わんこ日記ライバル登場編

 風に乗って懐かしいような牛乳の匂いが私の鼻まで届き、先輩の胸元で青いリボンが翻った。ひらひらと宙を泳ぐ先端に興味津々の小さな瞳。先輩はその縦長の瞳孔に相好を崩して「だめだぞー」なんて手を差し伸べている。薄灰色の毛並みに指が差し入れられて、狩猟者の両目は気持ちよさそうに閉じられた。

「……先輩、ばっちいですよ」

 飲み込んだパンの代わりに苦言を吐き出すと、先輩はようやくこっちに視線を向けてくれた。しかし右手は相変わらず下に伸びたままで、

「大丈夫だよ、こんなに可愛いニャンコだもん」

 抗議の声にゴロゴロと満足げな喉鳴りが重なった。お昼の校舎裏は喧騒も遠く、先輩が撫で回す野良猫の声がやけにはっきり聞こえる。見つかったらきっと面倒なことになるだろうに、先輩は呑気に「ばっちくなんかニャイよねー」なんて猫に語りかけている。相変わらず、変な人であることだ。

 そう、先輩はたいそう変な人だ。

 長いまつげにおっとりと下がった目尻、色の薄い髪はふわふわとパーマがかかって広がり、みんなと同じ制服を着ているはずなのにお人形さんを思わせる風貌は、街を歩けば十のうち九人が振り返るような可憐さ。周りの女子から更に頭半分小さな背格好、両手を口の前で合わせて笑えば庇護欲を感じない者なんていないはず。それなのに先輩が周囲とちょっと浮いているのは、やっぱり先輩が変人であるせいに他ならなかった。

 通学中に行方不明になること数知れず、密閉された教室からでも煙のように消える。グラウンドの真ん中で棒立ちしていたかと思えば校庭の木のてっぺんから現れて、気付けば購買列の先頭にちゃっかり並んでいたりする。街中で子供たちを率いていたとか、カラスやハトと会話していたとか、外国人の一団と路地裏に消えていったとか、そんな目撃情報が後を絶たない。

 得体がしれない彼女は当然の成り行きとして疎外され、しかし「下手にちょっかいを出すと宇宙人に報復される」「アメリカの特務機関がバックについている」「山神様の呪いで一生恋人ができなくなる」「経済界を牛耳る暗黒フィクサーの娘で」「密林の怪物ヌンバベボンバが」……なんて噂の大群が尾鰭を伴って泳ぎ回っているせいで、幸いにもそれ以上の危害は加えられていないようだった。仲間外れという言葉はそもそも仲間でない相手には不適格なわけで、彼女自身はどれだけ周りに距離を置かれようがどこ吹く風、今も牛乳にがっつく野良猫を撫で回してご満悦である。

「……お昼終わっちゃいますよ、先輩」

 先輩の傍ら、砂利っぽい階段にほっぽり出された未開封のパンに目をやる。購買名物の小倉あんぱん、毎日売切れ必至の一品であるが、先輩はもったいないことに半分も食べると満腹になってしまうのだとか。そんなわけで残りの半分のご相伴にあずかるのが今や私の日課と化していた。私は早食いだからいいけれど、先輩は遅いんだからもたもたしてもいられない。

「猫に構ってばっかりじゃなくて食べてくださいって」

「だって、普段はワンコとばっかりじゃない。たまにはニャンコと遊びたいよ。ねー?」

 同意を求められた子猫がにゃあと一声鳴いたのは偶然だろう。だけど、はて?

「ワンコ……? 先輩、犬飼ってたんですか?」

 性格からしてそれなら毎日犬の惚気話を聞かされそうなものだけど……と首をひねっていた私に、先輩がようやく身を起こし、ちらりと流し目をよこす。

「うん、でっかいワンコ。とっても可愛いの」

「へぇ……どんな犬なんですか?」

 と何気なく尋ねたこと自体が既に先輩の術中にはまっていたのだと、後になるとはっきり分かる。先輩は愛らしい――しかし思い返せばどこか意地悪で悪戯な――笑みを浮かべ、「写真見る?」と両手に余るスマホを操作し、

「この子なんだけど」

 と示された画面には、真っ黒な長い髪をポニーテールに結び、少々険のある目つきを驚きに丸めた女の子の姿が……って、

「これ、私、ぇ、ひゃぅっ!?」

 背中に衝撃。お腹に圧迫。スマホの影から飛び出してきた先輩が日陰のコンクリートに私を押し倒し、くりっと黒目がちな目を細めていた。

「お昼、一緒に食べたかったの?」

 唐突に核心を突かれて顔が燃え上がる。先輩が身を屈め、牛乳の匂いに混じって砂糖細工のような甘い芳香が私をとろかす。

「いつもの場所に行かなかったのは悪かったけど、でもわざわざここを探し出すなんて。その上ニャンコに妬いちゃって。ほんと、かわいいワンコちゃん」

 ふわふわして愛玩的な先輩の頬に、ほんの一筋、嗜虐の色が差して、それだけで跳ね上がる私の心拍は確かに柴犬の尻尾みたい。「妬いてなんかないです」の言葉では見透かされた恥ずかしさを誤魔化しきれず、先輩が伸ばした工芸品みたいな右手を押しのけた。

「先輩、さっきまで猫触ってたじゃないですか。ばっちい手で」

「じゃあこれなら?」

 言い切る前に口を塞いだのはもちろん先輩の桃色の唇で、ひとけのない校舎裏はしばしの間、二つの水音によって支配された。その一方、猫が牛乳を舐める音が途絶え、遠くで電子チャイムが鳴る。予鈴の余韻が空虚な世界の向こう側に消え去った頃になってようやく、残っていた水音も消えて茹で上がった私は解放されたのだった。

「……先輩、やっぱり変な人です」

 絶え絶えな息で精一杯抗議を訴えても、フランス人形のような少女は口の端から零れた液体をぺろりと子供っぽく舐め取って強者の笑みを浮かべるばかりだ。

「私なんか、取り柄もないし、面白くもなんともないのに」

「そんなことないよ。アタシに近づこうとするってだけで、アナタも立派に変な子だもの」

 再び先輩に唇を貪られ、午後の授業なんてどうでもよくなってしまった。脆そうなミニチュアの指が私の赤いリボンを取り去る。先輩の髪から振りまかれるのは舶来の上質なシャボンの匂い。背中に刺さる砂利の痛みも最早私にとっては悦楽のスパイスでしかない。先輩の吐息を享受していた私の聴覚に、牛乳を求めた猫の声が一つ、にぃ、と響いた。



――――――――


(2016年10月13日)

(お題:「牛乳」「匂い」「リボン」)

(一時間制限が嫌になって縛り無しで書いたらしいです。約二時間半)

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