第一章/第二話 崖下の琥珀色 1
ぼくを、睨んでいた。
ふたつの黒瞳が。
強靭な意思を、湛えて。
目前の少女は、最初の一言より、決して口を開かなかった。
太陽を背に、その上半身が陰っている。
何を思うのか。
真剣そのものの面持ちで、周囲からの反射光に僅かに輝く瞳で――ぼくの顔を、ただ見下ろしていた。
だから、その視線の受容者たるぼくも、押し黙るほかにない。
不可解なほどに光あふれる、谷間の底――崖下の世界。
その中心の平たい岩盤の上で、まったく見覚えのない少女に、ぼくはあえなく打ち倒されて。
たった今、生殺与奪の権を握られている。
不思議だ。
このような時ですら。
ぼくの脳裏に真っ先に浮かんでいたのは、冷静だが、やや場違いな疑問だったのだから。
――どうして、こんなところに、人が?
街の外で人と出会った程度のことで、何を大げさな……と、思われるかもしれない。
しかし、ここは
ぼくが生きるこの小規模開発惑星ナピの、たった五百人を超えるばかりの人口や、その多くが街の外の不毛の荒野になどわざわざ立ち入らない事実、そしてその広大な原野において、知りもしない人間と出会うという状況の、あまりにも小さい確率――それらを、踏まえれば。
この少女との邂逅そのものが、異常事態だったのだ。
事実、ナピの荒野の中で誰か知らない人物とふいに出会ったことなど、ぼくは今までの人生で一度たりとも経験したことがない。
探索中、眼の前に現れた細長い影が、すぐに人であると認識できなかったのも、仕方がないところがあった。
そうは言っても、不甲斐ない話だけれども。
そして、今。
ぼくは、仰向けの姿勢で少女に馬乗りにされて、胴と肩を巧妙に抑えつけられていた。
視界の中に見える、日焼けした細腕。
少女の体躯は、ぼくよりもかなり小柄に見えた。
そこからはまるで想定できないほどの、強烈な圧迫力。
見事に関節を押さえつけられている。肘から地に押さえつけらえた腕が、動かせない。
自分の首元に、どうしても意識が向かう。
小さな、冷たい感触。
刃物の存在を、いまだに現実のものとして受け止められない。
それを平然とぼくに突きつけてきた、まるで見覚えのない娘は。
今もなお、両の眼を見開いて、黙念と、ぼくの顔を凝視している。
何を、するつもりなのか。
――殺す気、なのか。
はじめは、見知らぬ生物の鳴き声のように、聞こえた。
すなわち。
その音声が、眼前の少女が放った『言葉』であると、ぼくには一瞬わからなかったのだ。
これまでの沈黙とは、完全に一転して。
少女は、その口を開いて、喉を震わせて、凄まじい勢いでもって、声を発しはじめた。
心底から、恐ろしくなった。
紛れもなくぼくへと放たれたそれは、猛烈な、爆発的な、怒涛の勢いの――聞くだけで震え上がってしまうような、尋常ならざる大音声だったのだ。
意味は、やはり、まるでわからなかった。
狂気の産物であるかのようにさえ聞こえたそれが、実は何らかの単語の羅列だったことに、数呼吸後にようやく気がついた。
それでもやはり、まったくの未知の言葉ばかりだった。
少女は、ぼくに向けて、乗せた体躯を揺らしながら、矢継ぎ早に声を放ち続けている。
その言葉は、聞く限りにおいては、怒りや憎悪、敵意に満ち満ちているように思えた。
当然、首に突き付けられていた金属を除けて、彼女の両手がぼくの服の首元の襟を強く掴み上げてきた。
容赦のない、凄まじい力だった。
繰り返して放たれる、なんらかの詰問じみた言葉と同時に。
服を猛然と引っ張られて、頭を前後に揺らされた。
霞む視界の中で。
大きく開かれた少女の口が、ほんの一瞬だけ視認できた。
彼女の、ぼくに向けての行動には、まったくの容赦や躊躇が見られなかった。
強靭な意志と、目的が感じられた。
少女の持つ、深い黄褐色の――琥珀色、がより適切だろう――ひとつに束ねられた髪が大きく揺れて、ぼくの頬を叩くこともあった。
なにも、できなかった。
一切の抵抗が、無駄としか思えなかった。
正直に言おう。
突然の事態と謎、そして死の恐怖に、ぼくはうちひしがられていた。
少女の叫び声は、ナピの大地を時折抜ける猛風に似ていた。
やがて、終わりを見せた。
あるいは、伝わったのかもしれない。
体の自由を奪われ、頸動脈に刃物を突きつけられて、相手の言葉がわからないという、この危機の中で。
ぼくが彼女に示すことができた、たったひとつの意思。
すなわち、
――君の話す言葉の意味が、ぼくにはまったく理解できない。
という、声なき声が。
ぼくを締め上げて、獰猛な声音で詰問を続けていた少女にも、ついには感じられたのだろうか。
突然力が抜けたかのように。
