分裂病

コオロギ

分裂病

 朝、顔を洗おうとして浴室へ行ったらあたしが大量死していた。こんなことは初めてのことだったのであたしはびっくりしてしまった。しばらくドアのところで立ちつくして薄い水色の浴槽の中でからまっているあたしの死体たちを見つめていた。あああたしはやっぱり色白なんだよなあとか正しい言葉が思い浮かばずにそんなことを頭の上の方で呟いてしまった。

 大粒の汗が喉元から腹へと流れ落ちてあたしは微々と再起動した。やばいのだと気付いた。脳味噌が回ってきた。

 バイトはどうしようか。というよりあたしはどこでバイトをしていたのだろう。いつも疲れた声でぼそっとただいまを言うあたしはそういうことは何も話さなかった。帰りにコンビニで買ってきたらしい弁当を食べたらさっさと寝てしまった。学校はどうしていたのだろう。そういえば毎日おそくまで課題をやっていたような覚えがある。いったいあたしはどんなことを勉強していたんだろう。

 毎朝あたしの食事の用意をし、掃除洗濯をしていたあたしに、あたしは昨日「時計が止まっているね」と話した。電池買いに行かなくちゃなあってあたしは答えた。

 ここのところあたしはあたしのことをぜんぶあたしに任せていた。だからあたしはあたしのことをよく分からなくなっていた。

冷蔵庫を開けるとみっちりと食材が詰まっていた。あたしが買ってきたものだろう。あたしは何を作るつもりだったのだろう。あたしは料理なんてしないから、材料を見てもさっぱり分からない。

誰かに助けてもらおうと携帯端末を見ても、登録されているのがどういう人なのか誰一人分からなかった。

ああ、あたしはあたしのことを何も知らない。

あたしはあたしのことを何も知らない?

あたしは本当にあたしなのだろうか。

というか、あたしって誰なのだろう。

頭がこんがらがってきた。

あたしはあたしを思い出そうと、洗面所の鏡を見つめた。

誰も映っていなかった。

ああそうだ。

思い出した。


そもそもあたしなんてどこにも存在しない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

分裂病 コオロギ @softinsect

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る