3-8

 俺が尋ねると、姉貴はちらりとこちらを見た。

 しばらくすると顔がボッと赤くなる。どうやらさっきまでの自分を思い出したみたいだ。

 頬に手を当て、熱くなっているのを確かめていた。

「・・・・・・・・・・・・ごめん。酔っちゃった」

 姉貴は膝の上にコップを持った手をちょこんと置くと、丸まって謝った。

 俺は小さく息を吐いた。

「二度とするな。次にあんな風に抱きついてきたらそのまま投げ飛ばすぞ」

 そう言いながら、俺はまだドキドキが残っていた。

「うう・・・・・・。ごめんなさい・・・・・・」

 しばらく二人とも沈黙した。気まずい雰囲気に壁にかかった時計の秒針の音だけがチッ、チッと規則正しく鳴っている。

 その間、姉貴は下を向き、俺は上を向いた。

 流石にこの空気が続くのはまずい。

 このまま上の自室に逃げるって手もあるが、追ってきそうで怖い。

 それにどうやら話を聞いてもらいたいみたいだ。その証拠にさっきからちらちらと見てくる。

 なんで弟の俺が、姉貴に気を遣って話しかけないといけないのか分からないが、姉貴の性格上、このままずっとこんな空気が続いてもおかしくない。

 俺は根負けして聞いた。

「・・・・・・・・・・・・なにあったのか?」

 俺は言葉にほとんど気持ちを込めなかった。

 それでも姉貴の顔は明るくなる。しかし、やはりどこか悲しげだ。

「えっとね・・・・・・。アニメのオーディション全部落ちちゃった。いっぱい受けたのに」

 やっぱり原因が仕事だった。

 これが男ができて、実は子供もできたが男に逃げられたとかいう重い展開だったら、俺も走って逃げるのに。

 詳しく知ってるわけじゃないが、オーディションは落ちるものらしい。

 つまり受かる事の方が珍しいわけだ。それなりに有名な声優でもあのアニメオーディションで落ちた。なんて話も当たり前の様にあるそうだ。

 売れっ子声優でもあるんだ。姉貴みたいな中堅声優なら当然の話だった。

 最近じゃ、アニメを成功させる為に売れてる可愛い声優だけを集めるなんて事も珍しくない。

 ファンが作品を見てくれるからネームバリューも重要なんだろう。

 残念ながら姉貴にはそれがない。

 だけど、そういうシビアな業界なんだ。

 そしてそれは姉貴自身が一番分かってるはずだった。

「別にいつもの事だろ。それが分かっててオーディション受けて、分かってて声優やってるじゃないのか?」

「・・・・・・・・・・・・うん。そうだよ。・・・・・・・・・・・・そうだけど・・・・・・ね・・・・・・」

 姉貴はなんとも悲しそうに笑った。いや、笑えていない。くたびれた旅人みたいな顔をして、俺が渡したコップを見ている。

 コップに入る水の量は決まっている。1シーズンにやるアニメの量も、それができる声優の数も同じだった。姉貴はコップの中に入れなかったんだ。

 姉貴は無気力そうに両手を広げ、足を伸ばした。

「それでもたまに、わー! ・・・・・・ってなるんだ。わたしって、世の中に必要あるのかなーって。分かってても、つらいのはつらいの」

 姉貴は諦めたように笑っていた。

 疲れているせいだろう。俺にはいつもよりふけたように見えた。姉貴にだっていつまでも時間があるわけじゃない。

 俺は少し姉貴がかわいそうに思えた。姉貴の膝をぽんぽんと叩いて言った。

「ゲームの仕事があるんだろ。ネットラジオだってこの前までやってし、キャラソンだって出たんだろ? 必要ない人間にそんな仕事が来るかよ」

 それは全部事実だ。事実を言うだけで多少の慰めになっていた。

 しかし姉貴がかけて欲しい言葉は違った様で、涙を浮かべて少しずつ暗くなっていった。

「でも・・・・・・、でも、アニメのお仕事がしたくて声優になったのに・・・・・・。このまま、ずっと夢が叶わないかもしれない・・・・・・」