服の襟から持ち上げていたぼくの頭部を、彼女はそっと地面に載せた。
やがて、あの情念に満ちた声の代わりに、静かな息遣いが聞こえるようになった。
――そして、ようやく、ぼくも。
あるひとつの事実に、気がついた。
単なる怒声という表現を、優に超越した……あるいは、最初から怒声でもなんでもなかった言葉を、五臓六腑の底から放ち終えて。
見上げた先にあった、小柄な少女の表情は。
今にも、泣きそうだった。
すぐに理解した。
彼女は。
ぼくに対して、怒りと憎しみをぶつけていたわけでは、なかった。
ぼくを詰問した挙句に、殺そうとしたわけでもない。
この少女は、ただ、
心からの要求を、懇願していたのだ。
湧上がる疑問を、尋ねていたのだ。
見知らぬ人間が、怖かったのだ。
つい、さっき。
ふたりが出会った、その瞬間から。
きっと、ぼくなどよりもずっと、彼女はぼくを恐怖していたのだろうと思う。
「……ぼくは」
喉が枯れていた。
つい、咳き込んでしまう。
改めて、視界の中の少女の面に、焦点を合わせた。
強い意志を宿した――しかし今にも崩れ落ちてしまいそうでもある、その表情に向けて。
ぼくは、かろうじて、告げた。
「君に、危害を加えるつもりはない」
彼女が必死に放っていた、『言葉』の数々。
それは、まるでぼくの知識の範疇外のものだった。
だから、ぼくの語るその意味も、きっと伝わることはあるまい。
けれども。
声の加減や抑揚、あるいはぼくの表情については、どうだろう?
――対面会話というコミュニケーション手段における出力信号は、放つ言語の意味、そればかりではない。
人と人の対話というものは、多分に、非言語的な信号を含んでいる。
ならば、あるいは。
所属する言語圏がまったく異なると思しき、この琥珀色の髪の少女さえも。
たとえ明瞭な意味ではなくとも、感じ取ることはできるのかもしれない。
ぼくの意向くらいならば。
あるいは、感情くらい、ならば。
伝わりうるのではないか。
そう思った。
ほとんど根拠のない、まるで祈りにすがりつくような、思いだった。
少女は。
しばらくの間、体の下のぼくを、硬い表情で見据えていた。
その黒瞳が、少しだけ困っているように見えたのは、ぼくの思い違いだったろうか。
――やがて、大きく息をひとつ吐き終えると。
指先に取っていた小さな金属片を、その白い厚手の服の胸元に入れて。
彼女はいともあっさりと、ぼくに加えていた体重を解いて、離れた。
ここは、光に溢れる、静寂なる谷の底。
ついに解放された仰向けの視界の中で、二十メートルの高みにそびえる崖の端の一対が、間隙を満たすナピの朱く澄んだ空と太陽が、ぼくを見つめていた……。
ようやく立ち上がってから、なにかを告げる間もなく。
琥珀色の髪の少女は一切の予備動作なく、ぼくの手をその手で躊躇なく取ってきた。
思わず、彼女に目を向ける。
その面持ちは、やはり硬質を保っていた。
しかし――どこか先ほどまでとは違う、ある一定の情感が表れているような印象も感じられた。
消極的な妥協、その端緒――とでも、言うべきだろうか?
ひとつに束ねられた、輝かしい琥珀色の髪を、一度大きく振って。
彼女は、崖下の平たい岩盤を歩きだした。
ぼくを、後ろ手に引くかたちで。
こうして並び立ってから改めて、ぼくはあらためて少女の小柄さに驚いてしまった。背丈もそうだが、腕や胴の無駄のない細さが際立っていたのだ。
この華奢な体で、ぼくを一撃で押し倒して、動作を完全に押さえ込んでいたとは。いや、もちろんぼく自身の日頃の運動不足等も、関係しているのだろうけれども。
ぼくの手を一方的に握る指先の力は、やはり少女の外観とは釣り合わないほどに、容赦なく強い。
無言で、陽に照らされた紅いプレートの上を、堂々と歩いていく。
あまりにも素早く整然としたその動作に、再びぼくが怖れを覚える暇もなく。
琥珀色の髪の少女は、ぼくを招き入れた。
――他ならぬ、崖の下に開かれた、あの
簡潔に言ってしまえば。
洞穴の内部は、人工的に改装されれいた。
ライトの照らす下で、大量の金属製コンテナ群――積み重ねられた荷物たちが、満ち満ちていた。
地面には布に似た素材のカーペットが敷かれており、寝台らしきものや、棚や、作業テーブルと思しき物体も見受けられた。
追憶の中で。
ぼくと父さんのひとつの探検が奇妙な終着を遂げた、洞穴。
そこは今、この少女の棲家と化していたのだ。
驚愕の思いで、傍らの琥珀色の髪の少女へと、つい視線を移すと。
ぼくを見返した彼女は、ほんの一瞬だけ、
口元を歪めて、目を細めて――。
笑った、のだろうか?
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