乙女と日向ぼっこ
――一ヶ月後
華やかな匂いは、人々が集まる場が設けられた方から醸し出されている。
通称『
王宮の敷地内で一番広い庭に植えられた、花をつけた大きな木は樹齢何千年かと――本当かどうかとジゼルは詳しい年数は知らない――言われる代物。
『神の木』と呼ばれ、その木があるがゆえに王宮はこの地に建てられたのだとかいう。
花を咲かせた大木を中心として庭は展開されている。
周りには、よく手入れされた腰よりもっと低い植木が上から見ると模様を描くように迷路のように連なっている。
その間に道が敷かれ、植木で区切られた中に咲く花を楽しむことができる。
ときに脇には薄紅の花びらが浮く水の溜められた石で囲まれた箇所もあり、覗き込むと顔が映る。
世界に宵闇が落ちるとこの時期にだけ特別に設置された灯りにより、庭は、特に巨木が異なった美しき様相を見せてくれる。
現時刻は、朝と昼の合間となる。
今頃お茶会の出席者たちは、談笑しながら、どっしり構えた美しい巨木の前に設けられた会場談に向かっていることだろう。
しかしながらジゼルがいるのはその場からは離れているところだから、あるのは春の匂いだけ。
庭に面する長い廊下にはジゼル以外人っ子一人いなかった。
『
ジゼルは王宮の中庭『裏庭』と呼ばれる、中庭よりも一回り小さな庭に来た。
王宮なので裏庭と呼ばれていても庭師の手入れは隙がない。ただ、ほとんどの部分が影っているためか花は乏しく緑の方が多い。
裏庭には
汚れていないことを確認して、座る。
身につける服は普段着の地味な色合いのドレスで、装飾品も身につけていないしきらびやか華やかな要素はまるでない。
一応は招待されているジゼルが、お茶会に行くつもりがないことは他から見ても明白だ。
人がいないことをいいことに、そそと腰かけているのではなく子どもがするように手を横について、日差し自体は遮られているとはいえジゼルは日向ぼっこ気分だ。
「春ねぇ……」
ささやかながら、深い緑の葉と淡い色がある。
ジゼルが呟くことを止めれば誰一人としておらず、音の失せる。
じっとして、風が吹かず葉々が動かなければともすれば時間が止まったがごとき感覚に陥りそうだ。
ジゼルの人生が一度きりだったときが当然ある。堕ちた神に立ち向かい呪われる前だ。
ジゼルは貴族の家に五番目に生まれた、ただの三番目の女子だった。
末っ子であったジゼルは生まれたときから病がちだった。寒くなれば必ず風邪を引き、そうでないときにも些細なことで体調を崩す。そんな手のかかる子どもだった。
そのように病に臥していたときが多かったジゼルはベッドの上から起きられなくとも、優しい侍女により近くに活けられる花があると心慰められた。
起き上がれるときには花を美しく活けることを学んだこともあった。自由に外に出られなくとも部屋の中に外の色合いを空気を醸し出してくれたのだ。
今はそんなふうには思えない。心も踊らない。
ジゼルの身体には、今蝕む病はない。
転生している証拠に身体は病蔓延る身体ではなく
呪いがこの身を誘い、宵よりも深い濃密な雰囲気に包まれ眠りに落とされるように意識を閉ざしたが最後、ジゼルは次の身体に生まれ直している。
丈夫でなければ、魔物討伐に馬を駆ることはおろか、剣すら満足に振るえないはずなのだ。
健康体であるからこそ、こうしてジゼルは外に自由に出られ、冷たい風に当たろうとかつてのように簡単に風邪を引くこともない。
同じ景色を何度見たか、季節が巡ったのか数えきれない。計算すれば出るだろうが、くだらない。これからもっとそれ以上の季節が巡り、過ぎてゆく。
季節をこうして感じることから、花を愛でる世界を美しいと思う部分の心は、死んだのだろうか。
そうして辛うじて色を感じられる世界も、やがて色褪せてゆくのだろうか。
「まぁ美しいものは美しいけれど」
花は美しい。きらきらと輝きを秘める宝石も美しい。ようは興味が持てるかどうかだ。
