Left locked
「この本、あげるわ」
八割がたのところまで読み進んだ本をパタリと閉じて、先輩が突然そんなことを言った。
横に並んだ私にずいっとハードカバーを差し出すと、セーラー服の胸元で鍵束が明るい音を立てる。
「いいんですか? 歩き読みまでしてたのに」
押し付けられるままに受け取りながら、私は疑問を抑えることができなかった。
なにせ、先輩は私が近所にクレープ屋さんができたと話している間も、せっかくだし食べに行こうと誘っている間も、生返事を肯定と捉えてお店まで引っ張ってきた道中でも、こうして行列に並んでいる間だって、ずっとその本にかかりきりだったのだ。それなのに、半分以上読みきった今になっていきなりやめてしまうなんて。
「いいのよ。その本、解答編に入っちゃったから」
先輩の言葉にハテナマークが増殖する。聞き返そうとしたけれど、店員さんに呼ばれて一旦中断。先輩はバナナクレープ、私はイチゴバニラクレープを注文して、出来上がるまでしばしの待機に入ったところで再開した。
「これ、ミステリですよね? 解答編見ないと意味ないんじゃないですか?」
巻頭のあらすじを斜め読みしながら訊ねた私に、先輩は軽く笑い声を零した。
「そんなことはないわ。この鍵と同じこと」
そう言って彼女は首から下げた鍵束を手遊んだ。
大きさも形もバラバラな鍵が合わせて五つ、金属の輪っかで纏められたそれは、ただでさえ不思議な雰囲気を纏っている先輩のトレードマークと言える装備品だ。
ちょうどいい機会だ。少し緊張しながら口を開く。
「……その鍵、いったい何の鍵なんですか?」
先輩とはそれなりに長い付き合いがあるけれど、鍵について聞くのは初めてだった。先輩は大人びた顔立ちに子供みたいに楽しげな笑みを浮かべたまま私の耳に唇を寄せ、
「実はね、この鍵、何の鍵でもないの」
「……え? 何の鍵でもない?」
耳打ちの内容が一瞬理解できず鸚鵡返しする私の様子がおかしかったのか、先輩は口元を隠してくすくす笑っている。
「そう、これは私が中学生のときに学校の金工室で作ったものだから、何を開けることもできない鍵なの」
古びた金属が笑い声に合わせて鈍く光る。カウンターから差し出されたバナナクレープを受け取る先輩へ、私は困惑の視線を向け続けていた。
「鍵は錠を開けるためにある。謎は探偵に解かれるためにある。そんな固定観念は嫌いだから、私はこの鍵束を持ち歩いているし、解答編は必要ないの」
贈呈された本をかばんにしまって自分のクレープを受け取って、首を傾げながら応える。
「なんかよく分からないです」
「そう? じゃあ、ちょっと目をつぶってみて」
先輩の満面の笑みで何かを企んでいるのは分かったけれど、逆らう気にもならないので素直に目を閉じた。数秒ほど間を開けて、「開いていいわよ」の指示に従うと、
「……私のイチゴ、無くなってるんですけど」
幾つか乗っていたトッピングのイチゴが減っていた。全滅を免れていたのはなけなしの慈悲なのだろうか。抗議の意をこめてできうる限りの仏頂面を向けるけれど、先輩には効果がないらしい。
「ふふ。無粋なミステリなんかだったら、この『イチゴ消失事件』に小粋な解答を付けるんだろうけど、でも私は不思議は不思議のままにしておくのが好きなの。この『事件』も未解決にしておきましょう。クレープのイチゴさんは失踪して二度と帰って来ませんでした、めでたしめでたし」
「不思議も何も、先輩が食べたんでしょーが」
「謎解きはしない、って言ったでしょ」
「……先輩のクレープ、後で一口もらいますからね」
先輩の口の端についたチョコソースを睨んで口を尖らせた。彼女は鈴の音みたいな笑い声とともに歩き出している。欲しかったならそう言えばいいのに、と憤慨しながらも、私は寂しくなったクレープのてっぺんに大口を開けてかぶりついて先輩の背中を追ったのだった。
――――――――
(2015年10月17日)
(お題:「鍵」「クレープ」「解決編」)
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