第6話

 目覚まし時計に起こされ起き上がると、千暁は人の姿で壁により掛かり、寝ていた。

 手元には中身を失ったプラスチックケースが一組。昨日の夜まですあまが入っていたそれだ。

 ちっ。千暁が寝ている間に食べて泣かせてやろうと思ったのに。

 やっぱり朝は苦手だ。

 とにかく、起きよう。今日は仕事に行かなくてはならない。

 寝られるだけ寝られるように目覚ましを仕掛けてあるから、ゆっくりしている時間は殆ど無い。

 まず始めに、昨日買ってきた絆創膏を取り出した。薬局に売っていた中で、一番大きなものだ。台紙を剥がし、千暁に噛まれた痕がある首筋にぺたり。

 絆創膏を貼ることで余計目立つかもと思ったが、現代においておよそマニアックなプレイでもしない限り付かないような痕を曝して歩くよりはよほどマシと考えた結果、隠すことを選んだ。

 布団を三つ折りに畳むと、洗面所へ直行。

 手早く顔を洗い、ヒゲを剃り、朝飯は……お茶漬けでいいか。

「まどかぁ……おはよー」

 やかんに火をかけたところに、千暁が二度寝から覚めてやってきた。

 コイツの分の飯は要るんだろうか。男の癖に無精ヒゲも生えてねぇし、コイツ……。めんどくさくなくていいなぁ……。

 それより……なんていうか……。

「おまえ、縮んだ?」

 気のせいかも知れないが、確か俺より少し小さいくらいの身長――百七十五くらいはあったはずだ。しかし今は、目線を下にしないと目が合わない。

 こんなに小さい奴だった記憶がない。が、どう見ても百七十は切っているように見える。

「縮んだ……かも」

「吸血鬼って伸縮自在なのか?」

「そんな、ゴムじゃないんだから」

「ゴムは伸びても元ある長さより縮まねぇよ」

「じゃあ、ウレタンじゃないんだから」

「ろくに伸びないだろ、ウレタン」

「ウレタンって、なんか響きがカワイイね」

「なんかの萌えキャラでも想像してんのか、おまえ」

「タン塩……おいしいよね」

「タンしか共通してねぇし!」

 やめよう。千暁が縮んでいようと何だろうと、俺には関係ないし。無駄な会話の所為で仕事に遅れる方が問題……でもないかも。明確な出勤時間が決まってるわけでもなく、仕事に支障が出なければいいよー、な事務所なんだよ、あそこ。フレックスどころじゃない。いいかげんにも程がある。

「おなかすいたなぁ……」

「朝飯作るか?」

「んー、ごはんは、いいや」

「腹減ってんじゃねぇのか?」

「減ってるけどね、欲しいのは、血液だから」

「却下、却下却下、きゃーっか! 俺はおまえの弁当に成り下がる気はないからな! そっちの腹満たしたいんなら、他のエサ探して来いよ」

 吸血鬼に愚問をしてしまった。腹立つ。誰がおまえの分の飯なんか作ってやるもんか。

「まどか、どっか行くの?」

「仕事行くんだ、仕事。カネがなきゃ生きていけねぇだろ」

「ふうん。せちがらいね、人間って」

「生きるのに血が必要なおまえらも世知辛いと思うけどね」

「辛くないよ、俺たち。どっちかっていうと、しょっぱ……」

「そうかそうか、おまえらしょっぱいのか。脳みそ足りないおまえもさぞかししょっぱいことだろうな」

「まどか、俺の脳みそ食ったことあるの?」

「食われた記憶でもあるのか!」

「食われた記憶のあるトコ食ったんだろ!」

「……やってらんね」

 いつの間にかやかんがしゅんしゅんいっている。

 さっさと掻き込んで家を出てしまおう。

 仕事場にまでは着いてこないだろうし。そのくらいは分をわきまえていることを祈ろう。

「俺も連れてって」

 ……わきまえてなんか無かった。期待するだけ無駄だった。

「駄目。おまえはお留守番。嫌だったら出ていけ」

 職場に吸血鬼なんて連れて行けない。それが猫の姿であったとしても、コイツの場合、どうせすぐにぼろを出すんだろうから。いろんな後始末のことを考えると、とてもじゃないけどそんな危険、冒せない。

「何で駄目なの? 俺、一日中独りぼっちなんてヤだよ!」

「使い魔が居るだろ?」

「すること無いからつまんない。お外行きたい!」

「じゃあベランダに出てろよ」

「敷地内じゃないか!」

「共有敷地だし充分外だぞ。なんか文句あるか」

「いーやーだ! お外行く! つまんない!」

 いつにも増してガキっぽいと思うのは、千暁がだだをこねているからだろうか。

 それとも、縮んだような気がするのに関係していたりして。

 千暁が激しく騒いでいる間に、立ったまま朝食完了。いつもこんな感じだから、これに関しては気にしていない。ゆっくり食べたければもっと早く起きることだと解っているのだけれど、睡眠欲には勝てていない。