通算119年生きていていくら気がつけば時が過ぎていた、と思っても外見はうら若きものであろうと、心でも枯れているのだろうか。
「歳か」
外見により老婆扱いされたことがなく「老婆」の意識はなくとも歳をとっている自覚はあるのだが、歳とは乙女としては悲しいものだ。
などとやれやれとくだらない思考に陥る前にジゼルは顔を思いきり上に向ける。空は春めいた、淡い水色だった。
歳をとると昔のことが長いので思い出してしまうらしい。
意識的なため息で思考の流れを切る。
「にゃあん」
「……あら」
長い息のあとにジゼルが視線を眼下に戻すとちょうど見つけた白毛の猫がいた。遠目に目が合った瞬間鳴いた。
なんとも庇護欲をそそる声だ。
それにしても王宮にいるとは飼われているのだろうか。庭を左右見るも変わらず誰かいふわけではない。
ふむ。
そろそろと距離を詰めていっても、白い猫は逃げる様子はなかった。
「よしよし……おいで」
こちらから近づくことはそれなりで止めておいて、ジゼルは目線をできるだけ近づけるためにしゃがみこむ。ドレスの裾が地面につかないように一応気をつける。
さて、餌はないが来てくれるものだろうか。
ジゼルが手を差しのべただけの状態でじっと待っていると、まだ少し離れていたところに止まっていた猫はそろそろとこちらを窺いながらも近づいてきはじめた。
その距離はジゼルが息を潜めているうちにどんどん近づき……くんくんと指先のにおいを嗅いでいるところで、そっと捕まえた。
小さな体は羽のように軽くジゼルは拍子抜けした。
首回りには首輪らしきものがついていないことを確認する。
それにしては綺麗な毛並みだ。こっそりお世話されているという方面か。捕まえた猫は暴れず逃げようともしない。随分人に慣れている。
それどころか、ごろごろと喉を鳴らすので思わず撫でてしまうではないか。
甘え上手な猫だ。これは可愛がられるはずだ。
ジゼルは猫を抱き抱えたまま傍の、さっきまでいたベンチの向かい側の今度は陽が当たるベンチに腰を下ろした。
汚れは確認しなかったが、さっきのベンチも綺麗に拭かれていたから平気だろう。
ふわふわというよりはさらさらな毛並みを堪能しつつ、遮るもののなくなった太陽の光が眩しい。
本当の日向ぼっこになってしまったが膝の上の猫が気持ちよさそうだからどうでもよくなる。
猫は好きな方だ。
元々昔、ジゼルは大人しい猫を飼っていた。
真っ白な猫で毛並みがふわふわだったのは可愛がられよく手入れされていた証拠だったのだろう。
目が緑色だったから緑色のリボンを首につけて、小さな鈴が猫が動くたび、チリンと涼やかな音を立てたものだった。
こんな大きさだったのかもしれない、と今目の前にいる猫により記憶が甦る。
その猫がいたときの頃を懐かしいと思うが哀しいということはない。
慣れたのだ。慣れるということは哀しいことではない。良いことだ。これからも生きるにおいて良いことだとジゼルは思う。
「……どうしたの?」
突然、すっかり寛いでいた猫が、寝返りではなく腹を無防備に見せた状態からびくりと起き上がった。
その動作の機敏さは、そこらの軍人の身のこなしも凌駕しただろう。
ぴくりぴくりと耳が後ろに傾けられ音を拾っているよう。突如の警戒体制にジゼルは不思議そうな表情でその背に触れようとするも、
「あ」
猫はしなやかにジゼルの膝から飛び降り目で追えるぎりぎりの速さ、あっという間に庭の向こうに消えて行ってしまった。
そこで、猫がどこかへ行ってしまった原因と思われるものに気がつく。
誰か来た。猫が耳を傾けていた方だ。
庭師だろうか、そうでなければ……思ったと同時、現れた。
「ジゼル」
「──クラウス、どうしてここにいるの?」
今、ちょうどこの時期には王宮で開かれる『
なので、三家の一つの嫡男であるクラウスに対するジゼルの問いはなぜ領地ではなく王宮にという意味ではなく、どうして会場ではなく声さえ聞こえないここにいるのかということだった。
