床守りのセツナ
「セツナ、ぬか床は毎日手を入れないと死んでしまうのよ」
トワお姉ちゃんはそう言いながら、毎朝毎晩一抱えもある桶をかき回していた。亡くなったお父さんお母さんから受け継いだぬか床は村一番の大きさで、《大ぬか床》の称号は私達にとって一番の誇りだった。
私もぬか床の世話を練習してはいたけれど、お姉ちゃんのように優しくきめ細かく気を配るするのは難しい。私はお姉ちゃんが我が家の『床守り』になるのだと信じてやまなかった。
だって私の手は、ずっとぬか床を守ってきたお姉ちゃんの手とは違って、畑仕事と【陸上部】の活動で固くてガサガサだったから。
お姉ちゃんの手は、五十年間村を守ってきた《ぬか長》のおばばの手によく似て、掌が広く、指が長く、そして少しぬかの匂いがする。『床守り』の理想を体現したようなお姉ちゃんの手が私は世界で一番大好きだったんだ。
朝、起きたら真っ先にお姉ちゃんは手を洗いぬか床をかき回す。私はその横で練習用の小さい床をこね回し、お姉ちゃんに指導してもらう。その後はよく漬かったお野菜を添えた朝食を食べて、お姉ちゃんは台所へ、私は畑へ向かう。畑仕事の合間にお姉ちゃんのお弁当を食べて、日が暮れる前に帰る。夕方のぬか床の世話をしたら美味しい漬物と夕飯を食べて眠りにつく。私達の生活はぬか床と共にあって、それはずっと変わらないものなんだと、私はそう信じきっていた。
その日はとびきり暑くてお昼に食べたナスのぬか漬けが随分美味しく感じられた。夕方に作業が終わり、お腹を空かせた私はジャージの泥も落とさないでわらじを脱いだ。台所には明かりがついている。きっとお姉ちゃんが夕食を作っているのだろう。おどかしてやろう、なんてほんの悪戯心を抱いた私は、廊下を抜き足で渡って戸口の影に立ち、半身で中を窺い、――目を疑った。
そこには確かにお姉ちゃんが居た。そして、知らない男が二人、縛り上げられたお姉ちゃんを取り囲んでいた。男たちは背を向けていて、羽織った法被の背中には『タナカ電機』の赤い文字。最近都会で勢力を伸ばしている量販店……でもその配下がなんでこの村に? 思わず息を呑み、一歩後ずさった私の足元。ぱきり。床が軋む。
「っ、何者だ!?」
片方の男が振り返る。小脇に私のぬか床を抱え、他方の手には巨大なメガホン。あんなもので撃たれたら……みぞおちの辺りがキュッと縮こまって冷え固まる。
悲鳴を上げようとした。その場にへたり込もうとした。……だけど、
「セツナっ! 逃げて、床と一緒にっ!!」
お姉ちゃんの叫びで目が覚めた。お姉ちゃんのぬか床――《大ぬか床》の桶は戸口のすぐ横。ずっしりと重いそれに飛びついた私は跳ね返るように身を翻して玄関へと跳躍した。
「おい、逃がすなっ!」
「テメェ! 偽物掴ませやがって!!」
背後の怒号、そして殴打音。お姉ちゃんの安否を思って強張る足を無理やり動かす。
ぱすぱす爆ぜる足元――メガホンの音波弾だ。ジャージの裾が千切れ、頬を弾が切り裂いても、私は決して怯むことなく、走り、走り、走った。【陸上部】で鍛えた足はたとえ特殊部隊員だろうとやすやすと追いつけはしない。
野太い声を遥か後方に置き去りにして、そこかしこに法被の男たちがいる村の中を必死で抜け出して、息が切れても、心臓が破れそうに脈打っても、私は受け継いだぬか床を抱えて走り、跳び、くぐり、村外れの丘まで来たところでようやく、行き倒れるように足を止めた。
振り向いた私の瞳を鮮烈な真紅が染める。
私が見たのは一面の炎、炎、炎。
私の村が、私が生まれ育った村が、ぬか床と共に生きてきた『床守りの民』の村が、この世のものとは思えない劫火に覆われて喰らい尽くされようとしていた。
がっくりと膝をついた私は、しかし、抱えたぬか床だけは手放さなかった。日が沈もうとする上空には上弦の月、そしてタナカ電機の巨大飛行船が私を嘲笑うように降りてくる。縄梯子で登っていく人々。私はその中に村人と思しき影を見出して、天啓のように直観する。
――お姉ちゃんもきっと連れ去られている。きっと、まだ生きている。
それは単なる願望でしかなかったのかもしれない。しかし確かに私にとって、白飯に添えられた一切れのきゅうり漬けのような希望に他ならなかった。
――飛行船を追おう。タナカ電機がなぜ村を襲ったのか分からないけれど、でも、必ずそこにお姉ちゃんがいる。
ぬか床を降ろした私は汚れを拭ってから手を差し入れた。少しひんやりとして肌に馴染む柔らかさ。お姉ちゃんを思い出すような優しい感触。それを心に刻み込んだ私は、一本のきゅうりを取り出してぬかを払う。
――始めよう。これは、私の戦争だ。
丸かじりしたみずみずしい果実はまだ少し漬かりが浅く、それでいてやけに塩辛かった。
――――――――
(2016年10月15日)
(お題:「漬物」「家電量販店」「ジャージ」)
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