第9話

 結局昼過ぎまで所長の気ままな電器屋探索に付き合わされた。

 あの後、電動シェーバー、食器洗い乾燥機、洗濯機と階を上り詰め、一階に下りたから店を出るのかと思いきや、パソコン売り場で引っかかっていた。

 電器屋でのウインドウショッピングで三時間以上潰すなんて、俺には到底無理だ。

 ――楽ちんだけど、窮屈だおー。

 ――だんだんムレてきたんだおー。あせもができちゃうおー。

 ――さっきからよく目が合うお? そんなに見られたら、胸に風穴空いちゃうお~!

 所長のポケットの中から顔だけ出したぬいぐるみが、時折こちらを凝視しては高い声で何か語りかけてくる。余りに見つめられるのでそんな気がするだけなのだが。

 時刻は会社員ならばそろそろ昼休みが終わるくらいの頃。

 所長は電器屋の裏の通りにあるうどん屋に入っていった。あの店なら何度か入ったことがあるから構造は知っている。地下の空間に店舗が構築され、袋小路だ。俺たちを撒くつもりならば入る意味がない。あれだけ長いこと尾行されていることに恐らくまだ気付いていない。

 とはいえ、それほど広くもない飲食店の同空間にいるわけにはいかない。入口を遠巻きに監視するより他無いが、いかんせん腹が減った。

「千暁。コンビニで買い物できるくらいの常識を持ってなかったら、逆立ちして二回転してワンって言え」

「なんかそれ、俺が非常識なの前提に条件出してない?」

「そういう取り方するって事は、せざるを得ない状況なんだな?」

「そのくらい出来るよ! 僻地にいたわけじゃないんだし」

「人間の世界と交流無さそうだったから」

「そんなこと無いよ。義務教育だって三周くらいしたし、高校は四回出たし、大学だって行ったことあるし、国民学校にも行ったし、寺子屋教育だって受けてるんだからな!」

 寺子屋って江戸時代?

