乙女と期待
本当は恐れていた。
クラウスが向けてくる感情を知っていた。それでもやり過ごせると思っていて、それでいて、本当のことはジゼルは自分から言いたくなかったのだ。
感情をもろにぶつけられてからになって、ひどくずるいことをしてしまったことだろうと思う。
地下神殿の透明な地面を行くジゼルの歩みは力ない。
身体を這う模様は、封じている神と繋がっている。そのため、かの神の力が封じを揺らがせていると感じるとき模様が疼く感覚がある。
現在もずくずくと内側からか、外側からか、よく分からない感覚が模様のある箇所から訴えかけてくる。この感覚に従って、ジゼルは地下神殿に祈りに来る。
一歩一歩重く感じる足を運び奥に奥に進み、両ひざをついた。
余計なことを考えるな、と両手を組み合わせる。
目を閉じる直前に眼下に目にしたのは明確な形を持たない闇。この世の果てを思わせる邪悪なそれは、人間にははっきりとした姿を見せない神の姿だ。
ジゼルには真っ黒で漆黒の輪郭の明確でないものに見えてけれど、まやかしなのかもしれない。
最近ここにいなくとも寝ているときに夢をみる。 瞼の裏にジゼルを
――この神はジゼルを引きずり込むつもりだ
一度目にジゼルが死んだのは堕ちた神によるもので、とある方法により身体に憑いた神に人間の身体が耐えきれなかったとかいうものではない。
本来神々とは祝福するものなのだから、神はジゼルを護ってくれ今も身体に残る力が堕ちた神から護ってくれている。
堕ちた神の力を、呪いと言われている現状に留めておいてくれている。
でも地上から人が祈るだけでできる繋がりから得られる祝福では到底太刀打ちできない。
だからこそ、かつて人間は神そのものの力を借りようと愚かな方法をとったのだ。
今も徐々に薄れてきている特別な祝福が消え堕ちた神に負けたとき、ジゼルは死に、次はもう生まれることはなく魂を絡めとられてしまうだろう。
その先があの闇の中なのかもしれない。闇の中に永遠に閉じ込められるのかもしれない。
神に逆らった人間への罰として。
すべては起きてみなければ分からない。起きて明らかになるまではジゼルの予感でしかない。
それでも模様が広がるにつれ異変が起こり出すにつれ、ジゼルの恐れは大きくなる。
夢は予兆だ。
身体の異変、死を迎える時期が刻一刻と迫っているという証。
ときおりジゼルの世界から音が消え、最近は消えた代わりに声のような音のような、何を言っているのかは聞き取れない囁きが聞こえる。
それも証。全ては堕ちた神がジゼルに手を伸ばしている証だ。ジゼルを堕とし、自由を得ようとしている。
*
行くときの倍以上の時間をかけて地下神殿から長い階段を一段ずつ登り、どれほど時間をかけたのかは窓もないから分からない。
体内時計も元々正確な方ではない。
来るときはぐちゃぐちゃだったジゼルの頭の中は強制的に止めたせいで、中途半端にぼんやりしていた。
壁をずりずりと移動させていた手からざらざらしたものが消えた。
出口だ。
扉を開ける際にもたれかかり気味にすると、ふらりとたたらを踏むはめになった。
踏ん張りがきかないというより、気力がないので倒れるなぁと他人事で思っていた。
けれど、支えるものがあった。
「大丈夫かの?」
「……神官長」
いつもは誰もいないはずの場所、いつかのようにいつかよりももっと早い位置で他に来る者いないので、ジゼルを待っていたとしか考えられない人は神官長である老人だった。
「すみません、助かりました」
胸に飛び込む形という失礼な形になっていたので、支えられながらも再び自分で立つ。
「……それより、」
「まあ部屋まで付き添おう」
なにゆえの待ち伏せか。と思ったジゼルは率直に問おうとしたが、やんわりと背に手が添えられて促される。
