第13話

 俺に見える世界自体がまともだったことが一度もないけれど、それにしても非常識で不可思議なことに巻き込まれていることを、栄居に話しながら認識させられた。

 何がまともかを論議し始めれば終わりなんか見えないだろう。

 ただそれでも、音や言葉は目には見えたり、物の怪と目があったり、吸血鬼に囓られたり、勤め先の所長が磯女に惑わされているなんている状況は、俺の中では完全に非常識だ。自己否定だって言われてもいい。非常識だ。

 千暁のことのついでに俺が見える世界のことまで栄居に喋ってしまった。

 こいつは飲み込みが早い上に疑わないからつい口が滑ってしまったのだ。まあ、そんなの有り得ない、頭がおかしいと否定されるよりよほど居心地は良いけれど。

 おまえが暇を見付けてはパソコンで何か書いてるのを知ってるぞ、と何気なく言ってみたところ、

「斎木さんの不思議は秘密にしておきますから、僕のも秘密にしてくださいね」

 ときた。

 その言葉を引き出すために仕掛けたエサに、容易く引っかかってくれて非常に助かった。

 俺の場合は言いふらされてもあまり困らないと言えば困らない。けれど、人から見られる目が変わるのはなるべくならば避けたい。全員が栄居みたいなヤツならば問題はないけれど、そんなことは有り得ない。

 そうと知っているから、俺は活字に邪魔され車に轢かれそうになりながらも殆ど誰にも言わなかった。

 二十五年間、殆ど、誰にも。

 それがここに来て、千暁を間違って部屋に入れてしまってからはどうだ。

 千暁に、栄居に話して、この分だと所長にまで知られそうな気がする。幸運なことに白い目を向けられることは無さそうなので、その点は気にしていないけれど。

 それに、栄居と来たら、

「斎木さん、僕にはすっごく羨ましいんですけど」

 なんて言うし。

「そうか?」

 と返せば、

「だって、普通の人には見えないものが見えるんでしょ? だったら、テストの回答とか、赤い糸とか、女性の下着、いやその先をぐふっ!」

 殴ってやった。

「おまえ、人の話聞いてないだろ」

「聞いてますよ。見えるんでしょ? 言葉の裏に隠された意図とか、秘めた想いとか、卑猥な妄想とかぐおっ!」

 もう一発殴ってやった。

 大丈夫。俺に罪はない。

「どうしてそう下に走るかな、おまえは」

「上に走ったって鼻毛かハゲくらいしか見えませんからねっ!」

 なんでそう鼻息荒いんだ。こんなヤツだったなんて、今まで知らなかったぞ。

 っていうか、このパターン、本日多すぎ。

 何だ今日は。栄居新発見日か? そんな記念日要らないし。

「ともかくな、実際なってみれば、鬱陶しいだけなのがよく解ると思うぜ?」

「そうかも知れませんけど、なんだか人生得した感じじゃないですか。楽しいことが一つ増えたって言うか、他の人にはない世界が見えるって楽しいと思いますよ」

 散々ふざけていた癖に、突然悪気もなくクソ真面目にそう返してくるからそれ以上反論しなかった。

 ホントにそうかね? と、本音ではまだそう思っている。けれど、栄居の意見をむげに全否定する気もなかった。

 そう言ってくれる人が居るだけありがたい。

 そんな結論に至ったとき、既に時計の針は六時を指していた。

 何と、喫茶店で四時間近くも栄居とだべっていたらしい。全く気付かなかった。

 あれからずっと探しに来なかったということは、事務所の二人は意気投合でもしてしまったのだろうか。出来るなら千暁を持っていって欲しいと思っている俺には、どちらかと言えば好都合だが……まあいい。