「……大学はともかくな、どんだけ暇なんだよ」

「年齢詐称の方にツッコミがない!」

「それは次に言おうとしてたんだよ」

「うっそぉ」

 嘘。

「話を戻してやろう」

「無駄に尊大なのは何で?」

「おまえにチャンスをやる。向こう側にあるコンビニで昼食を調達して、買い物が出来るということを証明させてやる」

「だから、なんなの、その命令」

「嫌なら逆立ちして口の両端を引っ張りながら『学級文庫』って言え」

「逆立ちしてるのにどうやって口の両端引っ張るの?」

「どうにかしろ」

「無理に決まってるだろ!」

 吠える千暁に取り出した千円を指で挟んで突き出した。

 それは野口英世が印刷されたしわしわのお札だが、そこへ更に別の意味を載せる。

 出来るか? と挑戦する。むしろ挑発する。

 悔しかったらコレを俺の望む物に変えてこい。そしたら多少は認めてやろう。

 意味を解したらしく、千暁は千円をつまんで俺の指から引き抜いた。

「……なに買ってくればいいんだよ」

「おにぎり二つと紙パックのお茶かなんか。あとはおまえが食いたいのを買って来いよ」

「えー」

「なんか文句あるのか」

「まどかって〝おにぎり〟派なんだ? 俺、〝おむすび〟派」

「どっちだって同じだろ?」

「おにぎりって、にぎるんだよ? 片手でこう、ぐちゃって感じしない? ね、しない?」

 と、千暁の開いていた右手がぎゅっと握られた。

 大体、そうやって作るモンじゃねぇだろ。語感がいくらそうだからってそういうイメージ俺は湧かない。

 おかずを抱き込んだご飯の塊であれば要は何でもいい。

「いいから買ってこいよ。おまえが買いに行ってる間に所長が出てきたら、容赦なく置いていくからな」

「具は何がいい?」

「普通の、スタンダードなヤツ。鮭とか、昆布とか」

「はーい」

 置いていく、という言葉を完全に流して、千暁は小走りでコンビニに向かっていった。

 そして、久しぶりに一人になった。

 後は稀に売っているキワモノおにぎりを千暁が選んでこないことを祈るだけ。

 待つこと数分。

 所長が出てくる前に千暁は帰ってきた。

「はいっ。おつり」

 と、渡されたのは十円玉ばかり。

 予想より帰ってくる量が少ない。百円玉がいくつか来ると思っていたのだけど。

「おまえ、どんだけ買い込んだ?」

「え? 俺のも合わせておむすび四つに、パックのお茶二つ買っただけなんだけど」

「それでコレしか余らなかったのか? ちょっと見せろ」

 千暁が下げていたビニル袋を奪い取り、中を確認。

 すると、紙パックのウーロン茶が二つと、和紙風の包みに入ったおにぎりがごろんと四つ。

 金食い虫は後者だった。

 一個百八十円前後する他のおにぎりとは一線を画した商品だ。イクラだったり鮭ハラミだったりが具材で、美味しいがいかんせん高いのがネックだ。

 懸念していたキワモノは入っていなかったけれど、この展開は予想外だ。

 〝安いの〟ともう一言加えておけば良かった。が、文句は言うまい。久しぶりに少し高価な昼食と行こう。

 賑やかな道の角でコンビニおにぎりを立ったまま食べている男が二人、という光景はもしかしたら目立っているかもしれない。歩きながらだったら無くもない様だけど、停止してというのはどうだろう。こういうとき、どうやったら巧く不審に思われずに場に溶け込めるのか教えて欲しい。

 皆、周りのことなんて気にしちゃ居ないと言ってしまえばそれまで。けれど、仕事柄なるべく他人に印象を残したくないものだ。

「で、買い物できたけど。なんかごほうびとかないの?」

 イクラおにぎりを食べながら千暁が訊いてきた。ご褒美をやるとは言ってないが、出来るということを証明しろと言ってお使いさせたのは事実だ。

「今食ってるのがご褒美」

「ええーっ。これがぁ?」

「あ、嫌? だったら食わなくていいぜ。おまえは昼飯抜きな」

「やだぁ! このおむすびおいしいのに!」

 と、まだ俺の分も入っているビニル袋を抱える千暁。やめろ。俺まで食いっぱぐれる。

「勝手に人の家に住み着いて勝手に付いてくる癖に、これ以上何が欲しいんだよ」

「まどか。忘れてそうだから言うけど、俺、吸血鬼だよ?」

 言われなくても覚えてる。

 人の記憶力を疑うのはやめろ、と言おうとして、思い至ったことが一つ。

 コイツが欲しいのは、物品でも、人が食べる食物でもなく、

「血が欲しいならどっか行け」

「それ、飯抜きって言ってるのと同じだから」

「今食ってるだろ、飯」

「うん、これは、これはね、そうなんだけど。これって、炭水化物摂っててもビタミン摂らないとお肌が荒れちゃったりして困るのと同じだから、ね?」

「生きてくのにそう問題ないってことか」

「ひーん。なんて言えば解ってくれるんだよ!」

「さあ」

 まだ頑なに抱えているビニル袋からもう一つおむすびを掴み取る。鮭ハラミの次は明太子か。値段はともあれいい物選んでくる。

 どう説明しようか考えているらしい千暁は、手にあるイクラおにぎりを食べきると、焼きたらこを取り出した。四つとも違うのを買ってきていたとは。これでまたイクラだったら食べかけのコレと無理にでも取り替えてやるつもりだったのに。ちょっとだけ、虐め損なった気分だ。

 ま、いいんだけど。

 買い物に行かせたり立ち食いしたりしているうちにいつの間にか三十分近く経っていた。あのオヤジはファーストフード店と変わらないうどん屋で一体どれだけ時間を潰す気だ。連れが居るならいざ知らず。

 まさか、うどん屋で落ち合ったとか。

 そんな色気のないことを……なんて考えている間に落ち着かなくなってきた。

 それで、そこで用事が済んでしまったりなんかしてたらどうしよう。この半日と昼食の千円と約百五十円の電車代が無駄になる。往復だから電車代は約三百円か。

 細かいことはともかく。

 なるべくならば短期決戦といきたいところだ。何も無いのだったら尚更早く終わって欲しい。

 明太子おにぎりの残り半分は、味があまりしなかった気がする。時間はそろそろ四十分経過。俺の危機感なんて全く意に介していない千暁は、ウーロン茶をすびーとストローで啜っているし。暢気なモンだ。間接的におまえにまで害が及ぶっていうのに。

 行き交う人の多さに出てきた所長を見失わないようにと、自然と地下の店舗に続く入り口を凝視してしまう。そんなことをしていて目が合ってしまったら大変だということは解っていながらも、焦りが目を逸らすことを許してくれない。