庭の入り口の方から現れ距離が縮まるにつれて、ジゼルが座っているせいでいつもより見上げることになるクラウスは、お茶会に大人しく来たらしい。装いが表していた。
「元はいいものね……」
長躯にまとうは旅装束ではなく身分に相応しい仕立てのよい正装で、クラウスとて素材は良いのでちゃんとすれば似合うのだ。
見違えるようで、これならば誰が見てもシモンズ公爵家の御曹司だ。
ジゼルが眺めていると、服装は違えど中身は同じ。クラウスが堂々と言い放つ。
「ジゼルがいなかったから探しにきた」
「探しに――あなたね……」
口実にするのも大概にするといい。
呆れていると、前にまで来たクラウスが後頭部でくくっていたと思われる髪をほどいた。
「どうしてほどいてしまうのよ」
「どうせもう戻らない」
「何を馬鹿なことを言っているの。貸して。ここ、座って」
「いやいい」
「あなたがいいだけでしょう。早く」
人はいないからちょうどいい。
ベンチの隣を指差すと、たまにいるそこは汚れていないのかと気にしてごねるような性格の貴公子ではないクラウスは、大人しく座る。
ジゼルは胸元から櫛を取り出し立ち上がって、その後ろに回り頭に手を伸ばす。
手入れすればさらさらになるだろうに。
心の中でもったいないと呟きながら、ジゼルはどこに行っていたというのか、まだ荒れの濃い黒みかかった青い髪を少しずつ櫛削る。
おそらく使用人が手をいれようとしても、クラウスが頑として受け入れなかった様子が目に浮かぶ。
枝毛がいっぱいだ。切ってやる小さな鋏がないことを残念に思う。
「手入れなさいよ」
「嫌だ。面倒だ。この際切ってやろうかと思ったが、ジゼルがこうしてくれるなら止めておくか」
何を言っているのだか。
国軍に入らない限り、身分の高い者は髪を長くする。クラウスの場合は度々切るのがそれこそ面倒で伸ばしている感が否めないが……。
こんな言動をしているのにこうしてお茶会のためにきっちりとはしてきたのだな、とジゼルが不思議に思うのは自然なことだろう。
「それで
「どっちかというとジゼルがいるから大人しく来た」
「大人しく来たのなら最後まで大人しくしてなさい」
「ジゼル」
「なに」
「俺の嫁になってくれよ」
「断るわ」
流れるように問答は終えられ、こちらに背を向けているクラウスはそれ以上何も言わなかった。
クラウスがどのような意図で求婚めいたことばを囁き、してくるのか。残念ながらジゼルには理由は思い当たらない。
ジゼルがクラウスとはじめて会ったのは五度目のときだった。
それから一度ジゼルは死に、生まれた。
再び会ったとき、幼きクラウスからしてみると容姿はまったく同じなので、外見年齢は巻き戻っていたという感想を抱くことになったはずだ。
『伝説』では呪われた乙女は若き命を散らす運命にあり、その身のみならずその子孫に至るまで代々呪いは受け継がれることとなった。
今もなお呪いは続き、もしかすると呪いを宿す乙女の子孫は短命の運命を抱えながら生きているのかもしれない……。ということになっている。
そのため以前に会い、一度生を終えて会ったときジゼルが件の呪いの乙女だと聞き、かつて神に祝福を受けて堕ちた神を封じたのだとしても神に呪われているということによりジゼルを忌避する人たちはいる。
単にクラウスは以前のジゼルを覚えていないのか、名前が同じで容姿と対応もまるで同じだけれど、伝説を知り幼いながらに別人と認識したのか。
幼かったことが作用しているのか、気にならなかったのかもしれない。
前回の「ジゼル」がなかったことにされたのなら、それはそれで悲しいような気もするが……。
父親であるデレックも全ての事情を知っているとはいえ以前と同じ態度で、ただ少し会わなかっただけという風に接してくれたので親子だなと思うことにした。
まあ「可愛くなったな!」とデレックに言われたときは、どうしてやろうかと思ったのは別の話だ。
などと過去を思い返していると触れる髪が覆う肩幅の、背中の広さが目に入った。
あれ?
