第10話 交差する思い出 現実と電子的な夢の中

 耳障りな電子音で目が覚めた。

 その電子音は人の神経をいらだたせるように、耳元で、まるで誰かが止めない限り永遠に鳴り続ける勢いで気づいたらずっと鳴り響いている。

 それは規則正しく、自分の心臓とおなじスローなペースだった。

「リミッターか……」

 ソウジはぼんやりした意識の中で思った。浅い呼吸でバイザーが白く曇る。意識はあるが、ここが夢なのか現実なのかの区別が付かない。

 それ以上に、自分が今どこにいるのかさえよく分からない。

 自分はなぜここにいるのか。なぜこうしているのか。ここはどこなのか。

 いったい何がどうなっているのか。それが、まったく分からなかった。

 ただ耳障りなアラートが耳元で鳴り続け、自分は意識朦朧としながらそれを聞いている。

 『サージェントカトウソウジ』の電子的な表示だけは見えるが、自分がいったい何者でなんなのか、先ほどまで見ていた夢のようなものの意味も、内容も、よく分からない。

 暗い部屋の中。自分が目を覚ましても誰も迎えに来ない。それどころか、部屋中が散乱しているような。

 どこかで誰かの悲鳴、立て続けに銃声のような音が聞こえ、大量の足音が廊下を突き進む音やそれを止めようと駆け回る者たちの音が聞こえる。

 ソウシは体を動かそうとしたが、体は自分の体を包むスーツごとすっかりシート上に固定されている。

 そして視線の向こう側には、相変わらず誰かがいる。

 その顔はすでに見えそうな形だったが、視界が回復しないので世界はぼんやりと白みがかっていた。

 彼女には、たしかに見覚えがある気がする。

『あの子……名前は何だっけ』

 ソウジは声にならない声で自問した。遠い記憶のどこかで、自分は彼女を見たことがある気がする。

 それはまだ自分が、学生とか何かで、まだ軍にも入っていなかった頃のような。

 ソウジのそういう想いを感じ取ってか、部屋に置かれたインテンデンツの端末が強い青色と白色をそれぞれ交互に明滅させる。その色彩は、ソウジが夢見る意識としっかり同期しているような気がした。

 ソウジの思考ははっきりしない。

 そのうち電子アラームが止み、スタンバイの表示の元にダイブのカウントダウンと自動シーケンスが始まる。

 これから自分は夢を見る。もしかしたら、もう二度と起きられない程の夢の中へ。

 そう思うと怖くなって、ソウジは必死にカウントダウンを止めようと藻掻いた。だがMMICS接続のカウントダウンは止まらない。

 壁に収まったインテンデンツ接続端末の青い輝きがいっそう強くなり、頭に響くダイブ再開の電子音がゆっくりとはじまった。

 ひとつ。ふたつ。最初のカウントはやや低めの電子トーン。最後の三つめは高めの電子音。その音がすっと脳内に溶け込んでくる。次にソウジが目をつぶった瞬間、宗士の意識は電脳空間と夢の狭間へ引き込まれた。


