箱庭想話
「『自然がいっぱいで気持ちがいい』……キミは今そう言ったね?」
林道を踏みしめながらそう吐き捨てた彼女は息も絶え絶えだった。身につけた運動着は目元の隈と釣り合わず、お世辞にも似合っているとは言えない。対してその背中を追いかける少女は、同じ学校指定の運動着を年相応に着崩して坂道を苦にもせず登っている。
「うん。木がいっぱいで鳥が鳴いていて、都会にはない自然が溢れてる」
左右に広がる一面の広葉樹林に目をやる。未だ蝉の鳴く季節ではないものの、むせ返る草いきれが鼻腔をくすぐっていくのが心地よい。初夏の日差しは容赦なく乙女たちの柔肌を焦がし、玉の汗が拭っても拭っても額に背に腕に湧き上がってくる。
この道は雑木林の真ん中を貫いて山の頂に通じていた。今日は彼女らの学校の伝統行事、登山大会の日。普段は人影まばらな生活道路は高校生の集団に占拠され、彼女ら二人は後方集団の中程で蝸牛が如き歩みを続けている。
「柩木さんは気持ちよくないの?」
後ろを行く少女が尋ねると、先行する猫背が忌々しげに鼻を鳴らす。
「『都会にはない自然』……ね。そこだよ、ワタシが気になるのは」
燦々たる陽光に焼かれる蓬髪をかきむしり、彼女は三白眼を同行者に向けた。
「キミ、『自然』の対義語って何だと思う?」
問われた娘は小首をかしげ愛らしい眼子をくるりと光らせたが、
「ワタシに言わせてもらえば、少なくとも、『自然』の反対は『人為』や『人工』なんかではない。断言しよう」
端から答えを求めていたわけではないようで、問うた彼女は再びドロリと濁った瞳を正面へ。後ろの少女はそんな手前勝手な態度にも慣れた様子、「なんでそう思うの?」と聞き返して亜麻色の二つ結びを揺らす。
「考えてもみたまえ。人間がなぜビルを建て、道路を作り、街灯を灯すのか。それは人類の生存に役立つからだ。コンクリートの建造物は毛皮を持たない我々を暑さ寒さと外敵から守ってくれる。整備された道は生存物資の調達を容易にしてくれる。街灯が無ければ我々はおちおち夜に活動できまい。つまるところ、我々が都会と呼んでいる区域というのは人間の生存本能が行き着いた最果てに他ならない。生物の本懐は生存と繁殖、ならばこの地球上でコンクリートジャングルよりも自然が先鋭化された場所なんて存在しないのだ。自然と触れ合いたいのならクーラーの効いた部屋に閉じこもっているのが一番、こんな山奥に来るなんて本末転倒ってものさ」
長口上を一息に述べて腰の水筒を呷る。それを背後で聞いていた愛らしい少女は、気圧された素振りもなく、むしろ微笑ましそうに口元を緩める。
「要するに、登山大会に来たくなかったってこと?」
「当たり前だ。卒業がかかってなければ死んでも来なかったよ。一年二年のときは上手くかわせたのに……」
悪びれることもなく黒髪の少女は言い放ち、亜麻色の少女の笑い声を黙殺して俯いたまま怨嗟の声を上げ続けている。
その為だろう、彼女は何者かにぶつかった感触によって初めて、前方の障害物に気が付いたのだ。
「失敬、すまない。少々考え事を、……」
余裕を含んだ詫びの声は最後まで告げられることなく立ち消えた。鋭い双眸が驚愕で見開かれる。智の働きが勝つ彼女にあってさえなお、眼前のその状況――山道が途切れ、塗り潰したかのような真っ白い空間が出現しているこの事態を俄に理解することはできなかった。
のっぺりと立ち塞がる純白、まるでそこで世界が途切れているような……。自分がぶつかった謎の壁に手を添わせ、言葉を失っていた彼女。これまでと違う種類の汗がじっとりと背中を濡らす。そしてその背中を、包み込むように抱きかかえる者があった――同行者の少女である。
「柩木さん、大丈夫。慌てないで」
異常現象を前にしてこの落ち着きよう、不審が声を震わせる。
「なんだ、これ、キミは何か知ってるのか?」
「私が知ってるかどうか、なんて、柩木さんは知らなくていいの。これはただ、柩木さんがここで途切れてるだけだから。心配しないで」
「途切れ……? 何だ、何の話だ?」
彼女の怯えは、しかし、背中を伝う少女の体温が溶かしていく。安心する……いや、安心させられている? 不可解な状況と不可解な言葉、その全てから意識を引き剥がしていく、抗うことを許さない何者かの作為――
「柩木さん。『自然』の反対は、『私』だよ」
【切断/明転/再起動/シーケンス正常動作/……】
▽ ▽ ▽
ダイブから復帰して、ほぅと小さく息をついた。生体端子をむしるように引き抜く。微かに生じた痛み……出処は刺激された神経節ということにしておこう。辺りはすっかり薄暗く、リノリウムの床にディスプレイの光が反射している。時計を見れば午前三時、不休の国立先端医療研究所すらも束の間の微睡みに落ちる時間帯。
眼前の寝台に寝かされた柩木さんは、先程の姿とはかけ離れた、痩せこけて枯れ木のような体をしている。私だってあんな可愛らしい女の子であった時期はとうに過ぎ去っている。あの頃から変わらないものといったら、私が柩木さんを想う気持ちの強さだけだ。
目の前のモニターには彼女の思い出が映し出されている。これは一年のときの臨海学校――私が柩木さんと出会ったときの記憶。画面の中の『私』は今よりもずっと若く、実際の写真より幾分か美人だ。彼女のアルバムにはどうやら私の登場シーンが多いらしい。その事実を意識するたびに、私は一匙の優越感と山ほどの悲しみをまとめて飲み下す羽目になるのだ。
あの日、登山大会の日。柩木さんは落石事故に巻き込まれた。記憶が途切れていた場所こそが忌まわしい現場だ。植物状態となった彼女を救うため私は医師となり、それでもなお回復させられる見込みを見つけられなかった。今はただ、バイオマシンインターフェース技術を応用したこの治療法を実験し続けている。昏睡状態に陥った患者に対し、大脳を刺激して幸せな夢を見せることで回復を促す。博打以下のお祈りのような方法だが、私はもうこれに縋る他に道を知らない。
彼女が見ている夢はすべて私が管理している。パソコンを引き寄せて諸元を打ち込みながら、私は箱庭の中の彼女に思いを馳せる。既に半ば死んだ貴方が幻影と遊ぶ箱庭を、自分の命を削って維持し続ける――そんな私はきっと、生存本能に真っ向から逆らう不自然で歪な存在であるに違いない。
それでも私は、命の続く限りこの行為を止めはしないだろう。
きっとそれが、私が生きるということだから。
――ねぇ、『自然』の反対はやっぱり、きっと、『人間』なんだと思う。
――――――――
(2016年10月3日)
(お題:「パソコン」「自然」「研究所」)
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