第一章/第三話 崖下の琥珀色 2
はじめに視界に飛び込んできたのは、電飾のまばゆい光だった。
遠い昔、ぼくと父さんが探検の終わりに立ち寄った、崖下の
すっかり、そこは様変わりしていた。
青、緑、黄、紫――本当に色とりどりの、無数の小さな細長い電飾体が、周囲の岩の壁や天井に電線を伴って飾り付けられて、煌々とその空間を照らしている。
最初にぼくがその場所に対して覚えた印象は、『部屋』だった。
崖下に開いた洞穴の入口は、決して大きなものではない。人ひとりがなんとか入れる程度の間隙だ。しかし、それをくぐって十数歩ほど進んでいくと、丸く開けた空間が待っている。
そこが、ひとつの『部屋』として、改装されていたのだ。
ぐい、と手を引かれる。
思わず眼を向けると、目前にはぼくの手を取る琥珀色の髪の少女がいて――憮然とした眼差しで、ぼくを睥睨していた。
『部屋』の異様に、思わず立ち止まってしまっていた。
少女に合わせて歩きながら、ぼくはあらためて視線をあちこちに向けた――継ぎ接ぎで作られたような奇妙な形状の金属製と思しき柱が数本、洞穴の壁に沿うようにカーブを描いて設置されており、その所々に電飾が備えられていた。陽光のない洞穴にこしらえられた人工空間は、この数え切れないほどの光源のおかげで、明瞭な視界が確保されている。
部屋の中には、本当に様々なものが置かれていた。ざっと見る限りでは、ぼくでも用途のわかるものが半分、まったくわからないものが半分といったところだろうか――『床』に敷かれていたのは、無骨な意匠だが一般的なカーペットのように見える。なぜか端が歪んでいる広い金属製のテーブル状の台の隣に、椅子と思しきものがあると確認することはできたが、その隣で横たわった大きな楕円状の物体の正体はまるでわからない。電飾のコードの向かう先に視線を這わせる――自律電源と思しき箱状の物体がコンソールの輝きを放っていたが、それはぼくの知るどんな電源装置とも、まるで異なる形式だった。
部屋の隅で、少女は立ち止まった。手を繋いだぼくも、彼女に合わせる。
そこで、初めて気がついた。
濃淡のグラデーションを有する少女の琥珀色の髪が、この『部屋』の無数の電飾の光を受けて、一層その異質さを増していることに。
表面の僅かなウェーブに沿って生まれては消える、ごく小さな光点のひとつひとつが、あたかも自立しているかのようで――端的に言えば、不可思議だった。ともすれば、意識を奪われそうなほどに。
長髪が、ふと翻った。
ぼくに向けられた、両の眼。
少女が黒瞳に宿す光は、やはり敵意のようにも思えた。
ぼくを注意深げに観察しながら、彼女は固く握っていたぼくの手をようやく振りほどいて、足元に置かれた『椅子』を無言で指し示した。
おそらくは、椅子のはずのものだ。
それは金属製の背の低い物資用コンテナと思しき物体に、艶のある黒色の樹脂製のシートを被せた、言ってしまえば不格好な代物だった。それをぼくが椅子だと判断したのは、すぐ隣に、同じく間に合わせで作ったかのような白い金属製のテーブル台があったからだ。
少女の様子を伺いながら、慎重に椅子に腰掛けた。テーブルに指先で触れてみると、わずかに冷たい――合金の一種だろうか。
あらためて、思う。
――ここは、一体、なんなんだろう?
ぼくの視線の先に見えた灰色の壁に見えたものも、よく見ると違う。それは直方体のコンテナの山だった。洞穴の奥を遮っていたのは、ぼくひとりでようやく運べるくらいの大きさの、金属製の取っ手付きコンテナの集積体だったのだ。百は優に超える数が雑多に積まれており、一部がまるで壁のように、『部屋』の一面を構成していた。
それがとりわけぼくの興味を引いたのは、コンテナの表面に黒い印字で刻まれた文字列が、ぼくのまったく知らない言葉だったからだ。どのデータベースでも見た覚えのない形式だ。なんだろう、この言語は?