 所長が予定しているらしい時間は午後七時だが、早めに行っておいた方がいいだろう。

 ということで、一旦事務所に戻ることにした。

 会計を済ませ、二階に上がり、中に入って、……唖然。

 千暁が穂乃美の血を吸って大きくなっていたというのならまだ分かり易い。なるべくしてなった。そう理解すればいい。

 まあ、何も大仰に驚く必要もないのだろうが、まあなんだその、俺的に驚いたというか。

 千暁は穂乃美の膝上に座り、穂乃美は千暁を膝上に乗せ、二人仲良くぐっすり眠っていた。

「平和ですねぇ……」

「起きると途端に不穏になるけどな……」

 起こさなくてはいけない。角を立てずにどうやってお目覚めいただこうか。

 人を起こすことに定評がないわけでも、評判が良いわけでもない。

 なので、普通に起こすことにした。

「そろそろ出かけるから起きろよ」

 穂乃美の肩を小さく揺する。

 常人ならばそこで、ふにゃ、とか言って起きるもんだろう。

 だがそこは俺の妹……という理屈は合っているのかどうか知らないが、

「わぁぁぁ! やっ……もう! びっくりするじゃない! 急に何よ脅かさないでよエッチヘンタイ覗き魔!」

 と来たもんだ。

 語尾は既に意味をなしていないに等しい。っていうか、それ、俺に向けるべきものとして言ってるだろコイツ。

 今更言い返す気もしない。

 大体、俺の方がびっくりしたから。栄居なんてもっとびっくりしてるから。

 ついでに千暁はというと、

「いったぁい……。おとさないでよ、ほのみぃ」

 見事に取り落とされて机の角に額をぶつけていた。幸い、打撲程度で目立った傷は付いていないようだ。怪我をしたところでコイツは吸血鬼だ。瞬く間に治ってしまうこと請け合いだから気にすることもないんだろうけど。

「それで。出かけるには出かけるんだけど……」

 思うことがあって、俺は辺りを見渡した。

 ここに居る人数は俺含め四人。少なくとも俺と千暁は行かなくては意味がない。後の二人はぶっちゃけ、居なくても全く支障ないが……。

「おまえらも行くつもり……なんだよな?」

「行きますよ。一応僕の明日も掛かっていたりいなかったりするんですから」

「あたりまえじゃない。巻き込んだ癖に」

「……了解」

 ――だおーも行くんだお!

 はいはい。

 ぬいぐるみは問題外として、四人で歩き回るなんて目立って仕方がない。けれど、それを論じている時間が今は勿体ない。

「気付かれたら終わりなんだから、静かにしろよ? 特に、穂乃美」

「えー? あたしー?」

「当たり前だろ。この業界慣れてないんだし、第一、おまえ、声でかいし」

「むー。わかったわよぉ」

 多少は自覚があるらしい。口を尖らせたものの、それなりに素直だ。

 見るほどに妙な取り合わせの四人だ。

 吸血鬼、女子大生、凡人、非凡。

 チビ、催眠術師、伊達眼鏡、見えすぎ。

 一般的にまともなのは栄居だけだ。もしかしたら違ったりして。本人も今は知らないだけ、とかいうオチで。

 ……有り得なくもないから深く考えるのはやめよう。

「さ、行くぞ」

 と、繰り出して二十分後。

「ね、お兄ちゃん。所長さんが妖怪に憑かれてるって、ホント?」

「恐らくな」

「恐らくって、可能性低そうねぇ。男ならきっぱり言い切りなさいよ」

「穂乃美うるさい」

「そんなところできっぱりしなくてもいいのっ!」

 穂乃美にも事情を説明しつつ文句を言われつつ、昨日来たのと同じブティックホテルから少し離れた映画街にて所長を待ち伏せた。ホテルからこの場所は見通せない。こちら側から磯女が来さえしなければ、所長を回収し、……。

 どうするんだろうか。

 気付いたのが待ち始めてから三十分後という致命的なミスはこの際良いとして、千暁に任せっぱなしで作戦なんてここまでしか立てていない。どうにかなるだろうという甘さもあるが、考えようがないという現実もある。

