乙女の苦悩





 ジゼルは地下神殿で祈りを捧げていた。


 身につける衣服は、見るからに清らかな純白で、ゆったりとした些細な動きでさらりと流れる生地でできている。

 ジゼルのために作られたそれも、例外なく袖が腕を覆い、首もとまで覆われ、露出は手と顔とむき出しの足くらいだ。

 その格好で広い、石の空間で両ひざをつき手を握り合わせて祈りを捧げていた。

 四角の空間は壁が一面石で、しかし人の手で切り取り作られた空間ではなかった。


 119年前の神々の手助けの一つ。堕ちた神を迎え撃った場所から、地上に封じ込める場所を作り、移してくださったのだ。

 一説には、上にある神聖な巨木があるためだと言われている。


 ここは王宮の地下にあたる場所だ。


 入り口を知る者は、ジゼルが転生しているといったこと等の全ての真実を知る者たちより少なく、本当に必要最小限の者にしか知られていない。

 さらに、堕ちた神の封じられている空間そのものに繋がる石の扉はジゼルにしか開けられないという代物で、これまで中にはジゼルしか入ったことがない。

 外から覗き見た者はいた。ジゼルにとっての最初の頃であり、中に入ろうとした者はいなかった。呪われることを恐れたのだろう。


 最奥に眠る堕ちた神を、恐れている。


 すべてが石。地面も石。

 しかし周りの壁と下の石は色が異なった。

 壁は白色だ。しかし白い石は珍しくもなんともない、触ればひんやりするなくらいのもの。

 問題は下、足元は透き通っている。薄い青を帯びて、扉の外からは水が張っているように見える。

 けれど足を踏み入れてみれば驚くことだろう、慣れたジゼルだって今も不思議な心地に陥ることがあるから。

 触れた感じは、周りと変わらない石だ。

 だから見た目は不思議な、神の作った空間だ、不思議な材質であってもおかしくはないとジゼルは判断した。

 不思議な石の中に堕ちた神が閉じ込めらているのだ。



 ジゼルが閉じていた目を開くと、眼下には闇が広がっている。飲み込まれそうな闇だ。

 透明な石の地面を歩き奥に奥に行くと、透明ではなくなっていく。黒が石を侵食しはじめ、最も濃い部分には闇がある。

 神に顔はなかった。神話のように人の形を型どって出て来てくれるほど優しい神ではないからか、単なる闇がある。


 今もなお地に災いをとばかりに魔物を地上に生み出す力を洩らしている神は、封じて石を隔てていてもわずかにジゼルを引っ張ってくるような力を感じる。

 ジゼルはどうにか立ち上がった、がくらりと目眩を起こす。

 立ちくらみか?


