り出したのだ。

 琥珀色の髪の少女が、かつてどういった世界に所属していたのかは、想像に頼るしかない。

 しかし彼女の用いる言語ひとつを鑑みても、ぼくたちが当然のものとして所属している社会からは、非常に遠い文化圏に属することは疑いようがなかった。

 そして、その世界は宇宙空間を常に移動する巨大な生活システム――人工環境であった可能性が高い。あの壊れた船の規模を見ても、超光速移動機関(ヘルメス・スキップ・ドライブ)を備えたものではないからだ。

 ともあれ、なにがしかの事情から彼女はその世界を逃げ出して、あの小型船とその物資を頼りに、宇宙空間への逃避行を決めた。

 そして近隣にあった惑星ナピを発見し、この崖下へと辿り着き、隠れ潜むことにした――。

 一応は筋道の通った、ある程度は納得できるシナリオだと思う。

 しかし、不可解な点も大量に浮上する。

 そもそも、惑星ナピの近隣宙域を移動する未知の文化圏の人工環境など、ぼくはまったく聞いたことがない。

 それに、ナピが擁するレーダー網は比較的小規模なものではあったが、それでも小型船の無断侵入を許すようなものではないはずだ。では、なぜ彼女の船は街の警邏隊や開発局支部に捕捉されることなく、この崖下に着陸できたのか。

 そして、彼女がネクタル・フィールド・ジェネレーターを保有していないということは、新銀河系連盟の宙域戸籍に登録すらされていないことになるのではないか。いや、そもそも固有のネクを持っていない人間という存在自体が、完全にぼくの常識を逸脱している。

 いったいこの少女は、どのような世界から逃げてきたというのか。

 考えはじめるだけでも、疑問は尽きない。

 ……しかし、あえて今、それを本人に問うつもりはなかった。

 少なくとも、ここに大きな事情を抱えた、ひとりの少女がいる事実に疑いの余地はなかったのだから。


 



 


 ――絶対に、わたしのことを、外の誰にも知らせないで。


 


 あらためて彼女は、彼女の言語でもって、そう告げた。

 洞穴どうけつの時が、静止したかのようだった。

 琥珀色の髪の少女は、微動だにせず、ただ――ぼくを見つめていた。

 ふと。

 テーブル代わりの残骸を挟んで座る小柄な少女が、とても弱々しい存在に思えた。

 洞穴のライトの無数の光彩を反射しているその黒瞳は、いったいどのような思いを宿しているのだろう?

 彼女が固めていた表情は、実に複雑な感情の色を湛えていた。

 ――ぼくへの警戒? それとも怒り? 疑念? 敵愾心?


 ふと。

 黒瞳の輝きが、揺れた。

 ――まるで、躊躇うかのように。

 あるいは、なにもかもに疲れてしまったかのように。

 もしくは、決定的に必要だった大切なものを、もうすぐ諦めてしまうかのように。


 そしてぼくは、ようやく理解することができた。

 目前の少女が、その心の裡に、抱いていたのは。

 依る術もない、絶対的な、孤独だった。


 


 ぼくも、もう決めていた。

 この少女の意思を、ぼくの可能な限りにおいて、尊重しようと。

 彼女は自らの言葉を用いて、ぼくに可能な限りのメッセージを伝えたのだ。

 それならば、ぼくも――例え明瞭な意味が伝わらなくとも、自分の言葉で返答するべきだろう。

 言語には、言外の力がある。

 この時、言葉たちが外包する『他のなにか』が、共通の言語を持たない彼女にも通じ得ると、不思議と信じられたのだ。

 少女の瞳をまっすぐ見て、ぼくは告げた。


「ぼくはこれから、君のことを他の誰にも話しはしないし、外のどこかへ連れて行くようなこともしない」


 ――これは、契約だ。

 秘匿の契約。


「ぼくは、くだらない用事で、偶然この場所に来てしまった。だから君は、ぼくに会うはずではなかったんだ。

 今後、他の誰にも、君のことは教えない。

 君と鉢合わせてしまったのは、ぼくの責任だ。だから、約束する。

 もしこれから、君の秘密を破ることがあれば……その時は、好きなようにしてくれ」


 ……ここまで言い終えて、ぼくはようやく気がついた。

 初対面の相手に告げるべき、あるひとつの情報さえも、まだ言っていないことに。


「ぼくは」


 だから。

 自分の顔を、手で示して。

 彼女に、新しいひとつの言葉を告げた。


「ぼくの名前は、ケイヴィだ」


 琥珀色の髪の少女も、その意味を理解してくれたらしい。

 心の底から、よかった、と思った。


 やがて彼女は――大きな両の眼を、一度ゆっくりと閉じてから。

 自らの顔の縁に指先を添えて。

 そのあまりにも透き通った眼差しで、ぼくを見つめると。

 明瞭な発音で、こう返答したのだ。


 ――エアリィオービス。

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