第一章 暴かれたもの - The Exposed
第一章/第一話 地表よりも明るい、谷の底から…
第一章 暴かれたもの - The Exposed
『血の鎖』なるものに導かれたわけでは、断じてない。
◆
終わりのない紅い大地と、朱色の空。
そのさなかに、ぼくは立っている。
停めたばかりの
――あるいは、こんなことを、ふと思ったりもする。
いかなるものも、歳月による変化というものを避けられないのかもしれない、と。
例えば、ぼくについて言ってしまえば――もう初等教育の時期はとうに過ぎてしまっており、故に、目下のぼくの関心は、
『観測学I』の受講者に与えられた課題は、以下の通りだ。
『当該学生の生活圏の近隣のある一地点における自然地質学的、または造成地質的特徴について、一定の期間、学生自身が実測した客観的データに基づいて、場合においては仮説も交えながら記述せよ』――提出期限は翌年一月八日とする。
……文面こそ少しばかり物々しいし、加えて、なんだかそっけない。
しかしそれを除きさえすれば、かいつまんで言ってしまえば、『身の回りにある地形を観測してまとめてくれ』という、ごくシンプルな課題だ。
この文面を見て、すぐに心に浮かんだ場所だった。
ぼくの住む街から南東方面へ――正確には、ナピ方位四十三度七分へ――荒野を進み、およそ二十七.六キロメートルの地点。
幼少の記憶に沈殿していたあの大きな谷間が、今回の地質学レポートの対象として、実にふさわしいものに思えたのだ。
平たい大地をその一線でもって分かつ、大地の亀裂。
もう旅に付き添いもいらない歳だ。ぼくはしばしば街を抜けて、この惑星の様々な地域を散策している。それでもぼくの知る限りにおいて、ここまで大きい渓谷地形はほとんどない。
望ましいことに、行き来の利便性も悪くない。確かにここは人里から離れたナピの荒野のど真ん中だけれども、日常的に家からホバーで通えない距離では決してなかった。
計測装置もセンサーも起動せずに、まず最初に発見することができる、重要な学術的事実がある。
――子どもは、やむにやまれず、過大評価に走りがちだ、ということだ。
ひとたび地形マップに従ってホバーを走らせれば、街からこの谷までの距離が、あの記憶で感じられたほどには遠くなかったことを、痛烈に思い知らされてしまった。
子どもというのは、いかんせん体が小さいから、相対的になんでも大きく見えてしまうのかもしれない。
なによりも、その幼少の過大評価が目立ったのは、他ならぬ崖そのものに対してだった。
前述した、どんなものも歳月の変化を避けられない、という話にも与するのだけれども――こうして実地で観察してみると、六歳当時のぼくが“感じていた”、この渓谷のサイズとのギャップには、驚かされてしまう。
確かにこの谷は、比較的に見れば大規模な地形だ。
とはいえ、せいぜい全長は二百メートル弱といったところで、『谷の果てが地平線に埋もれて、まるで全容が見えない』などということは、決してありえない。子どもの頃との視点の高低差もあるのかもしれないが、きっと印象や心理的要素によるものが大きいのだと思う。
また、もう一つのパラメーター――崖の深さについても、同じだった。当時は『まるで底が見えない闇の深淵』と感じられたのに、今、崖の際に少し身を乗り出してみると、底の大地の光景ははっきりと見渡すことができてしまった――谷底までは、低いところでせいぜい二十メートル程度だろう。プレート状の岩肌の上に、つつましい岩石の塊が転がっているのも、明瞭に視認できた。
あの日、父さんとともにこの谷間と直面した時、ぼくはしばらく体を動かせなかった。心底から湧き上がる恐怖に、飲みこまれてしまったのだ。
あたかも、全身にのしかかってくるようにさえ感じられた、この谷全体が発散する凄絶さとでもいうべきもの――。
ぼくの記憶の中に、その印象は厳然と刻み込まれている。
そして今、ぼくが立っているのは、まったく同じ谷の縁だ。
それにもかかわらず、あの時に直面した圧迫感は、微塵も感じられなくなってしまった。
幼少時の過大評価と、その相対的な埋め合わせ。
あるいは。
――大人になるって、こういうことなのだろうか?
