第4話

 散財した。

 世の兄とは、妹に対してこんなに財布の中身を割り当てるものなのか。

 それとも俺の稼ぎがあまりいい方ではないから散財したように感じるのか。

 どちらにしろ、給料日までのあと半月をどう過ごせばいいか頭が痛い程度に財布を薄くされた。結局、頭痛の種は発芽したまま根を下ろしてしまったというわけだ。

 妹にご所望のカーディガンとコートとスイーツと夕食とストラップを買い与えた結果として俺の財布の中がスプラッタになった不愉快の他に、勤務先である探偵事務所の所長、東野氏の姿をあらぬ所で見かけてしまった不愉快があった。

 ちょっと中年太りでバーコード予備軍、八割が不愉快な無駄口で構成されたニコチン中毒患者自体が嫌いなわけではない。嫌味、若しくはからかいにまみれた無駄口さえなければ、そこそこ理解のある穏和な中年男性である。もしかしたら今の一文で東野氏の存在をほぼ否定したかも知れないけれど、それは置いておいて。

 何が不愉快って、彼を見かけた場所が良くなかった。というか、その場所で彼を見かけたことが良くなかった。

 若者が集う都心の繁華街。特に男女が睦み合うと言えばまだ聞こえがいい、つまり少子化対策を打開する最適な場所の一つへ向かう道の入り口で、東野氏がうら若い、それこそ妖艶と言ってもいい女性と腕を組み鼻を垂らして……失礼、鼻の下を伸ばして歩いていくのを見てしまったのだ。

 所長が連れていた女性ははっきり言って俺のタイプじゃなかったから余りよく見なかったけれど、所長の方は彼女に大分ご執心の様子であった。

 別に他人の恋愛にどうこう口を出すつもりもないけど、所長はあれで妻子持ちだし。えらい気の強い奥さんと、えらい可愛げの無い娘が二人いた記憶が俺にはある。彼女たちと初めて会ったときのあまりの衝撃によって、俺の記憶が変に歪められていなければいいが。そんなやりにくい女所帯に嫌気が差し、もっと理解のある女性の元でランデブーというのも、まあ、賛同はしないまでも理解できなくはない。

 断っておくけれどこんな事を話題にするからといって、俺が母親と不仲だったり、妹に殺人衝動を抱いていたり、彼女が居なかったり巧くやっていないわけでは決してない。断じてない。

 親とは大人の付き合いが出来ているし、妹には振り回され気味ではあるもののそれなりに良好な関係であるし、付き合って三年になる鹿子とは傍目から見てもそれなりにイイカンジに見えているはずだ。……思い上がりでなければ。

 ……おっと、脱線してる。

 何が言いたいかというと、所長が外で女を連れ歩くような節操なし、もといそんな勇気がある人には経験上思えなかった。

 見間違いならいいけれど、事実だとしたらちょっとショックだ。

 奥さんに所長の浮気調査を依頼されたらどうしよう。唯一にして最大の気がかりはそれだ。

 事態の転がりようによっては、所長の浮気の所為で俺は失業してしまう。転職するなら三十になる前が勝負なんだから、決着つけるなら早いところ付けてくれ。

 ……ま、いいや。

 ……いいのか。

 と、一人でノリツッコミしてしまった。

 どちらにしろ、明日考えよう。今は、手に提げているビニル袋から食欲をそそる匂いを放っているフライドチキンで腹の虫を鎮めることが先決だ。穂乃美は駅で見送った。家の邪魔者はもう居ない。首筋の傷隠しのために、四角い大きな絆創膏も買ってきた。

