第2話

 何があったかというと。

 まことに信じられないことに、そう、世界が漫画に見えるというこの能力以上に有り得ないことに……。

 次の日の朝。

 目覚めた瞬間、男に――見間違いでなければ男に、突然抱きつかれ、首筋に思い切り噛み付かれた。

 それはもう凄い力で。

 何がなんだか解らないうちに気を失って、目が覚めたら大の字に仰向けになっていた。偶然にも拾った猫と同じ状態。て、それは関係ない。

 しかも、目が覚めたのは自然にではなく、何かに頬をつつかれた所為だった。

 刺激に耐えかね目を開けた目の前に、知らない男が――何か間違っていなければ男が体育座りをして人差し指を俺に向けていた。

「あ。起きた?」

 何。

 ってか、誰コイツ。

 よくテレビに出ている人気アイドルの一員と言われれば頷いてしまいそうな整った顔立ちの、青年のような少年のような男が一人、そこに。

「誰だおまえ。不法侵入で一一〇番するぞ」

「えー。昨日おまえが入れてくれたんじゃないかよぉ」

 男はそう言って猫っ毛の黒髪を掻い…………痛い。

 左首筋が引きつるように痛い。手を当てると瘡蓋と思しき点が二つあった。

 腹を空かせて今朝、噛み付いてきたのはコイツか! まかり間違っても俺は他人のエサじゃねえぞ!

 それに、この傍若無人は一体いつどこから入ってきたんだ。窓も玄関もちゃんと閉めてあったこの部屋を通り抜けられるのはすきま風くらいだ。……おっと、それはいいとして。

 よく見れば、隣で丸まっていたはずの猫は居ないし。……ってまさか……。

「おまえ。あまりの空腹にそこにいた猫まで食ったのか」

「猫? おまえ、猫飼ってるの?」

「黒い猫が居ただろう、そこに!」

「ん? 居ないよ? 居たのは俺だもん」

「おまえなんか拾ってないし、部屋にも上げてないっ!」

 けれど、猫なら拾ったし、部屋にも上げた。飯も食わせたし、隣にも寝かせた。

 まさか、? かれこれ七年は経っているのに。

「おまえ、人間じゃないのか?」

「お。凄い。見ただけで解るんだ?」

「わかる!? 解るって何だ! ってか、マジか!? マジなのか!?」

 そんな。見えるのは漫画世界だけで充分なのに。やっと見えなくなったと思ってたのに!

「ちょっとね、おなか空きすぎて身体、維持できそうになかったから断り無しに飲んじゃって、ごめんね。でも、ちょっとだし、それに、美味しかったよ――」

 何がだ。

「――おまえの血」

「は?」

 待て。この展開は予想してないぞ。

 人間じゃないとは思ったけど、これだと俺がよく見ていたアレとはまた違うらしい。

「おまえ、昨日の猫なんだろ? それが人間と同じ形で……おまえ、なに?」

「なんだ、ミッシェル・鬼頭きとうが吸血鬼だって知ってたんじゃないのか」

「誰も知らねぇよ!」

 しかもそれ、本名か!?

 よく見れば右は赤、左は緑のオッドアイだ。その目をぱちくりさせている、このどこかガキじみた奴が吸血鬼だなんて、誰が予想するか。まして知ってるものか。

 名字が鬼頭という字であることが解るのは、今や冷静なんて保っていられるわけがない俺の眼前で『鬼頭』と躍っているためである。

 ということは何か。ミッシェル・鬼頭と名乗るこの吸血鬼に、俺はまんまと血を吸われたわけだ。猫好きがこんな所で仇になるなんて。なんてことだ。これだから黒猫は不吉だって言われるんだ。

 大体、吸血鬼なんてものが存在していたことに大声で抗議したい。それをせずに押し黙るのは、一つ否定することで俺が見えていたもの全てを否定しなくてはいけないどころか、下手をすれば俺さえも否定されてしまう展開が待っているからだ。

 しかし不思議だ。

 吸血鬼に血を吸われたというのに、寝る前と何一つ変わっていない気がする。知っている限りでは、吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になってしまうはずだ。ならば、鏡に映らなくなったら、どうやって寝癖を直そう。それに、日光やニンニクや聖水や十字架が苦手になったり、怪力になったりコウモリになれちゃったりするわけだけど。