「ね、まどか。顔がこわいよ」

「あ? こっちだってな、あのオヤジに色々預けてるんだよ」

「預金とか?」

「利子付くどころか赤字になって返ってくるだろうな」

 きっとその金はNICOちゃんグッズに消える。で、事務所に所長のガラクタが増える、というわけだ。まあ、何が起きても所長に通帳なんて預けないし、金を貸す気もないけど。

「うー、預金じゃないなら、貯金?」

「銀行と郵便局の違いだけだろ。要は同じだから」

「……茶巾?」

「煩いその舌、チョキンするぞ!」

 右手の二本指でハサミを作って、チョキチョキと動かしてみせる。

 真に受けた千暁は、両手で口を塞いで小刻みに首を振った。

 およそ通じないような冗談でも、一々本気にするから面白い。

 動かす指のハサミを近づけると、

「ひーん」

 と言って後ずさる。

 面白い面白い。

 いい気になって千暁で遊んでいると、視界の端の遠くでポケットに詰め込まれた黒い生き物が平行移動しているのが見えた。

 ――うどんの汁が一滴飛んできたんだおー! ダシ臭くなっちゃうおー! でも、お洗濯は嫌いなんだおー! ふかふかボディーがごわごわバディーになっちゃうんだおー!

 ぬいぐるみも色々と大変なようだ。

 所長は物を可愛がることで大切にする人だから、きっとこのぬいぐるみも近い将来、新品の頃の面影など少しも残せずクタクタになることだろう。

 南無。

 ……と、今はぬいぐるみの心配ではなく、今やあいつの持ち主となった所長の後を追わなくては。

 さっきまでハサミを作っていた手で千暁の腕を掴むと、いざ出発。

 途中で昼食のゴミを捨てながら、遠巻きに後を追う。

 時々ショウウインドウに目をやる所長の動作が気になる。デパートの中に入られたら面倒だ。

 冷や冷やしながら付いていくが、彼が足の向きを変えることはなかった。今度こそ、どこかへ向かっている。そんな足取りだ。澱みがない。

 だんだんと、昨日見た光景に近づきつつあった。

 ブティックホテルが林立する歓楽街。夜になると電飾が眩しいその入り口が遂に視界に入った。

 本心を言えば、昨日見た光景は見間違いで、抱いている懸念は邪念であって欲しい。

 このまま歓楽街の入り口を通りすぎ、奥にある書店にでも入ってそのまま帰ってくれと思う。

 人の波に千暁を持って行かれないようにしながら、俺の目線は所長と入り口の電飾とを行き来していた。

 歓楽街前の横断歩道で所長は止まった。

 信号は赤。

 疑う余地もなく、所長は信号待ちをしている。

 何処へ、行くんだ。

 本屋か。映画館か。それとも、その奥にある……。

 ぶるぶるぶるぶる。そのつもりで追いかけているのに、未だに信じるのが嫌だ。

 俺も思い切りが悪い。

 同時に、人が多すぎて、どんなに気を張っていても視界が文字だらけになるから余計に苛々する。

 信号が青になり、待っていた大勢が一気に動き出した。勿論所長も。

 横断歩道を渡りきったすぐそこで、街が大きな口を開けて待っている。

 街の中には映画街もあるから一概にいかがわしいとは言えないが、それでも俺にはキツイ香水を伴うイメージが付いて離れない。

 まだ昼間なのにどこか昏(くら)い雰囲気がする街に、遂に足を踏み入れてしまった。

 どれもコレもいい年をしてぬいぐるみをコートのポケットに突っ込んでいるオヤジの所為だ。反対側のポケットには、先程電器屋で小脇に挟んでいたパンフレットが数冊二つ折りにされて入っている。こんな格好で、この街に何の用があるんだ。

 映画街に踏み込んだが、所長がそっちに曲がる様子はない。

「ねえ、まどか。この映画、見たい」

 突然裾を引っ張られ、反射的に千暁が指差す看板を見てしまった。

「『きやがれ! えらぶつのまち ザ・ムービー』……?」

 何となく疑問符を置いてしまったが、この映画、知っている。というか、大本になっている物を知っている。

 どう考えてもCERO・Z指定、せめてD指定が相応と思われるのに、タイトルは平仮名、CEROレーティングはBというイカレた暴力系ゲームだ。

 みみっちいくらい小さな街に腕に覚え有りの豪物達が集い、そのなかで時に白昼堂々と銃撃戦をしてみたり、金に物を言わせて根回しをして地盤を固めていったりしながら、とある美女との一夜を掛けて実に熾烈……否、あほくさい戦いを繰り広げるというものだ。

