第10話
「で、どうでした!」
おかえりなさい、じゃないのか。
黒猫を小脇に抱えて戻った俺に、早速、栄居が食いついた。
「大人しくしてろよ」
「にゃーん」
すぐには答えず、まず千暁に言い聞かせて床に下ろし、俺は自分の事務机へ。
立っていた俺を見上げていた栄居は、早くも書類や本の間から俺の方を覗き込んでいた。
「どうだったんですか。所長、まだ戻ってませんけど。やっぱり、予想通りだったんですか?」
なんと言うべきか。
怪異に魅入られてるなどと言って、果たしてこの伊達眼鏡に通じるのか。
柔軟性は高いヤツだが、俺が変人扱いされるのは困る。
「半分当たりってトコかな」
「半分ってどういうことです? はっ…………ま、まさか、そんな、所長に男色趣味があったなんて! 幻滅です! げんなりです!」
「まあ、落ち着けや」
思ったより思い込みの激しいヤツだな。しかも、方向が少しおかしい。
柔軟さを信じるか。思い込みによる暴走を恐れるか。
どっちにしろ、解決策はまだ無いわけだし、話したっていいか。
「おまえ、磯女、って知ってる?」
知ってるわけ無いよな。俺だって、千暁に聞くまで全然知らなかったんだから。
聞かなかったことに、と言い出そうと覗いた隙間の向こうで、俺の予想ではきょとんとしているはずの栄居が、
「ああ、あれですか」
と、まるで知っているかのように首肯している。
「九州地方の海辺に出没するっていう妖怪のことですよね?」
しったかじゃなかった。かなり見直したぞ、栄居。
「な、それの詳細、知ってる?」
「噂程度のことなら」
「ちょっと教えてくれない?」
「それと所長の不祥事と、どう関係あるんですか? 僕としては後者の方を優先的に聞きたいんですけど」
「その所長の相手が磯女なんだよ」
「え! それ、ホントですか? 妖怪ってやっぱり居るんだ! すっごいなぁ」
さっきからずっと予想外の展開が続いている。
流石に妖怪がらみだと言ったら引くと思っていたのに、栄居は引くどころか椅子の上で小躍りしそうなくらい喜んでいる。やっぱり、と言うからには、彼もそれなりに信じていたようだ。まあ、疑って掛かられるよりよっぽど楽で助かる。
「でも、斎木さん。なんで磯女だって解ったんですか? もしかして、そういうのが見える体質とか。僕、漫画で読みましたよ。あやかしが見える体質を持った高校生があやかしに関係する様々なことを扱う店に迷い込んでどうこうっていう話。小さい頃から絶対居るって信じてたんですよねぇ、妖怪。見えたらいいなぁとか思ってたんですけど、斎木さん、やっぱり見えちゃったりするんですか?」
し、視界が文字だらけに……。
まさかこんなに一息に喋られるとは思わなかったから、気を抜いていた。
顔を合わせている隙間からも文字が溢れてくるし、栄居の周りは彼自身の台詞で取り囲まれて、正直鬱陶しい。
消えろ、文字ども。
「見えてたけど。七年前まではな」
「すっごーい!」
椅子を蹴って遂に栄居が立ち上がった。
後ろの壁に椅子が当たった派手な音が活字付きで上がった。
「まあ、座れや」
興奮しきりの栄居は、なかなか冷めずに目を輝かせている。
そんなに羨ましいか。そうか。俺は色々鬱陶しいんだけどな。
「すごい! そんな、漫画や映画の中みたいな設定が僕の目の前にあるなんて! 嘘じゃないですよね? 僕をからかって遊んでませんよね?」
「そんなに暇に見えるか?」
「ウチの事務所は常に暇ですけど」
ひでぇことさらりと言うなよ。事実だけど。
「あ、でも、七年前までは、ってコトは、今は見えないんですか? 何かあったんですか?」
俺の力の話自体が本筋から逸れているというのに、更に脱線してきた。
冷静になるのはいいけど、余計なことを訊いてくるなよな。
栄居はすとんと椅子に座ると、また隙間から覗いてきた。言うまで話題は変えてやらない。見てくる目線に、そう言われている気がした。
「何かあったのかも知れないけど、突然見えなくなったんだよ」
「ふうん……そうですか」
「それより、磯女のこと教えろよ」
信用しきって居なさそうな栄居に、真面目腐った顔を向けてみる。
信じろよ。これ以上詮索するなって。
「後でゆっくり聞かせてくださいね」
「気が向いたらな」