確かに立ち続けるのも避けたいところでジゼルは逆らうことなく、言葉に甘えて部屋に戻ることにする。
神官長は部屋まで付き添ってくれ、ジゼルは着替えないままで、ジュリアとお茶をしたテーブルを挟み彼と向き合うことになっていた。
「また今回は長かったようじゃな」
「そうですね」
それでも三日くらい。前回と変わらない。
窓の外を見て発覚したことで、どうも今は夜のようだった。時刻は依然として不明だ。聞こうとも思わず、部屋の中は灯りが照らしてくれていた。
ジゼルも神官長も趣は異なるものの白を貴重とした服、両人の服の表面に灯りの橙が淡く映る。
「心配をしている者がおったよ」
「……心配……?」
寝不足も手伝って思考が鈍っているジゼルは首を傾ける。誰が。
温かな色合いの灯りに目をとられていたジゼルは、ゆるりと神官長を目に映す。穏やかな顔立ちをした神官長が、ジゼルを見返している。
「クラウス・シモンズ」
「知っておるじゃろう?」とつけ加える神官長が出した名前に、ジゼルは凍りついた。
クラウス。自然に顔が思い浮かんだところで瞬きをして意識を逸らす。
「交流が、おありなのですか?」
「ちょっとな」
そう言った神官長は胡散臭かった。
沈黙の中でじっとジゼルが見つめていると神官長は困ったな、という顔をした。思えただけ。
その顔は豊かな髭で大部分を覆われているから、少し長めのつきあいの経験を駆使して露なわずかな部分から読み取ったのだ。
「彼は君と同じ時間を歩みたがっているだけだとわしは思うがね」
声は耳に入って頭の中に留まり、ジゼルは神官長を見つめたまま言葉を吟味した。
じっくりじっくり、引っかからざるを得ない言葉について考える。
「――――神官長、あなたですか。クラウスに教えたのは」
事情を知っていたクラウス。デレックに、彼の父親に聞いたわけではないと言っていた。
――「呪いを解こう」
――「神を殺す」
呪いを解こうと過激なことを言ったクラウス。揺らぎない蒼色の瞳。真っ直ぐな瞳。
なんということをしてくれた。
時間は経って冷静になっているので、ジゼルはありありと甦る言葉に動揺はしない。
けれど彼の行動は事情を知らなければ起こらないもので、それをこの神官長が教えたのかと思わせる言にジゼルは抑えた声で訊ねた。
「色々となあ」
「色々では済まされません」
「カッとして色々言うたと後悔しておったようじゃが、クラウスは何と言うた」
妙に親しげな様子に、ジゼルは眉を潜める。
「呪いを、解こうと」
「そうかそうか。まあ他にも言うたんじゃろうがわしには言えんこととみる」
それはそうだ。神殿を取りまとめる神官長に堕ちたとはいえ、神を殺すという発言がされたと言えるだろうか。
神官長は何度か頷き髭を撫で、「なんと返事したんじゃ」とジゼルに聞いた。
「頷いたとでもお思いですか」
「いいや、君の考えていることはそれこそ色々と聞いておるからな」
昔、色々と話した。この友人に。
神官長ではなく神殿の一神官だった折に。
「ジゼル」
とジゼルは呼びかけられた。
テーブルの上で重ねる両手に落としていた目線を上げる。
「君は期待が嫌いじゃな」
嫌いだ。
決まっている。
かつて愚かにも言われるままに身を任せ抱いた期待は砕け散った。粉々に。最後には跡形もなく消え去った。
一度だ。たった一度だけ。それで十分だった。
クラウスの提案を聞いたとき、笑い飛ばしたくあったのは、それを為せるはずはないから。その事実を再確認して悲しくあることから目を逸らすために、何を馬鹿なと笑い飛ばしたかった。
期待したくなかった。
「嫌いです」
「そうじゃな。昔、わしが神殿は何か方法を持っているかもしれんと言うたときにはひどく拒絶したな」
「はい」