 実際にプレイしたことはないが、面白いと言ってきかない穂乃美に見せつけられ、嫌になった。あいつは何でああいうD級と言ってもいいようなゲームにちょこちょこ手を出すのか解らない。

 ともかく、それが今、映画になっているようだ。実際、それを上映している映画館が千暁が差す指の先にある。

 絵は曲線の多い脱力系の絵柄でアニメにはもってこいだが、内容が悪すぎる。

「あんまりくだらない映画見てると、空っぽの頭に水が溜まるぞ」

「空っぽじゃないよ! ちゃんとつまってるもん!」

「既に満水だったか。残念だ」

「ミソつまってるもん!」

「何ミソだ?」

「悩味噌(のうみそ)!」

「おまえの脳もいろいろと悩ましいんだなぁ。ふうん。可哀想に」

「な、なんだよ……!」

 真面目に返したはずなのに、と千暁は心外そうだが、誤字は誤字だ。

 なんにせよ、俺はコレに興味はない。興味の対象はぬいぐるみとパンフレットをポケットに詰めて前方を前進している。

 千暁の主張を無視して更に進もうとしたとき、もう一度裾を引っ張られた。

 まだ同じものを指差している。

「これ、結構面白いんだぞ。ネムさんが金をばらまいて区画を占領していくムービーなんかすげぇんだから。東京タワーから札束が帯付いたままわさわさ落ちてくんの!」

「……おまえ、意外と俗っぽいって言うか、えげつないって言うか……」

 ゲームやるのかおまえ、って言うか……。

「ねえまどかぁ、みーたーいーー!」

「ガキじゃないんだから少し自制しろよ。食い扶持無くなったら困るだろ」

「ブチより無地の方がいいからいい」

「何の話だよ」

 わけがわからん。

 あまり大声を出されても困るが、ここで立ち往生する方が困る。

「あのな。おまえがぐずると、所長見失って、俺は失業して、おまえはまた宿主捜しするハメになるんだぞ? めんどくさいだろ?」

「う……めんどくさいっていうか、おっくう」

 意味は大体同じだから。ってか、億劫なんて最近聞かないな。

「だろ? だから、今日は黙って付いてくるか、家に帰れ。選択肢は二つ。制限時間は二秒」

「え……」

「二、一。さ、どうする」

「……ついてく」

「よし。じゃあ、足引っ張るなよ」

「引っ張ったのはまどかの服だよ」

「それじゃあどこも引っ張るな!」

 なんでこうも日本語がなってないんだ。外国にいた風でもないというのに。天然にも程がある。

 少し離れてしまった東野氏を急いで追いかける。

 あれから彼は脇目もふらずに奥へ奥へと進んでいく。ポケットの中で揺られてぬいぐるみが上機嫌に見えるが、揺れ方の所為のような気がした。

 ――えっちな所なんだお! これ以上汚れるのは嫌なんだおー! 助けて欲しいんだお!

 切実な願いが聞こえてくるが、どうしようもない。ごめんな。クレーンで釣り上げたのが俺じゃなくて。どっちにしろ、俺はクレーンゲームはしないから拾ってやることはなかっただろうけど。

 ――ひどいんだお! 今度、邪気出してやるんだお! ふにゃーん、たつけてー!

 なんか文句言われたし。助けて、って言えてねぇし。

 助けて欲しいのはこっちも同じだ。

 なんせ、所長は本格的に歓楽街を驀進中なんだから。

 蛍光色の看板が目に痛い。こんな所を男二人で歩いていたら、嫌な勘違いをされかねない。

 かといって、今更千暁に猫になれと言って余計な会話をする時間も惜しいし。

 なんでもいいや。どうせ知り合いになんか会わないだろう。万が一会ったとしても俺は潔白だ。証明するのは難しいかも知れないけれども。

「ん……?」

 遙か前方から歩いてくる女性の顔に、見覚えがあった。

 あの時は余りよく見なかったとはいえ、昨日の今日のことだ。しかも、それなりにインパクトのある出来事だったし、誰だか判る程度には覚えていた。

 緩くパーマのかかった長い黒髪に、化粧気のない眉尻を落とした顔。病弱そうで、儚い雰囲気。大人の女性の空気を醸しているのに、同時に酷く幼い感じもする。俺は触れたら壊れそうな女性はあんまり好みじゃないから何とも言えないけど、好む男が多そうな感じはする。

 まあ、美人には違いない。

 出来る限り近づきつつ、様子を窺う。

 所長は一軒のブティックホテルの前で立ち止まった。女性はそこへ向かって歩いてくる。

 間違いない。

 この展開は、そう……ぬぐわぁぁぁぁ!

