第5話

 今、千暁は風呂だ。

 風呂場からの音がなければいつも通り一人の八畳和室。

 猫好き、というおよそ弱点になりそうもないことによって、俺の人生は今狂い始めている。

 吸血鬼に居座られ、夕食の一部を強請られ、俺自身も奴のエサだ。

 世界が漫画の如く見えるだけでかなり特殊な人生だというのに、これ以上奇異な出来事は御免被りたい……と言ってももう遅いか。

 まだあれが妖怪や幽霊、物の怪、怪異、そんな風に呼ばれる類であるというのなら、俺としては多少納得がいったのに。

 何故ならば。

 つい七年前まで、俺にはが見えていた。

 人の横に浮くセリフ、飛び込んでくる効果音、動物が何を言いたいのかもルビが振られて読み取れる。それに加えてあやかしの類。

 俺の目は余計なものが見えすぎる。

 見えなくなったのは大学一年の時。きっかけは何か解らないけれど、もしかしたら付き合っていた彼女と寝たのが原因かも知れない。因果関係は完全に断絶しているような気がするけれど、他に思い当たる大きなきっかけがない。

 童貞という名の悪霊が憑いていた為にあやかしが見えていたというのなら、もしや、バックヴァージンを捧げれば漫画世界ともおさらばできるのか……?

 って……何考えてんだ俺。

 たとえそうだとして、誰がカマなんぞホられるか……。それこそ穂乃美の思うつぼ、以前にジンマシンが出る。あああ、鳥肌がこんなに立って……!

 そこまでして消し去りたい力じゃない。今や死にそうになることなんて滅多にないし、それこそ普通の交通事故程度の割合だ。それがどの程度の割合かなんて俺は知らないけど。

 この災難が七年前に失った力の代わりだとしたら、かなり釣り合っていない気がする。

 何故ならば。

 怪異に関しては、見えていただけで実害など皆無に等しかったからだ。時々絡まれたりしたけれど、それは子どもの頃の話。俺から積極的に関わろうなんて露程も思っていなかったし、実際そうすることはなかった。見えている、という以外は無難に過ごし、見えていない人間とそう変わらない生活を送ってきた。また、それが可能だった。

 それに対してミッシェルという洗礼名を持った鬼頭千暁なる吸血鬼はどうだ。繰り返しを避けるために敢えて言わないが、無難に過ごすということが最早出来ない。

 特に気に入らないのが、俺が被捕食者に成り下がるという事実!

 エイリアンに遭遇するか人食い人種の集落に迷い込まない限り、まず有り得ないことだ。

 その有り得ないことが実際に起きているから、この説も既に意味をなさない。

「あーけーろー!」

 聞き覚えのある声と、ベランダのガラス戸を叩くこつこつという軽い音がした。

 この先どうなるのかと、多少は思い悩んでいる俺に、今が夢じゃないことを嫌と言うほど思い知らせてくる存在がガラス戸の向こうに。

 何か俺、天罰を喰らうような悪いコトしましたか。

「ねぇ、開けてよぉ」

 うお。ピンクの丸文字。

 この色はどうしても苦手だ。

 しかし、このまま無視することは出来ないことを悟る俺。

「ガラッ」

 擬音が文字となった瞬間、音に相応しくベランダの戸が開いた。

「いやー、寒い寒い。ったく、いきなり放り出すんだもんなぁ、あっきー」

「あらぁ? 千暁くんはどこぉ? お湯の匂いっていうことはぁ、お風呂かなぁ?」

 お湯の匂いか……。コウモリって音の生き物じゃなかったっけ。しかも、今は〝もえみ〟だ。相変わらずピンク色が目に痛い……。

「えーと、お宅、名前なんだっけ?」

 見上げられたカラスに上からの目線で言われた。

「……円」

「んじゃあ、まっきー、そこの荷物中に入れてくれよ。重かったんだぜェ」

「人を油性ペンみたいに呼ぶな!」

「まっかーさぁ、おこりっぽいな」

「俺は独裁者か!」

「どっきードキ土器」

「……もういいよ、まっきーで」

 カラスにまで軽い扱いを受けるのか、俺は。

 ベランダを見ると、大きめのボストンバッグが一つ、でん、と置いてあった。入れてくれと言われたからといって素直に入れる俺も人がいい。これがダイナマイト十回分詰め合わせとかだったらどうするんだ。