「……それなら、いいけれど」


 ジゼルの今世は十八。

 そろそろ、近づいているのかもしれない。



 着替えに戻ろうと、完全に人気のない廊下を歩く。

 この辺りは人は通らない。召し使いたちには近づくことが単に禁じられ、事情を知る者たちは近づかない。

 そのため、そこにジゼル以外の人がいることは稀で、ここ最近ではすれ違う人なんていなかったのでジゼルは大いに驚いた。


「神官長」

「久しぶりじゃな、ジゼル」


 神々に祈りを欠かさない国、ということでかつて神殿は王宮と密接に関わり、それは良い関係だった。

 119年前までは。

 この世界のすべてはそのときに大きな狂いを迎えた。大きな出来事があったのだから仕方ない。

 国民性としても神は敬うべき対象だが、神殿にとっては他にも増してそうである。


 約200年前の伝説において神をどうにかするべく、最終的に取られた方法を主に行ったのは王宮だ。

 その方法は神殿にとっては許しがたい方法であり、神殿は王宮と距離をとった。

 長い時も経っても溝は埋まらず、大きな催事の際には神殿から使者が送られてくるくらいとなっている。

 ジゼルが催事に行かないのは、彼らが来るからでもあったりする。

 神に呪われたジゼルは神殿から、多くの神官から忌避されている。ジゼルが行けば、使いの神官は良い顔をしないだろう。


 そうではあるのに、神殿を取り仕切る神官たちの長こと、この年老いた現在の神官長は変わっていた。


「神官長、どうしてここにいらっしゃるのですか?」


 重ねすぎた歳月もあるが、基本的にそこそこの知り合いには砕けた口調のジゼルも、そこそこの知り合いであるが神殿の最高権力者である神官長には敬語を使う。

 ジゼルには親しいと呼べる関係にある人はわずかだ。

 複雑な身の上からすべてのことを知る人に限られるからで、デレックのように家に行ったりするというのは特殊である。

 本来ならば最小限に留めることがとされるからだ。

 この神官長も、数少ないうちの一人である。


「お茶会があったじゃろう」


 白いゆったりとした神官服を身につけ、頭には細長い帽子のような規定のそれを被った老人は、髪と揃いの白い、床につきそうなくらいな髭を撫でて言った。

 口許が髭で隠れているが、頬の動きや目で微笑んでいることは一目瞭然、にこやかだ。

 この神官長はジゼルのことを全く嫌そうにしないばかりか、むしろ親しげにしてくる。


「お茶会……? 神官長が直々にですか?」


 前代未聞だ。

 119年前から、代々の神官長は神殿から出ない――王宮には頑なに出向かない態度を取っていたはず。

 ジゼルがこの神官長となった老人と会ったのも今は昔、彼が一高位神官であったとき。

 その頃から神官としては変わっていたけれど、まさか神官長にはなるとは思わなかったし、重大な大きな会議があるわけでもないのに、お茶会に?


「神殿は……他の神官たちに反対はされなかったのですか?」

「どうだったかのぉ。突然美味しいお茶が飲みとおなっての」

「神殿でも美味しいお茶は頂けますから」


 ジゼルは外見なら遅れをとるが、彼が今生きている存在で以上はジゼルの方が年上だ。

 お茶会の出席者を煙に巻けてもジゼルはそうはいかない。

 じっと見ると、神官長は微笑む。


「こちらの『神の木』を見ておきたかったのじゃよ」


 神の木は実は二本ある。

 一本は王宮の庭に。

 もう一本は神殿に。

 神殿もまた、『神の木』があるからこそ、その地に建てられた。首都の外にある。


 その木を見に来た?