 かすみ荘に到着。二階に上がり、二〇二号室のドアを開ければ、当たり前だが真っ暗な部屋が迎えてくれた。

 静かな我が家、万歳。

 キッチンの明かりを付け、穂乃美が持ってきた豆が置き去られているのを発見。忘れていったらしい。つまみかおやつにしよう。

 そして八畳の和室へ続く襖を開けた。

 そこもやはり暗がりには違いなかったが、何故か机の上のスタンドが床に置かれ、明かりが点いていた。床にあるのはそれだけではなかった。

「……って、おい。なんで座敷童してるんだよ!」

 目を疑った。ついでに怒鳴った。

 カーテンを閉めていない暗がりの八畳和室の隅っこに向かって、千暁が膝を抱えて座っていたのだ。丸まった背中が愛おし…………いわけない。

 足を止めたいところを怒りに突き動かされ、千暁の背の前に立った。

 スタンドに照らされてひんひん言っていても、ぜんっぜん可愛くない。

「どうやって入ったのかこっち向いて説明しろ!」

「霞になって」

「霧じゃないのか! 仙人に食われるぞ、おまえ」

「誰も食べないよ」

「そんな仙人、ここには居ねぇか」

 フツーに腹壊しそうだしな。吸血鬼が変化した霞なんて。少なくとも俺はごめんだ。

「それよりさぁ、電気つけて」

 不法侵入した挙げ句、点灯を要求するか、コイツ。金をせびられるよりはいいとする。

 部屋が明るくなると、千暁の格好が一層情けなく見えた。せめて壁を背にすればいいものを、何があって壁に向いて丸まっていたのか、さっぱり理解できない。

「入ってきた方法はいいとして、何で戻ってくるんだよ。自分の家に帰ればいいじゃん」

「困ってるのに追い出すなんて、人としてどうよ、円」

「人間同士だったら考えるけどなぁ、多分。どうせどこぞかにいい家あるんだろ? 育ち良さそうだし、おまえ」

「帰りたくても帰れないのになんてこと言うんだよ。その鶏と一緒で。俺って可哀想」

 千暁が見るのは俺が手に提げている袋の中身。確かにフライドチキンは帰るに帰れないが、ある意味還るからいいのではないかと思ったりして。

「いつからファーストフードに成り下がった?」

「それは円でしょ。俺の百円ポテト」

「遂に人間扱いされなくなった! しかも百円!? 物質に換算したってもっとするぞ、俺」

「六十%の読めない空気と二十五%のチキンと十%の孤独と六%の猫好きと四%の発火物で出来てるんでしょ?」

「何の成分分析だよ! それに、チキンはどっちの意味だよ!」

「鶏?」

「……完全に人類から除外された」

 弱虫の方、と言われてもそれなりに怒ったとは思うが。

 何が哀しくて吸血鬼なんかに人間を否定されなければならないんだ。

 泣いてなんかやらないんだからな。そのかわり、おまえに夕飯はくれてやらないんだからな。

 人を買ってきたフライドチキンの五分の一以下の値段に換算した豆嫌いの吸血鬼のことは取り敢えず居ないことにして、テーブルに夕食を広げた。

 と、いけない。ご飯を温めようと思っていたのに一連のバカな会話の所為で忘れていた。

「食うなよ」

 台所に向かう前に、涎を垂らしている千暁に釘を刺す。こうでもしなければ、戻ってきた頃にはなくなってること請け合いだ。

「美味しそう……」

「食ったら豆投げるぞ」

「う……」

 手に負えない相手には恐怖政治に限る。

 一度台所に向かい、冷凍ご飯を電子レンジに入れた。設定温度は八十度。

 さあ、マイクロ波よ、俺の飯を早急に温めろ。

 ぴっ。

 がらっ。

 がらっ?

 千暁の奴、ベランダのドアなんか開けて何してんだ。

「おつかれー。どうだった? おうちの様子」

「いやー、ありゃひどいなぁ。暫く帰れねぇぜ、アレは」

「酷いったら無いわよ。まだ居座ってるのよ、あいつら。鬼頭家の家をなんだと思ってるのかしら。あたしのダイニングもめちゃめちゃよ」

 千暁の他に知らない声がする。紛れもなく日本語が見え、聞こえるけれど、人は他にいない。

「ダイニングなんてカタカナ語使ってんじゃねぇぞ、コウモリの癖に。エサ場で充分だ」

「なによ。真っ黒で汚い空飛ぶゴキブリの癖に!」

「そりゃ雀だろ! 焼き鳥の具材とバレエの題材にもなる俺様とを同列に置くんじゃないやい」

「バレエの題材? ディナーの食材でしょ。あなたなんてせいぜい地方でステーキにされるのが相場よ」

「何がステーキだ。人気者の白鳥が食われるわけねぇだろ、ばぁか」

「何が白鳥よ! どこからどう見たって色もサイズもカラスの幹太かんたじゃない! ダサイ名前!」

「穴蔵育ちのお嬢には俺様の高貴さはわからねぇってか。ノエルなんて名前、返上しちまえ」

「黙りなさい! あんたなんてゴミ集積所がお似合いよ!」

 居たのは一匹のコウモリと一羽のカラス。それが流暢な日本語をぺらぺらと喋っている。

 今回も千暁の時と同じく、鳴き声の擬音にルビが振ってあるパターンではない。コウモリとカラスは、間違いなくその口で言葉を喋っている。しかも、少なくとも俺は世界で一番難しいと自負する日本語を。いとも簡単に。や、それより、身体の構造上鳥が、コウモリが、あんな風に言葉を喋れるはずがないのだ。