「何入ってんの、これ」

「あっきーの荷物」

「誰かさんに占拠されてんじゃなかったのか?」

「だからこっそり盗んできたんじゃねぇか」

 自分の家なのに盗んでこなくてはいけないなんて、難儀だな。

「千暁くんがなるべく不自由しないように頑張ったのよぉ、あたしたち」

 確かに千暁は居心地良くなるだろうが、逆に俺は居心地悪くなるんだがな。誰もは同時に幸せにはなれないって言う縮図か、これは。

「千暁には渡しておくから、出て行けよ、二人とも」

 獣相手に〝二人〟とは……余りに普通に喋っている所為だ。

「えぇーっ。またこの寒い中ほっぽり出されるのぉ?」

「元々外の生き物だろ、おまえら」

「温室育ちなのっ」

「今時の鍾乳洞は冷暖房完備なのか。地球も温暖化するわけだ」

「そうそう3LDKのいいお部屋なのよ」

「マジなのか!」

「そんなに信じやすいと、人生苦労するでしょ」

「……ごもっともです」

 コウモリに人生語られたよ。人間やめようかな、俺。でも、もう三割くらいは人間から乖離してるか。遅かったか。そっか。

「千暁が出てきたらまたどやされて追い出されるんだろうからさ。ここは荷物だけ置いて消えた方が、いい使い魔、ってコトで心証も良くなるんじゃねぇの?」

 何にも思わないかも知れないけど。むしろその可能性の方が高いけど。

 俺はおまえらまで養う気はねぇからな。っていうか、本当は千暁にも出ていって貰いたい所なんだけどな。

「それでしたら荷解きをして差し上げて、お側に仕えるのが使い魔としての責務ですわ」

「おまえは……」

「芹菜ですわ」

 なんでもいいけど、居座ってくるのはこのコウモリに違いない。

「命じられてもいないことするって使い魔として駄目なんじゃね?」

「おっしゃっていなくともそう望まれていることが、私には解りますのよ」

「思い込み激しいだけなんじゃないのか? カッコわりぃ」

 キャラが崩れようと何だろうと、ここは是が非でも追い返したいんだ。でもこれは、単に茶化して喧嘩を売っているような気が、激しくする。

 大人げなくカッコわりぃなどと言って動物虐待をしたすぐ後に、場の雰囲気が変わった気がした。俺は動物の言葉は分かっても、表情の変化までは読み取れないからすぐに気付かなかったが、

「何だ、出窓の癖に」

 芹菜が薫になっていた。

 しかも、いわれた意味と脈絡がさっぱり解らん。

「何が出窓だよ」

「窓際族の癖に」

「し、失敬なこと言うな! これでも事務所じゃ一番働いてんだぞ!」

 つーか、外回りしてるの俺だけだけど!

