不可思議パンデミック
タカツキユウト
第1話
暇疲れした身体での帰り道、コンビニの前で見慣れない格好をしている見慣れた店員の姿を見て、思わず吹き出しそうになった。
長机を出し、その上には商品。それが節分用の豆であることは彼らの格好から容易く想像がついた。
蛍光ピンクでビニル製のアフロ。冴えない制服に巻き付けられた紙っぽい寅のパンツ。鬼が見たら怒り出すんじゃないかと思うほどふざけた格好だ。
いい年して、寒空の下こんな格好をするとは想像してなかっただろう。最近は恥もヘッタクレも無いパフォーマンスが横行して、見ているこっちが恥ずかしくなる。自分はサービス業じゃなくてよかった、と一瞬思うも、今の状況を考えると無条件に笑えないのが哀しい。
「いらっしゃいませぇ~、せつぶんの豆とかいかがぁすかぁ~」
節分くらい漢字で言えよ。
……っと。また読んでしまった。しかも吹き出し付きで。
最近はかなりコントロールできるようになっていたのに、気を抜くとすぐこれだ。
昨日の同じ時間、温めた弁当を冷たいビールと一緒に詰めてくれた店員をそれ以上見ないようにして、やる気のない吹き出しを無視すべく足早に通り抜けた。
夜でも煌々と眩しいコンビニを過ぎると、また静かな道に戻る。辺りが静かだと、視界も晴れて清々する。
さっきそうだったように、時々、俺の世界は漫画になる。気を抜くと視界がすぐに文字だらけになる。
大学に入る頃に努力して吹き出しを視界から消すことが出来るようになり、それから二年後、目一杯頑張ることで文字が透過するようになった。けれど、努力もここまで。努力って言っても、どちらかと言えば〝念〟に近い。見えなくなれぇ、というような感じで。とにかく、俺の視界から文字が完全に消えることはなかったし、緊張をほぐすとすぐに吹き出し付きに戻ってしまう。
でもまあ、コマ割りされないだけまだマシか。
心の中が読めるよりはまだ精神的に気楽だけど、これはこれでかなり鬱陶しい。
時に俺の命さえ危うくなる。
一度、高校生の頃だったか、前を歩いていたサラリーマンの吹き出しに邪魔されて前がよく見えず、うっかり横断歩道に躍り出てしまい、車に轢かれかけたことがあった。幸い、俺を轢いてきたのは「キキキキー!!」ってな具合の、急ブレーキの勢いが付いた極太ゴシック体だけだったけど。文字は視界を邪魔しても、素通りできるから助かる。
言葉や音が物体じゃなくてよかったと思う瞬間だ。
そうじゃなかったら俺は、生まれた瞬間に自分の泣き声を喉に詰まらせて死んでいたに違いない。
言葉を詰まらせて死んだ初の人類になっていなくて、本当によかった。それこそ洒落にならない。
とはいえ、危険に曝されることはそうそう無いし、せいぜい相対している人間の漢字力とかニュアンスが無駄にはっきり解ることくらいだ。
かくいう俺も、人を笑えるほど物事を知っているわけではないけど。
因みに、フォントに関しては俺が勝手に変換しているらしいことが大人になるにつれ分かってきた。場や言葉の雰囲気に合わせて、自分の知っている書体に自動変換するツールが頭に入っているようだ。だから、基本的に見える活字は、本でよく見る明朝体。他は気分によりけりだ。
他人の言葉に誤字脱字を探してほくそ笑むような、悪趣味な性癖があるならば多少楽しめたかも知れない。でも、それはそれで若干陰湿だな。無くてよかったのだろう、そんな趣味。
取り敢えず、俺に見えるのはフツーの人の視界、プラス、漫画顔負けの文字化された音声。
今はそれしか見えない。
それ以外の不思議なものは見えない。見えなくていい。
これだけで充分だ。
中には色覚異常で色味が違って見えたり、モノトーンでしか見えない人もいると聞くから、俺の場合はその点は恵まれているのかも知れない。けれど、……やっぱりこの能力は恨めしい。
自分のことについて久しぶりに文句を垂れながら歩いていると、見えてきた。
『かすみ荘』だなんて、あの白くて儚げな『霞草』に申し訳ないほど黒く薄汚れたアパート。
俺は勿論戦争なんて知らない世代だけど、かの大空襲でも焼けずに残ったと言われたら信じたかも知れない。それくらいぼろいし、建てたばかりの頃はそれは白かっただろう外壁もそんな当時の面影はどこへやら。
そんな、次回の震災では確実に薄いパイになること最有力の二階建てアパートが、自慢どころか進んで教えたくもないが俺の住処だ。
立地の割に広いし安い。家賃と仕事場への距離で選んだものの、築年数くらいちゃんと確かめればよかった。契約書に書いてあると思うけれど、その契約書は入居直後からあの狭い部屋の中で捜索願が出されている。……出したのも探すのも俺なんだが。
いつか来る地震によってパイの具になる前に稼ぎを増やして脱出したいと思うも、今のままじゃ無理だ。
転職、賃金交渉、とにかく引っ越し。
打つ手はあるには違いない。が、ものぐさが邪魔をする。そうじゃなかったら、大体、あんな所で働いてなんか居ない。
まあ、いいや。早く夕食を作って……。
「なんだこれ」
アパートの敷地に入るための入り口の脇に、黒いものが落ちていた。
街灯に照らされているそれは、猫だった。
黒猫。しかも、仰向けに大の字になって伸びている。
大の字だなんて。猫として……いや、動物として大丈夫だろうか。
「おまえ、雄としての自覚ってないだろ。な?」
問題はそこじゃない。この寒空の下、まだあまり大きくない猫が――仔猫だろうか、仰向けの大の字で――この際格好はどうでもいいけれど、こんな所で、何をしているのか……。
……仰向けの大の字で伸びているのだけれど……。
解ってる。目の前にその光景が転がって居るんだ。
問題はそこじゃなくて、……。
「おーい。凍みちゃうぞぉ、おまえ」
屈んでつついてみたものの、動かない。死んでいるのかと思って抱き上げたら、温かい。
うわぁ、猫だ。猫だ、ねこネコ。ふかふかだ。よく聞けばすんすん言っている鼻が可愛い。くそー、だっこぎゅーしてやる!
