1-2.ユーレイと特級非常事態



 王との会話はその後もしばらく続いたわけであるが、頭に強いショックを受けたユーレイがその内容を思い出すにはもう少しかかる。

 そんなわけで。


「……大惨事じゃないの? それって」

「……惨事も惨事です……」


 ほとんど放心状態で戻ってきたユーレイを出迎えたのは、彼女の上司。

 "魔導兵装開発部"――ユーレイの所属する部署は、ざっくり言えば塔の中の下あたりの階層に位置している。低くはないが下から数えたほうが早い、そういうポジションに彼女の職場はある。


 時代錯誤な魔女の工房、そんな風情のオフィスである。


 塔の廊下は大理石でできていて、磨き抜かれたその床は歩く人が映り込むほどである。が、そこから一歩この部屋に踏み入ると、その瞬間目の前に広がるのは妙に薄暗くジメジメと湿気った空間。湿気の理由が部屋の中央でぐつぐつと煮える大鍋だとまず気づき、そしたら次に目が行くのは、壁や床に無造作に描き散らされた魔法陣やら呪文の一節やら――ペイントされたそれらは暗闇でぼんやりと赤や緑に光っていて、いまいち明度の足りない天井の照明に代わって部屋を照らす。

 おかげで部屋中にところ狭しと散らばるガラクタ寸前のマジックアイテムも照らされてしまっているのだが、どうせ客人を迎えることもないのでと職員全員が放置している。これさえなければボール遊びができそうなくらいには広い部屋なのだが、そのわりに職員が使用していると思しきデスクの数は片手で足りるあたり、窓際ぶりが伺えようというもの。

 そして数少ないデスクですら今日はほとんど埋まっておらず、部屋の中にいるのはユーレイと、この部署の長のみである。


 耳も、うなじも、惜しげもなく見せびらかすように出したベリーショートの髪色は、真っ白。それと対を成す純黒の双眸はくりくりと大きくどこか幼いが、年齢としてはユーレイよりも一回り上にあたる歳である。

 バベル指定の白ローブは適当にその辺へ脱ぎ捨てていて、タンクトップに膝丈短めのレギンスと、だいぶ雑な格好だ。腕やらへそやら足やらあちこち露出した地肌は、かなりの色黒――のように見えるのだが、これについてはこの部屋が暗くてよく見えないせいである。もっとも、明るくても一瞬は見間違えるが。


 大鍋のそばに置かれたソファにすらりと長い足を投げ出してふんぞり返り、極細の刷毛で爪にを描いていた上司――ハクロー・ターミナルが、そこでゆっくりと顔を上げる。


「うーん……、てっきり出世の話かと思ってたんだけどね。君をもっと上に招待しようって誘う王様を、『私はまだ、ハクローさんに恩を返せていません……っ! まだあの人のところで働きたいんです!』って感じで断るの。どう?」

「……すみません。今は、あまりそういう気分には……」

「……だよねえ。本当、どうするんでしょ……」


 うーむ、とハクローが腕を組むと、押し上げられた胸がタンクトップ越しにぷるんと揺れる。圧巻の一言であるそのサイズはユーレイが横にいると本当に"対極"の一言という具合で、このくらい大きいと普段の生活ってどんな感じになるんだろう、なんてユーレイもたまに考えたりする。真下は見えるんだろうか、とか。

 なお、基本ユーレイは素直なのでこういう視線がわりと顔に出る。そのため、こうしてユーレイに見られていると気づいたハクローはいつも「十六なんだから、まだこれからこれから」と何かを勘違いしたらしい気遣いを向けてくれるのだが、ユーレイはユーレイでその気遣いの意味をよく理解しておらず、「ありがとうございます」とだけ返しているので上司と部下の関係は別に軋轢もなく回っている。特段自分のスタイルに不満があるわけでもないユーレイである。だいぶどうでもいい話である。


