第6話 大川さんの扶養調査
私が広瀬さんに、大川さんの扶養調査の話をしていると、岩本主任が割って入ってきた。
「課長。お言葉ですが…大川さんの場合は、扶養調査は必要ないのではないでしょうか?別れた娘さんとは20年以上会っていないようですし…」
「保護の実施要領を正直に解釈すればその通りですよ。扶養調査をしなくても、大阪府の監査で指摘されることもないでしょう。でもね…。大川さんは残念ながら、持って2か月…。娘さんに会いたいということはないでしょうかね?」
生活保護と扶養…すなわち扶養義務は、切っても切れない関係である。生活保護法でも「扶養は保護に優先する」とされており、本当は困っているのに、親族に連絡が行くのを恐れて、保護の申請に踏み切れない人も意外と多い。
生活保護制度の運用上は、機械的にすべての親族に扶養調査を行うのではなく、まずはケース本人の申告と戸籍謄本等で、どのような親族がいるのかを把握する。そしてその中から、ケース本人からの聞き取りに基づいて、扶養の可能性がありそうな人にだけ調査を行うのが原則である。もちろん、調査を行う場合は、ケース本人の了解を取り付ける。
大川さんの場合、広瀬さんと阿部主任によって、すべての親族関係の把握が終わっている。そして、大川さんからの聞き取りにより、20年前に自身の借金が原因で妻と離婚。その時娘さんは7歳で、妻が引き取ったこともわかっている。
保護の実施要領では、没交渉20年を超える親族には、扶養調査は必要ないこととされている。そういう意味では岩本主任の指摘は正しい。しかし、親子の絆というものは、我々が想像する以上に強い。大川さんの話を聞く限りでは、特段父子関係に問題があったようには思えない。
「万が一大川さんが亡くなれば、否が応でも娘さんに連絡せざるを得ないことになる。存命している今連絡をするのと、亡くなったという連絡をするのと…どちらがいいと思いますか?」
私は、広瀬さんと岩本主任に問いかけた。
「私なら…今連絡が欲しいと思います」
広瀬さんが答えた。
「まずは、大川さんがどう考えているかが大事です。大川さんが娘さんに会いたがるようであれば、娘さんに扶養調査の用紙を送ってください。その際、大川さんの病状も書き留めておくこと。それから…大川さんには、娘さんからの返事が来ない可能性があることも伝えておいてください」
私は広瀬さんにそう伝えた。
数日後広瀬さんは、娘の早紀さんにあて、扶養調査の用紙を送った。そして5月末のある日、早紀さんから広瀬さんあて、電話がかかってきた。
「この度はご連絡ありがとうございます。父が大変お世話になりまして…。もしよろしければ、父が入院している病院を教えていただいてもよろしいでしょうか? ぜひ面会に行かせていただきたいと思っています」
課の皆が、広瀬さんと早紀さんの電話のやりとりに耳を傾けている。電話が終わると…
「広瀬さん、よかったねぇ…。課長、お見事です!」
岩本主任が声を上げた。
電話の翌日、早紀さんが南大阪町役場にやってきた。そして、私と広瀬さんも一緒に、大川さんが入院している共済会記念病院に向かった。
「早紀…来てくれたんか! すっかりべっぴんさんになってなぁ…」
大川さんは涙ながらに大喜びである。早紀さんも感極まって泣いている。そして、広瀬さんも…。20年間途切れていた父子の絆が…再びつながった瞬間であった。
2017年6月5日…早紀さんに看取られて、大川さんは天国へ旅立った。早紀さんは、病院の木下MSWから連絡を受けて急行した広瀬さんと私に…
「広瀬さん、課長さん。ありがとうございました。父と過ごせたのはたった1週間でしたが、かけがえのない時間を過ごせました。父も喜んでいると思います」
「早紀さん。この度は大変ご愁傷様です。これ…お父さんの生活保護費をお持ちしました。ちょうど今日が支給日だったんですよ。本来ならば、日割りで明日以降の分は返還いただくことになるんですが…返還は結構です。全額お父様のために使ってください」
私は早紀さんに、大川さんの6月分の生活保護費が入った封筒を手渡し、そう伝えた。なお、生活保護法上には、福祉事務所の判断で、支給済みの保護費の返還を免除できる規定があり、それを適用した次第である。相談の結果、大川さんの葬儀は早紀さんが執り行うことになった。生活保護は、明日付けで廃止になる。
「生活保護」は法律に基づいた国の制度である。国が示す「処理基準」に縛られ、案外自由がない。道を外れると、大阪府が実施する「生活保護法施行事務監査」で槍玉に上げられる。でも…これくらいの裁量があってもよかろう。私たちが行っているのは、保護費の支給だけではない。ケースの「健康で文化的な」生活の保障である。そこには、少々人間臭さがあってもいいのではと思っている。
大川さんの死は、新人の広瀬さんにとっては少々酷だったかもしれない。でも、大川さんは、広瀬さんに貴重な経験をさせてくれた。
大川正和さん、ありがとうございました…心よりご冥福をお祈りいたします。
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