「釜戸の癖に」

「最早窓でもねぇ!」

「私への敬称はマドモアゼルだからな」

「いつからフランスのお嬢になったんだよ」

「おまえなんかYKK・APだ」

「俺は何処の法人だ!」

「人が付くじゃないか」

「法人は個人と違って法的に人じゃねぇんだ、覚えておけコウモリ傘!」

 はー、言ってやった。

 十分の一も取り返せてないけどな。一〇〇くらいダメージ受けただろ。

 単位稼ぎのために取った他学部の知識がこんな所でビミョーに使えるとは。

「……ってか、まど《・・》か!」

 そんな繋がりだったことに、今初めて気が付いた。

「なにさ、自分の名前を大声で叫ぶなんて。おまえなんか水仙にされてしまえばいいんだ」

「じゃあおまえは水洗に流してやるよ!」

「流れるプール付き豪邸は間に合ってる。心配には及ばないぞ」

「間に合ってるのか!」

 なんだかしらないけど、結局流されてるのは俺の方だし。

「なんか騒がしいけど……あ、おまえら、来てたんだ」

 いつの間にか風呂から上がった千暁がいた。俺の服を着て。

「あっきーの荷物、ちょっとだけどかっさらってきてやったぜ」

「千暁様! この方、失礼なのよ!」

 いつの間にか芹菜に戻ってるし。疲れる連中だ。

「サンキュー、助かるー。ありがと、ごくろうさま、また明日」

 番組の終わりに良く付く一言を放った後、無情にも千暁は二人の首根っこを掴むと素早く戸を開け、放り出し、閉めた。残ったのは彼らが運んできた荷物のみ。

 デジャ・ヴを見たかの如く、さっきと変わらない素早さだ。

「おまえ、そんな扱いで良く見限られないな」

「あれでいいんだよ。そんなに嫌がってないし」

「……そういうプレイ?」

 だったらヤだなぁ。害がないからいいけど。

 獣の世界にも解離性同一性障害というものが存在するのだから、あってもいいのかもな。使い魔、と言う特殊性もあるのだろうけど。

 と、いつの間にかボストンバッグの中身が床に広げられている。

 着替えの服、寝間着代わりになりそうな服、ブラシ、歯磨きセット、フェイスタオル。

 ここまでは至って普通の旅行仕様。

 続いて。

 ケチャップ、見切り品のすあま……見切り品かよ。賞味期限が今日ってコトは、これ、どこぞから盗んできたな?

 他には。

 ワインボトル……一八七七……シャトー……読めないや。

「あー、こんなのまで入れてぇ。大事に取ってあったのに」

「いいやつなのか?」

「まあね。ざっと百五十万くらいかな。ウチにはごろごろしてるけど、俺、これ好きなんだよ」

「ひゃくごじゅうまん!?」

 思わず平仮名で叫んでしまったじゃないか。ワインの価値なんてこれっぽっちも知らないけれど、せいぜい五十万くらいかと思ってた。

 そうだよな。一九〇〇年代じゃないんだもんな……。

「ねえ、冷蔵庫、野菜室貸して」

「野菜室?」

「セラーがないんだから貸してよ。悪くなっちゃうからさ」

「……ま、いいや。入れてこいよ。ついでにケチャップも」

「わぁい!」

 使い魔が勝手に入れてきたとはいえ、随分とまあ、余計なものを沢山と。

 他には……。

 ガムシロップ、お守り……吸血鬼がお守りか。しかも、交通安全。目薬、リップ、綿棒、飴玉、タオルケット……もしかして、小さい頃からのタオルケットじゃないと寝られないクチ?

「あーっ! 人の荷物勝手に見るなよ、エッチ」

 なんか昼間も似たようなこと言われたな。

「ていうか、ここ、来客用の布団とか無いんだけど。風邪引くぜ、おまえ」

「ん。大丈夫。これにくるまって寝るから」

 魔法のタオルケットか、それは。

「あとね、電気付けておいて。スタンドのだけでもいいから」

「は? 昨日は普通に寝てたじゃん。猫だったけど」

「アレは俺が先に寝たから」

「何で? 意味わかんない。吸血鬼って棺桶の中で寝るモンだろ?」

「か、か、かおんけなんてとんでもない! あんな暗くて狭いトコ! 普通に死ねるから!」

「棺桶って言えてねぇぞ、おまえ」

「なんでもいいけど、狭いのと暗いの、イヤなんだよ!」

 そういえば、俺が帰ってきたときもスタンドだけ点いてたっけ。部屋の電気まで付けると、あからさまに部屋にいるのが解るのもあったんだろうけど……。

「吸血鬼の癖に閉所恐怖症な上に暗所恐怖症? 良くそれでやってきたな」

「吸血鬼だって色々居るんだからな! 鬼だって色々居るんだからな! 悪い鬼ばっかりじゃないんだからな!」

「はいはい。絵本のパクリもそのくらいにしろよ」

「だからぁ。お布団要らないから電気は付けておいてぇぇ」

 泣き落としか。そんな手に誰が乗る……。

 コノヤロ。

 何で猫の姿になって見上げるんだよ。

 タオルケットにくるまるためなのか? それとも、俺が猫に弱いって知っててやるのか?

 故意にやってるんだったら、これ以上にタチの悪いことはない。

「解った……解ったよ。つけておきゃいいんだろ」

 スタンドを部屋の隅から千暁の真横に移動。

 まだ寝るには早い時間だけど、昨日の夜から色々ありすぎた。身体よりも精神的にかなり疲労が溜まっている感じ。

 結局当初からそれほど休めそうになかった休日は、本当に休めない日になってしまった。

 そんなの、休日なんて呼びたくない。

 もういいや、寝よう。

 年中部屋の真ん中に垂れている電気の紐を、手早く三回引いた。

「ひーん!」

「あ、やべ」

 スタンドの電気を付ける前に消してしまった。

 食費と水道代、ガス代以外に電気代も余計にかかりそうだ。

 見切り品のすあまがあるけれど、今更起き上がる気がしない。

 明日の朝に食べれば大丈夫だろう。先に起きた方が食べるということを、今俺が決めたからな。いいな、千暁。

 でも俺、朝は弱いんだ……。

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