「連れてって! 邪魔しないから!」

「猫の状態でだって連れて行きたくないね」

「猫で猫被ってるから!」

「大分スプラッタだな、それ」

「……なに想像したの?」

 猫の毛皮を被った猫だが……。人間が人間の皮を被る映画もあるし……。

 朝から何を血生臭い想像をしているんだか。

 無駄な思考に時間とカロリーを消費している場合じゃない。

 時間がないんだから、歯を磨かないと。

「俺もみがくー」

 親の真似をしたがる年頃の子どもじゃあるまいし、と思っているうちに、千暁が横で歯磨きを始めた。

 何気なくその様子を見ていると、犬歯の部分が少し発達しているのが見て取れた。今まで面と向かって話していて気付かなかったが、やはりこの牙を使って血を吸うのだろうな。

「ん? なに?」

「いや、犬歯って言うか牙って言うか……あるんだなぁって思って。でも、そんだけ尖ってたら、目立つだろ」

「日頃は頑張って引っ込めてるから。ホントはこのままの方が楽なんだけどね」

「猫の爪みたいに引っ込められるモンなの?」

「だってさぁ、馴染みにくいんだもん、人間の世界って」

「確かになぁ……」

 だって、が何処に接続するのかよく解らないが、言いたいことは解る。

 自分とちょっと違う部分があるだけで区別という名の差別をしたがる人間のことだ。犬歯が発達した奴を見かけたときの反応なんて、想像するだに分かり易い。そもそも人間じゃないなら尚更か。

「俺たちだってね、生き物だから。生きてたいし、生き延びたいし、出来れば多少楽して暮らしたいの」

 そりゃ、まあ、当然の欲求だろう。

 解るよ、と、いい人間であることを示すべく肩を叩く建前。

 だからといって素直にエサになってやるつもりはないという本音。

 さ、どうする、どうする、俺。

「そうかぁ」

 当たり障りのない返事をして、歯磨き終了。

 あとは、どうにか付いてこさせないようにして仕事に向かうだけ。

 だけとは言うが、それが一番の難関。

 凝った手を考えているほど時間もないし、頭もない。けれど急がなければならない。

 頭を捻りながら仕事用鞄――肩掛けの布製鞄に荷物を詰める。

 財布にスマホ、腕時計は装着、手帳にファイルにガムシロップ……って、これは要らないだろ。あの使い魔、何でこんなモノ鞄に詰めてきたんだか。俺は良くファーストフード店でくっついてきたのを鞄に放り込むことはあるけど、それと同じなんだろうか。

 まあ何でもいいけど、と、自己完結。荷物の詰め込み作業も完了。

 今度からピッキングされないように――特に穂乃美に――鍵を代えてもいいか大家に相談してみよう。と思う我が家の鍵を右手に。

 問題の千暁は、というと、早くも猫の姿になって俺を見上げている。

 さてはコイツ、この手が通じると気付いたな?

 誰が、誰が正体の知れた猫にときめくもんか。二度も三度も同じ失敗を繰り返すのはバカがすることだ。生憎俺はバカじゃないから、同じ失敗は繰り返さない。二度目はあったが、三度目はないのだ。ふははは……っと危ない。こんな変な場面で魔王モードに入ってしまった。

「潤んだ眼差しで見上げたって駄目なもんは駄目だからな」

「膿んでないよ」

「膿んでたら事だろ!」

「琴じゃないよぉ。猫だよぉ」

「一大事って意味だ! それに本体は吸血鬼だろ!」

「ねえ、連れてってよぉ。このカッコなら鞄の中に入れるからさぁ、俺」

「入れても入るな! おい! コラ! 三味線にするぞ!」

「ひーん。俺の猫ヒゲ、そんなに長くないよぉ」

「そんなとこ使わねぇよ。弦は絹製だろ」

「俺の前足じゃちっちゃいよ」

「バチにもしねぇよ! 使うのは腹の皮! ひん剥いて貼り付けるんだ!」

「そ、そ、そんな、なんて残酷な! 死んじゃうじゃん!」

「生きてたらそれこそ事だな」

「三味線の話だろ?」

「琴じゃない! 同じネタを持ち込むな!」

 実に時間の浪費だ。

 この頭の悪い会話を楽しんでいないかと言えば、どちらかと言えば楽しんでいるものの、今はそれどころではない。命には関わらないが、心証に関わる。ひいては給料に関わり、人生に関わる。

「無駄話は終わりっ。屋根の下貸して飯食わせて貰ってるだけいいと思え。俺は仕事、おまえは留守番。いいな? 解ったな?」

 解っていても言うことききそうにないけれど。

「でもぉ…………ひーん!」

 うだうだと始めそうになる黒猫を、タオルケットでぐるぐる巻きにしてやった。この状態ではなかなか脱出できないし、迂闊に元の姿にも戻れまい。

 俺は鞄を掴み、玄関へダッシュ。

「あーん、ひどいよぉー。まどかのばかぁ!」

 バカで結構。職場に着いてこられるよりは数百倍もマシだ。

「大人しく待ってろよ」

 言い残し、ドアを閉め、鍵を掛ける。

 外階段を駆け下りながら、ちらと腕時計で時間を確認。

 少し走れば間に合う。

 駅までは普通に歩いて十分程度。駅から一駅乗って、降りてすぐが事務所だ。

 後ろを気にしながら駆け足で行く道中、怪しい猫影は終ぞ発見できなかった。

 到着した中野駅。

 ギリギリで間に合う電車に飛び乗り、都心から一駅離れた高円寺駅へと向かった。

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