というか、妖怪が見える、という事に関しては本当に疑っていないらしい。一番訝しがるべき所は本来そこの筈なのに。思考回路の繋がりが他の人とは異なるようだ。
あれから大人しい千暁を横目で捜す。何処にいるのかと思いきや、所長のデスクの上で丸くなって寝ている。来客用のソファの上の方が柔らかいのに、物好きなヤツだ。
「磯女はですね、黒くて長い髪にこの世の物とは思えない美貌を備えた女性で、漁師を誘惑しては髪で捕らえて海に引きずり込み、生き血を吸い尽くすんですよ」
黒くて長い髪、はあっているが、彼女は美貌とか妖艶とかいう言葉からは無縁に見えた。綺麗には違いないが、息を呑むような、という形容は付かない。
それに、所長は血を吸われている様子はない。千暁が言うように生き血を吸うというのは彼女の場合違うのかも知れないし、その話自体が間違っている可能性もある。生き血ではなく精気を吸うのだとしても、所長はまだ吸い尽くされては居ない。
「弱点とか無いのか?」
「さあ。ただ、魔除けに漁師は屋根藁三本をいつも携帯していた、っていう話ですよ」
「屋根藁? 何で屋根藁?」
「そこまでは知りませんよ。地元の人には何か意味があったんでしょうけど、昔のことですし、それに関する文献は、僕は読んだこと無いです」
「そっか……」
魔除けに屋根藁。この都会に屋根藁なんて手に入らないだろうし、せいぜい納豆の藁くらいしか、手に入りそうな藁が思いつかない。それに、藁で包まれた納豆なんて、滅多に売ってないし。いつかテレビ番組の影響でバカみたいに納豆が並んでいたときは見かけたけど、最近はさっぱりだ。
でも、根本的な問題がまだ残っている。解らなくても事態は進むけれど、事態の意味が解らないままだ。
「生態は大体分かったとして、何で磯女がここに居るんだと思う? ここは東京だし、沿岸でもないし。所長は漁師でも海行くのが好きな人でもないし。腑に落ちなくないか?」
「まあ、そうですけど。……でも、所長って九州出身ですよ?」
「へ? そうなのか?」
ここで働き始めて五年以上経っているというのに、そんなこと全然知らなかった。
栄居は三ヶ月程度。俺は五年以上。なのにこの情報量の違いが生まれる原因の一つが、俺があんまり世間話を好まないことだろう。友達付き合いの中ではあまりそんなことはないのに、深い付き合いを求められない場所ではこの傾向が大いに発揮されてしまう。
特に、所長とは。
所長とは大体仕事の話が無益な言葉の応酬しかしてないから、彼のことで知っていることと言えばNICOちゃん中毒ということくらいだ。そんなの、同じ空間に数時間居れば誰でも自然と解る。
多少面倒ではあるけれど、やっぱりしたほうがいいよな、世間話くらい。
でも、あのムダに苛つくやりとりを楽しむ域まで行かないと出来ないだろうな。
楽しんでいない訳じゃないんだけど、どうしてもいつも劣勢気味だから逃げたくなる。
あー、まあいい、それはどうにかしよう。
「それで斎木さん。妖怪相手にどうするんですか? 陰陽師でも呼びますか?」
「ついでにエクソシストも雇うか?」
「……なんか、非現実的ですね」
「それ言ったら、起きてること自体が非現実的だろ」
実際にはあるけれど、常識からいくと非常識なこと。俺自体がその塊みたいなものだ。
言葉や音は活字になるし、動物の言葉にはルビが振られ、かつては怪異まで目に映せた。
こんな余分な力の代わりに、もっと頭が良かったり要領が良かったならどれだけ人生楽だったか。世の中、上手く行かないものだ。
「なんかいい案思いついたら教えてくれよ」
「自信ないですけど、考えてみます」
と、丁度会話に一区切り付いたとき、事務所の扉が錆びた音をさせて開いた。
「たっだいまー」
所長が帰ってきた。いいタイミングだ。
栄居に目配せをして、この話は内密にしろと伝える。了解の合図である首肯を確認してから、
「おかえりなさい」
と一言掛けた。
所長の手には大手ドラッグストア「フジワラヒロシ」の蛍光グリーンのビニル袋。片方のポケットにはぬいぐるみ、もう片方には家電製品のパンフレット。
「おー、まだ居たのか、ちあきくんだっけ。ほーら、ぬいぐるみだよ」
「にゃーん」
さっきまで寝ていた千暁が、ポケットにあったぬいぐるみを差し出されて飛びついた。
――やーん。爪立てないで欲しいんだおー! ボロボロお肌は嫌なんだおー!
