第10話 伊藤さんの妊娠

 7月も終わりに差し掛かった。梅雨が明け、真夏の日差しが容赦なく照り付ける。ケース宅は、エアコンがないことが多い。ケースワーカーたちにも、こまめな水分補給を呼びかける。


 新人の広瀬さんは、メキメキと力をつけ、すでに1人で家庭訪問等をこなしている。彼女の気さくで親しみやすい性格も、ケースからは非常に受けが良い。あのアルコール依存症の中村さんも、彼女の言うことはよく聞いてくれる。酒の臭いをさせて役場にやってきたり、わけのわからない恫喝の電話をかけてくることもなくなった。


 「課長。ちょっといいですか?」


 家庭訪問から戻ってきた広瀬さんが、汗を拭きながら私のところにやって来た。


 「母子家庭の伊藤裕子さんなんですが…どうやら妊娠したらしいんです」


 興奮冷めやらぬ様子で私にそう伝えた。


 「ん? 出会い系サイトかなんかで知り合って、相手の男とは連絡がつかないとか言うんでしょ?」


 「えーっ! 課長なんでわかるんですか? その通りです!」


 生活保護ケースワーカーをやっていると、大概出くわすシチュエーションである。いいのか悪いのか、今さら驚くこともない。


 「えーっと…伊藤さんところには、3歳の男の子…太郎君でしたっけ? がいましたよね? 確か『要対協』にも上がってたケースですよね?」


 「課長、『要対協』って何ですか?」


 「『要保護児童対策地域協議会』の略称。児童福祉法に規定された、要保護児童への適切な支援を図ることを目的に設置された連絡会のことです。ウチの町では、児童福祉係が担当してますよ。情報が入ったら招集がかかるでしょうねぇ…」


 私は広瀬さんに、ケースファイルをよく読み、ケースの背景をよく理解しておくように指示した。そして…


 「広瀬さん。伊藤さんは母子手帳はもらってますかね? 産婦人科への受診はどうしたんでしょうう?」


 「妊娠検査薬で陽性が出た段階のようで、まだ受診はしていないと言ってました。本人は産んで育てたいと言ってます」


 「とりあえず、医療券を交付して受診を勧めてください。受診後は保健センターで母子手帳を交付してもらうこと」


 「わかりました。そう伝えます。あと必要なことはありますか?」


 「妊婦検診はほとんど公費で対応できるので…来月以降、保護費に妊婦加算をつけることと、産むということであれば、助産施設の手配…ですかね?」


 「助産施設? そんな専門の施設があるんですか?」


 「いや。府内に助産施設の指定を受けた病院がいくつかあるんですよ。近くだったら…共済会記念病院が指定を受けています。生活保護は他法優先なので、出産費用は助産制度でまかなうことになります」


 「課長、それなら、医療券も共済会記念病院のものを交付するのがいいですよね?」


 「広瀬さん、さすがです。全くもってその通り!」


 彼女は本当に頭の回転が速い。おそらく将来、生活保護課を背負って立つんだろう…そんなことを思いつつ、


 「問題は『要対協』です。ウチが彼女に堕ろすよう指導せよ! という話になるんだろうなぁ…」


 私はボソッと呟いた。


 すると、課内にいたケースワーカーたちがわらわらと集まってきた。


 「伊藤家は、過去に何度かネグレクトの通報があり、児童福祉係が継続的に見守りを行っています。お子さん1人でも大変なのに、2人…それも、乳児の養育は、あのお母さんには難しいと思いますよ…」


 3月まで児童福祉係にいた北山さんが、暗い表情で呟く。


 「それは私も不安なんだけれども…本人の意向を無視して、『墜ろせ』というのは人権侵害になりますよね。あくまでも本人の意向が優先で、側面的援助に徹するしかないんですよ、我々は…」


 私はため息をつきながら、そう答えた。


 伊藤さんの妊娠の話は、想像よりも早く児童福祉係に伝わり、早速「要対協」の会議が招集された。私と広瀬さんが出席したが、話の展開は私の予想通りである。


 役場のこういう会議は、縦割り行政の弊害というか何というか…つまるところは「責任のなすりあい」だと思う。ウチはこういうことができるので、ぜひやらせてくださいという話には大概はならず、ウチではこれはできないので、お宅でやってくださいという話が堂々巡りするのが常である。


 結局のところ、「堕ろすよう指導せよ」という関係機関の訴えを封じ込め、生活保護課のケースワーカー、児童福祉係のケースワーカー、保健センターの保健師が定期的に家庭訪問しながら、見守りを継続する。出産にかかる費用や助産施設の段取りは、生活保護課が行う。裕子さん出産時は、町のショートステイを利用し、太郎君を児童養護施設で一時的に預かる。出産後のフォローについては、時期が近付いた頃に再度会議を行って方向性を検討するということで決着した。


 「広瀬さん、疲れましたねぇ…」


 「…はい。グッタリです」


 2人で地下の売店で喉を潤してから、生活保護課に戻った。

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