第12話
午後を回って少し。やっと高尾での仕事が終わった。
千暁はずっと鞄の中にいてくれたので助かった。ちょっと重かったけど。
事務所のある高円寺駅に着いたの時には二時を回っていた。
駅を出、事務所までの短い道で、千暁は鞄から首と前足を出して俺と同じ進行方向を向いている。一日中自分の足を使わず楽ちんだった千暁は、至って上機嫌だ。
――だおーは踏み台なんかじゃないんだお! 踏むにゃ! そこはお顔なんだお!
鞄の中からなにやら抗議の声が上がっている。
どうやらぬいぐるみを踏みつけて顔を出しているようだ。
穂乃美からの連絡はまだ来ない。
高尾で思ったよりも手間取ったから待たせることになるかと思ったのは、杞憂に終わった。
「ね。いそおんな、どうするかおもいついた?」
猫の時は人語を喋るなと言っておいたのに、人通りが少なくなったのを見計らったのか千暁が話しかけてきた。
大きな声を出さなければ話しても怪しまれないか。
「まだ。調べてる暇、無かったし」
「ほのみはなんのためによんだの?」
「あいつ、自白させるの上手だから、次にいつ磯女に会うのか所長から聞き出そうと思ってさ。対処はそれから考えるよ」
無計画甚だしいが、これくらいしか思いつかなかった。飯の種の大本を失うわけにはいかないから、俺だってそれなりに必死ではある。けれど、一般人にはこの程度が限界だ。
物の怪相手にまともにやりあおうなんて、本来無理なんだ。
物の怪同士ならともかく……。
「……」
見下ろした先で千暁が、猫の目を俺に向けていた。
元から曲線の口元が、笑んでいるように見える。
「なんだよ」
「おれがどうにかしてあげようか」
どうにかしてくれるのならして貰いたいところだが……。
「ただじゃやらないんだろ?」
「ち、ちょーだい」
やっぱりな。
「イチゴ、メロン、ブルーハワイがあるけどどれがいい?」
「えー、んー、レモンはないの?」
「どれもあるか! 俺に初恋の味、求めてんじゃねぇよ!」
「はつこいじゃないよ。ファーストキスだよぉ」
「どっちにしたってあるわけねぇだろ! 真面目に返してんじゃねぇよ!」
イチゴの赤はいいとして、緑や青や黄色い血があってたまるか……。それに、そんな甘酸っぱさ求められても、どうしようもないっていうか、応えたくもない……もとい、応えられないというか……。……問題はそこじゃないけども。
「ほらっ。事務所入るから喋るなよ」
「ひーん。のどかわいたぁ」
「黙れ」
「……」
千暁を黙らせ、事務所に向かう階段を上る。
いつものようにドアを開けたとき、奥からがたっ、という音がした。椅子を蹴ったか躓いたかしたような音に聞こえたが。
「あ! 斎木さん! 遅かったじゃないですか何処行ってたんですか何してたんですか」
栄居が机の前で立って息継ぎも惜しむように訊いてきた。さっきの音は栄居が立ち上がった音のようだ。
「ん……と、俺、直接高尾に行くって昨日言ったよな……?」
「そんなことはどうだっていいんです」
どうでもいいのか。俺の仕事って、どうでもいいのか。
「所長、出かけて行っちゃいましたよ。どうするんですか?」
言われて初めて気が付いた。窓際の席に、ヤツの姿がない。穂乃美をここに呼びつけて、今後の予定を聞き出そうと思っていたのに。しかも、その〝今後〟が今日だったとは。連日何やってるんだろう、この人は。
千暁が言うには、今は元気でも突然どうなるか解らないと言うから気は抜けない。
もし〝突然〟が今日起きたら……。そんなこと、考えるだけで発熱しそうだ。
そうとなると、マズイな。
無い予定が狂っていく。
「どうしたもんかなぁ……」
「なんだか……余裕そうですね……」
「余裕でもないんだけど……思考がおっつかないっていうか……」
がたっ。
よく聞く鈍い金属音がした。方向は、栄居の足下か?