 聞いてみようかと思ったときにはもう、所長が近くまで来ていた。

 こうなったら野となれ山となれ。

 所長を回収すべく、俺は道へと半身を出した。

「所長。ちょっと、ちょっとこっち」

「おやっ。斎木くん、どうしたんだい、こんな所で」

「いいから、こっち来てください」

「栄居くんに、穂乃美ちゃんまで。こっちの坊やははじめましてだねぇ」

「そうでもないぞ、しょちょー。おれ、ちあきだから」

「あの猫ちゃんと同じ名前かぁ。奇遇ってあるんだねぇ」

「千暁黙れ。所長もいいからこっちに入ってください」

 余計な口を挟んだ千暁を退け、所長の腕を掴んで半ば引きずるように路地に連れ込んだ。

「所長。今、自分が何をしようとしている最中か、理解できます?」

「何って、うーん。何かなぁ。何だったかなぁ」

「ふざけてます?」

「ふざけてなんかないよお。ふざけてどーするの。思い出せないんだから仕方ないでしょ」

 確かに、ふざけていないのなら仕方がないが。

 東野氏は真面目にやっていても不真面目に見えるからこういうときに損なんだ。こうなると、本人の言を信じるより他無い。

「とりあえず、待ち合わせ場所まで行ってみませんか? 斎木さん、知ってるんでしょ? その場所」

「不幸かな、知ってるさ」

 栄居の提案に従って、一人プラスされた五人で繁華街を奥へ進んだ。

 一度通った道は覚えている。まして、こんな単純で、ある意味インパクトの強かった道ならば尚更。

 迷うことなく例のブティックホテルを斜め前に見られる路地に入り込んだ。

「ね、ここ、なんなの? 僕となんか関係あるのかな?」

「大アリです。すっとぼけてるのか誘惑が切れたのか、ご自身は覚えがないようですけれど」

「またまたぁ。そんなこと言って、なんかドッキリとか用意してるんでしょ」

「流石の俺も、そこまで暇じゃありません」

 しかし、ある程度暇だったからここを突き止められたのも事実。それは黙っておく。

 もうそろそろ、約束の七時。

 ここに来て、千暁がぬいぐるみ片手に俺を見上げてきた。

 なんでそんなにも、もろガキんちょ、って格好してるかな。

 訊かないけど。

「まどか。いまからなにをあいてにするか、わかってるよね?」

「あ? 今更だな」

「じゃあきくけど、どうするつもり?」

「どうするつもりって、さっきおまえが作ってた原稿用紙紐でどうにかするんじゃねぇの?」

 正直な意見を行ったところ、ガキに溜息をつかれた。

「いまおれがどういうじょうきょうかはわかってるよね?」

「チビだろ?」

 また溜息つくし。

「あのね。あっちはげんき。こっちはしにかけみたいなもんなんだよ? それでどうにかできるとかおもってないよね? まどか、バカじゃないからそんなことかんがえてないとおもうけど、ねんのため」

 暗にバカだって言われた気がした。ていうか言われた。

 そして、明らかに血の催促をしている。血が足りなくて力が出ない、なんて、どこぞの喋るあんパンと同じだ。しかもタチが悪いことに、あんパンは顔のパンを焼いて替えればいいが、吸血鬼には血をやらなければいけない。

 スケープ・ゴートは勿論俺だ。なんでも、童貞を捨てても美味しいままの俺の血は、吸血鬼にとってご馳走なんだとさ。めでたくなさすぎ。

「何も俺じゃなくたっていいじゃん。他に三人もいるんだし、千暁の場合噛まれたって同族になるわけじゃないし、献血だと思えば……」

 と、周りを見れば、冷たい視線が三百六十度。

「やっぱりここは、一度噛まれてる斎木さんがどうぞ」

「お兄ちゃんの血、美味しいっていうんだからいいじゃない」

「よく解らないけど、いいんじゃないかな、斎木くんで」

 栄居と穂乃美はともかく、よく解らないのに賛同しないでくれ、所長。

 ――だおーは噛まれてもこの身体じゃ綿しか入ってないんだおー。残念なんだおー?

 はなっからテメェなんかに期待しちゃいねぇよ、ぬいぐるみ!

「けんけつだとおもえばいいじゃん、まどか」

 見事に自分の言葉に仕返しされた。こんな形で言葉に攻撃を喰らうのは実に久しぶりだ。喰らわないようにあらかじめ対処しておくのも忘れるくらい久しぶり。

 よく解っていない所長も含め、誰も俺の味方じゃない。ぬいぐるみでさえもだ。

 俺の左の首筋には、貼りっぱなしの絆創膏がある。その下には、二つの小さな穴が開いていた。千暁の犬歯が食い込んだ穴だ。もう塞がって瘡蓋になっているだろうが、何となくコレを外す気がしなかった。

 もしかしたら、俺だけが現実を直視できないで居るのではないだろうか。

 一番信じていておかしくないはずの俺が。

 齧り付かれるという、ぞっとする嫌悪感があるのも確かだ。俺は食い物じゃない。骨付き肉と同じ扱いなんかされたくない。吸血鬼の眷属になる可能性はゼロだという点を考慮して百歩譲っても、その嫌悪感だけは消せないだろう。

 天秤に掛かっているものの片側は、俺の言い分。囓られたくない、吸血鬼のエサになりたくない。

 もう片方は、俺の将来。食い扶持を失くしたくない、今更就活したくない、目が開いていても何も見ない人間にはなりたくない。

 …………。

 わざわざ掛けるまでもなかったか、天秤。

 ああ、解ったよ。飲ませてやるさ。

 ただ、一つだけ文句言わせろ、内心でいいから。そして鹿子、先に謝っておく。

 千暁が女だったらこんなに躊躇わなかった!