これだから、猫は、好きだっ!
世の中には猫を虐待する不逞の輩が居るらしいが、まったくもって理解できない。そんな奴が俺の近くにいたら簀巻きにしてコンクリートに詰めてドラム缶を流して川に沈めてやる。
ん。なんかおかしかったかな。
それにしてもどうしよう。首輪はしてないから飼い猫では無さそうだけど、連れ帰って大丈夫だろうか。
脳内PDF化された、現在は行方不明の契約書によると、確かこのアパートはペット可だったはずだ。
飼うのと保護するのは違うのだから、万が一違っても外に放って謝ればいいや。
「どうする? 俺んち来るか?」
「おなかすいたぁ」
「そかそか」
ったく、コノヤロウ、可愛いじゃねぇか。
黒猫を抱えて外階段を上り、登り切った目の前の部屋が俺の領域だ。二〇二号室。
本当は角部屋の二〇一号室に住むつもりだったのだけど、俺が見に行ったときには時既に遅し。占領された後だった。そういえば隣の住人とは一度も顔を合わせていない。引っ越しの挨拶に行っても応答無いし。本当に住んでいるのか非常に疑問だ。
そも、挨拶して応答があるのはいつも大家だけだけれど。
鍵を開け、中に入れば1Kの城。八畳和室が出迎えてくれる。
明日は
部屋に上がって、黒猫を置いて、まずパソコンを立ち上げる。
起動を待つ間に冷蔵庫を開けた。
がらんがらんだ。
牛乳はあるけど、猫に牛乳はよくないと前に何かで読んだ。キャットフードなんて無論あるわけがない。猫は好きでも飼ったことがないから、いざとなると何をしていいのかさっぱりだ。
「さぁて。どうしたものか」
「それ」
猫が足下にいた。前足で牛乳を指しているように見える。
「冷えた牛乳なんて猫には悪いだろ」
「いいの」
「いいのって、……知らないからな?」
「いいのいいいの」
「いが一回多いって」
本人――本猫がいいというのなら。
パソコンで検索する手間が省けたが、翌日コイツが腹を壊していないか若干心配だ。
少し深めの皿に牛乳を入れ床に置いてやると、舐めると言うより飲むようにしてがっついていた。
くわぁ。俺んちに猫が居る。年中漫画な俺の人生の中で、今日が最もいい日かも知れない。
猫が牛乳に夢中になっている間、冷蔵庫から野菜と卵を取り出して野菜炒めを作成。ご飯は小分けにして冷凍してあるものを一つ、電子レンジで解凍。
湯気を上げるそれらを持って、パソコンが置かれた机の前にあぐらを掻いた。
食べ始めて間もなく、
「それ」
猫が来た。
しかも、カラになった皿をでこで押して。
「それってどれだよ」
「キャベツ。あと、たまご。ごはんも」
「塩味付けて炒めてるから駄目」
「たべたいー。おなかすいたぁ」
「コンビニまでキャットフード、買いに行ってやろうか?」
「ねこめしなんてヤダ。それでいいからさぁ」
猫が随分と贅沢を言うじゃないか。
きっと口に入れた瞬間に「ぴぎゃっ」とか言って吐くに違いないと思いつつ、猫が引きずってきた皿に指定されたものを入れてやると、一分とかからずに咀嚼して飲み込んだ。挙げ句、お代わりを要求するから驚きだ。
結局今日は、一人暮らしなのに二人分の食事を作ることになった。
食事が終わって風呂から出てきたときには、黒猫は丸くなって眠っていた。
外よりは暖かい部屋、腹も一杯になって、安心できる畳の上で眠くなったのだろう。
早めに布団を敷き、端っこに猫を置いて上掛けを掛けてやった。熟睡しているのか、目を覚ましもしない。
パソコンの前に一度座ったものの、布団の中の猫にどうしても目が行ってしまう。
猫だ。
黒猫が――色はこの際どうでもいい――割と顔立ちのいい猫が、俺の部屋の布団で寝ている。
結局この日はメールチェックだけをして早々に布団に潜った。届いていたメールはメルマガばかり。目を通す必要はおろか、返信する必要など無い。
この時、何故気付いていなかったのだろうと後になって激しく思った。
だって俺は、猫と喋っていたんだ。
会話として成り立っていた。
いつもは「にゃん」とか「わん」に振られるルビによって知る動物の言葉を、素で解っていた。
文字を読んだのか、聴覚で聴いたのかは今となっては思い出せない。
言葉を読むことは既に慣れきっていたから。
気付いていたのなら、動物虐待と罵られようと、尻尾を掴んで逆さに吊し、殴る蹴るなどの暴行を加え尋問していたに違いない。いや、絶対していた。
悔やんでも仕方がない。
もう過去の話だ。
余りに救いようのない結果の中に救いを見出すとしたら、翌日が休日であったことくらいか。
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