「おい、こらっ。勝手に開けちゃダメだろ!」
開けちゃダメ、って。まさか……。
鞄の中に、千暁が居ない。また勝手に抜け出して栄居の引き出しを開けたのか。
「千暁。なーにやってんだよ、おまえ」
覗きに行ってみると、器用にも千暁は上から三番目の引き出しを開け、中を漁っていた。
ただ漁っているのではなく、目的があるように見える。
気のせいだろうけれど。
「おまえなぁ……」
こんな時になんだっていうんだ。
抱え上げ、千暁を引き出しから引き剥がす。
と、すぐに俺の手を擦り抜けて引き出しに戻ってしまった。
「こらこらこら」
言いながら栄居が同じ事をしたが、結果は同じだった。
「なんだっていうんだよ」
尋ねた。しかし、返ってくるのは、どことなく恨めしげな視線。
そうだ。猫の時は人語を喋るなと言ったのは俺だったっけ。これじゃあ何をしたいのか俺には解らないし。
俺に訴えても仕方がないと思ったのか、千暁は栄居へと向き直った。
「おまえ、げんこうようしもってるだろ? だして」
「千暁っ! このバカっ!」
喋りやがった。
栄居は何があったのか解っていないようで、千暁を目を合わせたまま硬直していた。
「な。もってるんだろ? おまえ、ものかきなんだから」
千暁にまで見破られているとは、そろそろ所長にもばれるな。暇を見計らっては目の前のパソコンを使って何をしているか、ってこと。
「斎木さん……。僕の耳がおかしくなかったら、この猫、喋ったんですけどっ! どう、どういう、こと、ですかっ?」
声を裏返したくなる気持ちも分かるけど、それよりもなんだか楽しそうに見えるんだけどな、俺には。
「大丈夫。おまえの耳はおかしくなんかないから」
「じゃあ、僕も遂に聞こえないものが聞こえる人になれちゃったんですね! わぁい!」
なりたかったのか、おまえ。この力も分けてやれれば良いんだけど、残念だなぁ。
「ね、このひと、へん」
人間の姿だったらきっと眉根を詰めて口をへの字に曲げていそうな顔で、千暁が振り向いた。
「俺も今初めて知った」
喋っている千暁に構うのも面倒になってしまった。
栄居が妙な恍惚に浸っている間も、千暁は前足で彼の引き出しを探っている。けれど、やはり猫の姿では作業がしづらいらしい。中の物を巧く掴んだり捲ったり出来ないで、苦戦していた。
「あぁ、もう、やりにくいなぁ」
言うが早いか、どろんと人の姿になって作業を続けた。
フォローをする気もとっくに失せた。
「うあぁっ! ねこ、猫が子どもにっ!」
「あー、もう、みみもとでさわがないでよぉ。あるんでしょ、げんこうようし。だしてっ」
「おまえさ、原稿用紙なんて何にするわけ?」
「つかうんだよ」
「おまえもなんか書くのか?」
「あたまとおしりくらいならかくけど」
「〝かく〟違いだ。それだったら〝掻く〟だろ」
「そんなこと言われたっておれにはみえないからわかんないもん」
「漢検一級が泣くなぁ」
「あのう……。なんでフツーに喋ってるんですか、斎木さん」
栄居を無視して会話を進めていたら、恐る恐る訊かれてしまった。
何でって言われても、たった二日で慣れきってしまったと言うしか。
「はやくださないと、おまえ、ごはんにしちゃうぞ!」
「え……、ごはんって?」
子どもの千暁に凄まれて、栄居は一歩下がった。
こうなったら少し構ってやるか。
「そいつ、吸血鬼だから。俺の代わりに食われてやって」
「きゅうけつき!? そそそそんなの、ホントに居るんですね!?」
「動じないなぁ、おまえ」
口が回らないのは恐怖や疑念ではなくて、寧ろ歓喜なんだろうな。
「ほら、どうするの? だすの? ごはんにされるの?」
「だだだだ出します! 今すぐにでもっ!」
って、本当に持ってたのか。
千暁に脅迫されて、栄居は引き出しの一番底に入れていたビニル袋に入った原稿用紙を取り出した。四〇×四〇、B4サイズ。小学校で作文を書くときに良く配られる物だ。
一体それを何に使うつもりなのか、俺にはさっぱり見当が付かない。
千暁は中から三枚だけ取りだして後は栄居に返した。
手元に残った三枚のウチ、一枚を横に半分に裂き、縒り始めた。残りの半分も、先に縒った物に繋げて縒っていく。
「千暁。それ、なに?」
「げんこうようし」
「漏斗で豆飲ませるぞ」
「ひーん! それだけはやめてぇっ!」
「じゃあ何なんだよ、それ」
「げんこうようし」
「…………豆乳プールで泳がせてやろうか」
「ひーん! おぼれちゃうよぉ!」
「おまえの場合、溺れるじゃ済まないだろうよ」
「どっちにしてもまめはいやっ!」
「じゃあ言えよ」
「……どうにかしてほしいんだろ? いそおんな。それにつかうんだよ」
「へぇ……そう……」
使うって言われても、それ、原稿用紙だろ?