「そんなことで、納得させられたのですか……?」


 かなり疑わしい。

 この神官長は代々の神官長よりも王宮の『神の木』を見ているはずだ。

 ジゼルは正直に疑いの目を向けた。


「友にそんな目でみられるとは、わしは悲しいのぉ」

「友であるのなら、正直に言ってほしいものですわ」


 泣き真似をするには効果的な年齢を大幅に過ぎてやいまいか。歳をとって涙腺がというやつか。

 ジゼルはにこりと微笑んだ。


「……友に会いたくなったと言えば信じてくれるかな?」


 袖を下ろして現れた顔には穏やかな微笑みが戻っていて、その言葉に、ジゼルは不意をつかれた。


「神官長なのに?」

「だからこそ機会を逃しておきたくなかったんじゃよ」


 「わしも歳じゃあ」と年甲斐もなくおどけたように言われるが、ジゼルはそうだなぁと思った。

 いつそんなにしわくちゃの顔になって、そんなに胡散臭さが増す口調になったのだったか。


「ジゼル、身体はどうだね?」


 ジゼルは不自然な間を置かずに、「まぁまぁかしら」と答えた。


「……もうすぐかね」

「ええ」


 隠さずに答えると、神官長は瞳に哀しみを過らせた。

 どうして、彼がそんな顔をするのか。だってジゼルには。


「また次があります」


 次の生が来る。

 また戻ってきて、彼が生きているうちにまた会うだろう。機会さえあれば。

 今だって何度目か、会い直しているはずだ。前の前の生からだったか……。


「……次、か」

「次は友を止めようとか思っていらっしゃいますか?」

「友を? わしは嫌じゃと言われても押しかけるわい」


 それならば安心する。次の生でもまた気軽に喋れる友がいることは大切だ。

 長い時を独り言を喋って生きていくのは大変だろうから。



 *


「エルバート!」


 走って来た勢いのまま、扉を開け放ち部屋の中に飛び込むとエルバートが机の側に立っており、顔をあげた。


「ジゼル、出てきたのか」

「ええさっき。それより」

「三日前、魔物が出たと情報が入った」


 神官長とのんびり会話している場合ではなかった。

 ジゼルが神官長とは別れて着替えに部屋に戻って、この部屋に一応来ようとしていたところだった。魔物が出たとの情報を耳にした。

 とりあえず服はドレスのままで、飛んできた。

 に封じのために祈ってはいるもののやはり封じは完璧ではない。


「それで、どこから魔物は来たの? 私も今からいくわ」

「それには及ばない」


 書架から長細く巻き取られたものの一つを引き抜き、エルバートが机の上に広げてみせた。描かれているのはこの国の全体の地図だ。


「魔物は西からきた」


 エルバートの指が西の方面に滑り、軽く弧を描いた。その周辺に魔物が出た模様、人里は含まれていない、か。

 しかし「それには及ばない」とは。

 先ほど言われたことに疑問を感じて、視線を地図からエルバートへ移す。


「もう討伐は終わったということなの?」

「そうだ」

「……手際がいいわね」


 こういうこともあろうかと、国のあちこちに各地の駐屯所に応じた数の兵がいる。

 しかしそれらは、本隊となる隊が来るまでの時間稼ぎが、主な目的に過ぎない場合がほとんどとなる。

 無理なことが目に見えているのに、全滅させようとするのではなく、水際でどうにかせき止める形をとる。


 従って現地の兵たちが対応し切れないとき、駆けつける本隊を待つ時間が問題となるわけだが――。

 本隊は国軍本部から出されるため、都からの出発となるので「三日」で事が済んだことは手際がいいという感想だけで終わらない。

 地図で見たところだと、兵が特別多く配置されている駐屯地ではない。

 それにも関わらず、対処しきれたとは魔物はそんなに少なかったのか、とジゼルは思ったが違った。

 エルバートが明かした事の理由に驚くことになる。


「それがクラウス・シモンズがその場に偶々たまたま居合わせてすべて切り伏せてしまったようだ」

「クラウスが、偶々……?」


 その名にジゼルの頭の中に青い髪がよぎった。

 当日顔を合わせたように、クラウス含め貴族が集まるお茶会があったのは五日前だ。

 都に集まった貴族の面々は、まだ夜会などを個々人で催したりして都に戻っていないはずだ。シモンズ家も。

 クラウスはなぜその地に――?


「さすがの腕だ。討伐隊が着いたときにはもう魔物は一体として動いてはおらず、人里にも被害はなかったと簡単な報告が届いた。運が良かった」

「……そう、ね」


 人里に被害はなかったという事実にジゼルはひとまず安堵し力が抜けて、どうにかそれだけ返せた。

 元よりいつも冷静に見えるエルバートだけれど、取り立てて対応に終われている様子がなかったのはそういうことだ。

 それにしてもクラウス、またクラウスだ。

 彼はこの前も魔物討伐の場に……あれはエルバートが教えたのだと裏が取れていたか。

 では今回は本当に運が良かった。クラウスがまた家出をしたのだとしても、今回ばかりは感謝するしかない。


 「三日前」ということは祈りの直前に魔物は出たことになる。タイミングがいいのか悪いのか。

 祈りの直後であれば魔物はしばらくは出なかったはずだから――後悔が滲む。


 ――嗚呼、忌々しい


 拳を作って、ジゼルはぎゅっとそれを握りしめる。


「そういうことだ。ジゼル、きみは休め。出てきたばかりなのだろう」

「……ええ」

「眠っていないだろう」


 祈りは眠ってできるものではないから、そうなる。けれど眠気は感じていない。


「考え過ぎるのはよくない。終わったことだ」

「……将軍らしくない言葉ね」

「頭の切り換えは必要な立場なものでな」


 役目を終えた地図を素早く巻き取るエルバートは、表情をわずかたりとも変えずに言うものだから、ジゼルなんとも言えない気持ちになる。

 終わったこと、確かにそうだ。

 祈りに向かう前に魔物が出たと聞いていたとして、ジゼルはどうした? 

 魔物討伐に向かうよりも、その先の魔物の増加を阻止するために、やはり予定通り地下に行っていただろう。

 それにより対処しきれる魔物の数になった可能性はある。

 そんなふうに考えられたらいい。


「いいから休め」

「……分かった。そうさせてもらうわ」


 エルバートの再度の促しに、ジゼルはなんとかそう応じた。


「それから」

「会議ね」

「そうだ。明日、きみも出席するようにと。あとで改めて伝令が行くはずだ」

「了解」


 ジゼルは触れていた机から手を離して伏せていた顔を上げて、エルバートを見る。


「エルバート、大丈夫よ。いつものことじゃない。そうでしょ?」

「タイミングがタイミングだ」

「そうね。仕方ないわ、事実だもの。私のせいでこの国は魔物に襲われる」


 ジゼルは作った微笑みを残して、退室した。








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