「クソッ」

 どのみち立ったままでは千暁に届かないからその場に座り込み、自棄になって首筋の絆創膏を引き剥がした。

 取り敢えず触ってみると、触れたのは絆創膏の四角い痕だけで、二つの点には触れられなかった。

 いくら何でも治りが早すぎる。俺は要らんものは沢山見えるけれど、それ以外の部分はただの人間だ。人間の自然治癒がこんなに早くてたまるか。

 俺が狼狽しているのを見て、千暁が指先で首筋に触れてきた。

「おれがすうと、なおりはやいみたいだよ、みんな」

 みんな、ということは、千暁が今まで吸ったことのあるヤツみんな、ってコトか。

 ならいいか。

 なんて思っている間に、千暁に肩を掴まれ、首筋には既に尖った二本の犬歯が迫っていた。

 栄居の興味津々の眼差しが。

 穂乃美の興奮しきりの眼差しが。

 東野氏の何か楽しい映画でも見ているかのような眼差しが。

 だおーの黄色い死んだような眼差しが。

 上から覗き込んでくる。ぬいぐるみだけは俺の足の上に置かれているから下からだが。

 約二日前に噛み付かれたところと殆ど同じ場所に犬歯が刺さったのが解った。

 あの時は寝起きで突然のことだったから解らなかったけど、牙が首に刺さっているというのに不思議とそれほど痛くない。

 寧ろ、こう、なんというか、表現したくないが、これは、快楽に、似ている。

 断っておくが、俺は痛みに快感を得るマゾではない。

 もしそうだったら、こんな事でもどかしさなんぞ感じている間に、ああああ~! とイってしまっているか、足りないもっと! となっているに違いない。マゾじゃないから本当のところは解らないけど。

 まあ、コレが毎度激痛を伴ったら、彼らへの献血者などすぐに途絶えてしまうか、吸血鬼は必然的にマゾばかりを相手にしなくてはならなくなる。彼らだってそれは嫌だろう。

 痛みがないに越したことはない。こちらも楽と言えば楽だ。

 しかし、血を吸われることに縒る生き物としての結果は変わらない。

 血が足りなくなれば、貧血になる。

 ボランティア精神ゼロの俺は街の献血には一度も行ったことがないから、血を抜かれる感覚は覚えがない。ましてあれは取っても何の支障もない程度を道具を使って巧く抜くのだ。噛み付いて吸い取るなんて原始的な方法を街の献血で試されたヤツは居ないはずだ。

 でも、今なら解る。血の失せる感覚。

 全身倦怠。

 壁に背を押しつけられ、容赦なく吸われていく。

 耳元から血を吸う粘度の高い水音や、千暁の喉が鳴る音、口でする呼吸音がざらついて聞こえてくる。あまり聴き心地のいいものじゃない。

「まだ、かよ……千暁……」

 指先が冷えて感覚が無くなっているようだ。

 頭がぼーっとして、身体は重く怠くて仕方がない。

 暫くレバーとかほうれん草を食べまくらないとな。そんなことを思ったとき、漸く千暁の口が離れていった。

 その影が、噛み付かれる前より随分大きくなっている気がした。

 立ち上がった千暁を見上げている格好だが、それでも今の千暁は俺より身長が高いのが解った。昨日の朝よりも高い。

「ハァ……ステキ……」

 穂乃美がうっとり溜息をつくのも解る。

 俺から見たって、正直綺麗だと思うくらいだ。

 どこからか息を呑むのが聞こえた。

 吸血鬼が美人でなくてはならないという決まりはないと思うが、そうあったほうが惑わせて血を得やすいに決まっている。千暁は中でもかなり美人な方に違いない。見るからに惑わすのにうってつけの容姿だ。

