第16話 続・田中さんが車を乗り回している
そして、11月24日の朝…我々は、岡山医院が見通せる空き地に公用車を止め、田中さんがやって来るのを待った。余談であるが、生活保護課が使っている公用車は、町名や町章が見当たらないごくごく普通の軽乗用車である。これは、ケースのプライバシー保護に配慮した結果であり、今回のような「張り込み」等に備えてそうしているのではないので念のため…。
30分ほど経った頃、何も知らない田中さんが、紺色のプリウスに乗って現れた。ナンバーは「32-14」。間違いない。私は、慌てて飛び出そうとする北山さんを止めた。
「帰りにエンジンをかけて、発進した時に押さえましょう。運転しているという事実が必要です」
さらに30分後、田中さんが病院から出てきた。車に乗り、エンジンをかけたところで公用車を発進させ、プリウスの進路を塞ぐ。そして公用車から降り、運転席の窓を叩いた。
「田中さん。話が違うやないですか! 後で役場に来てください!」
私は鬼の形相で、田中さんに言い渡した。
お昼過ぎ、田中さんが役場にやって来た。北山さんと2人で面接室に誘導する。
「田中さん。どういうことですか? 説明してください!」
「ダメなことはわかってたんですが、母も高齢ですし、便利さにかまけてつい…。車は弟から借りたものです。申し訳ありませんでした」
「前に訪問させていただいた際、あなたは否定しましたよね。で、我々は、指導指示の文書をお渡しして帰った。文書は読んでいただけましたか?」
「…はい」
「先日私も口頭で申し上げたことですが、文書の最後に、指導指示に従わない場合は、保護の停廃止をすることがありますという一文があったのを覚えていますか?」
「…はい」
「あなたは、南大阪町福祉事務所の指導指示に従いませんでした。したがって、これからあなたの保護をどうするか、町として判断させてもらいます」
「…そんな大変なことになるとは…思い及びませんでした。今度こそ本当に、車は弟に返しますから、どうか勘弁してください。高齢の母もいてますので…」
「あなたの言い分は、後日改めてお伺いします。11月29日の午後2時、役場にお越しください」
私は田中さんに、あらかじめ用意しておいた「聴聞の機会期日設定通知書」を手渡した。これは、行政手続法に規定された、相手方に不利益処分を行う時に必要な手続きである。
田中さんが帰った後、私は北山さんに聞いた。
「北山さん。あなたは担当ケースワーカーとして、どうしたら良いと思いますか?」
「田中さんは、指導指示違反をしました。だから、ルールに則って、保護を廃止することはやむを得ないと思います。でも、お母さんはこのことには関係がない。そんなお母さんまで巻き添えにし、しんどい思いをさせることには抵抗があります」
「確かに、北山さんの言うことにも一理ありますよね。お母さんの生活を守る方法はないでしょうかね?」
「課長。田中さん本人だけ『世帯分離』してみてはどうでしょうか?」
阿部主任が話に入ってきた。
生活保護には「世帯単位の原則」がある。世帯内の一部の人間だけに保護を適用することは、原則的には認められていない。「世帯分離」とは、ざっくり言えば、世帯全体として見た時には要保護状態であるけれど、世帯内に保護の要件を満たさない者がいて、世帯全体の保護の適用が困難な場合に、当該者を除外して、残りの世帯員に保護を適用しようという例外的な考え方である。実務的には、世帯内に稼働能力があるにも関わらず働かない世帯員がいたり、少し趣旨は違うような気もするけれど、大学生や専門学校生の世帯員がいる場合、当該者を世帯分離の扱いとする。阿部主任の意見の趣旨は、前者を適用するということである。
「なるほど。阿部主任いいところを突きました。私もそれがいいと思います。で…田中さんが真に反省して、車に乗っていないことを客観的に確認できた段階で、世帯分離を解除する…。北山さんの、担当ケースワーカーとしての思いを実現しようと思えば、こういう選択肢になりますね」
「課長、阿部主任、ありがとうございます!」
北山さんは、ホッとした表情でそう言った。
11月29日午後2時、「聴聞の機会」が設けられた。
「この度は大変ご迷惑をおかけしました。車は弟に返しましたし、もう2度と乗りませんから、保護を切るのだけは勘弁してください!」
田中さんからは悔悛の意が伝えられた。
「田中さん。あなた、役場に嘘をつきましたよね。明らかな『指導指示違反』です。保護費の原資は税金です。税金を嘘つきに垂れ流すわけにはいかんのですよ。私としては、一旦保護を廃止せざるを得ないと考えていました。しかし担当の北山は、お母さんには責任がないので、お母さんだけでも何とかならないかと私に問いました。で、熟慮の結果、田中さん…あなただけを保護の対象から外し、お母さんのみ保護を継続することにしました。難しい言葉ですが『世帯分離』といいます。12月1日付けで、あなたを世帯員から外します。保護費はお母さんお一人分のみの支給になりますのでご承知ください。」
私は田中さんに、敢えて淡々とそう伝えた。
「課長さん。そんな少ない金額で、どないして生活せよというんですか!」
「田中さん。繰り返しになりますが、本来は保護廃止ですよ。担当の北山の配慮で世帯分離に留めたんです。そこのところを良く理解してください!」
その後も言葉の応酬が続いたが…私の意志が揺らがないことを覚った田中さんは、最終的にはしぶしぶ了承した。
12月1日付けで、田中孝治さんは世帯分離された。今後は、お母さんの年金と、単身世帯基準の微々たる保護費で生計を維持しなければならない。
このケースは、生活保護法の趣旨…「世帯単位の原則」に照らせば、本来的には保護の廃止が妥当である。実務的には、田中さんが車の使用を止めたことが客観的に証明された段階で保護の再申請をしてもらい、保護を再開することになる。
ケースワーカーは、担当ケースには少なからず思い入れがある。北山さんは、再三の指導指示に従わなかった田中さんはともかく、母親が道連れで路頭に迷うのは心苦しかったのだ。せめて母だけでも何とか…その思いが、「世帯分離」という方針を打ち立てた。今後、北山さんのこのささやかな思いが田中さんに伝われば、彼は改心するのではないか…ぜひそうであって欲しい…
私はふと…夏に亡くなった、中村秀明さんのことを思い出していた。
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