「まさかおまえ、仲間でも連れてきたのか? やる気か? ん?」

 無駄にファイティングポーズを取ってしまう辺り、俺はやはりチキンかも知れない。

 弱虫の方……。

「こいつらね、俺の使い魔。おうちの様子、見てきて貰っ……」

「やぁん、なかなか可愛いじゃなぁい? もえみ、超ラヴ~」

 千暁の言葉だけでなく紹介するために伸ばされたであろう手も遮り、雌のコウモリが一匹、俺の目の前に飛んできた。

 なんだかさっきと雰囲気が違うついでに、俺はあんまりコウモリは得意じゃない。

 しかも、ピンクの丸文字の語尾にハートを散らさないでくれ。目に痛い。

「誰もおまえなんか見たって『超萌え~』なんていわねぇんだから、のぼせたついでに人格替えてんじゃねぇよ」

「うるさいぞ、クソガキが。あとで風切り羽をケツに詰めてやる」

「ほんっとマジ性格悪いな、薫の野郎」

 カラスはそう言って滑るベランダの上から畳に上がってきた。

 ノエルにもえみ、次は薫。

「なんだよ、このコウモリ」

「多重人格なの」

 と、千暁。でも、変じゃないか、それって。

「人格……って、コウモリだろ? 人じゃねぇし」

「んもう。言葉のマヤだよ」

「ガラスのお面でも被ってんのか? あ?」

「近…………くない!」

「どっちだ!」

 ともかく、人格というか、コウモリ格というか、このコウモリ、そういう病気らしい。人間で言う多重人格――解離性同一性障害だ。この調子だとまだいくつか出てきそうな気がする。人じゃないけど、取り敢えず人格ということで。