 ぼんやりとした意識の底で、宗士はふと冷静になる。自分が息をしていることに気がつく。

 宗士はどこかでうつぶせに寝ているようだった。

 体中の節々が痛み、上体をゆっくり持ち上げて伸びをした。視界が広くなり、自分がどこか学園の中のクラスにいる。

 窓の外を見ると、太陽が高い場所にある。気の早い部活動の生徒たちがグラウンドの外周を走り始め、他の生徒たちはそれぞれ放課後の話合いをしていた。

 時計を見たらすでに午後遅い。むしろ一日のほとんどの時間が既に過ぎかけている。

 というか、ここは宗士がいつも通っている学園だった。

「う……?」

 口元のよだれを拭き、宗士は寝ながら見ていた悪夢について思いを巡らせた。ずいぶんと、なんというか、とてもリアルな夢だった。

「夢?」

 口元のよだれをぬぐいながら、今朝がた起きた不思議なできごとを思い起こした。

「……これが夢なんだよね? たぶん」

 目の前で生徒たちがそれぞれ放課後の談笑をしている。記憶の中では、彼ら彼女らは宗士とは長い付き合いのクラスメートで、そろそろ一年目くらいの付き合いになると思う。

 でも宗士には友達がいない。なぜなら宗士は、このクラスには途中で転校してきた人間だったからだ。しかももうすぐまた転校する。

 転校に次ぐ転校。宗士が世界をあちこち引越しを続けるようになったのは、父と母の仕事の関係だった。今はたまたま父と母が家を残していったので、都合があってまだこの町にいる。

 ……ということになっていた。

「いったいどこまでが本当なの?」

「またむずかしいことを考えていましたの?」

「うっ」

 背後から聞き覚えのある声が聞こえて、宗士はぴくりと肩を震わせる。そろりそろりと後ろを振り向くと、そこにはやっぱり、見覚えのある自称、理事長の娘がいた。

 木村節子はさも当然といった様子でクラスのイスに腰掛けて、机に肘をつきにこにこと微笑んでいる。

 白い髪の毛にボリュームのある巻き毛。どう見ても普通の学生には見えない。だが、クラスのみんなは彼女の存在をまったく気にしていなかった。

 彼女は何の気無しにと言った様子で、自分の髪を後ろへなぞった。

 気だるい午後の風がクラスに舞い、彼女の髪がふわりと揺れる。その姿はただの少女にはとても思えず、何か神々しいような、あるいは完璧という言葉がそのまま当てはまるような、少女らしさ、美しさとかわいらしさ、可憐な、きれい、そういう形容詞がすべて当てはまるような存在だった。

 それがまるで当たり前のように、宗士のすぐ目の前にいる。

「キミは……」

「そう、お察しの通り、私がこの仮想世界を創ったインテンデンツですわ」

 少女はにっこり微笑んだ。

「ご安心ください。私はあなたに危害を加えるつもりはござませんわ」

「じゃあ、なんでボクをこんな所に?」

「楽しんでほしかっただけなんですの」

 少女、木村節子はすこし困ったような顔をしながら微笑んだ。

「お気に召さなかったかしら?」

「気のせいかも知れないけれど、ここって」

「ここはずっとまえ、あなた様がまだ今ほど大人ではなかった頃のある日をそのまま創りましたの。ここにある学園以外は、ぜんぶ本物ですわ」

「……キミは、ボクの何を知ってるの?」

「私があなた様を知ったのはほんの少し前。あなた様がMMICSをつかって、私の中に飛び込んできたときですわ。でも私があなた様を知ったのは、もうずっと前のこと……」

 節子はそういうと、ふと表情を和らげ開けっ放しになった窓の外を見た。

 遠くから、グラウンドを走る部員たちのかけ声が聞こえる。

 ぽつりぽつりとつぶやきだす彼女の言葉を、宗士は注意深く聞いた。

「インテンデンツは、ニューラルネットワークでつながれあらゆる分野で活躍している人工知能集合体のひとつ。ヒトがヒトを統治するとき、統治者がそのやり方を間違わないよう手伝うことだけを目的として造られた人工知能ネットワークのただの端末機関ですの。簡単に言えば、私はただの機械。機械的にヒトの政治と統治を代理する人工機関。私は人格や意思を持つことが許されない、私は感情を持ってはいけない、機械なのですわ」

 そこまで言うと、節子は遠く窓の外を見つめる。

 宗士は彼女の顔を見て、この表情や、感情の機微をみて、どう見ても彼女に感情がないとは思えなかった。

「キミには、感情がないの?」

「いいえ? 私には感情があります。私は宗志様が好き。この想いは本物ですわ」

 節子は、ゆっくりと宗士を振り返った。

「欲求はありました。別の端末では、ヒトの心や感情、恋愛心理についてもっとずっと深く調べていました。ニューラルネットワーク上での私たちの意見は一致しました。もっとヒトを知りたい。もっとあなたたちを理解したいって」