「僕、不覚にも惚れそうです……」

 そっちの道には走るなよ、栄居。茨道だぞ。

「ちあきくんは吸血鬼だったのか。これまた美人さんだねぇ」

 所長は動じてないし。ここに居る奴ら飲み込み早すぎ。俺含め。

「やっぱり美味しいね、円の血」

 そんな、声まで低くなって。しかも、一々色っぽい。

 口調は大人だし、勿論平仮名だらけの文面じゃないし。まるで別人だ。

 もういっそ別人でいい。

 なんか無茶苦茶言ってるけど、起きていることがそもそも無茶苦茶なんだから。

 いいさいいさ。

「これで、どうにかしてくれるんだろ?」

「勿論。相手が現れればいつでも…………っと、噂をすれば来たね」

 言って千暁はちょこっと通りに顔を出した。

 その仕草さえ妖艶だから困る。男の癖に。

「お……姫ちゃーん……」

 誘惑の効果が復活したのか、とろんとした眼になった所長がふらっと通りに出ていこうとした。

 おいおいおいおい。

 引き留めたいが、身体が重くて動けない。立ち上がったらきっと視界が真っ白になるに決まってる。下手な動きは取らない方が身のためだ。

 けど、誰かあいつを止めろ。

「所長さん」

 手を伸ばして引き留めたのは穂乃美だった。

「だめだよぉ。姫ちゃんが待ってるんだから……」

「所長さん、少しで良いからこっち見てください」

 穂乃美は所長の正面に立って、視線を合わせた。逸れていこうとする視線を追って、絶対にずらさせない。

 斎木穂乃美、本領発揮。

「今、所長さんは悪い力に惑わされているんです。今抱いている願望は、所長さんの本心じゃないんです。だから、従う必要はないし、従っちゃいけません。あたし達と一緒に、ここに居てください。いいですね?」

「……はい」

 おおう、恐ろしや恐ろしや。

 たとえ穂乃美が言ったことが真実ではなかったとしても、言葉を向けられて人にはそれが真実になってしまうから恐いんだ。

 悪用している様子はないからまだ安心しているけれど、一歩間違えれば犯罪ものだ。俺よりも遙かに刑務所が近い。

 でもまあ、今回は非常に役に立った。暴走寸前だった所長は呆気なく引っ込んだし。

 後はホテルの前で不安げにきょろきょろしている磯女をどうにかすれば一件落着。

「じゃ、後は任せてよ」

 と、口角を上げた千暁が通りへと出ていった。

 口元を笑ませる、手の平を見せて指先をちょっと振ってみせる、振り返ったり、語尾の余韻だったり。千暁のそんなどうでも良さそうな仕草が一々キザな癖に、全く鼻につかないから不思議だ。

 それを見て栄居はますます惚れてるんじゃあるまいかと少し不安にはなった。

 諸々の事後処理はこの際良いとして。

 今は千暁の動向に注視。

 近づいていった千暁に、磯女の方も気が付いた。彼女は警戒しているのか、酷く不安げな顔で一歩下がる。

 本当にこれで人を惑わせるのか、と思うほど気弱に見えるのは俺だけか。

 千暁と磯女。

 何を美しいとするかは個人差があるから一概に言えないと言うことを前提として。

 男女の差があると言うことも付け加えつつ。

 勿論、俺が男贔屓ではないということを念押しした上で。

 容貌、魅力、妖しさ、艶めかしさ。

 俺基準で言わせて貰えば、全部千暁の方が上だ。……と思う。

 不要な議論に巻き込まれ、謂われのない疑いを掛けられないために話題にはしないが、俺はそう思う。

 これならば、どちらがどちらの手に落ちるかなど、火を見るよりも明らかであると思うのだが、どうだろう。

 まあ、結果は見てみないと解らない。

 というわけで、見ている。

「あ、あなたはどちら様? 私……待っている人が……」

「君の待ち人はね、来られなくなっちゃってさ。代わりに俺が来てあげたんだけど」

 笑う。

「俺じゃ、不満かな……?」

 距離があるために、声ははっきりと聞こえない。読めるから解るだけだ。だから声のニュアンスまでは解らない。けれど、あんな顔をした千暁のことだ。酷く甘い声をしているに違いない。実際、言っても居ないのに歯が浮きそうだし。

「ねえ、なんて言ってるかわかんないよぉ。お兄ちゃん、通訳して。見えてるんだから」

 血が足りなくてまだクラクラしている俺に、穂乃美がとんでもないことを頼んできた。

「いいだろ、別に、わかんなくたって……」

「そんなのつまんないよ」

「つまるつまらないの問題じゃなくてな……」

「お兄ちゃん。洗脳するよ?」

「…………」

 奴らが喋っていることを読み聞かせろなんて、何の羞恥プレイだ!

