ディア・スイート・フレーバー
喫煙室の扉が開き、澱んだ煙がふわりと乱れた。ガラス張り、六畳もない一室。やけに人通りの多い廊下に面したその場所は動物園の檻を思わせて、私なんかはついコソコソと身を屈めて入ってしまうものだ。しかし彼女は違う。彼女が背筋をぴんと伸ばしてそこに足を踏み入れると、しみったれたガラスの牢獄は芸術品を守り引き立てるガラスのケースに早変わりする。
結局見世物であることに変わりはなくとも、両者は明らかに違うもの。そこに入る『主役』の気概がありようを変える。それはこの、家電量販店のバックヤードに設けられた喫煙室に限った話ではないのかもしれない。
堂々とガラスの戸を引いて、いつものようにモデル歩きで私の方――正確には灰皿へと向かってくる彼女。私も私で、吸うつもりのなかった二本目を懐から取り出した。
「お疲れ様です、三橋さん」
つとめて平板に呟きつつ、ガス欠間際の百円ライターをこする。そろそろ替えを買わないといけない。
「お疲れ、高野さん。今月もすごいらしいじゃない」
オイルライターの着火音が重なった。彼女の細い指がさらに細い煙草を優雅に挟む。勢いよく煙を吹きながら、ウェーブのかかった長い茶髪をかき上げる仕草。幾度となくここで見た彼女の癖だった。
「三橋さんほどじゃないですよ」
「謙遜しちゃって。『家庭用りんごあめ製造器』をどう売り込んだらいいのかなんて、私全然分からないわよ」
「あぁ、あれは……」
苦笑。先月半ばに売り場に並べられたあの商品は入荷担当の悪ふざけとしか思えなかったが、それでも私はひと月かけずに売り切ったのだ。
「三橋さんに教わったコツのおかげですよ」
「あら、お世辞も上手になった?」
彼女の笑い声に合わせてピアスが揺れた。
「別にそんなんじゃ……」
私の手が無意識に前髪をかき上げる。彼女ほどの長さはない、黒くてパサパサの髪。
「でもまぁ悪い気はしないかな。愛想のない新人を店舗一の敏腕に育て上げた美女、ってね」
その言葉はおどけた調子だったが、しかしあながち誇張という訳でもない。営業成績が伸び悩んでニコチンに逃避していた私が、今や売り場に欠かせない稼ぎ頭となれたのは、この喫煙室で出会った彼女のアドバイスに助けられてのことだ。
ちらりと彼女に視線をやった。何か受け答えをしようとしていたのだと思う。その節はお世話になりました、とか、これからもご指導よろしくお願いします、とか、そんな他愛のない会話を。しかし私の視神経は髪をかき上げる彼女の左手に光るものを見留め、喉への命令を書き換えてしまった。
「……結婚、するんですってね」
小学生のお芝居みたいに棒読みの台詞。だというのに、眉を上げた彼女は怪訝の色を微塵も見せず、それどころか喜びすら滲ませて薬指の指輪を見せつけてきた。
「やっぱり知ってた? だだ漏れなんだもん、やんなっちゃうわ」
流麗な白い指が煙草を離れて指輪を撫でる。相手との馴れ初めとか、式の日取りとか、聞いてもいないことが彼女の口から溢れ出す。自分のことを勝手に語り続ける彼女の姿なんて、私はこれまで一度だって見たことがなかった。
煙を吐いた端から吸口を求めてしまう。思い付かない相槌を誤魔化すためだ。あっという間にフィルターまで燃えてしまった吸い殻を投げ捨てて、虚しく散る火花に苛立ちながら私は三本目に火を点けた。肺の奥まで吸い込む濁り。味なんてしない、煙のえぐみだけが喉をざらざら抉っていくけれど、生理的作用は正直らしく僅かながら頭が冴えた。
「仕事、本当にやめるんですか」
ほんの少し、ほんの少しだけ私が抱いていた期待を、彼女は無邪気に叩き壊す。
「そうなの。彼がね、『いつまでもそんな仕事続けてちゃいけない』って。養ってもらうにはちょっと頼りないけど、でも専業主婦も悪くないじゃない?」
ずきりと手の甲に痛みが差した。崩れた灰に焼かれた皮膚。さっと払って患部を眺めても不思議なくらいに鈍重な感慨しか浮かばない。彼女の唇は毒液を垂れ流す放水路、心の防壁を蝕んでいく。
「煙草もね、もう止めようと思って。子供ができてからじゃ遅いからって彼が」
「すみません、休憩終わりなんで。お疲れ様です、三橋さん」
半ば残った吸い殻を放って、会ったときと同じ挨拶で別れを告げた。唐突過ぎただろうか、なんて心配は杞憂も杞憂、彼女が疑問を抱いた気配すらない。人目を忍ぶようにドアを開けたところで、『三橋』と彼女を呼ぶのはもう最後かもしれない、と思い至り、泣きそうな気分で薄暗い廊下に逃げ込んだ。
ガラス張りの喫煙室に閉じこもり、誰からも孤立したまま緩慢な自傷を繰り返していた私。そこに手を差し伸べてくれたのがあなただったんだ。
何よりもまず営業スマイルとあなたが言ったから、鏡の前で不得手な笑顔を練習したんだ。あなたが褒めてくれてようやく自信を持てるようになったんだ。
この仕事の魅力をあなたが語ってくれたから、私は誇りを持つようになったんだ。この仕事をずっと続けたいという言葉の輝きに照らされて、つらいことしかない職場でも折れることなく突き進んでこれたんだ。
あなたが教えてくれた営業の極意『決して隠さず正直に』をひと時だって忘れずに居たから、私は結果を手にできたんだ。稀代の成長物語はあなたが居たから実現したんだ。だというのに、だというのにあなたは……。
決して隠さず正直に。あなたに対してだけはそれを実行できなかった。何が変わる訳でもない。分かっている。でもその罰が重すぎるんじゃないか。こんな惨めな気持ちになるくらいなら、いっそ全て壊していればよかった。
ごみ箱に叩き込んだ百円ライターは、ぐるぐる渦巻いて出ていかない感情の代わり。きっともう二度と替えを買うことなんてないだろう。紫煙の香りに溶け込んだあなたの思い出は、あまりに苦く、堪え難いほどに甘いものだったから。
――――――――
(2016年9月29日)
(お題:「成長物語」「りんごあめ」「家電量販店」)
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