 そうして節子は楽しそうにすると、机に肘をついて子供のように笑う。

「これは恋かなって、でも何か違うなって。そんなときに、あの子が私たちに本当の恋を教えてくれましたの」

 笑顔だった節子の顔に、微妙な変化が訪れる。笑顔そのものは何も変わらない。その差異がいったいどこがどうしてどう変わったのか。それを表現することはできない。

 ただなにか、不穏というか、一直線が過ぎたものというか、何かがおかしいという直感のようなものだ。

 宗士にはそれが何であるのか理解できなかった。

 節子は言葉を続ける。

「心にはいつもどこかにあなたがいて、あなたをいつも見守っているけれども、あなたはちっとも私を見てくれない。他の人とは当たり障りのないことは話せても、あなたと一緒になると、とたんに苦しくなって、あなたにも自分にも正直なことが話せなくて、そうして辛くて、また苦しくなって。そうしてあなたに辛く当たって、そんな自分が嫌になって。こういう苦しみとか、切望とか。あこがれとか、嫌うとか。あなたに背を向けるとか。あなたから逃げてしまうとか」

「それは、意味が分からないよ」

 宗士は小さく首を振る。節子もうなずいた。

「そうね。意味が分からないですわね。非論理的で、整合性がなくて。でもこれが、こういう苦しみが、ヒトのいう恋なのかしら?」

 優しさ、慈しみの表情、羨望、そういった感情が節子の眼から、物言わぬ感情として宗士の心に伝わる。

 ただそれらの感情の裏に、ヒトとは違う何かまた別のものがあるのも事実。

 いや、それはもしかしたらヒト以上に人間らしいまた別の感情なのかも。

「嫉妬しますわ。そういうヒトの持つこの感情が。私があなたに抱くこの心、このすばらしい物が、想いが、すべて私ではない誰かがあなたに抱いていたものなんて」



「インテンデンツとして生まれた私は、ヒトに例えればまだまだ子供ですわ。けれどこの私を突き動かすこの感情は、私の胸を突き動かすこの感情の大元は、実はあなた様とあまり変わりないんですの」

「胸を動かす? 感情の大元?」

「私の胸、触ってみてくださる?」

「は? え、ちょっと……」

 そう言っている間に節子は宗士の手を勝手に握ったかと思うと、そのまま自分自身の頬に押しつけた。

「あたたかいでしょう?」

「ま、まあ」

 宗士は何も言えなかった。

 触れるぬくもりはまるで人肌のよう。その柔らかさ、呼吸にあわせて僅かに動く肌。ただただ、急なことにどきどきした。

「私のこの体は、実はある人のものを引用したレプリカなんですの。この世界を創ったのは私。この学園を創ったのも私。この世界にあなたを引き込んだのも私。だけど、私は私じゃない」

 少女はそういって宗士の手を握りしめ、指先で宗士の指の一つ一つを丁寧におさえこむ。

「このキモチも、この心も、感情も、ヒトが誰かを想うのは同じ。あなたを想う私のこの気持ちも、あなたたちと同じ。私のキモチは私のもの。でも、あなたを本当にこう思っていたのが、私ではない誰かだったなんて、すこし嫉妬しますわ」

 少女はにっこりと微笑む。

「こんなキモチを誰が持っていたのか、あなたはご存じ? ここは、その人の心の中の世界ですわ」

 そういわれて宗士は、町を歩いていたときの僅かな違和感を思い出して震えた。

 そうだ。自分の知っている町の風景と、この世界の風景のわずかなずれ。

 自分の記憶の中の世界と、今見ている世界が違うのは、これは自分が見ていた世界ではないからだ。

「この世界は、その人が心の中にしまっていたある日。そこにはあなた様もいて、今でも彼女の心の中にはあなた様がいる。そしてそんな彼女を救いにあなた様は来た。こんな奇跡、そんなにないですわ」