ぬいぐるみの叫び声がする。
「気に入ったかね。それじゃあ、君にあげよう」
「にゃーん」
本当に気に入ったらしい。
千暁は例の黒いぬいぐるみを口にくわえると、ソファに移動してじゃれ始めた。
――何で黒猫のオモチャにされなきゃならないんだお! 心外なんだお!
ぬいぐるみの癖に、随分とお高いじゃないか。じゃあなんだ。専用の椅子にでも座らせて埃よけのケースにでも入れてやれば満足か。
机のスペースが回復した所長は、下げていたドラッグストアの袋の中からNICOレットを取り出した。
飽きも懲りもせずにまた買ってきたらしい。
禁煙効果を得るために使用していないのだからやめた方がいいのではないかと思うが、事務所内がヤニ臭くなるのは勘弁願いたいし、所長の懐に金がある限り買うのをやめないだろう。こうなったらいっそ、メーカーにキャンペーンガールの交代を直訴するより他無い。
と、思いながら面倒なので今まで一度もしたことがない。
「NICOちゃんはやっぱりカワイイなぁ」
禁煙ガムのパッケージを見ながら嬉々としている所長の様子は、とても磯女に誘惑されているようには見えない。
同じ事を考えているのか、栄居も時々所長に目をやっているのが隙間から見えた。
ぬいぐるみは早くも千暁の枕にされていた。
今日の所はそれ以上進展のないまま、定時に栄居は帰宅し、俺も少し遅れて帰ることにした。情報収集を要する仕事が間際に入ったが、翌日に回してしまった。どうせ急がない。
「おうちに置いておくのが不安だったら、連れてきてくれてもいいからね」
小脇にぬいぐるみをひっしと抱いた千暁をかかえた俺に、所長が一言。
「気が向いたらそうさせていただきます」
とだけ返して、手を振る所長に一礼して事務所を出た。
連れてきてくれてもいい、なんて言っていたけど、猫が居た方が自分が癒されるからという理由が一番だろう。
電車の中では千暁を鞄に入れ、降りてからはぬいぐるみを預かり千暁を歩かせた。
最初のうちは四本足でてけてけ歩いていたのだが、何か不自由になったのかすぐに人の姿になって横を付いてきた。
俺はというと、鞄から取り出した右手にスマホ。それを左手に持ち替えて、電話帳から穂乃美を捜す。選択し、発信ボタンをピッ。
二コール目が終わったところで繋がった。
「珍しいね、お兄ちゃんからかけてくるなんて」
「用があったんだよ」
「過去形ならもう切っていいかな?」
「あのな。人の言葉尻捕らえて遊ぶなよ」
「キュートなお尻だったら捕まえてもいいなぁ」
コノヤロ……。
一瞬頭に血が上って、一旦スマホを耳から離し、眼前で掴んだ。もう少し理性が足りなかったら通話を切るところだった。危ない危ない。
受話器が置かれた絵のあるボタンに掛かった指を、そっとずらしてまた耳に当てる。
癇癪は起こすな、俺。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけどな」
「ちょっとなら諦めて。あたし、レポート書かなくちゃいけなくて忙しいんだから」
俺は文学部だったけど、穂乃美は法学部に行った。だからどんな流れで勉強するかはよく解らないけれど、なにやかやといつも忙しいと穂乃美は言っている。ただの口実ではないのかと始めはそう思ったものの、レポートの出題が多いのだけは確かなようだ。しかし穂乃美の場合、あまり苦労せず書き上げて時間が空いているのもよく知っている。
「どうせとっくに書き上げてるんだろ? そうじゃなきゃ、昨日一日潰すはずないしな」
「お兄ちゃん、ついに千里眼の力まで手に入れたの? それであたしの私生活覗き見てるんでしょ! んもう、ヘンタイ! あたしが今どんな格好してるか言ってみなさいよ!」