 悪い予感当たりすぎ!

 俺の将来どうしてくれるんだ、東野光造!

 光を造るなんて、あの頭が更に寂しくなることをヤツの名付け親は想像していたっていうのか! 全部お見通しか!

「悶絶してるところ悪いんだけど、喋っていい?」

「聞いてる時点で喋ってることに気付け!」

「だって、一人で頭抱えてくねくねしてるんだもん。声出さないと気付いて貰えないと思って」

「こうなったら野となれ山となれだ。無駄口を許可する!」

「ムダ……。まあ、若干イっちゃってる感じするから大目に見よう……」

「千暁如きに寛大な措置取られた! なんてことだぁぁぁぁ」

「落ち着きなよ、もう……」

「クソ猫に呆れられたぁぁぁぁ!」

「あー、もう。まどか、聞いて。あの女の人、人間じゃないよ」

「……へ?」

 人間じゃないとな?

 ということはまさか、また俺は余計な物が見えるようになったのか?

「人間じゃないなら、なんだよ。幽霊か? 物の怪か?」

「俺さ、まどかやしょちょーさん、磯臭いって言ったじゃん。あれ、あの女の人のせいだよ」

「魚屋の娘か?」

「……俺の話、聞いてないでしょ? 人間じゃないんだ、って。それに、魚屋さんの娘さんが聞いたら怒ると思う」

「じゃあなんだよ」

「いそおんな、って、知ってる?」

 いそおんな。漢字で書いたら、磯女、だろうか。

 人間じゃないものの話をしているらしいから、海女さんみたいな職業じゃないだろう。

 磯女。スナック菓子の磯塩味みたいなイメージしか湧かないのだが……。

 と、首を傾げている間に、いつの間にか二人は消えていた。消えていった場所は明らかなので、この場を動く必要もない。出てくるまで待つだけだ。

 思考を磯女に戻す。

「俺、見えても種類とか名前まではわかんなかったから、詳しくないんだけど」

「そっか。あのね磯女はまどか見える人だったの?」

「突然脇道逸れるなよ。それに、文章なってないじゃん」

「だって、言い始めてから気付いたんだもん。それにしても、色々見えるんだね、まどかって。視力いくつ?」

「こういうのって視力如何じゃないと思うんだけど、そこんとこどーよ」

「だって俺、見ようと思えばあの看板だって。カビっぽい字で書いてあるアレ、『大吟醸・もろかもし』」

「俺に見えない看板見えるって言われても、確かめようがないんだけどな」

 第一、カビっぽい字、ってなんだ。フォントのことか……?

「……そうだ、よね」

 こんな所でいつかの仕返しをしてやった。

「それで。磯女って何」

「海の妖怪でね、九州地方に良く出るらしいんだけど、漁師を髪でからめて海に引きずり込んで血を吸うんだって」

「三つくらい疑問があるんだが。まず、ここは海じゃねぇし。ここは東京、九州はもっと南だろ。で、所長は漁師じゃないし」

「聞いた話だから俺だって形式的なことしか知らないよ。まどかが始めに持ってた吸血鬼の考え方が違ったみたいに、俺のも違うかも知れないし。何か事情があるのかもしれないし」