 そして自分は、名前も分からないその人の世界に生きている。

 宗士はその現実に目の前がくらくらした。

「な、なんてものを……」

「あの日あなた様がいた世界を、その人は誰にも言わずずっと心の中にしまい込んでいた。こんなにもすばらしい世界で、こんなにも愛に溢れているというのに」

 節子は無邪気にそう言うと、腕を広げまるで演劇の舞台の上で踊る少女のように立ち上がり、その場で大きく腕を動かし小気味よく踊った。

 この、突然にはじまる情緒溢れる踊りと感情表現の方法は宗士にとってまったくの異次元めいた表現方法だった。

 だがこの世界では彼女のそれが普通だし、クラスの他の生徒たちも気にもとめない。

 むしろ、思っている事を正しく伝えるのが正しいと言わんばかりの雰囲気だ。

 そういう空気が、この世界には満ちている。

 世界が、宗士の知る普通の世界とは違うことを端的に分からせてくる瞬間だった。

「こんなすばらしい感情を誰にも打ち明けず隠しておくなんてもったいない。でしたらこの私が、叶わなかったその恋を叶えさせてあげる。私は万物の管理者、人類を統べるインテンデンツですもの」

 そういうと節子はくるっと体をひねらせて宗士の近くまで歩み寄り、ゆっくりと宗士の手を取り立ち上がらせる。

 宗士は抵抗しなかった。

 彼女の想いは本物だ。どこまでも人間らしく、その動きや一挙手一投足はまるで機械的な何かを感じさせない。

 だが、そのやり方は人として間違っている。

 宗士はふと、向こう側で誰かに言われた言葉を思い出した。彼女は、思春期の少女のようになってしまったのだと。

「インテンデンツ、キミは何をする気なの?」

 少女に手を引かれながら、宗志は彼女に聞く。

「節子って呼んでくださいね」

「これから何をするつもりなの?」

「私と一緒に踊りましょう」

 節子は言って宗士の手をやさしく握り、ゆっくりと舞踏のステップを踏み出した。

 釣られて宗士の体も自然に動く。ぎこちないが、宗士は節子の華奢な体に自然とリードを取られる形で動き始めた。

 クラス中の視線を集めながらも節子と宗士は無言で踊り続ける。

 その脈絡のなさ、その踊りの意味に、なにかあるとは思えない。

 生きる幸せとか、誰かと出会い、恋に落ち、互いに求め合う感情とか、別れる刹那の寂しさとか、またいつか出会うことの希望を、節子と宗士は踊りで表現する。

 そこには人を切り裂く無闇な言葉や計算に基づく行動などなく、あるのは感情と想いと心だけ。

 教室の中をひとしきり踊って廻ると宗士たちはいつの間にか元の席に戻ってきている。宗士は節子から手を離すと、弾む息を整わせながら自分の席に座った。

 節子が宗士の机の上に、ひらりとその身を座らせる。

「節子さん、キミは……」

「ンもう、節子って呼んでくださいね」

 息をまったく乱していない様子の節子はそう言って、いたずらっぽく宗士にウィンクした。

「恋をしましょう?」

 唐突に、節子は宗士に顔を近づけてきた。

「えっ」

「私と一緒に恋をしましょうよ。こんなにすばらしい世界に私たちはいて、二人が出会うなんて、奇跡以外の何物でもありませんわ。これが生きているってカンジ。学園で青春をして、遊んで、恋をして、これ以上すばらしいことなんて人生にあるのかしら!」