 かといって、このままでは俺の意思に反して無理に読まされそうだし。

 意思を奪われて喋らされる屈辱に甘んじるか。

 羞恥プレイを受けながらも自我を保つ威厳を取るか。

 ……。

 どっちも嫌に決まってる。

 素面であんな聞いてるだけでも歯が浮くようなことを言わされるなんて。終わった頃には歯無しになってしまう。

 強い酒が、ウォッカとかテキーラとかがここにあればまだいいのに。

「せっかくの力なんですから、活用しないと!」

 栄居まで一緒になりやがって。

「はやく」

 妹に睨まれて、俺の矜持は骨折した。

 以下、俺の読み上げる台詞でお送りします。勿論、感情なんて籠もっていないので、妄想パワーを使ってご堪能下さい。時々内心の叫びが混じりますが、故障ではありません。

 ではどうぞ。

「え……でも、私……」

「いいだろう? 折角来てくれたんだ。タダで帰る事なんて無いよ」

 (千暁は磯女に更に接近。甘い笑みを持って接している)

 (磯女は戸惑った様子。でも、逃げるそぶりは見せていない)

「まずは……名前。教えてよ。俺は鬼頭千暁。洗礼名も持っててね、ミッシェルっていうんだ」

海原うなばら、姫……です」

「姫ちゃんか。可愛いね。よく似合ってるよ」

「そんな、褒められたら、私……その気になっちゃいますよ……?」

「その気にって、どんな気かな……?」

 うおー……。吐く。今なら砂が吐ける……!

 (千暁は海原姫の頬に触れた後、彼女の黒髪に手を伸ばし、さらさらと梳いている)

 (と、彼女は千暁の顔を見て何か気が付いた様子である)

 (彼女は不安ながらも、何処か不敵な、そんな僅かな笑みを浮かべた)

「あなた……人間じゃないのね……?」

「気付くのが遅かったね。そんなに消耗してるのかい? 磯女の姫」

「海は……荒れてるの」

 (と、海原は髪を梳いてくる千暁の手を取った)

「そうでもないと思うけどな。でも、なんでこんな都会に、しかも陸上に来ちゃったんだい?」

「九州の海では私、生きにくくなってしまったのよ。だから、海流に乗って全国を漂ったわ。でも、ここに来て、湾の中に嵌ってしまって、抜けられなくなってしまったの。だから、仕方なく陸に上がったのよ。磯女だって大変なのよ? 吸血鬼さん。あなたもそうでしょう?」

 本人は至って真面目なんだろうが、なんだか間抜けな話しに聞こえるんだが。

 っていうか、俺も大変です。色々と。

 そうこうしている間に、千暁の奴、抱きつかれてるし……!

「所長から貰えなくなった分、俺から吸い取る気?」

「私だって、生きたいもの」

「君が欲しいのは、血かな? それとも、精気かな?」

「伝承と実際は違うの。私が欲しいのは、生気よ」

 あれ。音は同じだけど、中身は少し違うな。

 音にしちゃえば同じだけど……。

「素直にくれるの?」

「残念だけど、俺も自分を維持しなくちゃいけないんだ。あげられないなぁ」

「それは残念ね……」

 (海原は千暁の首に手を回し、うっとりとした表情で顔を寄せていく)

 少し前から、変な感じがする。

 貧弱で顔色が悪いだけのちょっと可愛い女の子にしか見えていなかった磯女が、今は酷く妖艶に見える。

 血が足りなさすぎて遂に目が霞んでろくに物を捕らえられなくなっているのだろうか。

 でも、頭もおかしくなりたいさ。

 こんな会話を、酒も飲んでないのに実況しなくちゃいけないなんて。

 (千暁は彼女の耳元に口を寄せた)

「惑わし合いで、俺に勝てると思う……?」

 そうだ、勝て! 勝つんだ千暁!

 ついでに、歯の浮く台詞をもう言うな! 俺の歯が浮く! もう耐えられない!

 貌と空気で勝負しろ! 大丈夫、おまえなら絶対やれる!

 (千暁は髪を撫でるように彼女の後頭部に手を添えると、また少し笑んだ)

 (二人は目を合わせている)

 これじゃあ、激しく想い合っている恋人同士のようだ。 

 やめてくれ。こっちの尻が痒くなる。

 (しばらくして、千暁の方が先に溜息をついた)

「素敵だね、君は。まだ会って間もないのに、惹かれて止まないよ……」

 っておい!

 惑わされてんのか、千暁!

 ふざけるなーっ!

 おいそこ、ひっついてんじゃない! 離れろ、はーなーれーろっ!

「ね……。私を、元気にして?」

「ああ……俺があげられるものなら、なんでもあげる……」

 (千暁は海原を抱擁した)

 やーめーろぉぉぉぉ。砂吐くぅぅぅぅ。

 ……?

