乙女と赦し



 ジゼルには、逃げ場はどこにもなかった。

 誰も助けてくれなかった。助けようとしてくれた人はいたが脆くも散った。

 その他の人は申し訳なさそうな顔をして、実際に謝られたこともあるけれど。最後にはこう言われた。

 ――「国のために、人々のために頑張ってほしい」

 ――「君にしかできないことだ」

 何を。なぜ自分が。


 敷かれ続けて変わらない道からどうにかして逃れたくて、ジゼルは一度きりの人生であれば絶対にしなかっただろうことをしたことがある。

 自分で命を絶った。

 結果ジゼルはまた戻ってきた。戻るしかなく、どこにも逃げ道がないことをまざまざと知らされ、絶望に侵された。

 堕ちた神の鎖はどこまでもジゼルを逃がさない。

 それでもその時々で時間を共有してくれる人々に会い、心をごまかしてきた。

 ごまかして、一人一人死んでゆき見送り悲しみ、出会い別れる。

 あと、何十年。








「ジゼル」


 椅子に座っているジゼルはするりと入り込んできた声に、ぴくりと肩を揺らした。


 手につけきっていた額を少し離して、目を動かすと見える範囲で暗いと認識した。

 髪で隔てられているからではなく、灯りが消えたようだった。

 近くに人の気配がして、ずっと止まっていたせいか動かし辛い首を巡らせる。

 正面に座っていたはずの神官長の姿はなかった。だからといって、ジゼルを呼んだ声は神官長のものではない。


「……」


 静かに視線を移動させると、側にクラウスが立っていた。

 彼を素通りして目を部屋の中に走らせるも神官長の姿はやはりなく、出ていった神官長が教えたのだろうか。代わりに現れていた人物に、ぼんやりと思った。

 灯りをつけようともせず傍らにきたクラウスの姿に、目を戻すことはしなかった。

 前回会ったときのことは忘れられるはずもなく、クラウスが言ったことのせいであるがとんだ醜態を晒したような記憶があって顔を見られない。

 顔を見ない理由つけをする。

 そういえばこの服で会ってしまった、まぁ何のための服かは分からないだろうしもう何かと手遅れなので構わない。


「何か、用?」


 自分の手に視線を注いで、ジゼルは簡潔に訊ねた。

 さっき緩めたばかりの手は、無意識下でもずっと力の限り握りしめていたようで、甲が痛い。

 爪が食い込んでいたから、相当痕が残っているだろう。痕を目で確認しようとするが、よく見えない。


「ジゼル、こっちを向いてくれ」

「……用件を言って」


 やはり見ず同じ内容を言えば相手は黙り、でも部屋を出ていくことはなく動きがあった。

 ジゼルの視界の端、気配が沈み込んだ気がする。

 見ないからクラウスがどうしたのかは細かく分からない。


「前は感情的になって悪かった」


 さっきと比べると下の方から声が聞こえて、しゃがみこみでもしているのか。


「……私も、感情的にはなっていたからごめんなさい」


 謝られたのなら、「前」と示された時はジゼルにも悪い面があったから謝るべきで抵抗なく謝る。

 謝るために来たのだろうか。そうだといい。

 それに思えばクラウスは無断入室だ。ジゼルが許可したわけではないというのに、今からでも用件は聞いたと追い出すべきだろうか。



 ここで、話を切るべきだろうか。


 ジゼルは考え続けていた。

 ここで切るべきではないか、このまま進めてしまえば後悔しないだろうか。

 今ここで前のことを互いに謝って多少強引にでも止めれば、前と同じようにとはいかずとも互いが知らぬふりをすればそこそこの関係が築けるはずだ。

 だが、果たしてジゼルはそう望むのか。クラウスの言葉を聞いた上で。


 自分はどうしたいのか。


「ジゼル」


 答えはまだ出ていないのに、時は進もうとしている。

 ジゼルは少しだけ間を開けて「なに?」と返事をした。反面では未だ考え続けながら。


「ジゼル、呪いを解こう」


 話ははじまってしまった。


「……口約束は、信じない性分なの」

「俺は無責任なことは言わない性分だ」

「……お見合いは放棄するのに?」

「訂正する。ジゼルに対しては無責任なことはしない性分だ」