妙な声が聞こえた。
それが言葉であると認識するのには、やはり一呼吸分のタイムラグがあった。
テーブル台の向かい側に、琥珀色の髪の少女が座っていた。
額の髪を指先で掻き分けながら、ぼくのそれよりもやや座高の高い、それでも不格好には変わらない椅子に腰掛けていた。
その澄んだ黒瞳が、こちらを見つめている……。
あらためて、目前に座る、琥珀色の少女の姿を観察した。
年齢は、いまひとつわからない――華奢な体つきや、やや幼い面貌は年下のようにも見えるが、どこか場慣れしたような、芯のある表情と佇まいからは逆の印象を受ける。
彼女が纏っていた服装は、最初の印象よりも奇異なものだった。
一見では、厚手のホワイトの生地を使ったノースリーヴのシャツと、同じ生地のラップスカートの組み合わせに見える。しかし、実態はまるで違う。
すべてが一枚で構成されているのだ。
少女が纏っていたのは、非常に長いひとつなぎの布を胸元から脚までに“ぐるぐる”と巻きつけて、いくつかの要点のみをボタンかクリップのようなもので留めることで、一着の服としてこしらえたような、実に奇妙な代物だった。
ぼくという人間は、疑いようもなくこの銀河系世界における田舎者だ。服飾の流行などに強いとは断じて言えない。
そんなぼくの知識は当てにならないかもしれないが、少なくともぼくはこのような衣服を目にしたことはなかった――この辺境の星の社会においてはもちろんのこと、遠い他星系から電磁波あるいは零導波としてもたらされる、様々なメディアの中においても。
白色で統一された服飾に、少女の日焼けした小麦色の肌が映えた。
そして、やはりぼくの目に止まったのは、あのグラデーションを湛えた琥珀色の長髪の輝きだ。
少女の顔から肩にかけてをなだらかに覆い、背でまとめられたその髪は、やはり周囲の電飾からの反射光と相乗して、彼女の異質性をいや増していた……。
それにしても、彼女の髪の不可思議な色彩を、どう表現すべきだろう?
端的に言えば、やはり『琥珀色』という言葉が的確だ。
滑らかなアクセントを含むイエロー。透明感のある黄褐色。
しかし、見まがうような変遷をその内に有する、非単一的な琥珀色――そう付け加えなければならないだろう。
まず、その生え際に近い、つまり彼女の額から耳元の辺りは、深い色合いを表している。
しかし、そこを起点として、肩、背中へと離れていくほどに、色彩の深さは緩やかに落ちていく。同時に明るさは……光の反射率は上がっていくことで、先端部の白に近いブロンドへと連続的に遷移する――このような、繊細なグラデーションが形成されていたのだ。
更に、彼女が僅かにでも動く度に、僅かにウェーヴするその長髪は揺れて、更に環境光の反射がめくるめく変遷していくために、奇跡的なまでに複雑な視覚的効果を編み出す。
収束と拡散。輝きのさざなみ。
少女の特異的にさえ思える髪色は、この洞穴の閉ざされた領域において、むしろ際立って見えた。
周囲の無数のライトを受けて、それ自体が仄かに光っているようにすら思えるほどに。
少女が薄い唇を開き、何事かを呟いた。
ぼくはそこで息を呑んで――ようやく、琥珀色の髪から視線を引き離すことに成功した。
少女の黒瞳には、疑惑の色がいや増しているように見えた。
瞼をやや落として、じっとぼくを見据えていた。
――わたしの髪に、なにかついているの、とでも言わんばかりに。
だめだ。
やはり今のぼくは、まっとうな精神状態ではない。
それから、ぼくたちはしばらくの間、沈黙と共に過ごした。
ぼくは自らの感情を顔に出してしまうことを、極力控えようと努めた。
こちらに敵意がないことを、琥珀色の髪の少女に伝えたかった。
もちろん、叶うなら話したかった。
しかし、どうやらぼくたちふたりの間の、言語というごく基本的なコミュニケーションツールにおける絶対的隔絶の存在は、お互いにとってももはや明らかだった。
ぼくは、表情と身振り――非言語的コミュニケーションに頼るしかないことは、もうわかっていた。とはいえ、少女の属する文化圏のそれがぼくたちのものとまるで違っていた場合は、手振りすらも誤解される恐れはある。
しかし、もはやぼくが打てる他の手などなかったのだ。
自分でも、わかっている。
過度に神経質になっていた自覚はあるし、今などは何故か彼女の髪を見て放心していた。自分が今やるべきことが、わかっていない。
――つい、今しがた。
ぼくの首に、それも頸動脈の正確な位置に当てられた、金属片の冷たい感触。
その残滓が、ずっと皮膚にへばりついている。
眼前の少女は今なおも、胸元にそれを隠し持っているのだ。
下手を打ったら、殺される。
「……ぼくは」
それでも。
ぼくの方から、口火を切る必要があった。
この崖下に潜み――天然の洞穴にこのような『部屋』を造り、暮らしていたと思しき少女。
抱えている事情は、わからない。
わかるはずもない。
しかし、彼女の
先に語るべきなのは、ぼくの方だった。
「……ぼくは、君の住んでいる」
膠着状態を、終わらせる必要があった。
言葉たちを、頭の中で整えて組み替える自覚。
しかし言葉としてそれらを大気に載せた途端に、とても陳腐な文句として暴かれたように思えてならない。
それでも、言わなければならなかった。