縒っているところを見ると文字を武器にするわけでは無さそうだし。さっきから半分にされた紙が繋げられていって、出来上がってるのは長い紐のような物だ。
結局三枚とも繋げて縒られ、一本の紙紐になっている。
「でーきた」
千暁は満足そうにそれを自分のズボンのポケットにしまった。最後までどう使うのか教えて貰えず終いだった。
何の代償も渡していないが、本当にどうにかして貰えるのか少し不安はある。
ぽやぽやしているけれど、それでも千暁は吸血鬼だ。生きるために血が要る生き物。それが自分の身体の大きささえ維持できないほど渇いている状態で、善意だけで協力してくれるのだろうか。
解らない。
解らないけど……。
……ま、いっか。
「ね、まどか。ぬいぐるみちょーだい」
一仕事終わった千暁は、鞄の中に残したままのぬいぐるみを催促してきた。精神年齢が相当下がっているようだから、ここは素直に与えて大人しくさせておく方が良さそうだ。
渡してやるとそれで満足したようで、来客用のソファを陣取り、寝転がった。
「あの、斎木さん。僕、まだ状況が理解できないんですけど」
「それが普通の反応だから気にすんなって」
俺の飲み込みが良すぎるだけだから。かくいう栄居もなかなか適応能力が高いように思う。
「そもそも、どうして斎木さんが吸血鬼と一緒に居るんです?」
「話すと面倒なんだけどな……」
ガチャッ。
ゴシック文字が事務所の入り口から飛んできた。見なくても、扉が開いた音だと解る。
「こんにっちはー! お兄ちゃん居る~?」
「穂乃美!」
来るときは連絡を寄越せと言ったのに、なんで突然現れるんだこの妹は。
「なんで電話しないんだよ。しろって言ったのに……」
「所長さん見たよ~」
「いつも突然……って何。所長見たのか? 何処で見た?」
「ん? 駅だよ?」
相変わらずマイペースな奴だ。俺たちの標的がその所長だなんて知らないで。電話してくれれば首に縄付けて捕まえろとか、襟首掴んでこれからどうするのか聞き出しておけとか言っておいたのに。
「でね、なんだったかな。甘味処に行って、カメラを見て、天ぷらを食べて……七時に、ヒメちゃんにどうのって言ってたかな」
「それ、所長から聞き出したのか?」
「うん、当たり前じゃん」
しれっと言ってくれる。
偶然だろうけれど、よくもまあそこまで。これでは恐くておちおち穂乃美と喋れない。何を聞き出されるかわかったものではない。
けれど、以前、穂乃美をここに連れてきていて助かった。ドタバタするだけでその時は疲れただけだったけれど、こんな所で役に立つなんて思っても見なかった。それに、何故か穂乃美と所長は気があっていたようだったし。
「たぶんヒメちゃんっていうのが磯女だろうから、あと五時間猶予があるのか……」
五時間も前から出かけるなよ、所長。
「それまでに面倒臭い仕事を片付け……」
「きゃーっ! 千暁くん、なんでそんなにちっちゃくなっちゃったのー! かーわいいー!」
女の子というのは、小さければ何でも可愛いんだろうか、と時々思う。往々にしてそんなパターンが多い気はしているが、少なくとも俺は、チビ千暁が可愛いとは思わない。
「え、ヤダー! 千暁くん、だおちゃん人形持ってる! 超カワイイ! ね、これ、どうしたの?」
「しょちょうにもらった」
「えー、いいなぁ!」
「いいだろー」
何で和気藹々してるんだ、そこ。
「所長がクレーンゲームで取ってたぞ、それ」
「そのゲーム、何処にあるの?」
「新宿の電器屋の脇」
「ね、お兄ちゃん。連れてって」
「なんでだよ。別にそれじゃなくたってぬいぐるみくらいいくらでも……」
「だめ。コレだからお兄ちゃんはダメなんだよ。だおちゃんはそこら辺で売ってないんだから」
「そんなにレアなのか? ってか、だおちゃんって何だ」
「駄目魔王の略で、駄王、で、だおー、なの。誤変換で堕王って書いてあるときもあるけど、あたしはそれでも一理あると思うな」
「駄目魔王ねぇ……」
この伸びきった猫みたいなぺらんぺらんのだおだお言ってる情けないヤツがねぇ。
――しつけいなんだお! だおーは王様なんだお! 敬うんだお!
あー、はいはい。
促音をちゃんと発音できたら認めてやらなくもないけどな。
――失敬な!
言えるじゃん。
――言えたんだから認めるんだお~?
認めてやらなくもない、って言っただけで誰も認めるなんて言ってねぇし。
――嵌められたんだお! この落とし穴は大きすぎるおー!
勝手に嵌ってろ。
「あーん、カワイイっ! ねえ、千暁くん。あたしにちょうだい?」
「やだ。これ、おれのだもん」
「ヤダって言ってる千暁くんもカワイイっ!」
あー、やれやれ。
なんだか疲れてきた。まだ何も始まっていないというのに。
所長の予定も解ったことだし、千暁がなんか道具を用意してくれたようだし、俺に出来ることといったら、待つことくらいだ。
「な、栄居。アポロに行ってコーヒー飲まないか? コレじゃ仕事にならないし……」
うっさくってな。
「そう……ですね。お供します」
千暁と穂乃美がきゃっきゃとじゃれている間に、俺と栄居はそっと事務所を抜け出した。
向かうは一階の喫茶店。
それほど繁盛しているようには見えないけれど、ここのコーヒーはなかなか美味しいんだ。
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