だいたい一時間で書いた三題噺まとめ
赤草露瀬
ソドム
その時の私は、いつにも増して伽藍堂な廊下に並ぶ薄氷のような窓硝子を透かし、お城の衛兵みたいに行儀よく立ちん坊する裸の桜へ視線を向けていたものだから、彼に声を掛けられたときには内心随分と驚いていたのだ。けれど私はそんなことを決して表に出すことなく、セーラー服のプリーツスカートを揺らしながらゆったりと振り返って深く微笑んでみせた。
「なぁに、サカキくん。そんな声を出さなくったって、私の耳は聞こえていてよ?」
私がいつも通りの余裕ぶった態度で応じると、彼はばつが悪そうに眉を寄せて柴犬のような取り繕いの笑顔を返す。
「すみません。……なんだか先輩が、そのまま居なくなってしまいそうな、そんな気がして、つい」
「居なくなる……それは、アヤメ先輩や、もっと昔の先輩たちみたいに、私が消えてしまうということ?」
聞くまでもない質問は彼の困り顔を見るためのもの。思惑通りの反応をくすりと鼻先で笑い、私は再び灰色の戸外へと目を戻した。物言わぬ墓標のような細い木が佇む、いつだって校舎の影に覆われているその空間へと。
かつて今より人がもっと楽天的だった頃に建設されたこの学校は、生徒数に似合わない六階建ての校舎が特徴だ。ちょうどロの字をした鉄筋コンクリートの堅牢な箱に包囲された中央部分、それこそ今私が見下ろしている中庭であった。
十メートル四方ほどの空き地となっている中庭はいつだって施錠はされていないというのに、そこへ訪れる生徒は誰ひとりとしていなかった。それはもちろん、こんな薄暗いだけの空間よりも校舎の裏手に広がる野っ原のほうがずっと心地よい場所だから、と説明されるべきなのだろうけれど、私は……私たちは、別の理由を確かにこの目に捉えている。
それは、中庭の中央に聳え立つ、大きな塩の柱。
塩、と呼んではいるけれど、もちろん味を見たわけではないから本当にそれが塩化ナトリウムの結晶で出来ているのかは定かではない。私が知っているのは、誰かが呼び始め伝えられてきた『塩の柱』という呼称や、柱が直径としては二~三メートルほどしか無いというのに、校舎の三階ほどの高さまで伸びていること、灰色に少し薄汚れたその表面が手でも容易に崩せるほどに脆く、外皮の内側に息を呑むほどの白を秘めていることくらいである。
いつだって塩の柱は中庭に屹立していたけれど、しかし生徒の誰も、たとえ昨日入学式を迎えたばかりの新入生たちであっても、それを話題に上げることはない。彼らは確かに認識している。彼らはこの存在を認知しているというのに、まるでそれが見えていないかのように振る舞い、理由を述べることもなくじめじめした中庭から爽やかな草原に逃げ込んでいるのだ。
「先輩、今日はどこを調べるんですか? 昨日は部室の過去の記録を漁って、その前は史料室に当たって、校内にはもう手がかりなんて無いような気がするんですけど」
全校生徒の中で……あるいはもしかしたらこの世界の中で、あの塩の柱を気にしているのは、私と彼、謎解き同好会の二人だけ。
謎解き同好会は開校間もなく設立して以来、塩の柱の正体を追うことを活動目的としてきた。あの柱を意識できる――意識してしまう者は年に一人いるかいないかという程度だけれど、そんな人は必ず謎解き同好会に行き会って取り込まれていく。きっと学校が生命を終えるその時まで変わらないだろう。
そして、変わらないことはもう一つ。
「サカキくん。今日は、もういいの」
謎解き同好会の三年生は、卒業を待たずして消える。
「……いいって、どういうことですか」
隠しようもない困惑が彼の声から滲んでいる。あぁ、なんて分かりやすい子なんだろう。まるでかつての私のよう。きっと私もあの日彼女に、アヤメ先輩に、こんな風に狼狽した声を上げていたのだろう。
振り向きざまに踏み込んで、幼さの残る丸っこい彼の顔を覗き込んだ。肩に手をかけて体重をかけると酷く簡単に彼の身体は大理石のように冷えきった廊下の壁に追い詰められる。制服である学ランに包まれた、成長途上の筋肉質な体躯。性徴期を終えた私の柔らかな肢体で押さえ込む。
彼の耳は真っ赤に熟した柿の実か、食べ頃の赤身肉のように綺麗に染まっていて、そのままぐじゅりと腐って床へと滑り落ちてしまいそうだと思った。あの日のアヤメ先輩の鼓動を思い出しながら、産毛が生えているのまで見て取れる耳朶に向かって言葉を流し込んでいく。
「今日は活動はお休みにしましょう? 私、少し風邪っぽいの。ほら、こんなに身体が熱いでしょう……?」