「君のプライベートなエリアに、無断で接近した。
――まず、そのことについて、謝りたい」
彼女は、ぼくの言葉を知らない。
意味が、伝わるはずもない。
それでも、言わなれればならなかった。
「ぼくは、ぼく自身のつまらない事情から、偶然この崖下に来てしまった。
そして君に、強い警戒心を与えた。
ぼくが来てしまったことは、完全にぼくの一存によるものだ。だから、このことは先に言明しておきたい――ぼくは誰かに差し向けられたわけではないし、もちろん君のことを探りたかったわけでもない。
それでも、ぼくを罰するべきだと君が判断するのであれば、自由に罰してくれ――」
ここで、咳き込んでしまった。
彼女は変わらず、ぼくを凝視している。
「……ぼくには、君に対する敵意はない。君については、なにも知らなかった。
ぼくのことを君は信じられないと、ぼくは信じている。
それに……やはり、ぼくが言っているこの言葉の意味も、君には通じてはいないのだろう。
しかし、たとえ、伝わらなかったとしても。
このことについては、ぼく自身の言葉で、どうしても言明しておきたかった」
崖下に穿たれた、ひとつの
その内部は、静謐に満ちていた。
外を吹き抜けていた大小の風音も、ここまでは届かない。
耳に入ってくるのは、あの発電装置と思しき古ぼけたキュービクルから発せられる、低く鈍いノイズのみだ。
知らぬ間に、視線が落ちてしまっていた。
岩壁に輝く、電飾たちの下で。
白色の金属のテーブルを挟んで向かい合っていた少女が、なにかを言った。
今度は単語ではないと、気がついた。
それは、呻きだった。
琥珀色の髪の少女は、テーブルの両手に腕を置いて、目を伏せていた。
やがて、彼女がその陽に焼けた顔を上げた。
ぼくは、目を疑った。
彼女の表情から、あの強勢がすっかり抜け落ちていた。
まったく情けないことに、ぼくはただ呆然と見返すことしかできなかった。
まさか。
ぼくが必死に発した、あの中途半端に長い言明の、その意味が、この少女に伝わったわけではあるまい。
しかし、それでも。
――やはり、そういうことなのだろう、と思う。
人間が、他者に向けて
言葉の速度。声の高低。面持ち。語調。姿勢。呼吸の深さ。肩の上下に喉の上下。唇の開き方。瞳の動き。瞬き。視線。その眼に顕れた、感情の色。
あるいは、それらの総体。
それは、まさしく『言葉にしようのない、なにか』だ。
極めて微妙で曖昧な、その『なにか』こそは。
もしかしたら、とてつもなく遠い文化圏よりの使者であろう彼女にも、伝り得るのかもしれなかった。
そこで、ようやく。
ぼくは、ゆっくりと、大きく息をついて――。
少女に向けて、彼女に見えるように、しっかりと、頷きかけた。
琥珀色の髪の少女の、威勢の抜けた、弱りきったような表情を見て。
ぼくにも、理解できた。
もう彼女に、ぼくに対する敵意はない。
いや、それは敵意ですらなかった。
やはり、彼女が抱いていた感情は、最初からたったひとつ。
自分の領域内に、突如現れた未知の存在――ぼくに対する、恐怖だったのだ。
そしてぼくも、彼女と同じだった。
ぼくたちは互いに、虚勢を張っていたのだ。
やがて琥珀色の髪の少女は、椅子からゆっくりと腰を上げた。
テーブルの上で、おずおずと体を伸ばすと。
――その左手のひらを、ぼくの胸の表面に穏やかに載せたのだ。
安心した。
それはぼくの文化圏においては、やはり見慣れないジェスチャーだった。
しかし、それが彼女の世界のにおける、ある種の親愛のしるし――理解と許容を示すものであることは、言葉などなくても理解できた。
だが。
ずっと、「なにかがおかしい」、とは思っていた。
琥珀色の髪の少女との突然の出会いと、強意的な第一次接触。
そしてこの洞穴に連れてこられてから、今までに至るまで。
ぼくは少女の存在の異質性ばかりに気を取られていて、彼女の有している、あるひとつの属性を確認するまでに至らなかったのだ。
しかし、今。
彼女からの、この静かな接触によって。
意識には登らず、しかし延々と抱いていたある違和感の正体に、ついにぼくは行き着いたのだ。
――琥珀色の髪の少女は、ネクタル・フィールドを、まったく有していなかった。
事実を飲み込むためには、しばらくの時間と思考を要した。
琥珀色の髪の少女は、この社会においてあまねく『脳に次いで必要な臓器』と呼ばれる、生体補助システム――ネクタル・フィールド・ジェネレーターを持っていなかったのだ。
信じがたいことだった。
ぼくはその後、自分の見落としや勘違いの可能性を、すぐに三回繰り返して検証した。ぼく自身が腰のベルトに有するモジュールを操作して、視界内のフィールドの有無を包視界ホロで確認したし、少女との接触の際の反発力のログも探った。
やはり、信じがたかった。
それでも、疑いようがなかった。
眼の前にいる少女は、ネクタル・フィールドを、纏っていない――生存志向フィールドに、体を包まれていない。
いわば、
少なくとも外見上では、少女の健康状態に異変は認められない。
その胸は呼吸の度に、僅かに上下していた。
琥珀色の髪の少女はさも当然のように、この星の絶命的な大気を呼吸している……。
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