 電子レンジに呼ばれたので一旦部屋を後にする。

 温まったご飯を皿に空けて戻ってきたときには、ベランダの窓は閉められ、カラスとコウモリは完全に室内で寛いでいた

「ちょっとなぁ、爪で畳傷付けるなよ。特にそこのカラス」

「カラスじゃねぇぞ、コノヤロウ。俺様はな、何か間違ってこんな色してるけど、れっきとした白鳥なんだからな。カラスって呼んだらつつくからな!」

「さっきも出た話だけどな、おまえ、どこからどう見てもモヒカンガラスなんだけど」

「ハシブトガラスって言え!」

「あ。認めた」

「み、認めてなんか無いぞ! いつか魔女の呪いが溶けて俺様はオオハクチョウとして大空に舞うのだ!」

「どうでもいいけど、融解するのか、魔女の呪いって。大した王子様だな」

 でもまぁ、融解の中に解けるの字があるからいいのか、なんて思ってみたり。

「で、家を見てきて貰ったってどういうことだよ」

 今にも唾液を畳に垂らしそうな千暁を横目に、かろうじてまだ暖かい鶏の足をがぶり。うん。この脂が何とも言えないんだよなぁ。時々食いたくなるこの味、たまんねぇ。

 あからさまに唾液を啜る音がしたのは、勿論スルー。

「言ったら……ごはんちょうだい?」

「頂戴って、漢字で言えたらな」

「んー、っていうかさぁ、円。字が一個多いとか、漢字で言えとか、どういうことぉ?」

 そういえばコイツは知らないんだった。

 巧く説明できるか自信はないけれど、取り敢えず言えることは、

「俺だけ漫画の中にいると思えや」

 と言って一発で理解してくれるのなら、もう少し苦労は減る。

 案の定、千暁は首を傾げ、ついでに畳の上で寛ぎ始めているノエルと幹太も理解不能の黒い眼差しを向けてきた。

「マンガぁ? 円の世界だけトンデモってコト? 一人怪しい人じゃん、それって」

「そうじゃなくて、言葉とか音とか、吹き出し付きの活字で見えちゃうんだよ」

「えー、それ、照明できんの?」

 早速いい例が。

「おまえ今、明かりの照明と証拠を示す証明、間違えたろ」

「い、言いがかりだ!」

「どもってるどもってる。頭ン中でごっちゃになってるから口に出したとき間違えるんだよ」

「もどってない!」

「それはただの聞き間違いだ!」

「もどしてない!」

「吐くなよ!」

 なんにせよ、見えるのは俺だけだから、証明しろと言われてもこの程度しかできないのが実情だ。

 信じて貰えないならそれでいい。慣れっこだから。

 信じて貰えたら貰えたで、穂乃美がするように俺は遊ばれる危険性が高い。

「よくわかんないけどいいや。で、俺の身の上、ちょっと聞いてよ」

「勝手に話していいぞ」

 俺は食事を続けるから。

「めんどくさいから二度も話すのヤだからな、ちゃんと聞けよ」

「はいはい」

「あのねぇ……」

「で、なんだっけ?」

「まだなんも話してないから!」

 誰が怒鳴ろうと、俺は夕食に齧り付く。あー、鶏の肉汁、マジ美味い。

「あのね、パパのふるさとがね、結構閉鎖的な所なんだよ。頭が古くさくてさぁ、血統主義なんだ。で、パパはフランスの真祖のママンと駆け落ちしたんだよね。それで、俺が生まれたわけ。出会いの話、聞いたんだけど、もう、聞いてる方が恥ずかしくなるような内容で……」

「全ての原因はおまえの両親が出会ったことか。残念だな。タイムマシンが無くて」

「暗に俺、死ねって言われてる?」

「いや。ハリウッドにネタ売ろうかと。で、俺は大儲け、おまえは生まれない、と」

「意味一緒だから!」

「脱線してると夕食無くなるぞ」

「ひーん」

 こっちがからかう立場になると面白いな、コイツ。

 あまりこういう事がない俺としてはなかなか楽しくはある。

「……でね、型破りなコトしちゃったから、パパとママンは里から遠く離れて住んでたわけ。で、起きたら二人とも居ないの」

「話がかっ飛んでる気がするのは俺の錯覚か?」

「ホントは三人でママンのふるさとに旅行に行くはずだったんだ。俺、初めての海外旅行になるはずだったんだよ? なのにね、起きたら旅行鞄と二人が居ないんだ」

「……おまえ、どこのホームアローンだよ。二人組のドロボーと戦ったりしたか? ん?」

「二人どころじゃないって。大挙して押しかけて来たんだよ」

「軍団かよ、ドロボー」

「里の奴らだよ!」

「ちゃんと言えよ!」

「逆ギレされた!」

 こういった無駄話の間にも、千暁の取り分はなくなっていく。そんなこと知ったこっちゃないけど。そもそも、一人分より気持ち多いかな、くらいしか買ってきてないし。

「続き続き。何でそいつらおまえんちに来たんだよ」

「さっき、血統主義だっていったじゃん? 俺ってさ、里の奴らに言わせると〝不純〟なんだよね」

「どうせ我が儘こねて誰かの逆鱗にでも触れちまったんだろ」

「不順じゃないよ! 俺が言ってるのは不純! 文字見えるんなら、わざと間違えてんだろ、円!」

 大分適応能力が高いらしい。遊ばれないように注意しなくては。

 もぐもぐ。

「はいはい、不純ね。純ならざる、ね。解った解った」

「二度言うのはテキトーに流してる証拠なんだからな」

「はい解った喋れコラ」

「なんかムカツクなぁ」

「胃薬やろうか?」

「頭に来る!」

 あるじがじたばたする様を使い魔達は初めて見るらしい。物珍しそうに見上げている。

 俺だって、人間にからかわれて悔しがる吸血鬼なんて初めて見た。

「大分してやられてんなぁ、あっきーよお」

「千暁様ったら、可愛い面もございますのね」

「……おまえ、誰」

芹菜せりなですわ」

 新たな人格を露わにしたノエルと幹太が、火に注ぐ油になったようだ。

 千暁は一匹と一羽の首根っこを掴むと、

「おまえらうっちゃい! 今日はありがとね。ごちそうさま、おやすみなさい!」

 ごちそうさまって、ご苦労様じゃないのか。

 あっという間にベランダへと放り出し、再び戸を閉めるだけでなく、鍵を掛けカーテンまで閉めていた。一手間省いてくれたお礼に、ごはんを一口、いつか食わせてやることにしよう。覚えてたら。多分忘れるけど。

