第2話 電子と現とゆめのなか

 薄ぼんやりとした意識の片隅で、ぴぴぴっぴぴぴっと甲高い音が聞こえてきた。

 宗士は反射的にその場で顔を上げ、眠そうな顔のまま、「さっき起きたばかりじゃないか」と誰にも言わない愚痴を心の中でつぶやいた。

 音の方向を見るといつもの目覚まし時計がベッドの脇に立っていて、光沢のあるガラス面にはあかるい光の筋が映り込んでいる。

 時計の面には、いつもの数字。

 目覚ましの電子音を鳴らす時計の面を宗士はぼんやり見ていたが、この目覚ましの電子音はなんだったろう。

 どこかで聞いたことがある気がするなと思いはしたが、まあいいかと思うと宗士は勢いよく時計のスイッチを切った。

 自分が寝起きする小さな自室。両親も、妹も、宗士以外は誰もいない家。

 それよりも大事ななにかがあって宗士は家族の海外転勤に着いていかずこの町に残ったという。

 家族には事ある度にそのことを言われるが、宗士は自分がなぜこの町に残ったのか、大事なこととはいったいなんだったのか、聞かれても思い出せないほどにはそれがなんだったのか忘れてしまっていた。

 ただあの頃の思い出の品がいくつか、部屋の飾り棚の上にひっそりと置いてある。

 何を忘れたのかとか、何かどこかに大事な物を忘れているかもしれないと言ったことをよく考えることがある。だが、この部屋で寝起きしていつもの生活を繰り返している内に、それがいったい何だったのか、最近はどうでも良くなってきていた。

 ただ毎日をすごす日常。例えばさっき聞いた目覚ましの音とか。

 目を覚ますその音は毎日おなじで、耳に障る音だったがもう馴れた。

 それより今はシャワーを浴びたい。

 最近多い事なのだけど、起きると全身が汗だらけになっていた。汗だくになったことで、宗士は朝から憂鬱になっていた。


 誰もいない朝。いつもの朝。何度も繰り返してきた朝。

 ちょっと遅め。

 今朝見た夢とか家がいつもより静かだとかもあんまり気にしないようにして、いつも通りの朝を満喫するべく宗士は家から出る。

 これでどこかに不思議な転校生とかがいて、どこかで食パンくわえながら走ってきてぶつかったりしたらなんだか楽しそうだなーとか思いながら、いつもの駅前商店街を抜けていく。

 朝から人通りが多いし、みんな同じ方向へ歩いている感じで人の数は多いけどそこまで苦じゃない。

 駅前交番の前を通り抜けるとき、いつものお巡りさんに声を掛けられた。

 なんとなく目を付けられているような気がしてならなかったが、それはきっと家に家族がいないのが交番中のお巡りさんに知られているからだろう。

 べつに悪いことをしているわけではないはずなのに、宗士は気持ち交番の前を通るときはさっと早めに通り越すことにしている。

 そして、いつもの駅の改札前。ここまでは、遅刻ぎりぎり回避圏内。

 後ろにお巡りさんの視線を感じつつ、安心安心と心の中でつぶやきながらもう一度前を見ると、改札脇のスペースに変な格好をした人が立っていた。

 白塗りの顔をした変な人は、宗士と目が合うとぎこちなくもゆっくりとした動きで手を振ってきた。

 あと、鼻が真っ赤。変なとんがり帽子。ふわっふわのかざり。ピエロだ。

 ピエロは変な格好で立っていたが、宗士が目を合わせている間に少し顔を動かし口元だけでしゃべる格好をした。

 その顔はけばけばしく、素の顔がいったいどんななのかわからない。

 目の周りは銀の星形のペイントで彩られ、口と鼻の周りは真っ赤に塗りたくられている。

 服も全体的にだいぶ誇張した飾りしているし、大きめでもあるので実際の体型もよく分からない。

 でもなぜ朝からそこに立っているのか。朝から大変だなと思いながら宗士はその前を通り過ぎようとした。

 ピエロの目が、宗士の方をはっきり見ているのは分かる。お金が欲しいのかな? 相手して欲しいのかな?