 節子はそう言って手を胸の前で合わせ、勝手に感動し、小さく涙を浮かべてほろりと流す。

 ここまで感情表現が豊かすぎると逆にひく。

 それを見抜いてか、節子ははっとした様子で宗士を見た。

「あら、ごめんなさい。一人ですこしはしゃぎすぎたかしら」

「う、ううん別にいいんだよ。それよりもさ、キミは、ええと」

「せ・つ・こっ」

「節子ちゃんは、この世界を創った人なんだよね?」

 人、という言い方に節子は機嫌を良くし機嫌良くうんうんとうなずいた。

 それからうっとりとした表情。ふふっと一人で笑ったりもする。表情と機嫌の移り変わりは見ているだけでも楽しい。

 これを、かわいいと思うのだろう。宗士はかわいいなと思った。

「キミは、ボクと彼女をこの世界に閉じ込めているんだよね? お願いがあるんだけれど、ボクたちを外に出してくれないかな?」

「それは、ダ・メっ。のんのん、出ていくのはいけないことですわ」

 やんわりとした宗士の提案は、節子が困ったように体をくねらせる態度で全否定される。

「外の世界はキケンでいっぱいですもの。それに、ここはとーっても安全。宗志様は、私のことが嫌いなんですの?」

「いや嫌いじゃないよ?」

 ここで彼女の機嫌を損ねてしまってはいけないと咄嗟に思った。

「でも……ボクは、やらなきゃいけないことがあるんだ」

「やらなきゃいけないこと?」

「ボクは……ボクは、ウィザーズって言う人たちの仲間なんだって」

 宗士は途切れ途切れの記憶を思い出しながら、今朝あった彼女たちの言葉を繰り返す。

 だが確証は持てないから、その言葉には曖昧さが残った。

「ウィザーズはなにをするんですの?」

「ウィザーズにはやらなきゃいけないことがあって、今朝の彼女たちはそれをするためにボクを助けに来たんだ。ボクはその続きをしなきゃいけなくて、でも何か大切な物を、ボクは知っているはずなんだ」

「大切なもの?」

 節子は真剣に、本当に不思議そうな顔で人差し指を口元に当てる。

「なんだか分からないですけど、とっても面白そうですわね。私にも手伝えることなのかしら」

「キミはインテンデンツなんだよね? キミを止めるためにボクたちはここに来たって言ってた。キミは、いったい何をしたの?」

「私は恋をしているだけですわっ!」

 心底楽しそうに節子は答えた。

「この世で恋以上に楽しい事なんてないですもの」

「それはボクにも分かるよ」

 節子の楽しそうな言葉に釣られて宗士も言った。言いかけて、うーんと首をひねる。

「そういえば、そんなことがずっと前にもあったような」

「あら、宗志様にも誰か好きな人がいらして?」

 わくわくといった様子で、節子の顔がずいと宗士の近くまで寄ってきた。

「そうは言っても、ずっとむかしの話だよ。それこそ、ボクがまだ学生だった頃のこと。この世界くらいの頃だったと思う」

 そう言って宗士は、あらん限りの自分の中に残っている記憶を思いだした。

「そう、まさにこんな感じで……」

 クラス中の人たち。知った顔。クラスの様子。机の触り具合。窓から差し込む太陽の光。

「……そっくりだ。まるであの頃みたいな」

 室内履きを通して感じられる床の堅さ。尻と背中に触れるイスの感覚。午後の気だるい空気。

 これが夢なんだ。自分は確かに夢を見ている。

 それも、自分ではない誰かの心の中を、夢として見ている夢の中。

「でもこれは、キミの夢じゃないんだよね。そしてここはボクの夢でもない」

 宗士は自分に言い聞かせるように言葉を吐いた。節子は答えなかったが、楽しそうに宗士を見て黙っている。

 そのとき、ふとひらめいた。この世界に閉じ込められているもう一人の存在。

「……彼女だ。ここは彼女の夢の中なんだ」

 宗士の口から自然と『彼女』という言葉が出てきて、宗士は逆にびっくりする。

 そうして自分の口に手を当てて、自分の口から今し方出てきた言葉を声に出さずに繰り返した。

 彼女とは誰だったか。あの子とか、あれとかではない明確な存在の誰か。

 朝に見たずぶぬれの謎の夢の中とか、昼に見た少女とか。夢の中で雨に打たれながら、出撃前とか、戦う前とか、夜になってふと故郷を思い出すときとかにもかならず思い出していた遠い存在のことを。