「わしも若かったからのお、無責任なものだった」
可能性をちらつかせるのはやめてほしかった。期待すればするほど、信じれば信じれるほど、叶わなかったときの衝撃は凄まじい。
一度だけであれもうごめんだ。二度目があれば立ち直れるかどうかは自信がない。
「じゃがな、ジゼル。時は過ぎた」
「私にとってはそれほど過ぎたようには思えません」
「わしがこんなにじいさんになってもか?」
ふと気がつけば、だ。気がつけば時は過ぎている。それだけ。実感がない。
ジゼルの身体は時を行き帰りしているようなものだから。周りが勝手に過ぎていく。ジゼルが意図的に時を認識し難く思っている節もある。
その意味を込めて辛うじて微笑む。
「わしらは君とそのときの時間の共有をすることを選んだ」
「ありがたいことです」
ありきたりでありながら、本心から出た言葉だった。
時が過ぎてこの世をあとにする人々がいても、ジゼルは本当の孤独にはならない。
誰かがジゼルを受け入れてくれる。浅い深いはあるけれど、単に顔見知りとしてや友人として。ありがたいことだ。
それなのに神官長は悲しげに首を振った。
「時間の共有は一歩近づけば容易なことじゃ。特に君のような人柄であれば」
「残念ながら――」
「しかしそれは君にとってはその場しのぎに過ぎぬことじゃろう」
そんなことはない、と反射的に返そうとしてそうだろうか? と留まってしまった自分がいる。
ジゼルは実際に口を閉じてしまっていた。
「わしはわしが死んだあとにも君はまだ生き続けるのだということを、ふと思うことがある。しかしそこまで。あの若者は違ったじゃろう」
「神官長、」
「これは全くわしが言えることではないが、心を最初から全て閉ざし拒絶し諦めることはそこに真の可能性があった場合それを逃すことを意味する」
非現実的なことを言ったクラウスと繋がりのある様子の神官長。
ジゼルとクラウスの間であんなことがあったあとで待ち伏せしていた彼が何をさし示しているのか、ジゼルにはもう分かっていた。
「ジゼル、時は過ぎたのじゃ。全てを信じてみよとは言わん。今一度信じるべきものを信じてみんか」
「どうしてそこまで私に信じさせたいのですか」
「友じゃからな」
「友であるのなら、気持ちを汲み取って放ってほしいと私は言います。…………信じることは、裏切られる強い恐怖と隣り合わせです」
「ならばそれ以上に信じてやればよい。十分に信じられる者じゃろう」
クラウス・シモンズは。
「私にとって、そうであるとどうして思われるのですか……?」
「強いて言うのならば、クラウス・シモンズの人柄じゃな。ジゼル、君は彼と歩んでみたくはなってはおらんか?」
「……いいえ」
いいえ。とジゼルはもう一度小さめに呟く。
「ではジゼル、君は期待することを止めてから考えたことがあるじゃろうか。もしものことを」
「……何のもしもですか」
「もしも呪いから解放されたのであれば」
ひどいことを言う。それが一番ジゼルの嫌うことだと知っていて、神官長は言っている。
ジゼルは合わせた手に顔をつけんばかりに下げていた。
会話の途中から神官長を見れなくなって段々と下がってきていて、もう呼気が手にかかるほど。
髪によって周りと遮られたジゼルの世界は暗い。
「君は誰と歩むことを望んでおる?」
神官長の声は髪の隔たりをものともせずに届いてきて、耳に落ちる。
ジゼルはぴくりとも動かず、顔を伏せ続けていた。出す声が見つからず見せられる顔もなく、黙っていた。
「伸ばされる手をとってみる気はないだろうか」
ジゼルは強く両手を握り合わせた。肌に食い込んだ爪が確かな痛みを伝えてきた。
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