 というか、宗士は学校に遅刻しつつある。高校生が朝からピエロの相手をするわけないだろと思いながら視線を軽やかにスルーし続け、宗士は駅改札の中に向かっていく。定期券をカバンから出すついでに後ろを振り向くとピエロの顔も振り返っていて宗士を見ていた。

「はは。どーも」

 宗士は引きつった顔でそう言うとピエロの方は無言のままゆっくり手を振った。

 その向こう側で、濃い眉毛のお巡りさんが宗士を見ている。まだ見ていたのか。

 宗士は慌てて顔を背けると、いつもの駅の中に入っていった。


 改札を過ぎ、いつもの駅ホームのだいたい真ん中くらいへ。

 今日もいつも通りの場所に陣取って、いつもの白枠に収まる。

 いつもの日常の始まり。今日まで、なんの疑問も感じてこないまま今日に至った、今日のこの日。

 毎日おなじ時間がここでも繰り返される。いつもの特急がホームを通り過ぎ、風圧が宗士の髪をなびかせる。

「ねむ……」

 いつものひとりごと。誰にも聞かれない程度の小声。隣に立つおじさんもいつも通り。大人の着るスーツって、洗わない物なんだろうか。

 この時間になると、向かいホームに別の学校に通う人が現れる。名前も知らない女の子だ。白いセーラー服がよく似合うなあと思って目の隅に入れるのも、あるいみ宗士の日課だった。

 ああ今日は本を読んでるなとか。テストが近いから教科書読んでるなとかその程度の思いだけで彼女を見ている。いつも見慣れているからか、その顔まで分かるようになってしまった。

  今日の彼女は、宗士と同じようにすこし遅刻しているのか駆け足でホームに入ってきていた。

 横目で見ながら、彼女にも日常があるんだなあと思って目だけで追いかける。

 それから急行列車がやってきて、宗士の目の前を通過していった。彼女の姿は一瞬見えなくなったが、急行が通過した後の彼女は別の誰かと仲良さそうに話していた。

「んー?」

 さっきまで走っていた彼女が、急に別の動きをしているのに目がとまったけどまあそんなものかと思うことにする。

 次いで別の通過列車が、宗士の視界を通り過ぎていった。轟音と共に列車が通過していった後、向かいのホームには誰もいなくなっていた。

「ん?」

 いや誰もいなくなっていた、というより最初から誰もいないようなホームだけが目の前に広がっている。

 そのうちいつものあの彼女がホームにやってきたかと思うと、何か不自然な格好でその場で立ち止まった。

 その後はコマ送りのように、彼女は白いセーラー服と共にホーム上に点在して残り始める。

 明らかに現実離れしたような風景。よく見るとどの彼女もいつか見た姿そのままで、目の前で固まっている。

 まるで何かのバグみたいだな? と宗士は心の中で思ったがまさにそのままの図だった。

「えっ」

 宗士は戸惑いの表情で彼女を凝視する。よく見ると背景にはいつもの雑踏と見知らぬ通行人達も見えるが、彼らはとてつもなく平らな映像に見えた。

 そして振り返るとどこかで見たような少女が、ベンチに座って本を読んでいる。

 その姿は、まるで古ぼけた写真の中から切り出した、茶色がかって日焼けしている彼女自身。少女がふと顔を上げ、宗士は彼女と目があった。

 その目は黒くてはっきりと開き、セピア色の向こう側には、透き通る白さを感じさせるもの。目鼻の筋は細く、こんなに綺麗な人は一度見れば忘れられないはずなのにでもなぜか宗士は見たことがない。

 胸とか足の細さ、体つきも綺麗としか言いようがなく、ただただ繊細で、ガラス細工のように、儚くも脆そうに思えた。

 足に目がいき、なんとなくだが、どこかで見たことがあるなと思った。いやそれより気になるのは顔の部分だ。

 そこをよく注視しようとした瞬間、誰かが前を通り過ぎいつもの雑踏が戻ってくる。

 ホームには通勤途中のサラリーマンや疲れたOLたちが並んでおり、ベンチに座って電車を待つおじさんや、おじさんの周りに集まるハト、名も知らぬ黒い群衆たちが目の前を覆い尽くしている。

 ホームの向こうを見ると、いつもの少女が電車を待っていた。

「は? 今の、なに?」

 宗士は声をあげて今見たものを知ろうとしたが、周りの大人達が宗士を変な目で見てきたところで、先ほどみた少女の白昼夢が何だったのか考えることをやめた。

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