 全然そんな様子はない。

 遮光カーテンなんて高価なものじゃない、ごく普通のカーテンに透かされた太陽を見ても、何とも思わない。

 目の前のミッシェルとかいう自称吸血鬼も同じく。

「……ホントにおまえ、吸血鬼?」

 首から十字架下げてるし。

 実はただの『自分を吸血鬼と思い込んだ病気の若者』というオチだったりして。

「失礼だなぁ。日本の真祖とフランスの真祖の間に生まれたれっきとした吸血鬼なんだからな。ハーフだからか血ィ吸って仲間増やせないけどさぁ。ちなみに、パパが日本人で、ママンがフランス人ね」

「人じゃねぇだろ」

 だから噛み付かれたのに平気なのか。取り敢えず助かった。

「証拠は」

「何で疑うんだよぉ」

 困った顔をされても、疑う理由はごまんとある。

 まず、

「じゃあなんだよ、この十字架」

「ママンが熱心なキリスト教信者でさ。俺のミッシェルっての、洗礼名なんだぜ。カッコイイだろー」

「吸血鬼が十字架なんて、自覚あんのかおまえ!」

「へへ~ん」

 胸を張られても反応に困る。

 洗礼を受けた吸血鬼なんて、それこそ初耳だ。なんで浄化もされずにこんなに活き活きしてるんだ。おかしいだろ。

「あのな、ミッシェル」

千暁ちあきでいいよ」

「それが本名か!」

「洗礼名だって言ったじゃん」

「名乗るときはまず本名からだろ! 礼儀知らず!」

 何でこう、一々疲れるんだろう。確かに、人の話も聞かずに本名だと思い込んだのは俺だけど。……そもそも、奴は人じゃないんだった。

 気を取り直し、

「だいたい、吸血鬼が十字架平気なわけないだろ? それが洗礼されたなんて信じられるわけ無いし」

「なに、その嘘情報に基づく固定観念。キリスト教なんてね、俺たちが生まれたずっとずううううううっと後にできた、ただの信仰だよ。信じりゃそこに神様はおわしますし、信じなければ何もない、それが宗教だろ? 十字架も聖水も、人間が作ったものだし。効くわけないじゃん。あほくさ」

 何故か吸血鬼に説教されている。しかも、阿呆臭いとまで言われた。俺の知識の一部を悉く全否定された。俺だって多少はショックを受ける。

「じゃあなんだ。ニンニクも効かないし、鏡には映るし、挙げ句の果てにお日様の下を大股開いて歩けるって訳?」

「大手を振って歩く、じゃないの?」

「訂正禁止!」

 ペースが乱れる。この俺様のペースが。ぜえはあ。

 何にしろ、知識とまるで違う吸血鬼が、寝ぐせ頭も直せずにいる俺の前で体育座りをして居るんだ。冷静沈着に応対しろと言う方が無理に決まっている。

 混乱を通り越してむしゃくしゃしてきた。

 ただでさえこれから穂乃美が来て、相手をしてやらねばならんというのに。

 ……そうだった。申し訳ないこともないが、綺麗さっぱり忘れていた。それもこの吸血鬼の所為だ。所為にしてやる。

「時間……っ」

 果たして枕元のいつもの場所に、目覚まし時計は置いてあった。こればかりはいつも通りだ。

 針が主張するには、午前十時を少し過ぎたところだ。

 予定ではせいぜい九時に起きて布団を干したり掃除をしたりするつもりだったのに。ついでに猫に餌をやって等とウキウキしていた、あの微笑ましい俺のときめきを返せ!