……そういうことかも。
くだらないことを考えながら、ぼくは谷を降りるための斜面を探した。
絶壁に沿って降るように造られた、徒歩で降りられる天然の傾斜を確認する。
位置も形状も、やはり当時のままだ。
ぼくは網膜投影ホロを指先のジェスチャーで呼び出し、
足下の岩盤は、土砂の少ない安定したものだった。それでも滑落には気をつけながら、決して広くはない天然の斜路を降りていった。
ほどなくして。
谷間の底――すなわち崖の下に広がる、開けた領域に、ぼくは辿り着いた。
ぼくは、そこで初めて、明確なノスタルジーと言えるものに直面したのだと思う。
崖下の空間。
閉ざされた未知の領域は、どのような意味においても、健在だった。
静謐で、光に満ちた、地の底の庭園。
その広大さにおいて、六歳の記憶に沈殿していた印象と、眼前の光景を、ぼくはまざまざとオーバーラップすることができた。
左右を巨大な岩の壁に挟まれて、それにもかかわらず十分な広大さと、奇妙なほどの明るさを有する、奥行きを持つ長方形の空間だった。
すべてが、あの頃のままだった。
ぼくは大いに安心すると同時に、若干の奇妙さも覚えた。
――この場所は、先ほど地表上から見た、『あの頃に感じられたほど大きくはない谷』の底面にあたる。
つまり、その広さにはほとんど同一だ。
それがわかっているのにもかかわらず、やはりぼくの立つこの崖下の空間は、とても広大なものに感じられた。大地の亀裂と、その底部のもたらす印象のアンビバレンツ――なんだか、だまし絵を見るような気分だった。
思わず、目を細めてしまっていた。
深さ二十メートルに及ぶ崖の底なのに、あの日と同じくやはりこの大地は、奇妙なほどに光量が多かった。地表よりも明るいようにすら感じられる。
どうして、ここまで明るいのだろう?
ぼくは顔を上げて、この空間を挟む、二枚の巨大な壁面――すなわち、崖の断面を仰ぎ見た。
今なら、ある程度の推測くらいはできる。
まず、この谷間の形状と地点が、とても太陽光を取り込みやすい配置にあるのだ。この惑星ナピの自転軸は太陽への軌道面に対して垂直に近く、またこの辺りはナピの赤道直下であるために、ナピの朱い太陽は東から西の空へと、ほとんど天頂を通るかたちでまっすぐ移動する。それが、同じく東西に走っているこの谷間の形状と、かなりの精度で一致していた。
そしてこの場所を地表面よりも明るくしている原因は、反射光に違いない――辺りの二枚の壁面を順に見上げながら、ぼくは確信する。
切り立った二つの絶壁は、ナピにありふれたごつごつとした形状の大地よりも、ずっと平たい滑らかな面を覗かせていた。断絶面であるためか、若干色も明るい――つまり、陽光の吸収率が低い。天からの陽光の一部はこの壁面を反射して、それらが集積するのは、谷の底部であるこの崖下に他ならない。
つまり、入り込みやすい直接光と、二枚の壁の反射光のコラボレーションが、この場所を、地下でありながら光に満ちた世界として成立させているのだった。
もちろん、十四度というナピの赤道傾斜角が存在する以上、時節による変動は認められるだろうし、陽光の届かない朝や夜は地表よりも大きく明度が落ちる可能性が高い。その辺りは今後の崖下の測定データから、詳しく把握できるかもしれない。
今後の調査をますます楽しみに思いながら、ぼくは崖下の地表を壁面に沿って歩き、この渓谷地形の所々を確認していた。
谷の底は歩きやすかった。地形の形成過程に由来しているのか、二十メートル上にあるナピのありふれた地表面の荒野よりも、地表面の凹凸や岩石の量が少ない。
見る限り、構成物質はナピにありふれた酸化鉄の割合の大きい玄武岩と同じようだが、突起や岩石はほとんど見られず、平たい岩のプレートが幾層にも積み重なっている景色は、見慣れている地表とはやや趣が異なっている。
『観測学I』レポートのための観察・記録過程は、準備も含めて、今日からおよそ二ヶ月間――五十五日を予定している。
これは一学部生の課題レポートの測定としては少しばかり長すぎるのだけれども、他の講義のレポートはもうあらかた仕上がりそうで時間が余っていたし、その上ぼくは、この科目で良い成績が欲しかった。
なんといっても、ぼくはこうした地質調査が好きだったのだ。
この崖下の広大な空間において、どのような観測用センサーを、いくつ、どう配置するのが望ましいか――ぼくは既に、そんなことを考え始めていた。
しかし、大岩と壁面に挟まれて、やや狭くなった道を通り抜けた直後に、その思考は中断を余儀なくされる。
あるものが視界が入り、歩みが止まった。
崖下の空間を作り出している、一対の並行する巨大壁面。
その一枚の最下部、地面との間隙に。
逆三角形の暗い入口が、穿たれていた。
あの日と、まったく同じ姿で。
脳裏から、猛烈な勢いで、記憶が湧き出してきた。