 宗士は彼女を思い出して、自分が彼女を忘れかけていたのを思い出す。

 彼女が、彼女なんだ。

 曖昧だった点と点が結ばれる。そういう漠然とした類推が、ほとんど確証に近い形となって宗志の記憶と合致した。

「そうだ、彼女が彼女なんだ。ボクはウィザーズで、キミに取り込まれた彼女を……」

 たどたどしく続ける宗志の言葉を、節子はわくわくした顔で見守る。

「ボクが、彼女を助けにきた」

 そう言って上を向くと、机の上に座っている節子の方は微笑みというか、微妙な笑みの表情を浮かべながら宗士を見下ろしている。

「思い出してしまったのね。ちょっと残念ですわ。でも、物忘れなんて誰にでもあることですし、思い出すのもよくある話ですわ」

 節子は言うと指先を小さくたてて魔法をかけるようにゆっくり横に振る。

「ちょ、ちょっと待って! ねえ節子。ボクは彼女を助けるためにここに来たんだ。それ以上は、ボクは何もしない! 他のみんなにもそう言うよ!」

「あらそうですの?」

 節子は指先を止めて宗士を見た。

「約束する! ボクはウィザーズだ。他の子たちにも、キミに手を出さないように言ってみる。だからお願いだ、彼女を帰してくれ!」

 宗士は膝に両手をついて節子にお願いした。節子の方は、宗士が頭を下げてお願いしている姿を見て最初はきょとんとしていたが、まんざらでもない顔をしてから小さく指をふる。

「さあなんのことかしら? ふふふっ」

「インテンデンツ、キミが彼女をここに閉じ込めているんだろう?」

「私の名前は節子よ」

 そこまで二人が言い合っていると、すぐ隣の席で誰かが鼻をすすっている音が聞こえた。



 ぎょっとして振り向くと、見覚えのある顔が両目を涙で一杯にして泣いていた。

 今朝がた、救急車に押し込められてどこかに連れて行かれた美月だった。

 彼女はどこから持ってきたか分からない原色柄の派手なハンカチを、前歯で噛んで引っ張っている。

「ええ話や。ええ話やわあ」

「み美月しゃン! ……美月さんいつのまに?」

 新しい登場人物の宗士が引きつった声をあげても、美月の方は一向に反応しない。ただ目を潤ませほんのり顔を赤らめているのは、節子の話のどこかに心を刺激されたからだろう。

「どこでそんなに感動してたの?」

「最初のほうかな?」

 美月はあっけらかんと答える。

 話をまったく聞いていないってことじゃんと、宗士は心の中で突っ込んだ。

「雰囲気ええ話だったやないですかあ」

「あ、あれでもおかしいなあ。朝にけっこうひどい目に遭ってなかった?」

「あーあれね」

 美月は泣きの表情から後腐れのない笑顔にころっと表情を変えると、今まで起こっていたことを身振り手振りを交えてつぶさに説明し始める。

「病院に行って、帰ってきましたー!」

 美月はその場に似つかわしくない勢いで、空気を読まず元気いっぱいに答えた。

「いやーなんかせまい部屋に閉じ込められそうな感じの病院に連れて行かれたときは、さすがにちょっと焦ったよねー。ね、タイチョッ」

 美月は宗士の肩に向かってやけにフレンドリーな態度で、手のひらをばしばしぶつけてくる。

 宗士がなんだこいつと思って静かに見て、自分の口にそっと指を向けた。

「口調が変わってるよ」

「……なんのことでしょう?」

 明らかに不自然なご丁寧語を活用しムリして笑い始める美月に、宗士は呆れて笑うことにする。

 よく考えれば、この丁寧すぎる口調を使う人がもう一人どこかにいたような。

 確か、黒っぽい服を着ていて妙に暴力的だった記憶がある。道の途中で勝手に別れて、今ごろどこにいるのやら。

 そんなことを頭の隅で考えつつ窓の外を覗くと、慌てた様子の救急車が回転塔を廻しながら学園正門前を通過していった。

「どこの病院に連れて行かれたの?」

「あそこの病院ですわ! えーっと、あそこあそこ」

 あそこあそこじゃわからんと宗士は思ったが、指をさされた窓の向こう側を覗くと病院らしき建物が遠い向こう側に見える。それより眼下に見える学園の正門前を赤色回転塔を回している救急車が行ったり来たりしている方が気になった。

