第15話 田中さんが車を乗り回している

 11月中旬のある日の朝…北山さんが難しい顔をして電話応対をしている。どうやら、町民からのケースの苦情のようである。私は、可能な限り情報を引き出すようメモを書き、電話応対中の北山さんに差し出した。


 「課長。大和田地区に住んでいる田中孝治さんが、車を乗り回しているという匿名通報でした。通報者によれば、車種はトヨタのプリウスで、色は紺、ナンバーは『32-14』。日中はどこかへ隠していて、夜になったら乗って帰ってくる。買い物や通院に使っていると…」


 田中孝治さん…高齢の母親と2人暮らしの48歳の男性である。糖尿病で働けず、母親の年金収入だけでは生活できないとのことで、大阪府南部福祉事務所の時代から保護を継続しているケースである。


 生活保護制度において、「動産」の保有を認めるかどうかは、一般家庭での「普及率7割」が目安とされている。昔は保有が認められていなかったエアコンやパソコンは、普及率の上昇とともに保有が認められるようになった代表選手である。自動車もそれなりの普及率に達しているはずであるが、まだまだ「贅沢品」とされ、事業用、障がい者の通勤通学用、排気量2000CC以下、資産価値が低いこと等、保有要件はかなり厳格に定められている。田中さん世帯は、自動車の保有要件は満たしていない。


 「プリウス…なかなかの高級車やないですか…。情報もかなり具体的ですし…限りなくクロに近いグレーですね。とりあえず29条で、陸運局に所有者の照会をお願いします。結果が出たところで、通報があった事実を田中さんに突きつけましょう。同行訪問します。」


 私は北山さんにそう伝えた。


 生活保護法第29条…保護の決定や継続に必要な調査が出来る旨の規定である。預貯金や土地家屋等、資産調査に使う前提の規定であるが、今回のような調査にも準用されている。


 数日後、陸運局から照会の結果が届いた。


 「名義は田中義治さん…田中さんの弟さんですね。田中さん名義の車ではないとなると…指導は難しいですよね…?」


 北山さんが、半ば諦めの表情で私にそう告げた。


 「いや。別冊問答集をよく読んでみてください。借用も認められないことになってますよ。ただ…我々が訪問した時に、田中さんが素直に運転の事実を認めてくれたらいいんですけど、たぶん…認めないでしょ? そうなると、指導するためには、運転している現場を押さえるしかありません」


 「課長。では、どうすれば…」


 「とりあえず、訪問のアポを取ってください。それから、通報があったのは事実ですし、どうやら信憑性も高い…。念のため、『27条指導指示』の文書を用意しましょう。内容は、『名義の如何を問わず、自動車の運転をしないこと』としてください」


 私は北山さんにそう告げた。


 「課長。『27条指導指示』はまず口頭、それから文書という手順ではなかったでしょうか?」


 横で聞いていた広瀬さんが、言い難そうに口を開く。


 「はい。そのとおりですよ。私は匿名通報の内容からして、田中さんは、限りなくグレーに近いクロだと思っています。田中さんが素直に認めてくれたら口頭指導に留め、次やったら文書を切りますよと言い渡します。それで運転を止めてくれたら御の字。もうワンチャンス与えるということです。でも、認めなければ、それは事実上我々の指導に従わないという宣戦布告です。事実を認めない人に『ダメです』と言ったところで何の意味もない…。すなわち口頭指導以前の問題です。だから我々も、即刻伝家の宝刀…文書を交付します」


 「なるほど…『27条』は奥が深いですねぇ…」


 広瀬さんは、納得したのかそうでないのか、複雑な表情で呟いた。


 「生活保護法第27条」がケースに指導指示を行う場合の根拠条文であることは、すでに記したとおりである。そして、原則的にはまず「口頭」、続いて「文書」という段取りを踏む必要があることも…。しかしながら実際の現場では、即「文書」というケースもなくはない。今回のように、客観的にみて限りなく「クロ」に近いにもかかわらず、本人が事実を認めない可能性が高い場合である。「27条文書指示」は「伝家の宝刀」…ケース個々の状況に応じて、的確なタイミングでカードを切る必要がある。つまるところ、福祉事務所としての技量を試される部分でもある。


 翌日の午後、私と北山さんは、田中さんの自宅に赴いた。そして、田中さんが車を運転しているという通報があった旨を伝えた。


 「誰がそんなことを…私は一切運転していません!」


 田中さんはそう断言した。


 「通報者が誰なのかは我々もわかりません。でも、情報はかなり具体的ですし、車はあなたの弟さん名義のものです。我々としては、あなたが運転していたことは間違いないのではないかと考えています」


 何度確認しても、田中さんは揺らがない。運転していないの一点張りである。


 「では、とりあえず通報があったという事実に基づき、文書による指導指示をさせてもらいます。仮に今後、あなたが車を運転しているという事実を客観的に確認することが出来たとすれば、保護の停廃止も検討できるという強い文書です」


 私は北山さんから、「生活保護法第27条に基づく指導指示書」を受け取り、田中さんの目の前で読み上げた。田中さんはそれを受け取ることもしなかったが、机上に置いて訪問を終えた。


 「田中さん…やっぱり認めませんでしたね」


 「素直に認めるくらいなら、黙って乗り回したりはしないですよ。北山さん、田中さんは、近くの岡山医院にかかってましたよね。医院に電話をして、次の受診予定日を確認してください。そこで現場を押さえましょう!」


 私は北山さんに、そう伝えた。


 北山さんが岡山医院に確認したところ、次回受診日は、11月24日の午前であることが判明した。個人情報を楯に、なかなか診療情報を開示してくれない医療機関が増えたが、岡山医院はいつも協力的である。


 「北山さん。張り込みますよ!」


 「課長。わかりました!」

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