「あれは違うどころの話じゃなくて、常識はずれもいいとこなんだけど?」

「いままでの常識が非常識だったって考えてよ」

 ハの字眉をした千暁は、また何となく小さくなったような気がする。こんなに服に着られていた記憶はない。

 色々ありすぎて記憶がおかしくなっているのか。感覚が狂ってしまったのか。

 休日はろくに休めなかったし、おかしな事が立て続けに起こるし、疲れていたっておかしくない。今日は早く寝よう……。

「ということは、所長は妖怪と不倫してるって事?」

「ゆうわくされてるだけでれんあいかんじょうなんてないと思うよ?」

「おまえ……平仮名率高すぎ……」

「んもー! いいじゃないかぁ! 漢字へんかんがしゃべるのにおっつかないんだよ!」

 そのうち全部平仮名でしゃべり出したりするんじゃあるまいな。句点が付かなかったら読みにくい……って、聞けばいい話なんだが。

「そう、じゃあ、なんか害ってあるわけ? 血を吸うっていうけど、所長の首に俺が付けられたみたいな痕とか絆創膏貼ったりとかしてなかったぜ?」

「……なんか今、まどか的に言うと、ぶぶん的に、太字で言わなかった……?」

「いい勘してるじゃん。そのうち見えるようになるんじゃねぇの?」

「うっとうしそうだからいいよ」

 こいつ、人の余分な力を鬱陶しいで片付けやがった。

「もしかしたら、せいきをすうのかもしれないし」

「せいきって、どの字? 生きるの〝生気〟とか、精神の精の〝精気〟とか……」

「……まどかのえっち」

 え……っと……。

「……なんでおまえにエロ呼ばわりされなきゃならないんだ!」

「えっちー!」

 面白がってる。きっと例に挙げた以外の変換を勝手に想像したに違いない。

 それを俺の所為にするとは何事だ。でも、ここは大人の対処を。

 笑みを作ってみせ、

「おまえの牙引っこ抜くぞ」

 語尾にはハートマークを散らす勢いで。

 流石の千暁も引いたらしい。きゃっきゃと笑っていた口元を引きつらせ、やっと黙った。

 そして、改めて問うてやろう。

「〝せいき〟を吸われたら、どうなる?」

「……さいあく、ひからびてしんじゃう」

「それ先に言えよ」

 どちらにしろ放っておくことは出来ない、ということだ。

 せめて今回は干物にならずに出てきてくれることを祈る。

 どうやって〝せいき〟を吸うか知らないが、こんな場所に入るくらいだ、ちょっとやそっとの時間では出てきてくれないだろう。思うに、変換は〝精気〟だ。問い直すのが面倒なのでこれで統一することにする。

 磯女……か。

 所長が相手をしているということは、俺だけに見えているというわけではない。けれど、それは人にあらざる存在だ。

 何があって、人の前に姿を現し、惑わせているのだろう。

 千暁もそうだ。人間の世界に入り込もうとしなければ、面倒は発生しないだろうに。生きるために血が必要な彼らに、それは無理な相談なのだろうか。

 人の世界に、人ではないものが混じらないで欲しいと思うのは、人のエゴかもしれない。

 そうだ。

 今までだって、俺は沢山の人以外の存在を見てきた。

 七年くらいご無沙汰だが、確かに彼らは居た。過去形にはならないか。居る、だな。

 生きるため……。

 人間だって同じか。

 生きるために、生き物を摘んで、殺して、生きている。

 人間は食物を。

 吸血鬼は生き血を。

 磯女は精気を。

 必要として、摂取して、生きる。

「……どうしたもんかなぁ」

 急にシリアスになってきた。

 難しいことを色々と考えるのは苦手ではないが、あまりやっていると滅入る。

「巧く、解決できればいいんだけど……」

「おちこむなよ。まだ人生長いんだからさ」

「全部終わったみたいに言うな! 肩ぽむするな!」

 哀愁たっぷりに載ってきた千暁の手を肩から振り払ってやった。

 せっかく鶏肉と同じ立場に置かれている俺自身のことを、真面目に考えていたというのに。

 邪魔された。嫌になった。もうやーめた。

 所長が出てくるまで最低でも一時間は待たなくてはいけないというのに、早くもネガティブにアンニュイだ。こんな心持ちで、どうやって時間を潰そう。

 あれだけ元気だったのだから、今回で干涸らびるということはないだろうから、帰っても良さそうだけど。千暁のおかげで正体は分かったし、実態も確認したわけだし。

 って、ちょっと待て。

 何でもう出てくる?

