卒業と缶コーヒーと
油を差す人のいない蝶番が苛立ちの声を上げて私を振り向かせた。もとから隠れる気は無かったのだろう、彼女は扉を出たところで佇んで私を正面から見据えていた。
「やっぱりここに居たんですね、先輩」
夕暮れの風が彼女の結び髪を揺らす。コンクリートが剥き出しになった屋上は柔らかな橙色に満たされている。もうすぐ山の向こうに日が落ちて、床の継ぎ目から生えた枯れ草も、薄茶色にくすんで干上がった田んぼや畑も、まだ肌寒さを感じる大気に弄ばれる私と彼女のスカートとリボンも、全部、全部が真っ暗闇に呑まれてしまうだろう。
「私に何か用?」
気取った調子で問いかける。白々しい。そんなことは、午前中の卒業式のときから既に分かっていたことだ。部活の送別会の間にも、彼女の不在によって確かめていたことだ。
だからこそ私は待っていたのだ。ここならば彼女が見つけられると見越して。
「先輩、ブラックでしたよね」
私のクエスチョンには応じないまま、彼女が歩み寄ってきて柵に背を預けた。私のとなり。昼食のとき、こっそり掃除をサボったとき、何となく帰る気分になれないとき。私と彼女はこうやって並んで澄んだ空や田畑の緑や遠くの山に飛んで行く鳥達を眺めていた。
「うん。ありがとう、悪いね奢ってもらっちゃって」
缶コーヒーを受け取りながら笑いかけてみせるけれど、彼女は浮かない顔のまま苺オレのパックにストローを刺した。ちう。彼女の唇にはリップも塗られていない。
カシュっと気味の良い音を立てて無糖の苦味をすする間も彼女は黙ったままだった。このまま日が暮れるに任せてもいいけれど、寒くなってきては薄着の彼女が可哀想だ。子供みたいにむずかる彼女に苦笑半分、私はスカスカの鞄に手を入れて、
「色紙、見たよ」
取り出したのは、部活の後輩たちからもらった色紙。それほど『いい先輩』をしていた覚えはないけれど、紙面は色とりどりの寄せ書きで埋まっている。
私の一言で彼女はさらにぎゅっと口元を引き結んだ。ますます幼さが際立つ。強情な相手から供述を引き出すべく、もう一押しの問いを放つ。
「キミのが無かったのはなんで?」
指先でなぞるのは、中央近くにぽっかり空いた白いスペース。こんなところにわざと余白を残すわけがない。一等地を割り当てあられた『誰かさん』が書き込みをすっぽかした痕跡である。その誰かさんは送別会までエスケープして、今私の目の前でちうちうと桜色の液体を吸っている。
「……先輩が東京に行くなんて、私知りませんでした」
やっと口を開いた彼女は恨みを込めた視線をこちらに寄越してきた。
「そりゃ、話してないからね。担任と三年の数人にしか話してない」
「なんで私に話してくれなかったんですか」
非難の色が強い声。私は肩を竦めてコーヒーを口に運んだ。韜晦の意志が伝わったのか、彼女はそれ以上食い下がることなく、
「……私、決めました」
怒ったような口調と表情。眉を上げた私の瞳を彼女は真っ直ぐ睨んだ。
「先輩と同じ大学を受けて、受かって、私も東京に行きます。先輩のところに行きます。居候します。私もう決めました」
いや、居候は困るんだけど。
「だから、先輩、その……」
ふと視線の力が緩む。怒気の裏に隠していた不安が顔を見せたようだ。目を逸らしそうになって、しかし踏みとどまって、彼女は再び私を見据えた。縋るような震えが混じる。
「……それまで、待っていて、くれますか……?」
口をへの字にして、鼻息は荒く、それでいて目元には光るものが滲んでいた。断っても聞くような顔ではない。今度こそ純度百パーセントの苦笑をしながら、私は手を伸ばし彼女の頭をぽんぽん叩いた。
「一年だけは待ってあげる。浪人したらもう知らないからね?」
童顔に残っていた一摘みの怖れがぱぁっと晴れて、キラキラと太陽よりも眩しい笑みが私の目を焼く。
「私、頑張ります! 先輩みたいに頭良くないですけど、いっぱい頑張ります!」
ぱたぱた振られる尻尾が見えたような気がした。くるんと先の丸まった柴犬の短い尻尾。
「はいはい、頑張ってくれたまえ。そろそろ本格的に暗くなるし、キミはさっさと帰りなさい」
彼女の顔に再び浮かんだ曇りの意味を汲んで、
「東京に来るんだろう? 話はその時に、いくらでもできるからさ」
そう言い添えると、「そう、ですね……!」の言葉とともに彼女が目を光らせて復活した。面白いくらい単純な子だ。
「それじゃ、先輩、待っててください! 約束ですからね!」
現れた時とは打って変わった元気印の宣言を最後に、彼女は階段を駆け下りていった。風と夕日と私しかいない世界が戻ってくる。
――なんで私に話してくれなかったんですか。
蘇ってくる彼女の問いに、胸中に黒いものが湧き上がる。進路のことを話そうとすれば、この手足に纏わりつくべたべたした事情をも話さなければいけない。親、家庭、自分。ぬるい缶コーヒーを流し込み、彼女に曝け出せなかったそれらを飲み下す。広がる苦味。思わず顔をしかめる。
初めてブラックコーヒーを飲んだのはほんの二年前、彼女と初めてコンビニに行ったとき。甘ったるいものを飲んでいるのも子供みたいかなと思ってとっさに手に取ったのが無糖のコーヒーだったのだ。
結局、カフェオレの方が好きだとは言えなかった。
稜線からはみ出していた太陽が消える。一段と暗くなる辺りに目を落とし、吐き出した溜息は不得手な苦味と酸味を孕んで散っていった。
――――――――
(2016年4月23日)
(お題:「背伸び」「色紙」「田舎」)
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