 (彼女の背に回した千暁の手には、何かが持たれている)

 (それは、紐のようだ)

 あれは……事務所で作ってた原稿用紙紐。命名はともかく。

「言葉の力って、凄いよね。時に無いことまで在るようにする、魔法だよ。ああ、悪い意味で捉えないでね。良い意味で言ってるんだよ? 俺は」

 言葉、か。

 惑うも惑わすも、言葉の力が多少なりとも荷担している。

 惑わして餌を探す生き物にとっては――そう言う人間もいるけど――言葉の魔力は武器だろう。そして、千暁や海原はそれを操る者。

 だから、

「俺も言葉を使うし」

 だから、

「俺も言葉に囚われるときがある」

 そして、

「それは、発するだけじゃない。物が持ってる名前さえも」

 すなわち、

「呪いだよ……。長生きしてるから、君も知ってるよね?」

 (海原は、はっと表情を変えた)

 (勝ち誇るに近かった顔が、一気に青くなった)

 それを、俺も知ってるし、人間だって囚われている。

「呪という言霊、力、鎖、柵、武器」

 (ふ、と彼は笑った)

「磯女にとっての魔除けは屋根藁三本。……縛ってあげるよ」

 (千暁は手に持っていた紐を一息に広げると、海原の身体に巻き付けた)

 (海原は縛られてしまうとそれを外すことが出来ず、もがいた)

 (千暁は余った紐の先をちょっと千切ると、それを海原の腕に刺した)

 ……さ、刺さった!?

 (と、そこから水が溢れ、見る間に海原は小さくなっていく)

 (水たまりの中に濡れた紐と千切った部分と小さな生き物だけが残った)

「わーい! やったぁ!」

 俺もやったぁ!

 穂乃美を先頭に、栄居、所長が千暁の傍へと駆け寄った。

 ……俺、置いてけぼり。

 ――だおーもつれてって欲しいんだおー。連れてけー!

 おまえもか。

 散々羞恥プレイさせたんだから労れってんだ、まったく。

 誰も介助してくれそうにないので、仕方なく一人で立ち上がり、足に置かれたぬいぐるみを掴み、一人で歩いて千暁の所までやっとこ辿り着いた。

 水たまりを囲む輪を掻き分け覗き込むと、水に泳いでいる一匹の生き物。

 これ、昔、何かの教材で貰ったことがある気がする。大きくなる前に俺の怠惰が原因で死んでしまったが、これは確か……。

「カブトガニ……?」

 小さい頃、通信教育の付録に『カブトガニ育成キット』というのがあって、卵から孵化した小さいそれを見たきりだから自身がないが。そのカブトガニも、俺の怠慢の所為であっさり死んでしまった。今思えば悪いことをした。そもそも、生き物を育てるなんて、俺にできる芸当ではなかったのだ。

「あ。磯女の原型って、蟹だって何かで読みましたよ」

 栄居が言ったものの、なんか、納得いかない。

「蟹って言っても、カブトガニとはまた違うだろうよ……」

 カニって付くだけで、全く別分類の生き物だ。

 これじゃまるでダジャレ……。

「なんだか苦しそうだねぇ……」

 その場に屈んだ所長がぼそりと言った。

 被害者の一人であったとは言え――覚えていないっぽいけど――やはり哀れに思うらしい。

 少ない水たまりでびちびちと跳ねている様は、打ち上げられた魚と変わらない。

 少なくとも苦しいのは伝わってくる。

「どうするんだい、ちあきくん。このまま、殺しちゃうのかな?」

「や、そんなつもりないよ?」

 しれっと言うが、何か手を打つ様子はない。

 単なる薄情なんじゃ、と、悪気のない笑みのままの千暁に視線が集まる。俺も勿論その一人。

 そんな視線など見えていないかのように、千暁はおもむろに空に目をやった。

 陽も沈みきり、暗くなった空に、何か見ている。

「そろそろ来ると思うんだけどな……と、来た来た」

 何も見えないじゃないか。

 そう思った俺の眼前に、何か動く小さい物が。

「おいっ! 羽が当たるだろ! もっと離れろ、コウモリ傘!」

「何様のつもりだクソカラス。主の命でなければここで今すぐ溺死させてやるところだ」

 幹太と薫の人格のノエルが、足で何かを運んできている。

 鉢……金魚鉢?

 中には水がたっぷり入っている。

 もしかして、昨日千暁が彼らを呼んだのは、これを持ってこさせるためだったのか……?

 何とも用意が良い。というか、あの時からこういうつもりだったのだろうか。そうだとするなら、この流れ全てを読み、計画していたというのか?