頭に腕を回し、私の体の、ひときわ脂肪のついた場所たちを主張するように密着を強めると、彼の腿の間に生じた硬いものがビクリと脈打つのがよく分かった。こんな風に安直な形で興奮を表現できるなんて、男の子は随分と便利にできているようで羨ましい。果たして私のあの時の気持ちは、アヤメ先輩にどれほど伝わっていたのだろう? ……いや、先輩ならきっと、私の心情なんてものは中学生で習う方程式を解くよりもずっと容易く見抜いてしまっていたことだろう。
だからこれは全て、既に決まっていることなのだ。
くすり、含み笑いを残し、声にならない息を漏らしている彼から身を離した私は踵を返し、闇が淀む廊下に上履きの足を踏み出した。どこまでもどこまでも虚ろな校舎内に響いていたのはゴム製の靴底が奏でる悲鳴だけであった。
下校時間を過ぎ照明の落ちた校舎はまさしく棺そのものであった。中庭の鉄扉をくぐった私は漆黒の帳の中にくっきりと浮かんだ白影を見上げ息を吐いた。それは夜の学校に忍び込んだ緊張や命なき者の領域を統治する塩の柱と対峙した畏怖ではなく、湧き上がる歓喜を抑えきれない恍惚の吐息である。
塩の柱に歩み寄る。崩れた欠片が散らばって柱の周囲は砂浜のようになっていて、塩気のせいで下草すらろくに生えない地面が剥き出しになっている。さくさくと塩を踏みしめるが、水分のせいだろうか、雪のような見た目に反して足元は固く締まっていて足跡はつきそうになかった。
柱の目前に立って、鼠色の岩肌を擦る。そして現れた屍蝋のように青白く輝くその素肌に、私は躊躇うことなく頬をつけ、柱を抱擁した。
「――先輩……!」
金属のように体温を奪うでもなく、木や布のように温もりを返してくるでもない、不思議な感覚がたまらなく心地よい。私は飛び散る欠片が髪や服にこびりつき目や耳に入ることも厭わずに愛おしいその柔肌に頬ずりをする。
「先輩、やっと会えた、先輩……!」
砂粒のような塩の結晶を手に掬って頬に擦りこむ。無機物であるはずのそれが慈しみの視線を向けている気がして、思わず私は掌いっぱいに取り上げた白い顆粒を口いっぱいに頬張った。反射的にえずいて吐き出す。粘度の高い粒混じりの唾液を胸元にだらだらと垂れ流し、嘔吐感に抗って咳き込みながら、私は舌の全体をビリビリと突き刺す鹹味が嬉しくて、祈るように掲げた両手の塩を舐めとって再びえずいた。
胸ポケットに入れていた封筒には吐いた唾液がベッタリ染み付いている。それは私が昨日見つけた、アヤメ先輩からの手紙。きっと中の文字は滲んで読めなくなっているだろうし、張り付いた便箋は今だに開けるかどうかすら怪しいものだ。しかし私の心中には罪悪感も喪失感もなかった。……だって私はこれから、他ならない本物の先輩と一緒になれるのだから!
きっと先輩は彼女自身の先輩――彼女が謎解き同好会の活動を通じて探そうとしていた男性から、この手紙に類するものをもらっていたのだろう。そして私が隠した手紙を、マサキくんはきっと見つけ出すことだろう。
謎解き同好会の三年生は、卒業を待たずして消える。謎の答えを与えられて。
純白の塩を手に取って制服の下の汗ばんだ素肌に馴染ませる。指先に乗せた一摘みをスカートの下に差し入れると、じっとりと湿ったそこは先輩の欠片を貪欲に呑み込んで歓びに打ち震えた。
この塩の柱こそ、私が探していたアヤメ先輩だ。塩の柱が彼女の遺骨であり屍肉なのだ。私の口元からだらしなく垂れる液体はアヤメ先輩の唾液であり血液であり脳漿であり愛液なのだ。
私は邪魔な洋服を肌蹴て塩の柱に直接肌をつけ、そのまま接吻する。きっとかつての謎解き同好会員がしてきたように。きっとアヤメ先輩がしたように。
塩の柱が喜んでいるような気がした。いや、それは、彼女は、間違いなく歓迎してくれているに違いない。アヤメ先輩も私を待ってくれていた!
深い充足に満たされて、私はゆっくりと瞼を閉じた。自分の心臓の音が塩の柱に吸われ少しずつ拡散していくような心地に包まれて、私の意識はゆっくりと幕を下ろしていく。私自身が塩の柱に取り込まれていく。恐怖も、不安も、先輩が待っていることを思えば感じている暇などありはしない。
そうして最後の一欠片の自我の中で、私は塩の柱が身震いをしたような、そんな気がしたのであった。
――――――――
(2015年10月13日)
(お題:「中庭」「塩」「謎解き」)
(初めてということもあって、盛大に時間オーバーした記憶があります。特に後半部はほぼ時間外だったような。全部で二時間くらい? 記録がないのでよく分かりません)
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