「そんな力持ってないし、おまえがどんなカッコしてるかなんて見えないし、だいたいそんなの言わせてどうする。どうせ中学の時のジャージでだらだらしてるんだろ」
「やっぱり見えるんじゃない! サイテー! ヘンタイ! ピーピング・トムっ!」
長年お兄ちゃんやっていればそのくらい予想が付く。それを覗き魔扱いとは……は、痛み入るぜ……。
あー、疲れるなぁ。頼るのやめちゃおっかなぁ。
「あのさぁ、少しでいいから、俺の話聞いてくれない?」
「少し、ね。じゃあ、二十語くらいなら聞いてあげようかな」
二十語……。
「……協力してくれ」
「協力? 何に?」
「制限内で言えないからうちに来い」
「あン、もう、言っていいから。何よ。なんなの?」
「事務所で問題が起きて……」
「ぶっぶー。字数オーバーでーす」
「……いっぺん東京湾にコンクリート履かせて沈めてやろうか……」
「やーねー。冗談よ。それで何、事務所でなんかあって、あたしに何して欲しいって?」
冗談なら尚更沈めてやりたい……。無論、ここで電話を切るのなら二度とおまえのためになんか財布を開けてやるつもりはない。
「わけあって、所長に予定を聞き出して欲しいんだ。まだ使えるだろ? 催眠術」
催眠術と言うよりも、最早、即席瞬間マインドコントロールのアレ。
下手な自白剤よりよほど恐ろしい。
その気になった穂乃美と目を合わせると、いいように操られてしまう。
兄妹揃って希有な力に恵まれたものだ。珍妙さ加減では断然俺の方が上だけど。ま、そんなことで胸を張っても背中の筋を攣るだけだ。
「イヤよ。あれ、人に勝手に使うと傷害罪になっちゃうんだからね。まだ捕まりたくなんかないもの」
大学に行っていらない知恵を付けたらしい。昔はいいように使っていた技術を、今は出し惜しみか。いつまでも頭の悪いガキだと思っていられないんだなぁ……と、お兄ちゃんは思うのであった。
って、今は感慨ふけっている場合ではない。
「俺がクビになってもいいのかよ」
「あたしがブタ箱行きになってもいいって言うのね?」
「まだ十代だから名前は出ないだろ」
「そういう問題! ひっどーい!」
電話越しにキーキーという声が響く。
今は歩きながら喋っているので、文字は後へ後へと置き去りにされていく。だから目に映ることがない。その点がスマホのいいところだ。
「ともかく、どうなんだ? 協力してくれるのか? してくれないのか?」
「なんか奢ってくれる?」
「俺がクビになったらもう何も奢ってやれないなぁ。残念だなぁ」
超棒読み。
ケータイの向こう側で、握り拳を握って今にも悔し紛れに唸りそうになっている穂乃美の姿が目に浮かぶ。
さて、どうするかな。
まあ、協力して貰わないと俺も困るんだが。
「わかった、協力してあげる。でも、明日は午前中に授業あるから、午後ね」
「じゃあ、来るときに電話してくれ」
「はあい。じゃあね。千暁くんと仲良くね」
「あー。はいはい。わかったよ」
にししし~、と声が聞こえてきたので、かけた方が切る法則に従って、通話を切断した。
「し」の音が途中で切れて耳に残った。後味が今ひとつ悪い。
スマホを仕舞ったときには家の近くに差し掛かっていた。
現れたぼろアパートかすみ荘には明かりがまばらにしか点いていない。
始めは暗くて気付かなかったが、暗い部屋の一つ、しかも俺の部屋のベランダに蠢く影が二つほどあった。
「あの二匹、何やってんだ……」
そこにいるのは恐らく幹太とノエルだ。中に入ろうとしているのか、言い合いでもしているのか、激しく羽をばたばたさせているのが見える。
「おまえ、あいつら呼んだのか……? ……? 何処か具合悪いのか?」
「んー?」
帰り道でずっと黙りこくっている。なんか変だ。また気持ち小さくなった気がするし。
いつの間にか袖を一つ折っている。
「なんかぼーっとする」
「半日立ちっぱなしだったからな。今日は早く寝ようぜ」