 で、それはさておきである。

 冗談めかした口調と格好、わりあい飄々としているこの上司でさえも。今、ユーレイが持ってきた案件について、ちょっと引いたような笑みを浮かべているのだ。


 前代未聞の事態である。

 激動という言葉すら生ぬるい、超激動のこの二十年ですら、一度も起きたことのない事態である。

『パイロットの暗殺』であれば、それは常に最優先で警戒されている。が、まさかパイロット自らが辞表を叩きつけて蒸発するなどというのは予想の斜め上でも下でもない。予想の四次元方向とでも形容すべき特級非常事態だ。

 魔導巨兵同士の勝負が国の行く末を左右する時代に、その魔導巨兵のパイロットが不在。殺してくれ、と言っているようなものだ。

 殺してやれ、と言ったようなものだ。


「なんだろうね。やっぱりプレッシャーとかあったのかな」

「……兄は、そういう重圧で潰れるタイプの人間ではありません」


 わずかに棘を滲ませた口調で返事をして、しかし、唸る。


「…………が、これだけの大任を、自分勝手に、無責任に放り出したりする人間ではない……かと言われれば、…………やりかね、ない、かもしれない、とは……」

「ユーレイはこんなに真面目なのにねえ」


 苦悶の極みといった声色と表情でユーレイは頭を抱え、ハクローがよしよしとその背を撫でた。

 もしかすると辞表は偽造で、兄は何らかの事件に巻き込まれたという可能性もあるだろう。が、これまで家族として過ごしてきた時間が、『あの兄なら、本当に"やる"かも知れない』という諦めにも似た疑惑になってユーレイを苦しめている。

 何かの事情はあったのだと思うが、パイロットを投げたのは自分の意思だろう。

 それがユーレイの所感である。たぶん間違いないだろうという確信がつらい。


「で、ほんとにどうするの。筆頭のがいなくなったわけでしょ?」

「……代わりを探せと、そう言われました」

「まあ、そうなるんだろうけど……。代わりったって、トップがいないなら普通に考えて二番手だよね。なんだっけ、あの……フラグライト? ……フラグライトで名前合ってる?」

「フラグライトさん……というか、バベル呪符課のほうには、ジェレイン王から直接話を通しておくそうです。そう言っておられました」


 はて、とハクローは首を傾げた。

 それなら、ユーレイはなんのために呼ばれた?

 言外の問いに、ユーレイはしばし躊躇うように視線をさまよわせる。少しの間を挟んでから、遠まわしに切り出すことにした。


「すみません。……地図を、お借りできますか?」

「地図? えーっと、ちょっと待ってね。どこだったかな……」


 片手を挙げて発言すると、ハクローはデコピンの要領で人差し指を弾いた。

 と、その人差し指に描かれていた小さな魔法陣が薄緑色に光る。


 ――ハクローの素肌は、一瞬パッと見るとかなりの色黒に見える。が、本来彼女の肌は髪と同じ抜けるような白色で、黒く見えるのはすべてだ。

 魔法陣やら、呪文の一節やら。この部屋の壁に描かれているのと同じようなが、彼女の肌にはびっしりと、本当にびっしりと隙間なく描き込まれているのである。

 緑光は爪の魔法陣から指を伝って手の甲、前腕、二の腕へと一本の線を引きながら駆け上がり、腕全体に敷き詰められた呪文のうち、その線上にあるものだけが白く縁取られて発光。

 ハクローの指先に、爪の先ほどの小さな光球が浮かび上がった。


 ――『魔導兵装』の理念を己自身で体現する存在、それがハクローという人間だ。


 薄暗い部屋の中、ガラクタの山を適当に照らしながらひっくり返しつつ、ハクローは目当てのものを掘り出した。

 ユーレイの手のひらにちょうど収まるくらいの、薄い金属板。

 <Map-グランピアン>と刻印されたその鋼色の板には、ハクローの体と同じように――無数の魔法陣、無数の呪文が、びっしりと彫り込まれている。 


「あったあった。で? どっか行くの?」


 手渡されたそのを、しばらく眺めてから。

 ユーレイは、苦虫を噛み潰したような表情で、こう答えた。




「……からも、パイロット候補を探すと。王は、そうおっしゃっていました」


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