「チキン、あとちょっとで最後の一つになるけど?」

「あー! 喋るよ! だから取っておいて!」

 懇願されても食べる口を休める気はない。

「うん、だからね、里の奴らは俺たち家族を、一族の恥だと思ってるわけ。余計なお世話だっていうのにさ」

「そんで、押し入られてめそめそ逃げてきたのか」

「おなか空いててろくに力が出なかったんだもん!」

「顔でも食われたか」

「喋るあんパンと一緒にしないでよ」

 猫や霞に変身する吸血鬼に言われるとは思わなかった。

「とにかく、俺、今はおうちに帰れないの」

「吸血鬼の親戚トラブルに人間の俺まで巻き込むなよ。他に行く場所無いわけ?」

「他ぁ……?」

 少しは心当たりがあるのか首を傾げるおまえに、一ついいことを教えてやろう。

 この骨の周りに付いている肉を全部こそぎ終わった瞬間、おまえの取り分はなくなります。

「叔母さんは嫌いだし、実旺みおくんとは仲悪いし、あっくんはこの前浄化されちゃったって聞いたし」

「浄化されたのか……。吸血鬼も楽じゃねぇな」

 てか、浄化してくれるような人が居るのか? ま、いいや。

「絵里ちゃんは今行ってもなぁ……」

「なんで行けないんだよ。その、絵里ちゃん? のトコ」

「前にご飯貰ってた人なんだけどね、もう、若くないからさぁ。おばあちゃんなんだ、今」

 随分若向けの名前じゃないか、おばあちゃん。

「おまえの言うご飯、って、血のこと?」

「ん、まあ、それも含め。実旺くんは従兄弟ね」

「訊いてねぇよ」

 ということは、この鶏肉は残しておかなくてもさほど問題ないと言うことか? でも、その代わりにまた齧り付かれるのは嫌だし。

 どちらにしろ、俺はそろそろ最後の一つに取りかかろうと思いますが。

「ということで円、パパとママンが帰ってくるまでここに置いて?」

「おまえの両親、いつ帰ってくるんだ」

「さぁ。特に時期の予定立ててなかったし……」

「予定のない予定に俺は付き合わされんのか?」

「大丈夫だよ。どっちにしろ、円の方が先に死ぬし」

「何が大丈夫だ! 死ぬまでおまえの世話なんてぜってぇヤだからな! バケツで豆撒いてでも追い払ってやる!」

 そして食ってやる、最後の一つ。

「あーっ! ちゃんと喋っただろ! ちょうだいよ、それ!」

「頂戴って漢字で言えたらやるっていう約束だっただろ。まだ平仮名だぞ、おまえ」

「漢検一級ナメるなよ!」

「いつ取ったんだよ、それ」

「一九八〇年……かな」

「二十年前どころの話じゃないし! それよりおまえ、いくつだよ!」

「給食に出た脱脂粉乳が不味かったの覚えてるなぁ……」

「戦後に小学生……?」

「そういえば、俺ね、井伊直弼が暗殺されるの見ちゃった」

「桜田門外の変の目撃者!?」

 あれは確か一八六〇年のこと。

「ペリーとね、こっそり握手したんだよ。すげぇだろ」

「一八五三年の歴史上におまえが居るのか!」

「佐助の里ってどんなか知ってる?」

「戦国時代に用はねぇ!」

 歴史のテストをされてる様な気分だ。冗談にしろ本当にしろ、千暁は少なくとも吸血鬼だ。それだけ長いこと生きていても、不思議だが、不思議ではない。

 それにしても、今日はツッコミを入れたり入れられたりで無駄に疲れた。これで飯をやらないと言ったら更に二勝負くらいしなくてはならないのは目に見えている。

 明日のために、不必要に体力を減らしたくない二十五歳。何か運動でもして体力を付けた方がいいのかも。

 皿には残り一個になったフライドチキンと、三分の一の量になったご飯。

 俺の腹はギリギリ八分目。

 これで懐柔できるかも知れないけれど、ゴネればいつか折れると思われかねない。

 と、思ったのに。

「千暁、ほら。晩飯やるから、その代わり、俺に食いつくなよ」

「わーい! お・に・くー!」

 鶏肉だけどな。

 低く見積もっても四、五百年は生きているというのにこの男、精神年齢は俺より下に見える。

 それともこれは性格故なのか。……知ったこっちゃないけど。

 空腹には足りないと追加を催促されるかも知れないという畏れは杞憂に終わった。

 色々と騒がしい割に低燃費らしい。

 食いつかれるより食べ物を分けてやる方が数段マシだ。ふと首筋に触ると、瘡蓋になった二つの点が指先に触れた。

 先程までフライドチキンに食らいついていた鬼を見ながら、コイツにやられたんだよなと改めて認識。

 傷跡が残ることと貧血以外の害はないとはいえ、進んで側に置いておきたいものでもない。

 今後どうしようかな。

 考えながら、風呂に逃げた。

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