「うん……」
今ひとつ反応が悪い千暁の腕を引いて、家に入った。
部屋の電気を付けると、カーテン越しに二匹がこちらに向けて騒いでいるのが解った。
「やっと帰ってきたな! 早く中に入れろい!」
何様のつもりか。ここは俺の家なんだからな。招いても居ない客を早々中に入れるもんかよ。
……千暁はもうしょうがないとして。
「早くしてよぉ。待ってたんだからぁ」
ノエルの方は今はもえみの人格のようだ。
「な、適当に相手して追い返して貰えないか?」
「うん……、やってみる……」
本人が言うように、確かに千暁はぼーっとしている。
ベランダを開けてやりとりを始めた彼らを置いて、俺は台所へ。
出来合いのものは買ってこなかったから、今夜は食事を作らなくてはならない。
一人暮らしが長いから、多少の料理ならば作れる。凝った物は勿論無理。得意料理と言ったら、目玉焼きに野菜炒め。そんなの誰でも出来るって? ……ほっとけ。
レパートリが狭いから、自炊となるといつも同じ内容になってしまうのがガンだ。料理本を買おうかと何回か思ったものの、仕事が終わって家に帰るのにそれから本と格闘なんて絶対無理だという結論に至り、まだ一度も買ったことがない。
冷蔵庫の中には一昨日と変わらない食材が並んでいる。
思いつく料理も一昨日と同じ。
というわけで、本日の夕食は俺の得意料理で決定。
つまり一昨日と同じ。
平凡とはほど遠い人生なんだ。夕食くらい変わり映えがしなくたっていいさ。
キャベツに人参、椎茸に卵。取り出して、刻み始める。
和室ではなにやらもにょもにょと話し声がするが、耳では詳細が解らない。文字も時々流れてくるけれど、見ないことにした。
本来ならばそんなもの、見えるはずがないんだ。言い聞かせ、手元の包丁と野菜に集中する。
冷凍ご飯をレンジにぶち込み、熱したフライパンに野菜を入れた頃、ベランダの戸が閉められた音がした。同時に会話の声も途絶えたので、使い魔の二匹は帰ったのだろう。何だかんだ言って、千暁もちゃんと二匹の主人をしているようだ。感心感心。
この後、予想では「まーどーかぁー」と報告に来るはずなんだが、部屋は静かだ。歩いてくるどころか、動いている気配もない。
部屋を覗き込んでみると、三つ折りに畳んだ布団を枕に千暁は横になっていた。
ぼーっとしていると言っていたから、疲れたんだろう。吸血鬼の癖に体力がないヤツだ。
二人分の野菜炒めに目玉焼き、温めたご飯を持って部屋に戻ると、千暁はまだ寝ていた。しかも、俺の鞄に入っていたはずのぬいぐるみを握り締めて。
――ぐるじいんだおぉぉぉ! しめられてるんだおぉぉぉ!
不憫だなぁ、おまえ。
「ほら、メシできたぞ」
「んー? ごはんー?」
起き上がった千暁に、変わり映えしないね、と言われることを少し恐れていたものの、
「いただきまぁす」
と、食べ始めたのでひとまず安心した。
「あいつら、何しに来てたわけ?」
「ん。俺がよんだの。ようじあったから」
「呼んだって、どうやって呼んだんだ」
「吸血鬼アンテナでぴっ、って」
「あーはいはい」
確かにアホ毛、立ってるもんな。それで送受信するわけだな。
最近の吸血鬼は随分と便利になった……って、真に受けていいのかな、コレ。
どうでもいい疑問は残ったけれど、食事は無事に終わった。
先に入ると言って聞かない千暁を風呂に入れ、交代で入った俺が出たのだが……。
頭にバスタオルを掛けたまま座り込んでいた千暁はぬいぐるみを抱えて、風呂上がりの俺を見上げてきた。
なんだ、その、物欲しそうな目は。
千暁はぬいぐるみを顔の前まで上げ、ろくな長さがないぬいぐるみの手を持って、
「ねー、まどか。おなかすいたの」
なんか言ったか、コイツ。
――だっこぎゅー、のあとは、遊ばれてるんだおー!