 俺の血を吸うことも計算ずくで。

 ……さすがに俺が羞恥プレイをされることまでは予想してなかっただろうけど。そも、俺のことは千暁には関係ないか。

「ありがとう。ちゃんと汲んできた?」

「勿論だとも。コイツに沈められそうになりながらも俺様、健気に頑張ったとも」

「何が健気だ。かわいこぶってるつもりか。可愛くもない。そんな余裕があるんだったら、カモメのダイブよろしく海に突っ込んでさっさと汲めば良かったんだ」

「んだとぉ! 俺様はいつか白くなるんだ! カモメなんぞに負けるもんか!」

「そうか、じゃあ、今すぐ沈め。なんだったらコンクリート履かせてやるぞ」

 何があったか知らないが、金魚鉢の中身は海水のようだ。

 千暁は乾いた笑いをしながら二人を無視し、カブトガニの尻尾を摘むと金魚鉢の中にぽちゃんと入れた。

「東京湾の水だけど、我慢してね?」

 鉢を目の高さまで持ち上げて、千暁は言った。

 その顔といったら……。

 多少の不満くらいは吹き飛ばせる、自然に吹き飛ぶほど……うん、……そういうこと。

 彼女も俺と同意見だったのか、特に不満げな様子は見せずに鉢の中を泳いでいる。

「ていうか千暁。どういう理屈でこうなったんだよ」

 俺の問いに、ああ、と千暁が振り向いた。

 うお……その、正視すると惑わされそうな顔を、纏う空気を、……どうにかしろ。

「藁って言う字は原稿用紙の稿の字の異体字なんだよ。それに、矢柄の意味もあるんだ」

「意味があるからって実際その用途になるなんて……」

 頭の悪い発言も苛つくけど、この容貌も困る。

 早くバカだアホだと思わせて欲しいとさえ思う。

「どうせ俺の独り言、読んでたんだろ? 言ったじゃん。言葉は呪という力だって」

「なんか、陰陽師みてぇ……」

 うう。

 慣れろ、俺。

「ああ、でも、勘違いしないでね。俺、本職の人に会ったら、下手したら浄化されちゃうから」

「でもフツー、吸血鬼はそんなことしねぇだろ」

「フツーは、ね」

 つまり、あれか。

 伝承とは違う、とか。ハーフの特典、とか。他の特性がない代わり、とか。

 そんなことなんだろう。きっと。

「で、このカブトガニ、どうするんだよ」

 鉢に入った磯女、もといカブトガニ。

 おまえも色々大変だったんだよな。

 生きづらくなって彷徨った挙げ句、湾に嵌って陸に上がるなんて。そこでどうにか生きようとしたら、俺たちに捕まって、原型にまで戻されて。

 いいことねぇな。……なんか、最近の俺みたい。

「ん? ウチに置いたら?」

 あ、そか、ウチにね……。……ウチ?

「って、俺んちか!?」

「だって、俺んちは占領されてるし、他に何処かウチがある?」

「無い……、無いけどさ……!」

 結局面倒なことは俺に回ってくる、そういう運命なのか?

 無事に事件とも言えない事件は解決したけど、なんというか……釈然としないなぁ。

「ね、ね、千暁くん。これから今すぐあたしとデートしよっ?」

「この鉢持っては無理だよ」

「そんなのお兄ちゃんに預けちゃえばいいじゃない。ねぇ、いいでしょぉ?」

「やめとけ穂乃美。惑わされてるだけだから」

「いいじゃない、お兄ちゃんには彼女居るんだから。あたしだって素敵な彼氏欲しいもん」

「そいつ、ちっちゃくなるし、根っこはバカだぜ?」

「なによ! お兄ちゃんなんて■♂※◯←に〒▲◆から$†■&Чまで¶Ω℃◎▼な@♯☆●Д≧¥Σ♪Л★♀されちゃえばいいのよ!」

「その凄まじい伏せ字は何だ!!」

 周波数が違いすぎて言語として全く認識できなかった。

 何を言われたのか知りたくもない。

 おおおお。何も通じてないのに何で鳥肌が立つんだ。うおう。寒気がする。

「穂乃美さんって、なかなか過激ですね……」

 って、おまえには通じたのか、栄居! さては穂乃美と同じ周波数なのか! 信じられない!

「まあまあ。ひとまず落ち着いたんだし、夕ご飯でも食べに行かないかい?」

 そもそもの原因はおまえじゃあ!

 ふー。危うく叫ぶところだった。

 取り敢えず、所長の一言によって穂乃美の計画はおまけが多数付きながらも一応成功し、俺たちはタダ飯にありつくことができた。

 中身が入った金魚鉢を持って店に入るのは少ししんどかったけれど。

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