――幼い背に抱えた貨物の重さ。歩く度に体の重心を左右に揺らしたその感覚。見知らぬ世界への恐怖と高揚。教えられた緊急用シグナルブーストの使用手順。どこまでも続くようだった谷間の底の暗い色。そして奇妙な話を吹き込まれた、ランタンの光ばかりの洞穴の奥底で、その入口を前にして、
長い、とても長い影を落とす、父さんの背。
思わず、声を出しそうになった。
今ぼくが立っているプレート岩盤の上が、あの日に父さんが立っていたところと完全に同じ地点であると、咄嗟に思ってしまったからだった。馬鹿げた思い込みだった。すぐに違うとわかった。まるで見当外れだ。ぼくの立つ場所は、やっと入口が見えたところなのだ。父さんのいた場所は、もっと洞穴に近いところだった。
――参ったな。
――怯えるような頃でも、もうないだろうに。
少し、気を落ち着けない。
そして、再び、呆然とすることになる。
ぼくが視線を釘付けにしていたのは、壁面に接した隅のところ――この崖下の地表を構成しているプレートが数層か引っ込んで、やや落ち窪んで暗くなっている広い空間だ。
その中央に、異常そのものとしか言いようのない物体があった。
湧き上がる大量の疑問をよそに、ぼくは十数メートル先に見えたそれを見据える。
黒く焼け焦げた、金属製の残骸のようなもの。
見る限りにおいては、動いてはいないし、煙や光を放っているわけでもない。
ジェスチャーでスリング・ベルト上のネクタル・モジュールを操り、緊急用フィールドの正常動作を目視で確認する。
心もとないが、多少の爆破衝撃や熱線ならば、耐えられるように。
接近してみることにした。
落ち窪んだ縁の辺りまで歩み寄ると、多少はわかってきた。
――どうやら、なんらかの構造物の、剥き出しになった骨組みのようだ。ひしゃげているからか、地面からの高さはぼくの背よりやや高いくらいだが、全長と幅はちょっとした住宅と言っていい大きさだ。本来は細長い形状だったものが、ずたずたに破壊された挙句、横倒しになったような印象を受ける。全体の先端部と思しき箇所に操作盤のような金属部を確認したが、これも恐らく熱によって黒く変色しており、かつ大部分が破損しているために、判断は難しい。
息を飲むしかなかった。
――なんだ、これは?
ただの小さな洞穴の入口を見て、過去の記憶を呼び起こされたのとは、まったく話が違った。
この純粋な自然地形であるはずの場所に、明らかに人工物と見られる物体が鎮座していたのだ。
もちろん、前回にここに来た時には――父さんとともに来た幼少の時分には、こんなものは、なかった。
――もうすこし、接近して観察するべきなんだろうか。
学術研究のために久方ぶりに訪れた、崖下の空間。
その隅に転がっていた、謎の巨大人工物。
立ち止まってそれを見つめるばかりで、今後のことを考える余裕すらなかったぼくを。
まるで待ち焦がれたかのように。
なにかが、聞こえた。
気がついた時には、首を、視線を、そちらに向けていた。
例の
そして、
入口の傍らに、『それ』がいた。
猛烈な違和感があったことだけは覚えている。
およそ十メートルほどの距離があった。
前述のとおり、崖下の空間は光に満ちており、明瞭な視界が確保されていた。
それでも、なお。
視界の中に現出した『それ』の正体を、ぼくは当初、まるで認識できなかったのだ。
あまりにも意外、かつ理解の難しい情報に対して、一時的に脳が処理を拒んだのだろう。
――あるいは、視界は、明瞭に過ぎたのかもしれない。
平常時の地表でさえ強いのにもかかわらず、反射光のために更に重厚に彩られたナピの朱い日差しの中で、ぼくを取り囲んでいた世界は、まるで現実感覚を失っていたようにも思えたからだ。
『それ』が、ぼくに向けてまっすぐ接近を始めた時も、立ち竦んでいるしかなかった。
驚異的な速度のアプローチは、瞬く間に終わりを告げる。
ぼくだって、なにもできなかったわけじゃない。
「やめてくれ」と、言おうとした。
や、で息が止まった。
なんの迷いもなく、『それ』はぼくをあっさりと押し倒してきた。抵抗はしたつもりだ。意識からの動きではなく、生理的な反応として、ぼくは抗ったのだと思う。恐怖と嫌悪から、腕や胴体を抑えつけてきた外部からの力を振り解こうとしたのだ。
無理だった。
背をしたたかに地面に倒され、喘ぐ間もなく、『それ』は自身の全重量を巧みに用いて、ぼくの胴と腕の動きを徹底的に封じた。
『それ』の指先に刹那の輝きが見えた途端、刃物と思しきそれが、ぼくの喉元に圧迫を伴って抑えつけられた。
冷たい感触。
正確無比な頸動脈分岐の位置。
すべてがひっくり返った、仰向けの視界の中で。
そびえ立つ崖と崖の合間に、ナピの太陽が見えた。
恒星の輝きの、隣で。
不可思議な琥珀色の髪の一束を、背で振って。
『それ』は、
ぼくに向けて、
思念に満ち満ちた大声で、なにかを、一言告げた。
言っていることが、まるでわからなかった。
人間の、少女だった。
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