 展開の速さにだんだん頭がついて行かなくなっているらしい。

 今さっき、十分か十五分ほど前に入ったばかりの二人の姿がホテルの前に既にあった。

 今から入る、という様子では勿論無い。

 なにやら二人で話している。磯女はいやに恐縮して、何度も頭を下げている。それに対して所長が気にするなと言いたげに手をひらひらと動かしている。それを受けて磯女は更に恐縮するのだ。

 なんかよく解らない構図だ。

 妙に気前よさそうな所長に、妙に平身低頭である磯女。

 誘惑の効果なのかも知れないが、それにしたって違和感がある。あまり、誘惑したりされたりしている感じがしない。

「なあ、千暁。アレってどう思う?」

「ん? ラブホまえのおとことおんな。イヤンなかんじ?」

「そんな状況説明訊いてねぇよ。なんか、変じゃないか? 出てくるの早いし、女の方は腰が低いし」

「せいきをすうったって、べつににゃんにゃんするだけじゃないんだから、いいんじゃないの? ひとめをさけただけかもしれないし。ようかいにだって、いろいろいるんだし。うちきなのとか、かげきなのとか。きゅうけつきだってそうだよ。みおくんはいじわるだし」

 うお……。目に優しくない吹き出しが……。

「長台詞を全部平仮名で言うなよ。でもまあ、そういうことなら解らなくもないな」

「でも、はやいとこどうにかした方がいいと思うよ。今は元気そうでも、ころっと死んじゃったりするかもしれないし」

「そのくらいでも漢字があると読みやすいな……」

「フツーのひとはことばなんてよめないんだから、耳できけばいいじゃん」

「まあ、そうなんだけどな。つい、見えちゃうとそれも読みたくなるだろ?」

「どういもとめないで」

「同意も止めないで?」

「どうい、もとめないで!」

 どうしても変換できないらしく、句点を打ってきた。俺の状況が通じる上にこういうところだけ理解力が良くて、おまけに乗って来やすいから、こうやって遊ぶのも面白い。

 一方ホテル前の二人は、というと、相変わらず同じような動作を繰り返していた。

「いやいやそんな」

 所長が言うと、

「ありがとうございます……」

 磯女が返す。

 鈴が鳴るような声、とは良く言うけれど、彼女の場合そんなものではない。自信なさげにか細くて、声までもが崩れて消えてしまいそうだ。彼女をよく見ると、精気を吸ったばかりの筈なのに、顔色はあまり良くなく蒼白い。

 時間からして、そんなに沢山吸えなかったのだろうか。何度も会っているらしい状況証拠から行くと、不味くて吸わなかった、という可能性は低いのだが。

「それでは……失礼します……」

 吹き出しに並ぶ活字まで細くて折れそうだ。

 磯女はもう一度改めて頭を下げると、所長に背を向けて元来た道を歩いていった。

 どこからどう見ても普通の人間のようだが、彼女が千暁の言う磯女だとすると磯臭い謎も解ける。

 所長は磯女と会い磯の香りを付けて帰り、その所長と同じ空間にいた俺にも残り香が付いた、と。余りに微量で、しかも物の怪を見る力を失くしている俺には解らなかったけれど、人にあらざる千暁にはそれを嗅ぎ取れた。

 俺が力を失くしていなければ、もっと早い段階で解ったのかも知れない。今更取り戻したいものでもないけれど、こういう事がもし頻繁に降りかかってくるのだったらあると便利ではある。

 ……無いとは思うけど。そんな奇怪で数奇なこと。

 所長も表通りへ向かって歩き出した。距離を開けて付いていく。

 映画街を通り抜け、電飾の門を抜けた所長は、俺が数十分前に行けと願った方向に歩き出した。

「帰る気、無いのかよ……」

 けれど、仕事はここまで。

「帰るぞ、千暁」

「え。おいかけないの?」

「問題は分かった。尾行ってのは靴底以外に神経も磨り減るんだから、程々にしないとな」

「うーん。なっとくいくようないかないよいうな……」

「あと、おまえ、事務所に戻るんだったら猫のカッコで人語は喋るなよ」

「いいじゃん、これでも」

「だーめ。幼稚園じゃねぇんだから、預かるわけ無いだろ?」

「やだっていっても、かえれ、とか、でていけ、とかいうんだろ?」

「よくわかってんじゃん」

「……わかったよ。ネコでいるから……」

 そんなに嫌そうな顔をするくらいなら、とっとと離れればいいのに。そんなに俺の血って貴重なのかな。

 真意を尋ねたところで、どうせ俺には理解できないことだろう。

 やめた。面倒なだけだ。

 所長のことだが、問題は分かったと言っても解き方までは解っていない。手の出しようもなければ、対策の練り方もないのが実情。

 所長の体力を信じて、一旦、栄居に報告でもしよう。

 しかし、あの光景は異様だったな……。

 そこは安い昼メロを見たということにして、事務所へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る