瞼の裏に浮かんでいた大きさとの差異に、目を瞬く。
「ジゼル?」
――「ジゼル!」
呼ぶ声の差異に。
いやこれはデレックだったろうか。以前彼にもこんなことがあって、はっとして――
ふいに息苦しさを覚えた。手から溢れる紺碧色の髪が遠ざかるような。
「ジゼル」
瞬きして視界が明確になったとき、向けられていたのは背中ではなく顔だった。
「……なに?」
「何じゃない。どうしたんだ、具合でも悪いのか? だからここにいたのか?」
「いいえ少し、少し……ぼーっとしていただけ。ごめんなさい。それからここにいたのはただの日向ぼっこよ」
「いや顔青くないか」
「外だからそう見えるのよ」
私、日に焼けにくい体質だから。
よく分からない理由もつけ加えて、ジゼルは伸ばされ頬に触れそうになった指先を反射的に避ける。
避けたあとになぜ避けたのかと思い、ごまかすように言う。
「ほら前向いて」
強引に前に向かせて手早く髪をまとめてやり、終わったと肩を軽く叩く。
「そろそろ戻りなさい」
「ジゼルは」
「私は強制ではないもの」
「ずるいぞ」
「シモンズ家の嫡男が何を言っているの」
いずれは公爵家を継ぎ、一人でやって来ることもあるだろうに。
「私は部屋に戻るわ」
「待て」
手を掴まれジゼルは無意識に息を浅く吸った。
その意味を自分でも理解できないままに、立ち止まらざるを得なくした人物を呆れたように見る。
「クラウス、戻らないとデレックにあとでここに来ていたって言うわよ」
「それで戻るとでも思うのか?」
「戻んなさい」
「退屈なお茶会にだけ出たんじゃ、割りに合わない」
強固な蒼い目はじっと下からジゼルを見上げ、ジゼルの指を覆い隠してしまいそうなほどに大きな手で握る手に力が込められた。
「もう少しだけ、ここにいろよ」
引っ張ることはせずに、手もともすれば簡単にほどいてしまえるほどの力だけで、けれど尋ねる形は取らずに言った。
ジゼルは迷いを覚えた。
ここから去ろうとした足は前に進もうとしているのか、この場に立ち止まろうとしているのか。図りきれなかった。
当たり前だ。足はジゼルの意思で動き、そのジゼルは今迷っている。
春のやわらかな風が間にジゼルに、クラウスに吹く。
髪が揺れたが、ジゼルの髪は軍服のときとは違い、ほどいておろしているままにしてあるが風向きのおかげで背で揺れるだけ。
見えたのは青みの強い髪が揺れる様だ。
「……少しだけよ」
結果、ジゼルの出した答えは、折衷案のようなそれだった。
――いつの間にか、時は過ぎている
そのことに気がつきたくないから、気がつく前まで。呪いにより廻る長い生の中で、会っては去っていってしまう人たちがくれる、心地の良い空気に浸りきってしまう前にまでならば。
「一緒に日向ぼっこでもしましょうか」
ジゼルは微笑んだ。
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