や、おまえじゃなくてな。
「さっき飯食ったばっかりだろ。それとも何だ、足りなかったのか?」
「んーと、いきるためにひつようなぶぶんがおなかすいてるの」
「ぬいぐるみで顔隠してないではっきり言えよ」
「ち、すわせて」
ほらきた。
えーと、豆は何処だったかな。穂乃美が忘れていった豆は……。
一旦千暁に背を向け、台所に戻る。
部屋に置いておくと煩いだろうと思って、乾物を仕舞ってある収納ケースに入れた記憶が…………あった。
一袋は俺と穂乃美のおやつになったが、ファミリーパックの容量を舐めちゃいけない。
小袋になっているからなかなか湿気らないそれの残量は九割、といったところか。
「まどか? なにしてんの……って、……やめて! おねがいだからなげつけないで!」
「頭抱えたくらいじゃ当たるぞぉ? ん~?」
「あーん。俺、いきるためにひつようだからいってるだけじゃんかよぉ! まどかがごはんたべたいっていうのとおなじなんだからさぁ!」
「そのくらい解ってるけどな、鬼のエサに成り下がる気はまだねぇんだな、これが」
「エサっていうけど、けんけつするとおもえばおなじことだよ!」
そう来るか。
「まあ、確かになぁ。同族になることもないし、吸われ過ぎなきゃ死ぬこともないしな」
「な? だろ? だからさぁ……」
「でもなんか納得いかないからヤダ!」
「ヤダとかいった! まどかがヤダって!」
泣き顔になってきた千暁に、いつの間にか沸点に達していた頭は制御が利かず豆を一掴み投げてしまった。
とはいうも、殆ど故意だが。
ばらっ、と畳に豆が散らばった。
強く投げてはいないから、当たったことによる痛みなんて無かっただろう。
けど、千暁の顔は真っ青だ。
「ひーん。なんてコトするんだよぉ。しんじられない……!」
千暁の手が震えている。
物凄く嫌そうに、一番近くに落ちていた豆を一粒つまんだ。
まるで、火傷すると解っていながら炉の中の石炭を掴むような、そんな感じで。
「あーん! まどかのばかぁ!」
完全に泣き出してしまった。
ひんひん泣きながら、ひとつ、またひとつと落ちている豆を拾っていく。
嫌忌するだけならば逃げればいいだけだが、強迫神経症だから拾わずには居られないのだ。
しかも、その手はだんだん赤くかぶれていっている。器にしている左手も、摘んでいる右手の指先もだ。
嫌いなのに、痛い目を見ると解っているのに、哀しいかな、拾わずには居られない。
嫌悪したくもなるはずだ。やめてくれと泣いて懇願したくなるのも理解できる。
――泣いてるんだお? だおーもなんだか哀しくなってきたんだお。
床に放り出されたぬいぐるみが、丁度真上に来た千暁の泣き顔を見ている。
マジ泣きされるとはなぁ。
この結果は予想していなかった。まさか、豆に触れると酷くかぶれる体質だったとは。
この手は使える。けれど、乱用するのはよそう。見ていて多少胸が痛む。
情に絆されているようでは魔王への道は遠いなぁ。本気でなろうとは露程も思ってないけど。
畳に落ちる千暁の涙を見て、居たたまれなくなってしまった。
台所から深さのある皿を持ってきて、テーブルに置いた。
「ほら、コレに入れろよ」
「ひろってくれないの?」
「……あー、わかった。拾ってやるよ」
そんな泣き顔を見せないでくれ。
今まで言わなかったけれど、流石吸血鬼と言うべきか、千暁の貌はノーマルの男だって一瞬怯むくらい綺麗なんだから。
ガキだバカだムカツクと思っている間は全く気にならないが、こういうときは凝視してはいけない。緑と赤の瞳が、涙に濡れてホントに綺麗なんだ。
鹿子という立派で素敵な彼女が居ながらこんな事を思うのも何だけど、千暁が女だったら妙な方に心が動いてしまっていたかも知れない。それを考えたらまだ男で良かったか。穂乃美のエサになることはこの際我慢しよう。
自分で撒いた豆をすぐに拾うというなんだかアホっぽい作業はすぐに終了した。
千暁の両手は真っ赤だ。始めはかぶれているだけに見えたそれは、今は爛れているようにさえ見える。
「おまえ、それ、大丈夫?」
「ん……。ひとばんたてばなおるとおもう。でも、いま、おなかすいてるから、どうかな……」
暗に血をくれと言われているのは解ったが、どうしても首に齧り付かれるのには抵抗がある。
結局、千暁の言葉に返事をしないでそのまま寝支度に掛かった。
千暁は黒猫になってお気に入りのタオルケットにくるまる。前足が痛々しい。
畳に落ちた涙の痕が、電気を消す頃になってもまだ乾いていなかった。
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