 ジゼルの手に力がこもって、爪が浅く突き立つ。

 半ば勝手に動く口は、答えが出るまでのその場しのぎの会話をしているつもりだった。そのつもりだったのに、閉じた唇をジゼルは噛んだ。

 自分の口から流れた言葉は拒絶ではない。



 ――「もしも呪いから解放されたのであれば、君は誰と歩むことを望んでおる?」

 期待することを止めてから、ジゼルはもしもなんて愚かな未来は考えたことがなかった。来る保証はなく来るはずがなく、考えるとその分虚しいだけ。

 そのはずが、


 希望を謳う言葉。

 もしもを促す言葉。


 整理しきれず凍結したままの思考に新たに流し込まれた言葉に流されたとき、ジゼルは何を考えただろうか。何を思い浮かべただろうか。何を、思い出しただろうか。


「ジゼル」

「……っ」


 呪いを解こうという『甘い言葉』を目の前に示し、言うことを止めない人。

 本気だと語る蒼い目が、今は見ていないのに鮮やかに目に浮かぶ。もしもを問われた直後に浮かんで、どうしようもなかった。

 答えなんて流されたときには遅く、すでに出てしまっていた。見ないでおこうとしたものにジゼルは目を向けてしまった。

 認めることがとても怖いのは仕方がない。認めて叶わなかった過去があった。過去は深く心に根づいている。


 意識的に手に力を込めたジゼルは顔を横に向ける。

 クラウスが膝をついて椅子に座るジゼルを見ていた。一瞬ジゼルが通りすぎてしまった目が、合う。

 蒼い目には弱々しくなってしまっているジゼルとは異なり、強い感情があって、真っ直ぐに視線を受けると飲み込まれそうになる。



 ――飲み込まれるのなら、この目がいい。



「……本当に……?」


 震える声が出た。

 知らず知らずのうちに出たはずが素直な言葉は出なくて、どこまでも簡単に信じられないジゼルを許してほしい。もう、そんなふうにはいられないのだ。

 クラウスが前に言ったできるという言葉が、感情的に出た流れ上だけの言葉でなければいい。そうではないと言ってほしい。

 今だけでもいい、安心させてほしい。ジゼルは期待しても期待しきれず不安になることは避けられないだろうから。

 でも。


「本当だ」


 信じようと決めたから。


「絶対に呪いを解くから、信じてほしい」


 目から頬へ、一筋伝ったものがあるとジゼルは感じた。


「……信じてもいいの?」

「信じろ」


 また一筋。


「誰かを犠牲にしないで」

「しない」

「嘘をついていたの?」

「前はかっとしてた、悪い。実際にやるはずない」


 謝るくせに反省の色はなくて、ジゼルは笑おうか怒ってみせようか迷ったけれど、意味はなかった。

 どのみち涙が止まらなくてできなかったのだ。


「これでもう止めろなんて言わないか?」

「分から、ない」

「ジゼル」

「ごめんなさい、ちょっと、整理できてないから」

「あとで撤回とかしてくれるなよ」


 それも分からない。

 とにかくジゼルは止まらない涙を拭い切ろうとする。これのせいで思考が鈍っている気がしてならない。


「私は、本当に望んでもいいのかしら」


 確信がなくて、聞いてしまう。

 クラウスよりもジゼルの方が何倍も年上のはずなのに子どものように泣いて。みっともないことは把握できるから、涙を押さえるついでに顔を覆ってしまうと、


「もういいんだ」


 抱きすくめられた。

 立ち上がったクラウスが覆い被さるように、座るジゼルに腕を回して答えを囁いた。

 いいのだと許しをくれた。

 きつくきつく存在を感じさせるように抱きしめてくれるこの腕に、しがみつくことを赦してくれるというのか。


「逃げたくないんだろう? なら立ち向かえばいい。一人でなんて言わない」


 しがみついて、ジゼルはかすかに頷く。

 身体に回る腕の力が返事を受け取ったというようにもっと強くなって、ジゼルは新たな涙が生まれたことが分かった。



 何も為していない内にありがとうと言いたくなった。







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