「逃げてきたの?」

「私は普通ですって言ったのに、救急車の人がぜんぜん信じてくれませんのー」

 正門前の救急車の動きは、明らかに誰かを捜している様子だ。それも執拗なほどに。

 振り返ると美月は得意そうな顔をしてそこにいた。

「私はただのフツウの人。ちょっとだけ変態なだけですわっ。ねえ隊長?」

 ふふんといった様子で胸を張っていた美月が、突然ずいっと近づいてきてて宗士の前に顔を突きつける。

「どうしてここまでして私たちが隊長を追いかけるか、隊長はご存じかしら?」

 突然美月の、いや、美少女の顔が急接近してきたことに宗士は一瞬身を固くした。なぜって、その距離があまりにも近く、鼻の先と鼻の先がぶつかりそうなくらい近すぎたからだ。

「い、いやあ。なぜって」

 ムリヤリ話をそらそうと他愛のない言葉を選んで適当なことを言おうとしたが、温かいぬくもりを抱く美月の体温が空気を伝わってじんわりと宗士の肌にも伝わってくる。

 だがそれよりも、気になるのは美月の両手が自分の両手を握っていることだった。

「それはね、私が一番、隊長を慕っているからですわ」

 美月はウィンクし小さく舌を出すと、近づいてきた勢いとおなじくらいの勢いで顔を離して宗士の両腕を持ち上げる。

 手錠が掛けられていた。

「タイチョーを確保っ!」

 宗士の両腕を得意げに持ち上げる節子に、宗士は顔をハッとさせた。

 節子もハッとした顔をする。

 美月は目を閉じそっと涙をぬぐう。

「あああっ、やっとタイチョーを捕まえられたよママン……」

 目の下にほろりと涙を流し家族の誰かを邂逅しだす美月をよそに、こんどは別の方角で誰かの甲悲鳴と怒声が聞こえてきた。

 振り向くと教室のドアが勢いよく開いて、さきに教室から出て行たはずの生徒たちが逆に教室内に逃げ込んでくる。

 その勢いは逆流する川の水か洪水を引き起こした水流を無理矢理せき止めて抑え込むような、何かの強引さを感じさせる物のようにも思われる。

 人の逆流が一段落すると、ポーンポーンと数人の生徒がドアの外から室内に投げ込まれて、静かになる。

「……なにが起こったの?」

 宗士が呆気にとられてドア口を見ていると、少しして節子が何かを察したようにハッとした。

「あら、まだお客様がいらしたの?」

 室内に逃げ込んだり室内に投げ飛ばされたりした生徒たちが教室の戸口を眺め静かにしていると、しばらくしてドアがそっと閉じだす。

「ん?」

 だがすぐに開いた。

 ドアは引き戸式だったので、勢いよく開いたその音で正真正銘の「ガラガラガラッ」という音が室内に響く。

「ホォォムルぅぅぅームをはじめるぞォーーッ!!!」

 大きな声で何者かが叫び、教室中を見回した。

 肩には大きなモデルガン。似合わないだぶだぶの白衣。

 なぜ白衣?

 あとそれからとってつけたようなメガネに、どこから持ってきたのか分からないこのクラスの担任記録簿。

 背が低く、後ろで髪をまとめたスタイルの、子供っぽいような大人っぽいような、今朝の騒動で別れてそれきりだった桜庭萌だった。

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