 いけない。どうも今日は何かと脱線気味だ。

 何しろ常識やら何やらが完全に脱線した上に暴走しているような存在が目の前にいるのだから仕方がないか。

「何か用事?」

 文字通り猫を被って人の家に上がり込んだ癖に全く悪びれた様子もなく、千暁は首を傾げている。叩いて真っ直ぐに直してやろうかと思ったとき、

「ピピピピピ」

 中太丸ゴシック体が斜めに上がってきた。

 俺のスマホだ。

 机の上に置いてあるそれを掴み、出る前に相手を確認。

 ……って、何でこの人から電話来るんだろ。

「はい、斎木さいきです。もしかして俺、休みの日、間違えましたか?」

 スマホであるにもかかわらず始めに名乗るのは、先方の意向による。

「いやいや。間違っちゃいないけど、いかんせん暇でねぇ」

「所長の暇に俺の休日を付き合わせないでください。切りますよ?」

「へぇ。おまえ、サイキっていうんだ? 名前は? ねぇ」

 電話中だというのにこの野郎。

「うっさい。黙れ」

 頭に来て思わず足で踏みつけてやった。ぐにぐにと踵で虐めると、犬のように鳴いて足を退かそうとしてくる。

 退かしてなんかやるものか。おまえに出会ったからといって、大して人生狂ってないけど、ショックを受けたりときめきを無駄遣いしたりして怒ってるんだ。

「ん? 何かあったのか?」

 おっと。電話の向こうの人のことを忘れていた。

「いいえ。礼儀を知らないクソ猫にじゃれつかれていただけです」

「お。まどかくんは猫を飼っているのかい? 三毛かな? それとも鯖虎かな?」

「余りに間抜けなことに凍死しそうになっていた雄の自覚なんてまるでないバカ黒猫を保護してやっただけで俺の猫じゃありません残念でした」

「相変わらず肺活量多いねぇ。そんな一息に喋られたら、おじさんの退化した脳じゃ聞き取れないよ」

 あははははー、と付け加えてきたおじさんが退化しているのは、脳じゃなくて頭髪だろう、と。面と向かっては言えないが、それは事実だ。所長こと、東野あずまの氏の頭の回転はよい方だ。

 あまり褒めると嗅ぎ付けるからここら辺にしておこう。

「まあ、せっかくの休日を邪魔しちゃ悪いよねぇ。デエト中だったらコトだよねぇ」

 所長。それ、俺に対する嫌味ですか。それとも、真っ向喧嘩売ってますか。何だったら買いますよ。こんな潰しの利かない仕事に就いてる俺でも、彼女は居ますからね。

「コトだったんで、後で一億ぐらい損害賠償請求しますね。所長、破産ですね」

「そんなことしたら君も失業だねぇ。残念だなぁ」

 コイツ……。

 明日、禁煙ガム隠してやる。

「それじゃ、所長。めでたくWINWINで行くために、ここで切りましょう」

「はいはいはいはい。それじゃあ、休日、楽しんでねぇ」

 語尾にまた、あははははー、と付け加えられた後、ブツリと通信が切れる音がして、俺のリミットゲージを引き上げるだけの会話も途切れた。

 しかし、もう一つの要因は排除されていない。ゲージは上がり続けるばかりだ。

 足蹴にされていたにもかかわらず、めげずに好奇心の眼差しを向けてくる千暁が、ここまで来ると鬱陶しい。

 知り合ってからそれなりに過ごしているのならいざ知らず、出会ったのは昨日の晩、人間と同じ形をして相対してからまだ一時間と経っていない。それなのに妙に懐かれている感があるのは気のせいか。

「まどかー。女の子みたいな名前だな。どういう字?」

 一言余計だと言うに。言ってないが。

「うっせぇな。二番目に難しい斎藤の斎に樹木の木、通貨の円でまどか。これでいいか」

「なんでさっきからずっと怒ってるんだよぉ。昨日の夜はもっと優しかったじゃん」

「アレは猫だったから。……って、今更猫に戻ってももうだーめ」

「ふえーん」

「不愉快が敷衍ふえんする。泣くな」

「円がだじゃれたー! しかもつまんなーい!」

 言うじゃねぇか、このクソ猫。最早俺にとってコイツが吸血鬼であるという認識は何処にもない。幼稚園児を相手にしていると言ったら、現役幼稚園生に申し訳ないかもしれないが、とても互角の背丈同士で会話しているようには思えない。

 こんなことになるなら、昨晩のみっともない姿をデジカメに撮っておけばよかった。それ一つでかなり優良な恐喝材料になるのに。

 後悔先に立たず。

 思い返した分だけ腹が立つ。

 さて、色々と邪魔が入っているうちに、十時半を回ってしまった。

「さ、鬼頭千暁。俺のうちから出ていってくれ。警察には届けておいてやるから」

「家出人届は出さなくていいよぉ」

「しかもおまえ家出か! 聞いてないぞ!」

「言ってないし、家出じゃないし」

 俺はこの減らず口に遊ばれているのだろうか。

 だがこの次は、吸血鬼よりもおよそ面倒な女子大生という世界最強の生物がやってくる。その予定になっている。

 普通じゃない世界が更に普通じゃなくなった日に、どうしてこんなにややこしくなるようにして事が重なるのだろう。

 果たして、昨日の昼間に突然電話を寄越し、ろくな理由も無しにやってくると言った現役女子大生は、予定より少し遅れてやってきた。

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