 姉貴は膝の上で俺の手を握った。その手に一滴の涙がぽつりと落ちる。

「・・・・・・大丈夫だって。演技だって上手くなってるし、歌もそうだ。実力があればそのうち運が巡ってくるって」

 結局俺は姉貴を慰めていた。表情から察して、長年積もった色々な思いが、酒を飲んだ勢いで吹き出たんだろう。

 休日の昼から一人寂しく酒なんて飲むからこうなるんだ。

 テーブルの上には父さんが大事にしていた日本酒の瓶があった。中身がほとんど残ってない。

 その上、レンタルショップで借りてきたらしいDVDのケースも開いたままだ。タイトルからしてラブストーリーだろう。

 酒を飲みながら失恋系の恋愛映画を一人で見て、今の自分と重なった挙げ句、不安になって弟に泣きつく。

 実はたまにこんなことがある。

 泣きたいのは俺の方だ。

 姉貴は涙を拭って、細い目で俺を見た。どうやら眠くなってきたらしい。

「そうかなぁ・・・・・・・・・・・・」

「そうだよ」

 俺がそんな保証をしたって、何の価値もない。

 ただ、姉貴はその言葉を聞いて安心したのか、うとうとし出した。

 俺の肩にもたれかかってくる。俺はどかしたかったが、どかせなかった。

 今日だけだと自分に言い聞かせた。

 アニメや漫画のお話は順風満帆に進むことが多い。例え試練はあっても、大抵はハッピーエンドで終わってくれる。

 けど、姉貴がいる世界はそんなに甘くない。

 このままぱっとせず、仕事も減っていき、気付けばいなくなる。そんな声優がほとんだ。ここまで来ただけでもすごいと言えるほど、競争が激しい世界だった。

「凉君・・・・・・」

 目を瞑ったまま、小さな声で姉貴が俺の名前を呼んだ。安心した猫の様に頬をすりつけてくる。

「・・・・・・なに?」

「・・・・・・もしわたしが結婚できなくて、仕事がなくっても、ずっと一緒にいてくれる?」

「・・・・・・・・・・・・馬鹿なこと言ってないで眠いなら寝ろよ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、姉貴は嬉しそうに笑った。

 そして俺の言った通り眠りについた。

 寝息が聞こえ、触れている箇所からどんどん体温が伝わってくる。

 寝たかな? と思った時、小さな声で「ありがと・・・・・・」と聞こえた。

 そんな一言でこの状況を許してしまう。我ながら甘いなと俺は時分に呆れてしまった。

 口には出さないが、夢を追い続けている姉貴の事を俺は尊敬していた。

 普段おっとりしている姉貴だけど、自分の夢は決して譲らない。

 諦めずに練習して、少しずつでも結果を出している。 

 でもだからこそつらい時もあるんだろう。

 このままのペースで行けばどこまで辿り着けるか。

 それを想像すると嫌でも逆算してしまい、夢に届かないことを知る。

 ならもっと頑張らないと。

 そうやって努力を積み重ねて、心をすり減らしていく。

 いくらがんばっても世間は認めてくれない。

 それでもなんとか姉貴はもがいていた。

 きっと夢を持たない俺には姉貴の努力も苦しみも完全には分からない。

 それが少し悔しかった。

 姉貴の柔らかな寝顔を見て、そんな事をぼんやりと考えていた。

 俺は姉貴の目にかかっていた前髪をそっと直した。

 すると姉貴は寝ながら甘えた声を出して微笑む。

 それを見て、なぜだか俺もほっとしてそのまま眠ってしまった。

 すごく懐かしい感じがした。子供の時に戻った様な感じだ。

 子供部屋で一つの毛布を分け合った時の事を思い出した。あの時も俺達はすぐに安心して眠った。

 しばらく俺達はそうやって寝ていた。

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